部屋に戻ると、どちらともなくするりと握られた手が離れる。じんじんと痺れるように熱を持つ手が、行き場を失ってだらりと垂れた。

 何を言うべきか迷っていると、彼女が振り向く。
 いつも通りの笑顔だった。
 ずくっと胸が痛む。
 そんなに肩を震わせながらとっていい表情ではなかった。

「あー、疲れたね! 私、温泉入りたい! あっ、どうせなら部屋の露天風呂入っちゃお! 一緒に入る? 入っちゃう?」

 喉を詰まらせたような、力の入りすぎている声だ。もう少し力を込めたら裏返ってしまいそうで、それだけ震えそうになるのを必死に抑えているのが分かってしまった。
 悩んで、すごく悩んで、僕は気が付かないふりをした。

「……コンビニ行ってくる」

 間違っているのかもしれない。
 分からない。

「そっか。ゆっくり入るから、早くに帰ってきてね!」

 眩しい彼女の笑顔から背を向けて宿を出た。
 温泉街をぐるぐるとあてもなく何度も周回する。彼女と通った道を歩く度に、会話が鮮明に思い返された。昨日の事なのに、すごく前の事みたいに思えて、微かな寂寥感に包まれる。
 駐車場の段差に腰を掛け、往来する観光客をぼんやり眺めて時間が過ぎるのを待つ。

 これから、どうすればいいのだろう。どんな顔をして彼女と接すればいいのか分からない。
 でも、辛いのは僕じゃなくて、彼女だ。じゃあ、僕は何をすればいい。彼女にどんな言葉をかければいいのかばかり考えてしまう。
 僕と彼女の間に体裁は必要なのか。

 スマホを見ると、宿を出てからもう一時間も経っていた。西に傾き始めた太陽が、伝統とモダンが入り混じった温泉街を橙黄色に染め上げる。
 長く感じた一日も、宿に着くころには帳を降ろし始めていた。
 部屋に戻ると彼女の姿はなく、障子の向こうで影が微かに揺れ動く。
 もう一度、部屋を出るという選択肢が浮かび、しばらく立ち尽くしてしまった。自分も大浴場に行こうと考えたが、荷物は障子の奥の床の間に置いてあるので断念せざるを得ない。結局、障子を背に畳の上に寝転がる。
 意味もなくSNSを開き、彼女の投稿を見ると、昨日の車両の写真からさらに三件追加で投稿されていた。どの写真にも、僕が写り込んでいる。一件だろうが、何件だろうが、周囲の認知は変わらないから構わないのだが、彼女は学校の人気者だ。目に見える多くの反応にため息が零れる。

 不意にガラッという窓を開ける音が聞こえ、反射的にアプリを消す。意味もなく天気のアプリを開いて、そっと息をひそめた。

「なんだ、帰ってたの」

 そんな声が聞こえたのは、障子が開く音とほとんど同時だった。

「ついさっきね」

 ゆっくりと振り向く。良かった、ちゃんと服は着ていた。艶髪が濡れて光の輪をつくっている。ほんのりと赤く染まる肌に、見てはいけないものを見てしまったような罪悪感が湧き立つ。
 赤く腫れた目元を見て、僕はゆっくりと立ち上がる。コンビニ袋のまま冷凍庫に投げ込んでいた中から保冷剤を取り出し、タオルを巻く。
 見て見ぬふりでも良かった。けれど、自分の気持ちに従うことにした。

「こっち来て」

 彼女は何を言うこともなく素直に正面に座る。きょとんとした瞳を遮るように、彼女の目元へ保冷剤を宛てがう。瞼がぱちっと動くのが伝わった。

「別にそのままでも良かったのに」

「明日にはもっと腫れちゃうよ」

「君しか見ないんだからいいじゃん」

 彼女の声が軽くて、そっと安堵の息をつく。

「駄目だよ。秋永さんは綺麗なんだから、みんなが振り向くんだ。だから、ちゃんと冷やしておかないと」

 彼女の猫手が僕の膝を軽く叩く。その意味は僕にはよく分からなかったけれど、怒ってるわけじゃなさそうだ。
 しばらく、沈黙が続く。開けっ放しの窓から、露天の湯が零れる音だけが部屋に響く。
 五分ほど冷やすとだいぶ腫れが引いた。これなら、明日には完全に治まっているだろう。

「ありがとう……。でも、優しすぎるのもちょっと考えものだね」

「優しさじゃないよ。ただの僕の自己満足」

「うん、そういうことにしておくね」

 色々と聞きたいことはある。話さなくちゃいけないことだって、たくさん。でも、今は彼女の曇った表情は見たくなかった。
 彼女が大きく伸びをする。浴衣に浮かび立つ身体のラインに思わず目をそらす。

「さて、お腹空いたし、ご飯行こっか。今日は無礼講だよ」

 彼女がにやっと笑い、座卓に置かれていた例のお札を掴み取る。

「もしかして、そのために……?」

「やっぱりさ、飛騨牛食べたいじゃん?」

 僕は苦笑いで返すことしか出来なかった。