朝が来る前に、君の素顔が見てみたい


         *

『釣りってやったことある?』

 彼女から初めて夜に届いたメッセージはそんな文面だった。
 随分と回りくどい言い方だ。そして、とても分かりやすくある。だから僕は納屋に閉まった釣り竿を捨ててないことを思い返し、返信した。

『あるよ』

『やってみたい』

『随分と急だね』

『旨い物は宵に食えってことだよ。魚食べれないけど』

『じゃあ、思い立ったが吉日でよかったじゃん』

『正論ぱーんちっ!』

 僕と彼女はメッセージのやり取りでさえ、面白みの無い会話だ。絵の海月がコミカルにパンチをしているスタンプが送られてきて、思わず一人で笑ってしまう。

 時計に目を向けると、夜の八時をちょうど回ったところだった。釣具店はもう閉まっているし、明日の朝ではまだ開店していないだろう。
 渋々、適当な服に着替えて家を出た。なんてことのない時間のはずなのに、すごく新鮮な気持ちになる。見ている景色は夜明け前と違いが分からない。真っ暗で、時折通過する車のライトだけが、ノスタルジックな雰囲気を壊す。けれど、空気が違った。匂いなのか、鼻から吸い込んだ空気はやけに重たく思える。朝の空気はとても軽い。きっと、誰に言っても伝わらないのだろう。

 少し歩き、海岸沿いの釣具店に向かう。やっぱりシャッターは降りていた。横をぐるっと回って裏口の戸を叩く。ややあって、向こう側から足音が聞こえてきた。気怠さが伝わってくる不規則な歩調だ。
 建付けの悪い古めかしい扉が鈍い音を立てて開く。目元に大きな隈を刻んだ男性が姿を見せた。

「こんな時間に誰だ……って思ったら、なんだ加嶋(かが)じゃねーか」

「お久しぶりです。先生」

「……まあ、入れや」

 ぼさぼさの髪を掻きながら背を向ける先生。その指先は黒く滲んでいた。
 中学三年の時の担任であり、元教師。確か、二十八歳とか言ってたっけ。僕らが卒業すると共に、一身上の都合ということで教員を辞めた変わり者だ。生徒に理由は告げられなかったけれど、僕は先生がなぜ公務員という安定な立場を自ら降りたのかを知っている。

「どした、さみぃから早くしろ」

「お邪魔します」

 後ろ手で扉を閉める。
 先生の猫背な後ろ姿には、担任だった時の生真面目な雰囲気は残っていない。でも、僕はこっちの姿の方が似合っていると思ってしまう。

 何を聞くでもなく、先生は廊下の突き当りの部屋に入る。後に続いて足を踏み入れると、たばこの臭いが微かに鼻につく。木造の一室には似合わない大きなデスクトップパソコンと、付随する機材が最初に目に入る。デスク横に置かれた紙束、横にずらしたキーボード、代わりに正面に置かれた大きなタブレット板。確か、液タブと言うんだったか。先生はパソコン前の椅子に身体を沈めた。

 僕はいつもの如く、大きな本棚の横に置かれた藍色のソファーに腰を降ろす。

「最近、来なかったじゃねえの」

「もう四月で高三になりますからね。色々と忙しいんですよ」

「おいおい、もうそんな経つのか。早ぇなあ。進路は決めたのか?」

 真っ先に聞くのが進路な辺り、教師癖がまだ抜けきっていないように思える。もっとも、教え子が目の前にいるのだから、当たり前なのかもしれない。

「東京の大学にしようかと」

「双子揃って?」

「志望校は別々なんで、一人暮らしになりますかね。別に一緒に住んでもいいけど、もう大学生ですし」

 先生は何を考えているのか、天井の木目をぼんやりと眺め、煙草に火をつけた。ちょろっと開けた窓から逃げるように消えゆく煙。

「大学か。いいんじゃね? 俺が学生時代で一番楽しかったの大学の時だからな。きっと楽しいはずだぞ」

「そうなんですか?」

「まあ、俺も加嶋と同じようにこの町で育って、田舎に飽き飽きして都会に出た口だからな。一人暮らしは気楽でいいぞ。男友達と徹夜でゲームしたり、彼女が入り浸って半同棲みたいになったり、実家じゃ考えられないことばっかりだったな」

 随分と懐かしそうに語るけれど、先生からしたらまだたったの数年前の話のはずだ。六年かそこいらなのでは。と思ったけれど、僕だって六年前といえばまだ小学生。妙に納得した。小学生の頃なんて、確かに懐かしい。遠い昔のように思える。

「想像出来ないんですよね、大学生の自分」

「そりゃ、そうだろ。想像出来たら面白くもなんともねえ」

 先生は手元の紙に目を落とし、興味無さそうに言った。

「そういうものですか」

「俺だって、教師になったばかりの時は今のこんな自分なんて想像出来ちゃいなかったよ。教え子に言うのもなんだが、教師になったのは言っちゃえば何となくだったからな」

 相変わらず、先生は僕の中の教師像というものをことごとく破壊してくれる。

「大人になるって何ですかね」

「おいおい、急に人生相談かよ。俺が担任の時にしてくれよ、そういうの」

「いや、なんというか、恥ずかしいじゃないですか」

 先生は短くなった煙草を灰皿に押し付け、窓を閉める。古めかしいエアコンの稼働音が一気に大きくなった。

「分からなくないけどな。俺だって思春期があったわけだし」

「……それで、どうなんですか?」

「大人ねえ……」

 先生は考えるように首を傾げた。

「一般的には思慮分別があるとか、心身の成熟ってことなんだろうが、聞きたいのはそういうことじゃねえよな?」

「まあ、はい……」

「じゃあ、俺にも分からん」

 あまりにもあっさりと切り捨てられ、あっけらかんとしてしまった。そんな僕を見て、先生が続ける。

「加嶋の言う大半の大人は、自分のことを大人だなんて思っちゃいねえよ。少なくとも、俺はまだ自分のことを大人だなんてこれっぽっちも思わないね」

「どうして、なんですか?」

「気が付いたら、こうなっていただけだ。ベルトコンベアーみたいに流されて大学の四年間が過ぎ、周りを真似して別に熱意もクソも無い教師という職に就いて、まだ学生気分のまま中学生の面倒見て」

 先生は少しだけ言い淀んだ。僕をちらっと見て、まあいっかと言うように息を吐く。

「俺も加嶋くらいの時は教師ってどう見ても大人だったんだよ。そりゃ、そうだろ。あんなに来る日も来る日も教養を垂れ流して。どうやっても逆らえないし、こっちが何かすりゃ、聖人君子の如く正論を語って怒って正す。だろ?」

 これは頷いてもいいものなんだろうか。

「た、確かに?」

「でもよ、実際に自分がその立場になったら分かるんだよ。結局、ろくでもない人ばかりだってな。俺みたいに人の目気にして、なんとなしになったやつだっていっぱいいるし、飲み会になったら愚痴大会。教師間のいざこざは日常茶飯事。もっと言えば、喧嘩沙汰で逮捕された教師までいやがる。どこが大人なんだよって話だろ?」

 これも繕うってことなんだろうか。空気読みの延長。むしろ、学生時代の箱庭生活は社会に出た時の予行演習とでも言うのか。
 本棚を目でなぞる。棚一杯に陳列された少女漫画。もう三分の一ほどは読んだだろうか。外では口が裂けても言えないが、読んでみると結構面白い。何なら、少年漫画とか青年漫画より僕は少女漫画の方が好みだ。

 脱サラして、実家の釣具店をしながら少女漫画家を目指す人。それが、先生――芦馬(あしば)恭治(きょうじ)というわけだ。
 教師の時の風格は薄れ、隈も一層濃くなった。それでもその姿が似合ってしまうのだ。自分を曝け出すって、怖くないのだろうか。もちろん、今の自分が思春期真っただ中で、この気持ちもそれに由来するものだと分かっている。では、この思春期はいつ終わりを迎えるのだろうか。明日か、一年後か、もしかしたら十年経ってもまだ続いているかもしれない。
 少し、怖いなと思ってしまった。

 一体、僕はどうなりたいのだろう。それすら分からない。迷って、悩んで、立ち止まり続けている。踏み出したと思ったのに、結局その場で足踏みをしているに過ぎない。
 だから、逃げるように誰もいない灯台を登った。死にたい、とはやっぱり思っていなかった。でも、僕が死ねば色々と解決するのではないか。その一心があって、傍から見ればそれは希死念慮を抱く人と同じに見えて、だから彼女は「順番待ち」なんて言ったのだろう。

「先生はどうして漫画家になろうと思ったんですか?」

 今度は先生と目が合う。

「教師の時、思ったんだよ。あー、このままこの生活が定年まで続くのかってな。想像して、次の日には辞表を出してた。……ただただ、もったいないなあってな」

 重たげな瞳が、じんわりと小さな火種を蓄えているように見えた。
 遅くなる前に、先生は僕を追い出すように帰した。来た時と何ら変わらない夜道を歩く。やっぱり、ちょっと空気がもたついていた。
 帰り際に先生が言った言葉が耳を離れない。

「若い時の苦労は買ってでもせよ。ありゃ、間違いだ。正しくは、若い時の一歩は勇気が無くてもさっさと踏み出せ、だな」

 それってつまり、思い立ったが吉日なのではないだろうか。

         *

 大方の予想通り、フードパックに入った砂交じりの磯目(イソメ)を見て彼女は間抜けな悲鳴を上げた。まだ真っ暗な堤防を一歩後ずさりにして、僕を睨みつける。

「きんっっっも!」

「そんなこと言われても……」

 似つかわしくない言葉遣いが、如何に彼女が動揺しているのかをよく表していた。
 絡み合って団子状になった磯目を一匹掴み、釣り針に括り付ける。肩越しに恐る恐ると見ていた彼女がまた小さく声を漏らす。

「魚って、こんなの食べるんだ……」

「そう言われると、魚の方が気持ち悪いのでは?」

 もう一本の竿にも餌を付け、片方を彼女に手渡す。

「うへぇ……」

 最大限に手を伸ばして竿を受け取る彼女。

「それじゃあ投げれないでしょ」

「いや、だってさ糸がぷらぷらして……ひぃっ! こっち来ないで!」

 釣り針の揺れに合わせて左右に身体を振る姿は、シャドーボクシングでもしているんじゃないかと思えてじわじわこみ上げるものがある。

「両手を右肩の上に持ってきて、後は竿を前に振るだけだよ。流石にテレビとかで見たことあるでしょ?」

「で、でもさ、それだと糸は後ろに行くわけじゃん?」

「そうだけど?」

「このミミズみたいなのが、急に針から外れて私に襲い掛かってくるかもしれない!」

 すごく真剣な眼差しで言うものだから、可笑しくて口角がひん上がった。思わず声が漏れる。すると、彼女は白磁の頬を膨らませ、「笑い事じゃないよ!」と言ってよこす。

「まあ、確かに活きが良いとたまに噛むよ」

「ほらほらぁ!」

 今の話は別に繋がっていないような。そう思いながら僕は自分の竿を放った。仕掛けが放物線を描いて遠くへと飛んでいく。リールが糸を吐き出し、水面に波紋を浮かべると同時に鳴りやむ。

「はい、たまに軽くリール巻いて」

 竿を彼女に手渡す。代わりに彼女の持っていた竿を受け取ってそれも放る。

「ねえ、どんなのが釣れるかな」

 揚々とした面持ちの彼女には申し訳ないが、冬場の朝マズメは釣果が望めない。ましてや、僕だって釣りなんて幼い頃にかじった程度だ。一匹だって釣れるとは思っていない。

「さあね。カサゴとか、三月に入ったからアジとかじゃないかな。後はやたらクサフグが釣れるけど」

「へえー、楽しみだなあ」

 案の定、三十分経ってもかかる気配すら見えない。今のところ彼女が二回ほど根掛かりで地球を釣ったくらいだ。
 東の山向こうが白み始める。世界が藍色に色づき、海鳥と烏のやかましいパレードが始まった。
 釣りをしながらというものの、僕と彼女の朝は竿を持っているということ以外は何ら変わらない。二人の間をぽつぽつと中身のない話が行き交うだけだ。

「釣れないねえ……」

 彼女が囁くように呟いた僅か数秒後、竿を握る手にわずかな振動が届いた。そして、竿の先端がほんのちょっとしなる。

「……来たかも」

「何が?」

「いや、何がって魚」

「えっ、ほんと!?」

 十分にじらし、竿を一気に振り上げる。山なりに曲がるカーボン製の竿と、手に伝わる抵抗するようなブルっという振動に当たりを確信した。

「はい、こっち持って」

 彼女の竿を片手で奪い取り、手早に自分の竿を渡す。

「いいの? え、でもどうしたら」

 釣りをしたいと言い出したのは彼女だ。僕が最初に釣ったって意味が無い。それよりも、早く糸を巻かないとバラけてしまう。
 竿を置き、彼女の手に自分の手を添える。そのまま彼女の手を握ってリールを手早く回す。

「わっ、ちょっと重いかも!」

「そりゃ、かかってるからね」

 抵抗が感じられる糸が徐々に手前に絞られていく。そこでようやく自分のしていることに気が付いた。とっさに手を離す。じんわりと残る熱に手汗が滲む。

「ごめっ……」

「何が? それより、まだ?」

「多分、もう少し。まだ巻いて」

 ほどなくして、海面に影が揺らぐ。

「な、何か見える!」

 やがて、それは姿を鮮明に見せた。するっと宙に飛び出た手のひらより少し大きい魚が宙ぶらりんでぴちぴちと尾を動かす。

「わぁーっ! ど、どうすればいい?」

「糸を持って、そのままこっちに引き寄せて」

 彼女は言われた通り手を伸ばし、糸を手繰り寄せる。磯目は駄目だけど、魚は大丈夫なようだ。じゃなかったら、釣りがしたいなんて言わないか。そんなことを地面をぴちぴちと跳ねる魚に独り語り掛ける。
 当の彼女は何故か随分と息が上がっており、達成感に満たされたような充足した表情をしていた。

「と、とったどー! ね、これ何て魚?」

 僕は魚の口元を抑え、針を取って海水を汲んだバケツに入れる。暗緑色の背に、銀白色の腹。背中を沿うように生えるトゲのある堅い鱗。

「マアジかメアジか……。何にせよ、アジだね」

「おぉー! これが噂のアジですか。って、そんな有名な魚釣っちゃったの!?」

「アジは比較的どこでも釣れるポピュラーな魚だよ」

「ふむふむ、君は食いしん坊だなあ」

 まじまじと眺める彼女は思いだしたかのように急いで鞄を漁る。ぼろぼろと荷物が顔を見せては鞄から出てくる。リップやら、ノートやら、そんなのお構いなしにスマホを取り出して、僕に手渡す。

「ね、持ってるとこ写真撮って! SNSにあげたい!」

「いいけど、背中はトゲがあるから気を付けて持ってね。普通に手が切れるよ」

「噛んでくるミミズと言い、釣りって危ないんだねえ」

 ミミズじゃなくて、磯目な。と心の中で独り言ち、彼女に持ち方を教える。

「うわっ……ぬめぬめしてる。ちょっとグロイかも……。早く撮ってぇ」

「はいはい、ちょっと待って」

 (かじか)む手でスマホを落とさないように支え、彼女に向ける。フィルター越しに映る彼女はちょうど明けた空に負けないくらいの眩しい笑みを浮かべていた。無意識に惹きつけられる。まるで、僕には毒のように感じた。
 何枚か写真を連射しておく。

「うへぇ、生臭い……。手、洗ってくる!」

 そう言い残し、彼女は小走りで一目散に手洗い場へと行ってしまった。
 とりあえず、何とか一匹でも釣れてよかった。じゃなかったら、彼女は満足しなかっただろうし、僕はわざわざ餌まで買いに行った無駄足を踏むところだった。
 強い風に彼女の鞄から覗いたリップクリームが転がったのを、咄嗟に手で押さえる。危うく海に落ちるところだ。跳ねる心臓をなでおろし、少し考える。飛ばされても厄介だと。散らばる彼女の荷物を鞄に戻していく。
 まとめられていない化粧品やら、お菓子のごみなど、どうやら彼女は整理整頓が苦手らしい。
 その時、一冊の分厚い手帳が風でパラパラとめくれる。見るつもりはなかった。ただ、目に入ってしまっただけ。思わず手を止める。

『――迫子(さこ)杏南(あんな) 同級生二組
 黒髪肩くらい、おさげメイン、たまにポニテ。色白。スカート腿くらい。
 身長同じくらい(156㎝)。細身。右手首にほくろ。胸Cくらい。声:高めちょいハスキー。
 呼び方:ねこ

 ――佐藤(さとう)賢人(けんと) 同高一個下
 黒髪短髪、硬そう。セット無し。よく腕まくり。日焼け肌。制服着崩し無し。
 身長結構高い(178㎝くらい)。細いけど筋肉質。右首付け根にやけどの跡。ピアス穴右あり。声:結構低い。
 呼び方:あきなが先輩

 ――須藤(すとう)先生 数A
 黒髪センター分け、セットあり。肌色普通。指輪あり。眼鏡あり(黒縁)。藍色スーツ。ワイシャツはストライプメイン、たまに無地。
 身長ちょい高い(172~174㎝くらい)。細身。整髪料の匂い(リキッド系)。声:ちょっと低め。
 呼び方:あきなが
 ※宮野(みやの)先生と間違いやすい! 注意!

 ……』

 開かれたページにはびっしりと書き綴られていた。人の名前、特徴。それもかなり詳しく。知っている名前もたくさんある。恐る恐るページをめくってみると、他のページも同じようにずらっと実在する人の特徴が書き記されていた。
 あまりに奇妙な手帳に口は開けど言葉が出ない。理解のし難いものだった。けれど、見てはいけないものということは間違いないはずだ。
 彼女は人物観察が趣味なのだろうか。だとしても、わざわざ書き残すのは趣味が良いとは言えない。むしろ、かなり不気味だ。そうではなく、他の理由でこの手帳を制作している。何の根拠も無く思った。
 言葉にならない複雑な感情がわだかまる。そして、同時に気になった。なぜか、見たら後悔するような気がした。けれど、僕の手は止まらなかった。ゆっくりとページを遡る。そして、その名前を見つけた瞬間、息が詰まるような感覚に陥る。

『――加賀奏汰 同級生一組
 黒髪耳にかかるくらい。前髪横流し。セット無し。肌色普通。着崩し無し、ワイシャツボタン一つ開け。
 身長ちょい高め(175㎝くらい)。細身。双子。声:普通くらい。よく通る気がする。
 呼び方:ねこ、たまにあきなが。
 ※間違いやすい! マジで注意!

 ――加賀奏弟 同級生一組
 黒髪耳にかかるくらい。前髪横流し。セット無し。肌色普通。着崩し無し、ワイシャツボタンたまに一つ開け。
 身長ちょい高め(175㎝くらい)。細身。双子。声:普通くらい。よく通る気がする。
 呼び方:あきながさん。
 ※間違いやすい! 超注意!

 ……』

 何を感じたわけでもないけれど、少し複雑な気持ちになった。他人からの外見の評価を文字にして見る機会なんてそうあるものじゃない。人には、少なくとも彼女には僕らはこの文章の通りの人物なのだろう。当たり前だが、書いてあることはほとんど一緒だった。

 なぜ、彼女はこんなものを書いて、持ち歩いているのだろうか。人の趣味にとやかく言う性格ではないけれど、ただ純粋に気になってしまった。

「ありゃりゃ、見られちゃったか……」

 風に吹かれて飛んでいきそうな小さな呟きに、(ふけ)る意識が引き戻される。顔を上げると、彼女が少し離れて立っていた。その表情にいつもの明るさは無く、どこか理知的に見える。きっと端正な顔立ちのせいだ。この状況は関係ない。そう信じたかった。
 世界から音が消える。やかましいくらいの海鳥の声も、波のさざめきも、自分の鼓動の音すら聞こえない。

「それ、」

 彼女の透き通った声だけが、僕の世界を支配する。手元のノートが音もしない風でめくれた。

「……ごめん。風で飛ばされそうだったから……」

 自分の声がまるで水中の音みたいだ。くぐもって、やけに反響する。自らの口元から発されたはずなのに、すごく遠くに聞こえた。

「そっか。ありがとうね」

 彼女は真顔を崩し、口元をきつく結んで、それからいつも通りの笑みを零す。
 今さら、中身は見ていないなんて言い訳が通じるはずは無いし、したくもなかった。僕には理解しがたい物だけど、きっとこれは彼女にとって秘密であり、とても大切な物のはずだから。

「返すよ。誰にも話さないから。でも、本当にごめん」

 彼女は何も言わずにノートを受け取った。優しい手つきで表紙を撫でる。

「……何も聞かないの?」

 どきっとした。聞かないのではなく、聞けない。触れてほしくないであろうことに足を突っ込む勇気は、僕には無かった。だから、彼女から聞かれて痛いくらいに心臓が瞬いた。

「聞かない方がいいのかなって思って……」

「やっぱり、君は優しいね」

「そんなんじゃない。憶病なだけなんだよ」

「私が優しいと感じたんだから、それでいいんだよ」

 後ろめたさに、彼女の顔は見れなかった。
 彼女は堤防の縁に腰を掛け、足を投げ出す。いつかのように隣に来いと手で地面をぽんぽんと叩く。横に並んで座る彼女は、やけに涼し気な表情で僕を見つめた。不思議だ、やっぱり彼女とは目が合わない。その瞳の中に、僕の表情が見えない。

「ねえ、今どんな顔してるの?」

「えっ……?」

 くみ取らなければいけない意味があるのだろうか。でなければ、理解の出来ない質問だった。

「笑ってるわけはないよね。怒ってる? それとも、しょんぼりしてる? 大穴は変顔かな?」

 まるで他愛のない話だとでも言いたげな、軽い物言いだ。

「言ってる意味が、よく分からないんだけど……」

 彼女はふと柔和な笑みを浮かべる。その表情が、どうしてか僕にはとても辛そうに思えた。笑っているはずなのに、瞳の奥は悲しそうで。大げさに言えば死期を悟った囚人のようだった。

「私、人の顔が見えないんだ」

 自虐じみた微笑みに、なぜか胸が痛んだ。怖くて、中々言葉が出ない。そんな僕を、彼女はじっと待ってくれた。

「……言葉通りに受け取っていいの?」

「そうだよ。私は生まれつき自分以外の人の顔が認識できないんだ」

 ちかっと水面が輝いた。初陽が彼女の素顔を照らす。気が付けば、山向こうから陽が覗いていた。
 初めて彼女と迎えた朝はちょっぴり生臭く、とてもじゃないけれど最高とは言い難いものだった。

         *

 彼女は『相貌失認(そうぼうしつにん)』――別名『失顔症』という病気らしい。人の顔が覚えられない、分からない。生まれつきの先天性と、事故や何らかの要因によって起こりうる後天性があるみたいで、彼女はその前者だった。
 症状は個々によって差があるようで、ある人は顔は分かるけれど覚えられない。また、ある人はじっと注視すれば認識できるなど、千差万別みたいだ。
 彼女は自分以外の他人の顔に煙がかかっているという、症状としては重度のものだった。目や鼻、眉など顔のパーツすら分からず、体つきや髪型、特徴的な癖、話し方など色々な要素を踏まえて人を認識しているらしい。
 そう教えられ、彼女が会った時に必ず全身をすっと見る癖も、まさに今大事そうに抱えているノートにも納得がいった。同時にどこかやりきれない思いを覚える。
 当の本人はむしろ伝え足りないようで、僕が話す隙すらなく、諳んじるようにすらすらと語り続けた。

「私はめっちゃひどいタイプらしいけど、病院の先生曰く百人に一人はこの病気らしいよ。最初は悲劇のヒロインだなんて思ったけど、結構ポピュラーなんだよね実は」

 つまり、僕らの学校内でも三人程度は彼女と同じ病気ということになる。しかし、僕は『相貌失認』という病気だと自負する人には今まで出会ったことがなかった。もしかしたら、彼女と同じように隠しているだけかもしれない。しかし、大半は軽い症状の人が多いらしく、人の顔を覚えるのが苦手程度の認識で、自らがれっきとした病気だと知らない人もたくさんいるのだろう。

 口が重たい僕は、彼女の話にひたすら相槌を打つに過ぎない。聞いていい範囲の見定めがずっと出来ないでいた。

「大変な病気なんだね……」

 ややあって、結局そんなありきたりな感想を述べるしかなかった。

「別に大変とか感じたことないけどなあ」

「つ、辛くはないの?」

「だって、生まれつきなんだもん」

 何の嫌みも含まず、彼女は即答した。そう言われれば、そうなのかもしれない。つらい、大変、そんな憐憫な考えは僕のエゴだ。彼女の日常を、僕が勝手に暗澹だと解釈してしまったに過ぎない。

「見えないのは顔だけなんだよね……?」

「そうだよ。なんでだろうね。髪型とか、服装は鮮明に見えるのに。だから、声とか、髪型とか、服装で人を見極めるんだよ」

 だから灯台での彼女は最初に敬語だったのか。僕が制服を着ていなかったから、見ず知らずの人だと彼女は判断したわけだ。彼女がクラスの全員に態度が変わらないのも、もしかしたら人を間違えないようにするためなのかもしれない。

「みんなだって、後ろ姿とかの時はそうやって判別するでしょ? 同じだよ。私はそれを正面からでもやっているだけ」

 分かりやすい例えに、ようやく彼女の世界を少しだけ想像することが出来た。それが生まれつきとなれば、確かに悲観することもないように思える。しかし、それでもやっぱり僕はどうしても可哀そうだと感じてしまう。失礼なことなのは分かっている。でも、すぐにこの考えを割り切るのは難しい。だって、僕には今だってこうして人を容易に見初めさせる彼女の顔を見れているのだから。

 聞いてみたかった。でも、聞いちゃいけないことだった。もしかしたら、彼女を傷つけるかもしれない。それでも、天秤にかければ本当にわずかに傾いてしまった。勇気なんてもちろんない。臆病風に吹かれ続けてきた僕だ。でも、これだけは聞かなくてはならなかった。

「そ、その……いじめとか、そう言うのは……」

 訥々と話す僕に、彼女は「残念ながら、ね」と呆れたように息をつく。

「小学生の時に一度だけクラスのみんなにバレちゃったんだよ。隠してたつもりだったんだけど、当時は要領も悪くて、よく人を間違えちゃってたし」

 バケツの中でじっとする魚に、彼女は壁越しにツンと突く。水面がわずかに揺れるが、当の魚はじっと身を静かにさせたままだった。

「ここで大層な作品だとすれば、私は壮絶ないじめにあうわけ。頭から水被ったり、ノートびりびりに破かれたり。先生は見て見ぬふりしちゃってね。そうなってれば、それこそ別の意味で飛び降りたくなってたのかもしれないかな。そんな別ルートも、多分あったんだよ」

「でも、そうはならなかったんでしょ?」

 彼女は目を伏せる。いじめが無くて良かったはずなのに、すごく悲しそうに見えた。

「そうだね。私は主人公でもヒロインでもないからね。でも、結果的に私は傷ついたんだよ?」

「……どうしてって、聞いてもいいのかな」

 彼女は僕を見てくすっと笑う。また優しいやつとか思われたのだろうか。この話題を彼女から引き出した時点で、僕は悪いやつなのに。

「ただ、ひたすらにみんな優しかったんだ。変に気を遣われてさ、とにかく豹変したみんなの優しさが気持ち悪くて、辛くて、こんな思いをするならちゃんと隠し通そうって決めた。結局、またバレちゃったけどね」

 彼女が僕に向き直る。僕は動けないままでいた。

「おはよう! あっ、私、夏奈ね。音子ちゃん気を付けて。今日、飯田先生初めて見る服着てたから」

 わずかに高くつくった声だった。そこに感情は見えない。

「どう? これ毎日色んな人にやられたよ」

「僕なら……きっと、辛いと思う」

 どうしてこんな時ですら、ありきたりな言葉しか出てこないのだろう。きっと僕は人の感情の機微に疎いのだ。もっと、相応しい言葉があるはずなのにそれが出てこない。

「私は普通でいたいだけなのに、ね……」

「普通じゃないってのは、僕もある意味では一緒だから、ちょっとだけ分かるかも」

 僕の言葉に彼女はきょとんとし、ややあって思いだしたように声をあげる。

「そうじゃん! 私たち、似た者同士ってこと?」

「どうだろ。ある意味では、そうなのかな」

「こんなところにいたのか同志よー!」

 バケツの魚がやけにせわしなく回遊し始める。すっかり昇った太陽を見て、多分遅刻だなと思った。でも、そんなことどうでもよくて、僕はぱたりと倒れて背中を地面につけた。
 彼女は嬉しそうな顔で僕を真似て寝転がる。
 空が近い。手を伸ばしても届きそうとは言わないけれど、もしかしたら何か物を思いっきり投げたら、その青い壁にぶつかって落ちてくるかもしれない。こんなにも開放的な場所なのに、窮屈で息苦しく感じた。

「あーあっ!」

 急に隣の彼女が大きな声を出した。横目で彼女を見る。彫刻像のように綺麗な鼻筋がまっすぐ上を向いていた。

「どうしたの?」

「本当、とことんドラマとか漫画みたいにならないなって。私は生まれつきの病気が原因で、小学校からずっといじめられ続ける悲劇のヒロイン。そして、海でしょげていたところをなぜかいつも一緒にいてくれる男の子。そして、二人は恋に落ちて愛の逃避行――。どう?」

 少しだけ、昔の記憶がフラッシュバックした。奇しくも、同じく小学生の時だ。

「ありきたりだね。あんまり面白くなさそう」

「だよね~。でも、やっぱりちょっと憧れるなあ。子供のまま抗う感じ? 逃避行ってそういうことじゃん? 全てを投げ捨てて、その人との時間を止めるために現実から逃げるんだもん」

「随分とロマンチックな言い回しだね。僕はひねくれてるから、ただ現実から逃げているように思えるけど」

 そう、今の僕みたいに。

「知らないの? 逃げるが勝ちって言葉があってだね」

 小学生でも知っていることわざを彼女は自慢げに語る。

「三十六計逃げるに如かず、ね」

「なにそれ?」

「逃げるが勝ちの元ネタ的なやつ」

「頭良いのやめてよー。恥ずかしいじゃん」

「わざとだよ」

「性格悪いなぁ。嫌な大人みたい」

 笑いながら彼女は言った。ノートを開き、何かを書きこむ。見てはいけない気がして、目をそらした。
 波の音に乗せてぽつりと呟く。

「……何書いたの?」

「ん? 君が性格悪いってね」

「うわぁ……」

「嘘だよ。本当は博識って書いた」

「性格悪いね」

「ふふんっ、お返しです」

 無邪気に笑う彼女は、とても綺麗だった。そう感じた僕は、やっぱりまだ罪悪感に駆られていた。
 今日も教室は騒がしい。
 喧騒が背景に漏れ聞こえてくる中、本をめくる。慣れたもので、この騒がしさの中でも僕は自分の世界に入りこむことが出来ていた。
 それでも、流石に目の前で繰り広げられるどよめきはかき消せない。僅かに耳を傾けながら、文章を目で追う。

「みなさーん、俺は奏汰の蛙化ポイント見つけましたよー! ゲコゲコッ!」

 栗原の大きな声に僕は一瞬、本から目を離した。当の奏汰は苦笑いを浮かべている。それを見て、もう一度目を落とす。

「えー、ちょっと気になるかも」

 やっぱり、田上さんが食いつく。
 四月になり、ようやくコートを手放せる時期になった。三年になろうともクラスは変わらないし、また一年、この箱庭が続く。新しく一からクラスの位置取りをしなくて済むから、僕は結構嬉しかったりする。

「だからさ、ポテトじゃなくてナゲットを選んだんだよ。ありえないだろ? 普通、ハンバーガーにはポテトだろ! はい、蛙化ー!」

 やっぱり、くだらない話だった。

「何それ、どうでもいいー。ってか、栗原が蛙化とか言ってんのまじうける」

「流行ってんだろ? 女子の間で」

「もう古いしー。そもそもそんな流行ってないから」

「なんだよ、ちょっと勉強したのに」

「蛙の勉強? 毬栗の勉強してた方がいいんじゃない?」

 奏汰の横槍に大きな笑いが起こる。果たして、何人が本気で面白いと思っているのやら。
 時計に目を向けると、まだ昼休みは三十分以上残っていた。
 ふと教室の外を見ると、窓越しに二組の芹沢が通り過ぎるところだった。彼は奏汰をひと睨みして、僕に目を向ける。首がくいっと斜め上に向く。背筋を冷たい震えが走った。
 奏汰は多分、芹沢(せりざわ)に気が付いていない。それでも、僕が席を立つと一瞬ちらっと視線を寄こす。
 いつものように芹沢は二人の取り巻きを添えて、先に行ったようだ。わき腹がずくっと痛む。
 教室を出る時、秋永さんとすれ違った。

「どっか行くの?」

「……ちょっと、図書室に」

「そか」

 受験を控えた大事な一年。僕はあまり思っていないけれど、奏汰はどうなのだろう。双子なのに、僕には奏汰のことがよく分からない。だから、波風は立てたくない。問題なんて、起こしたくない。()()()の奏汰はもう見たくなかった。
 校舎を出て、裏坂を上る。急こう配な坂道の上にはテニスコートがある。最近は煙草の吸殻が落ちていたとかで、わざわざ昼休みまで教師が見回りをしていたから、呼び出されたのは久しぶりの事だった。
 テニスコートは二段に分かれている。芹沢と取り巻きの二人はその上段で、細い煙を立ち昇らせていた。
 石段に足をかけたところで、彼らは僕に気が付いたようだ。その瞳が気怠るげに僕へと向く。制服の下の肌が粟立っているのが分かった。震える身体を必死に押さえつける。

「なあ、」

 階段を登り切った途端、芹沢がその大きな体躯を持ち上げて僕に詰め寄る。

「これチクったのお前じゃねえよな?」

 芹沢が短くなった煙草を指で弾く。足下に転がったそれは、まだ赤い火が小さく点っていた。

「……違う、けど」

「じゃあ、男テニの奴らか。めんどくせぇことすんなよな」

 大柄な身体がゆったりと近づいてくる。フェンスが背中に当たってややけたたましい音を立てた。
 刹那、みぞおちに鈍い衝撃が走り、息が漏れる。明滅する視界。よろめく身体を取り巻きに抑えつけられた。息がうまくできない。短く、犬のように口を開けて小さく声をあげるしかなかった。ようやく喉がかっぴらいて大量の空気が肺になだれ込むと、涙がじわっと滲んだ。痙攣したように震える腹筋はまるで怯えている心の内が体現されているみたいだ。
 また、この時間が始まった。
 左のわき腹に芹沢の脛が突き刺さる。僕は変に堪えることなく、そのまま横っ飛びに地面へと倒れた。浅い息を繰り返し、何とか零れそうになる涙を堪える。
 呼吸に合わせて、蹴られた箇所が鈍く疼く。見えない鈍器で殴られ続けているみたいだ。

「やっぱり、顔ムカつくな……」

 冷酷な眼差しで見下ろす芹沢を、ただただ見返すしかなかった。
 百九十の伸長と、筋肉付きの良い身体相手に僕が一縷(いちる)の抵抗すら出来るはずもなく、再び腹に鈍痛が走る。転がった際に口に入った砂利が、涎と共に咳に塗れてコートに滴った。
 執拗に腹や背中を(なぶ)られ、その度に僕は小さな呻き声と息を漏らす。
 その間、芹沢は何も言わなかった。もう僕を見てすらいない。彼が見ているのは、僕と全く同じ外見の奏汰だ。周囲の目を集めるようになってしまった奏汰を芹沢は疎ましく思い、そして、恐れている。
 僕も芹沢も憶病でいじっぱりだ。
 教師にチクられたり、校内で後ろ指を指されるのを恐れて、奏汰ではなく僕を痛めつける。僕なら、誰にも言わないし、言えないと思っているからだ。

「あいつがデカい顔してんの、ほんっとうに腹立つんだわ」

 そう言いながら、芹沢は転がる僕に腰を掛け、煙草に火をつける。九十近い重さが背にのしかかり、僕は無意識にえずいていた。硬い地面に爪を立てて掴むようにもがく。口の中を切ったのか、砂利に混ざって鉄の味がした。
 随分と温いいじめだ。
 ただ芹沢が僕をひたすら蹴って殴るだけ。取り巻きには何もさせない。それはきっと彼が力を誇示したいがためだろう。取り巻きもそれが分かっているから、ただ見て従うだけ。
 昼休みが終わるまで、じっと耐えていればいい。慣れてしまえば、別にそこまで辛くはなかった。

「おい、明日の昼も来いよ」

 チャイムのきっかり五分前に、芹沢は一言残して校舎へと戻っていった。
 春の温かな風が砂交じりの頬をなぞる。ずきずきと痛む身体を起こし、砂を叩き落とす。制服に少し跡が残ったけれど、これくらいなら問題ない。
 本当に手温い。だから、大丈夫。
 芹沢は臆病者だ。きっと過去の残像を追っているのだろうけれど、あの茅野(かやの)にはなりきれていない。

「――チクったら、小学校の時の事全部バラしてやる」

 その一言を予防線に張り、僕へのいじめが始まった時から分かっていたことだ。自分だって、過去が露呈してしまえば困るはずなのに。
 それでも、こんなちっぽけな痛みで奏汰を守れるのなら、それでいい。卑怯な僕が考えそうなことだ。あの時の過ちを正したいがためという、ただの勝手な償いに過ぎないというのに。

         *

 小学五年の頃、僕らのクラスは崩壊していた。それでも、大きな問題にならなかった。なぜなら、茅野(とも)が五年二組を支配していたからだ。
 大袈裟な響き。しかし、クラスの様を客観的に見てもそう言い表すのが的確だった。
 果たして、クラスの三分の一がいじめられている状況は、〝いじめ〟と呼んでいいのだろうか。だから僕は、自分たちはいじめられていたのではなく、支配されていたのだと思っている。
 茅野は親の事情で東京から転校してきた。普通、転校生がいじめられそうなものだが、茅野は違った。転校してきた初週から既に取り巻きをつくり、クラスの顔となっていった。
 彼は別に身体が大きいわけでもないし、特別容姿が整っているわけでも無い。至って普通の十歳の男の子だ。ただ、人を見る目があった。自分に逆らえなそうな弱者を味方につけ、一人では敵わないであろう芹沢を多人数でいじめた。
 いじめの内容については、特に語っても仕方がない。言ってしまえば、テンプレート的なものだ。物を隠し、昼休みは教室を締め切って円を描くようにして対象を囲んで床に這いつくばらせる。放課後は公園で全裸にひん剥いて暴行。

 そんな期間を二週間ほど続け、茅野は芹沢に言った。
 ――湯之原(ゆのはら)を連れてきたら、仲間に入れてやる。
 湯之原は僕から見て、クラスで芹沢の次に体格が良い人だった。そして、芹沢と入れ替わるように湯之原へのいじめが始まる。
 湯之原へのいじめはやっぱり二週間で別の人に移り変わった。次の標的はクラスで三番目に身体の大きな男の子だった。
 狡猾で、上手いやり口だと思う。最初にクラスで一番強そうな人物を多人数で捕まえ、その後は徐々に上から一つずつゆっくりと摘んでいく。二週間という期間は、きっとぎりぎり一人で耐えられる長さなのだろう。そして、自分より立場の弱い人物を売れば、自分へのいじめは終わる。だから、連鎖は止まらない。
 茅野のいじめは男子と並行して女子にも行われていたらしい。そっちに関しては、僕はあまり知らないが、結果的にクラスの三分の一が、茅野とどんどん膨れ上がっていく取り巻きによっていじめを受けた。
 途中から、誰も疑問に思わなくなっていたんだと思う。それより、次は自分なんじゃないかという不安だけが、日々を埋め尽くしていた。
 きっと、担任も早いうちに気づいていたはずだ。そして、見て見ぬふりが自分の立場(キャリア)にとって最善だと判断した。担任すらも、茅野の意のままだった。

 そして、小学六年。卒業の二週間前。いじめの対象だった白木(しらぎ)に茅野は言った。

「次は加賀のどちらかを連れて来い」

 昼休み、茅野が言い放った言葉に、僕はただ教室の端で奏汰と一緒に震えることしか出来なかった。ついに順番が回ってきてしまった。あと少しで卒業だというのに、神様はどうしてこんな仕打ちをするのだろう。
 もはや、僕らの中で茅野は神様よりも大きな存在になっていた。人の強い悪意に晒されたことのない僕らは、抵抗の術を知らない。なまじ理性を持ち合わせる年頃だから、親や先生に相談するなんてことは逆に出来なかった。そういう人間を茅野は選んでいたのだ。だからこそ、二年近い期間、茅野の独裁が続いた。その最後の締めくくりが、僕か奏汰のどちらかだったというだけの話。

 この時の僕には、奏汰のことを考える余裕なんて無かった。これまで繰り返し行われた非道の数々を思い起こし、その被害者を自分に置き換えて絶望する。これから卒業まで、耐えなければいけない。その覚悟だけはあった。

 床に這った白木が恐る恐る立ち上がり、ゆっくりと僕らに向かってくる。その瞳は安堵と歓喜に満ちていた。多分、その瞬間僕は白木のことが嫌いになった。でも、仕方がないことだ。誰も茅野には逆らえない。逆の立場なら、僕も白木のような恍惚とした醜い表情を浮かべていたのだろう。
 袖口をぎゅっと奏汰が掴んでくる。既に吃逆をしながら涙を垂れ流していた。奏汰は僕と全く同じ。僕の分身。ならばこそ、きっとその胸中も僕と同じで絶望と恐怖に塗れているはず。
 一歩、僕が前に出るだけで済む。白木は別にどっちでもいいのだろう。だから、自分の背に奏汰を隠してしまえばいい。白木に目で訴えるだけでもいい。
 ぐにゃりと歪む視界の端で、茅野が見えた。その瞬間、僕は踏み出そうとしていた足が固まってしまった。動かしたくても、ぴくりともしない。全身が硬直して、自分の息遣いだけが荒々しく脳内をかき乱れる。

 目の前で白木の手が伸びた。ゆっくりと近づくその手は僕の側をすり抜け、奏汰の腕を掴んだ。

「あっ……」

 その瞬間、僕は安堵してしまった。同時に金縛りが解ける。
 奏汰と目が合う。そして、彼はそっと僕の袖口から手を放す。
 胸の奥で、何かが水泡のように浮かび上がって弾けた。
 視界がぶわっと滲んだ。溢れ出した涙が止まらなくて、歪んだ視界で連れていかれる奏汰に必死に手を伸ばす。酷い罪悪感と、醜い後悔が遅れて次々と湧き立った。
 伸ばした手が、空を掴む。
 こんな時ですら声が出せない自分の弱さに、心底嫌気が差した。


 その日から、奏汰へのいじめが始まった。
 カーテンを閉め切って暗くなった教室。机が押しのけられて開けた空間の中心に奏汰がいた。奏汰を取り囲むように群れる支配者たち。もちろん、茅野だけが一歩前に躍り出ている。
 泣きながら上履きの裏を舐める奏汰。それを見て茅野は心底つまらなそうに奏汰の脇腹を蹴り飛ばす。横向きに倒れてうずくまる奏汰に向けて、さらに何度か足を振り抜く。
 奏汰のすすり泣く声だけが、しんしんと教室に響いた。僕を含む大勢が、それを見て見ぬふりして息をひそめている。
 全員が分かっていた。これはあってはいけないことなのだと。もはや当たり前になった光景を前にしても、その共通認識が変わることは絶対にない。ただ、どうしても動けない。光の遮られた薄暗い空間で、声を発することがどういうことなのか、みんな理解している。
 見ていて何もしないのは加害者と同じ。そんなことを言えるのは、この恐怖を経験したことがない奴らの戯言だ。

 午後の授業は頭に一切入ってこなかった。家まで帰った記憶も曖昧だ。
 一体、誰が何を間違えたのだろうか。どうすれば、茅野に悟られずに奏汰を助けられるのか。そんなことを数日考え続けた。
 結局、答えなんて出るはずがなく、その間も奏汰へのいじめは続く。

 日を追うごとに奏汰の目から光が失われていった。それを傍らで見続け、僕もどうにかなりそうだった。その感情に、僕はまた自分への苛立ちが募る。
 素直に罵倒してもらえたなら、どんなに良かったのだろう。しかし、奏汰は僕に何も言わなかった。罵りも、懇願も、泣き言も一切。

 その日の朝は、いつも家を出る時間に奏汰が部屋から出てこなかった。電気が消された家が静まり返っている。朝なのに、なぜか真夜中のようだった。
 階段を上がる。なぜか音を立てないように慎重だったことを覚えている。部屋の前で薄く深呼吸をして、軽くドアを叩く。返事はない。

「……入るよ?」

 部屋の中は廊下よりも暗かった。奏汰はベッドの隅で膝を抱えてこちらを見ている。僕にすら怯えているように見えた。その姿にようやく、僕は微かに怒りという感情を覚える。

「……学校、どうする?」

 僕が訊いていい事じゃない。けれど、気が付いたら言葉が出ていた。

「た、体調悪くて。……休もう、かな」

 奏汰の掠れた声に舌が泳ぐ。少しほっとした自分がいた。

「奏弟も、や、休んだら……?」

「僕も休んじゃったら、お母さんとお父さんに疑われちゃうよ」

「で、でも……」

 僕も奏汰も分かっている。奏汰が学校を休めば、おのずと標的が僕に移り変わることを。

「……大丈夫。僕は大丈夫だから」

 奏汰へ向けて、というより逃げ出しそうな自分に言い聞かせるように反芻した。こういうのはあまり深く考えちゃ駄目なんだ。どうせ、待っているのは地獄の日々。それなら、せめて恐怖の上に張った薄氷のような怒りの分だけでも、満足させておきたかった。
 
 幸いだったのは、僕がある程度心を意図的に閉ざせる性格だったこと。苦痛に対して耐えることが難しくなかったことだ。
 教室へ入り、奏汰が休むことを茅野に伝えると、彼は小学生には珍しくスマホを取り出し、一枚の写真を見せてきた。その写真はトイレの中で裸にひん剥かれた、水浸しの奏汰だった。

「お前も休んだら、これを町中にばら撒く」

 耳元で告げられた言葉に、それからのことは断片的にしか覚えていない。茅野を力の限り押しのけ、スマホを思いっきり床に投げつけた。光沢を放つ画面にピシッと亀裂が入る。こんなことで足りるはずがない。スマホを拾い上げ、教室を飛び出す。とにかく、時間が欲しかった。
 チャイムが鳴り、一時間目が始まるまで美術室の画材置き場に身を潜めた。幸い、一時間目が美術のクラスは無くて、遠くの教室から授業の音が聞こえてくるだけだ。スマホを付けてみる。ぱっと画面が明るくなった。
 人気のない廊下をゆっくりと横断し、技術室に忍び込む。工具入れを漁る時に響く金属音だけでも吐きそうになった。
 金槌を手に取る。持ち手の木がひんやりと震える手に伝わった。
 小学生の僕と同様、茅野もバックアップというものを知らなくてよかったと、後になって思う。
 遮光の黒いカーテンを閉め、スマホの画面を付けるとその明るさに目が痛む。僕は手に持った鈍器をひたらすらスマホに叩きつけた。何度も、何度も。一度音を立てたら、誰かが来る前に終わらせて逃げなければならない。だから、狂ったように殴り続けた。
 ぶつんっと画面がこと切れる。電源のボタンを押しても付かない。
 真っ暗になった室内でようやく息を吐きだすと、心臓がうるさいくらい脈を打つ。少しだけやり返してやったという達成感が疎ましかった。

 それからの日々は、あまり思いだしたくはない。最後の標的だからか、僕のしでかした行為のせいか、それともいざ自分がその身に立って初めて分かるものなのか、僕へのいじめは想像よりも苛烈なものだった。
 画鋲は刺さっている時よりも、数十分後に襲い掛かるずくずくとした痛みの方が耐えがたいこと。カッターの切り口は燃えるように熱くなること。くだらない痛みばかり覚えている。
 毎朝、奏汰に泣きながら引き留められた。もう写真は残っていないのだし、確かに卒業まで親に心配をかけることになってでも休めばよかった。けれど、多分僕は意地になっていたのだと思う。家まで茅野が来ない確証は無いし、そうなれば奏汰にだって危害が及ぶかもしれない。だから、僕は学校へと行き続けた。
 確かに辛かった。思いだして、吐き気が催すくらい色々なものが刻み込まれている。それでも、双子とはいえ兄として弟を守らないといけない使命感と、一度は逃げてしまった罪悪感に僕の理性は守られ通した。
 
 中学に入学すると、茅野は父親の転勤で今度は兵庫に引っ越すことになった。こうして、支配の日々は終わりを迎える。
 中学生という一つ大人の階段を登った皮切りに、奏汰は目に見えて変わった。きっと、自分を守るために演じることを覚えたのだ。僕と奏汰が入学した中学には、同じ小学校から来た人は少なかったから、とりわけ言及されることもなかった。
 それでも、二割側の奏汰は外の世界だけのかりそめの姿だ。家に帰れば、昔と何も変わらない姿だった。だから、安心した。僕は奏汰にとって、信用における人物なのだと認識できる。それだけで満足だ。

 だからこそ、壊されてはならない。茅野の後を追いかけるように支配する側へと変貌した芹沢なんかに、奏汰の外壁を崩されるわけにはいかなかった。
 だから、僕はいじめとも呼べないただの暴力を受け入れる。
 もしかしたら、間違った選択なのかもしれない。歪んだ対処法なのかもしれない。
 それでも、僕が小学生の時に学んだことは、ただじっと耐え忍ぶ。それだけだった。

         *

『花火、やるよ!』

『夜にってこと?』

『そんなわけないじゃん』

 理不尽な返答だ。花火と言えば、夜だろうに。既読だけ付けて、家を出る。四月の夜明け前は、ちょと肌寒いけれどコートはいらなくなっていた。軽いジャンパーを羽織り、下はいつからか面倒でジャージになった。まるでコンビニに行くような服装だ。でも、この時間帯には相応しい恰好だと思う。
 おかしいのは彼女だ。毎日、帳の降りた海辺に制服で来る女子高生が彼女以外のどこにいるというのか。
 最近、日の出が目に見えて早くなった。起きた時には空は既に淡い光りに侵食されていて、海辺の公園に着くときには陽が昇る直前だ。
 少し、寂しく感じるのは何故だろう。ぼんやりと滲んでいく空を彼女と眺めることは、もう無い。あの時間が嫌いじゃなかった。そのことに今さら気が付く。
 朝の気配を感じさせる軽い空気が、僕にとっては少しだけ煩わしい。

「おっ、来たね。おはよう」

 振り向いた彼女を見て、すぐに気が付いた。色々な考えが瞬間的に脳裏を通り抜けていく。動きを固めた僕を彼女は不思議そうに見つめる。どうしてか、目が合った気がした。

「どうしたの?」

「いや、えっと……。むしろ、どうした……のか聞いてもいいのかな」

 訥々とした喋りに彼女が小さく「あぁ……」と漏らして、そっと左頬に手を添える。手で隠した左頬は微かに熱がこもった赤みを持っていた。睫毛が湿って、目元が少し腫れている。馬鹿でも分かる。泣いた跡だ。

「うーん……」

 彼女は難しそうに唸り、朝焼けの水平線を見遣った。

「言いたくないなら、聞かないよ」

「……引かない?」

「当たり前だよ」

「そっか」

 彼女は傍らのコンビニ袋から湿布を取り出す。

「一応、買っておいたんだ。でも、一目で分かっちゃうくらい腫れてると思わなかった」

 大きな湿布を一枚抜き取り、鋏と一緒に僕に渡す。

「はい、貼って」

 今日ばかりは悪態をつく気にもなれなかった。湿布を小さく切り取る。そっと赤くなった部分に触れると、結構熱かった。

「ねえ、ちょっとドキドキするね」

「……黙ってて」

「ちぇー……」

 湿布を張り、皺が出来ないように上から軽くなぞる。

「さっ、花火やろうか」

 コンビニ袋からやかましい色合いのパッケージを取り出し、彼女はいつも通り明かる気に言った。何だか言葉を発する気になれなくて無言で首肯する。
 僕らは砂浜に移動し、二人でバケツを囲んだ。朝から一体、何をしているのだろうと思わなくもない。でも、それももう慣れた。僕と彼女の間に常識なんてものは通用しないのだから。
 ライターで彼女がそれぞれ手に持った花火に火をつける。刹那の静けさの後、一気に火花が放たれた。

「点いたー! けど、なんか薄いね」

 きっと、暗がりならば赤や緑、黄色など様々な色が混ざり合っていただろうに、先端から柳のようにしな垂れて零れ落ちる火花はやけに色が薄い。白い光の奥にうっすら別の色が見える。その様子がフィルターがかかる夜明けの空気の色と似ているなと思った。

「朝にはぴったりかもね」

 火薬の香りが鼻を衝く。なぜかこの匂いは嫌いになれない。
 火種が尽きては、新しい花火に火を付ける。最後に残るのはやっぱりやたら量の多い線香花火だ。火を付けると、白い火種がぱちぱちと燃える。ぽつぽつと会話をしながら、二人でその様子を耽るようにじっと見つめた。

「……私ね、片親なんだ」

 びっくりするくらいあっさりとした口調で、彼女が吐露する。辛そうには見えなかったから「そうなんだ」と返した。でも、彼女の顔を見続けることは出来なくて、また線香花火に目を落とす。

「私が生まれてすぐにどっか行っちゃったらしいから、私にとってはこれも普通のことなんだけどね」

 小さく頷いた。その意味は、僕自身にも分からない。

「お母さんはスナックやっててね、夜は家にいつもいないんだよ。で、私は昼は学校じゃん? 何日も顔を合わせないのが普通なの」

「朝には帰ってきてるんじゃないの?」

 そう言って、僕は激しく後悔した。地雷原を突っ走るかのような気分だ。

「……ごめん」

「なんで謝るのさ。私にとっては、これだって普通の事なんだよ」

 彼女の抱える普通はいつも僕にとっては普通じゃなくて、なんだか大きな溝がある。分からない。彼女が強がっているのか、それとも本当に普通のことだと思っているのか。

「毎日、こうしてここにいるのと関係ある……よね?」

 彼女は軽く頷く。その唇が、肩が、微かに震えていた。

「たまにさ、知らない男の人を連れて帰って来るんだよ。大抵、すごいお酒臭い。後は、まあ言わなくても何となく想像つくんじゃないかな」

 ふわっと漂う火薬の香りが、今はすごく鬱陶しい。苛立ちすら覚える。

「いつから……。いつから、ここに来るようになったの?」

「中学に入ってからかな。私がその意味を理解した時から、ずっとね」

 そんなにも長い期間、彼女は毎日こうして一人で朝を待っていたというのだろうか。それがどんなに苦痛なのか計り知れない。
 彼女のことを知れば知るほど、僕はどうして良いのか分からなくなる。色々なことから逃げている自分が情けなくて、そう思ってても、まだうじうじと時間が過ぎていくのをただ眺めている。
 ぽろっと頬を何かが伝った。

「えっ……?」

 なぞった跡が、ひんやりと熱を冷ましていく。

「もー、なんで泣くの?」

「あ、いや……。わから、ない。……ごめん」

「謝られることじゃないんだよ。私こそ、変な話しちゃってごめんね」

「そ、そうじゃない! ……違うんだ。話してくれたことは、その、嬉しい。でも、想像してみて、僕なら……それこそ死にたくなるのかなって……」

 最後の線香花火がすっとバケツの中へと落ちていく。澄んだ空気と火薬の残滓が揺蕩う。優し気に僕を見つめる彼女から、なぜか目が離せなかった。

「やっぱり、優しいんだよなあ」

「そんなんじゃないよ。僕は、実はとっても酷いやつなんだ」

 現実から目を背けて、こうして彼女と過ごす夜明けが心地よく感じていて、考えれば考えるほど屑で救いようのない人間だ。彼女が優しいというのは、僕の一面しか知らないから。きっと、本当の僕を知れば、彼女だって僕を軽蔑するだろう。

「人のことを思って泣けるのって、優しいんじゃないの?」

「たとえ優しくったって、一歩を踏み出す勇気が無かったら何の意味も無い。何とやらの持ち腐れだ……」

 自慢げに彼女が「宝だよ」と鼻を鳴らす。〝優しさ〟が宝になりえないと思ったから濁したのだが、どうやら彼女には伝わらなかったらしい。

「じゃあ、私のために一歩を踏み出してもいいんだよ?」

「どういうこと?」

「ふふっ、無理心中。あっ、でも今日話したこととか、病気のことは関係ないんだよ? 全くこれっぽちもってわけじゃないけれど、本当に違うからね?」

 一瞬、それでもいいと思ってしまった。僕さえいなければ、今の僕が抱えている問題事は解決するのだから。いっそのこと、彼女との選択もありなのかもしれない。でも、僕なんかはどうでも良くて、目の前の彼女が世界から居なくなってしまうのはすごくもったいなく思えた。
 さざ波が逃避したい思考を否が応でも引き戻す。

「……僕は自分が一番大事なんだ。だから、自分以外はどうでもいいと思ってる」

「それって、みんなそうじゃない? だって、誰かのために代わりに死ねって言われて、まあこいつのためなら死んでもいいかってなるのなくない? 少なくとも私は誰だろうと、代わりに死んでやるかとはならないよ」

「秋永さん、死のうとしてたんじゃないの?」

「それはそれ。私は私のために死にたいんだよ。誰かに殺されるなんてまっぴらごめん」

 〝殺される〟という表現が彼女らしかった。彼女にも、彼女なりの信念がある。だからこそ、軽率に薄っぺらい言葉で止めるのは薄情だと思った。

「それなら、無理心中だって駄目でしょ」

「……確かに。というか、出来ないや。つまり、誰かのために死ぬってことだもんね」

「結果的には、ね」

 彼女は両手を砂浜について空を仰ぐ。今日は曇り空だった。空が近いと言うことは雲も近いわけで、灰鼠色のそれが少し怖く感じる。

「どうすれば、この人のためなら死んでもいい! って思えるのかな。ドラマとかだと、最愛の人のために犠牲になる的なやつ多いけど」

「そんなベタな……」

 彼女が僕を見る。僕は灰色の雲から目が離せなかった。

「どうせ暇だしさ、そんな存在になってみる?」

 言葉の真意を理解するまでにやや時間を要し、それから彼女の顔を見た。そして、慌てて息をつく。本心、というわけでは無さそうだった。

「告白されてるの?」

「でもさ、彼女くらいじゃ、代わりに死ぬのは無理じゃない?」

「確かに無理だね」

「じゃあ、結婚してみる?」

「馬鹿言ってるんじゃないよ。というか、それでも足りなそう」

「ドライだな〜。まっ、私も同じ意見だけどね」

 結局、頬の怪我については分からずじまいだった。そんなことを話す雰囲気でもなくなってしまったし、彼女に笑みが戻ったのだから、とりたてて聞くことでもない。
 次の日から、彼女の呼び出しは一時間早くなった。

         *

 無機質なペン先がリズミカルに絶え間なく電子の板を叩く。最初はやたらと気になっていたこの作業音も、聴き慣れれば心地が良い。何気なく本棚から抜き取って開いた少女漫画は、内容が一ミリも頭に入ってこないでいた。
 時間の流れがゆっくりな気がして変な感じだ。窓の外は白波が大きくうねりをあげるような大しけの荒れ模様だというのに、この部屋の中はそんな様子を微塵も感じさせない。
 微睡に誘われて瞼が重たくなる。ずれ落ちそうな身体を起こし、マグカップを手に取ると空だった。

「先生、コーヒーお代わりいる?」

「おぉー、頼む」

 右手と視界は固定したまま、左手で器用にマグカップを差し出す姿はいつも通りだ。
 開き戸を抜けて廊下に出ると、古い木造住宅特有のひたっとした寒さが身体の芯を撫でた。軋む床が祖父母の家を思いださせる。
 キッチンはいつも通りすごく綺麗だった。先生は自炊をしないから、やかん以外の料理器具は全部戸棚の奥に眠ったままだ。
 マグカップを軽く洗い、キッチンペーパーで水気をふき取る。硝子戸を開け、インスタントコーヒーを取り出して、やかんに火を付けた。
 元教え子とはいえ、他人を家の中で勝手に動き回らせて良いのだろうか。同時に今さらか、とも思う。

 両手に持ったコーヒーを零さないように目をやりながら、足で戸を開ける様は自宅さながら。行儀が悪い気がするけれど、どうせ誰も見ちゃいない。
 先生は相変わらず、教師時代と打って変わって無口だ。随分、瘦せたのではないだろうか。

「先生、ご飯食べてるんすか?」

「ん? 何だ急にオカンみたいな」

「いや、また痩せたように見えたから。ってか、老けました?」

 伸びた髭に血色の悪い肌。ちゃんちゃんこから覗く細い腕。どっかの病人なんじゃないか。しかし、本人曰く何の病気も無いし、至って元気らしい。

「そうかぁ? ま、人の目を気にしなくなったせいかもしれねえな」

「先生、一応昼は店開いてるじゃないですか」

 もちろん、今日のような大荒れ模様の日は例外だ。こんな日に釣具店を訪れる物珍しい客なんているはずもないのだから。

「こんな店に来るのはおっさんかガキンチョだけだよ。見た目気にしてどうするってんだ。むしろ、あんまり若く見られると舐められるからな」

 液タブを上目で見やる。失礼は承知で、この人からこの絵が生まれたとは到底思えなかった。それくらい、繊細で生き生きとした少女たちがそこにいる。

「……あの、変な意味じゃないんですけど、どうして少女漫画なんですか?」

 きっと僕が取ることのない選択肢だ。だから、気になった。

「好きだからに決まってるだろ」

 相も変わらず迷いのない言葉。さっきまでの固い口はどこへ行ったのか、少女漫画の良さを諳んじるように語り続ける彼を見て、やっぱり本気なんだと思う。
 数分に及ぶ懐かしい先生の授業を聞き終え、やっと主題を口にした。

「これも変な意味じゃないんですけれど、その……僕なら、恥ずかしいかなぁって思っちゃうんですよ……」

 先生が手を止めて向き直った。そして、「この手の話かい」と呟きながら、伸びたぼさぼさの髪をかき上げてゴムで縛る。うっすらと昔の面影が横切った。

「もう俺は教師じゃねえんだがなあ。おしっ、ちゃちゃっと話してみろ」

 話を切り出したのは僕だというのに、何を話してよいのかよく分からなかった。ただ、最近は胸のつかえが多い。増えたと言うべきだろうか。
 逃げるように含んだコーヒーを口の中で転がす。先生に合わせて薄く作りすぎた。不味い苦みが喉を鳴らす。

「最近、周りの目がすごく気になってて……。何なら中学生の時からそうだったんですけれど、今はもっとと言うか」

「……それで?」

「えっと、勝手に他人の目を気にして色々取り繕って、自分を良いように見せて、代わりに大事なものを捨て置いちゃってるんです。……最悪ですよね」

 先生は「ふぅん……」と大きく息を吐き、静寂をつくる。僕を観察するみたいに視線を彷徨わせる仕草は、少しだけ彼女を思いださせる。

「まあ、あれだな。人の目が気になるのは悪いことじゃないな。気にしないでいると、俺みたいに老けるぞ」

 さっき言った事、ちゃんと効いていたようだ。

「俺ももちろん通った道だが、思春期ってのは何でもかんでも極端なんだよ。だから、人の目を気にするそれもバカでか超特大メガ盛りサイズだ。そりゃあ、気にし過ぎて何かを失うってこともあるだろうよ」

「でも、本当に失っちゃいけないもので……僕にとってはすごく大切なんです」

「大切って分かってんなら、上出来じゃねえか。なら簡単なんだよ。後は加賀が一歩を踏み出すだけだ。ほんの少し、周りの目を気にしなくなればいい。後のことを考えてるから動けねえんだよ」

 そう言って、先生は煙草に火を付けた。有言実行だとでも言いたいのだろうか。

「いいか、加賀。大人になろうとするな。その煩わしい病と向き合うなら、むしろ少しくらい子供になった方が楽だぞ」

「そんなもんですかね……」

「まっ、そんなこと言ったけど、逃げて解決するならじゃんじゃん逃げろよ。世の中、何にでも立ち向かっていってたら身体がいくつあっても足りないぞ。本当に大事なことにだけ、全力で立ち向かうのが一番なんだよ」

「……なんとなく分かります」

「みんな、分かっちゃいるんだ。でも、これが案外難しい。加賀も大人になれば分かるさ」

 煙が逃げる窓の隙間から、斜陽が射し込む。見れば、さっきまで降っていた雨は山向こうに逃げ、アクリル色のような濃い一面の青に夕日が注いでいた。

「なんだ、止んだじゃねえか。ほら、個人面談はおしまいだ。さっさと帰れよ」

 そう言って、先生はまたペンを手に取る。

「さ、最後に一ついいですか?」

「何だ?」

「先生、飛び降りる時ってどんな顔して死にますか……?」

 先生は手を止めない。

「そんなの決まってるね。大笑いしながら死んでやるわ」

 予想した通りの返答に僕は大きく息をついた。

「それじゃ、僕はこれで」

「あ、おい、加賀……っ!」

 聞こえないふりをして玄関まで小走りで廊下を抜ける。軋むドアを開けると、夕暮れの温かな空気が通り抜けた。
 振り返り、顔だけ覗かせた先生に向けて告げる。

「先生、何したらいいのか分からないけれど、とにかく頑張ってみようと思います! 自分なりに、後悔しない大人になるために……!」

 見えなかったけれど、先生は肩をすくめている。そんな気がした。
 薄明が世界に浅白く膜を張る。東の縁が切り取られていく様に、また今日へのカウントダウンが始まったと実感できる。あと、一時間もすれば夜明けだ。
 一度、ほんの少しの明かりが漏れ出ると、世界は急速に回りだす。視界が色づき始め、空気は徐々に重さを増す。ゆっくりと、それでいて気が付くと一瞬のうちに。
 朝が慌ただしいって、よく分かる。

 いつも通り他愛のない会話に、彼女はゆっくりと立ち上がることで終止符を打った。さっと荷物をまとめ始める。

「さて、行こっか」

「行くって、どこに?」

 差し出された手は結構温かくて、妙に感触が残る。
 彼女は答えることなく、荷物を持って歩き出した。こんな時間からどこへ行くというのだろうか。

 灯台のある方角へ歩き出した時は心臓が重く悲鳴を上げた。しかし、彼女の足は公園を出てすぐのところで止まった。海沿いにある観光会館とは名ばかりの市民ホールに目が吸われる。昔は定期的に映画が上映されたり、オーケストラの演奏会だったり、少し旬の過ぎたお笑い芸人の漫才ショーが催されていたが、今ではめっきり無くなってしまった。
 僕の記憶にあるたった十数年の出来事。それでも、色々と変わり続ける。河口付近のこの沿岸では、昔はモクズガニが素手でいくらでも取れて、小さい頃は友達のお母さんがよく味噌汁をつくってくれた記憶がある。でも、最近では一匹たりとも見なくなった。やっぱり、生物の方が環境の変化には敏感なのだろうか。
 幼少期は澄んでいた川が、やけに泡立ち赤く濁っているのを知っている。近くの観光地が発展していく最中、徐々に活気が無くなっていく町の様子を知っている。
 町全体が歳を取るように、ゆるやかに腐っていく。
 この町が狭く、生き苦しく感じるのは、そんな背景のせいか、それとも僕自身も同じように衰退をたどっているからなのだろうか。

「はい、問題です。このおじさんは誰でしょうか?」

 会館横のブロンズ像を指さし、彼女が僕に向き直る。大きな船の像と、一人の男性の胸像だった。目の前が海原なだけあって、船の像はよく映える。どちらもパティナに覆われ、くすんだ緑色を帯びていた。僕が生まれる前からあるものなのだから、歴史の面影があって当然だ。

「三浦按針でしょ?」

「そっ、英名ウィリアム・アダムス。またの名を、青い目のサムライ。かっこいいよね!」

「この町に住んでる人なら、みんな知ってると思うけど。祭りの名前にさえなってるんだし」

「あぁ、按針祭ね。いつもの公園で見ると花火がすごくてさ。知ってる?」

 やおら首を振る。
 海上に打ちあがる花火を見るには、自分の部屋が特等席だった。なんせ、絶好のオーシャンビュー。花火目当てに来る観光客も大勢いるし、毎年眼下の車道は歩行者天国になるくらいの雑踏だ。だから、僕は自分の部屋から以外で花火を見たことが数える程度にしかない。

「それで、どうして急に三浦按針の話なんて始めたの?」

 彼女は再び歩き出す。どうやら、彼女の気まぐれはここだけではないらしい。

「私が尊敬していて、同時にこの人のようにはなるまいと思っている人物だからね。君には知っておいてもらいたくてさ」

 彼女の言葉には大きな矛盾が連なっていた。

「なりたくないなら、尊敬は出来ないんじゃないの?」

 橋状の車道を渡ると、河口がゆるりと流れる。数年前までホームレスが住んでいたが、いつだったか警察が追い出して以来、桁下空間はただの砂浜がだだっ広く伸びていた。


「ウィリアム・アダムスは慶長五年に日本へ船でやって来た英国人航海士」

 彼女は僕の質問を返すことなく、独り言のように語りだす。

「はい、それでは頭の良い君に問題です。慶長五年に日本で起きた大きな出来事と言えば?」

「……関ヶ原の戦い?」

「え、すごっ、何でそんなすらっと答えられちゃうのさ」

「僕たち、受験生だよ……? しかも、文系だし」

 何かばつの悪いことでも耳にしたのか、彼女はあからさまに目を背けて続ける。

「大阪城にアダムスを呼んだ家康は、彼のことをめっちゃ気に入ったらしくて、航海術、造船技術、天文学を活かせるように、幕府の外交顧問として重用したと。えらいとんとん拍子だね」

「実際には、航海は他の船が全船沈没や離脱する過酷な旅だったし、日本に着いた途端、海賊扱いされて相当な目にあったらしいけどね」

 彼女がじぬりと僕を見る。僕はまた悪い癖が出てしまったことを後悔し、軽いため息を吐いた。彼女が無言で続きを話すように促すから、仕方なく古い記憶を掘り起こす。

「えーっと、確か関ヶ原の戦いが終わった数年後、西洋の船造りを命じられたアダムスが、造船場所として選んだのが、今のこの河口だったかな?」

 彼女が満足そうに大きく頷く。
 今、僕たちが立っているこの場所でたかだか四百年前、日本初の洋式帆船が建造されたらしい。この川幅で船なんて作れるのだろうかと思ったけれど、昔はもっと川幅が広かったかもしれないし、今のように舗装されてはいなかったのだろう。何にせよ、僕にはすごいことなのかがいまいち分かりにくい。

「でね、その功績が認められて、アダムスは家康から領地とか色んなものと同時に三浦按針って名前を賜ったんだよ。この時、青い目のサムライは誕生したのです」

「へーっ、この時に三浦按針になったんだ」

 彼女の怪しみを込めた視線は続いたままだ。

「ほんとぉ?」

「本当に初めて知ったよ」

「はい、私の勝ち―!」

 自慢げな顔で喜ぶ彼女。まるで子供みたいだった。
 いや、子供なのか。僕も、彼女も、まだ。

「それで、晴れてサムライになった三浦按針はその後、どうなったの?」

「んーとね、幕府とイギリス・オランダの通商に尽力するなどして、日本に残り続けたみたい。そして、家康の死後、アダムスは権力を失い平戸のイギリス商館に追いやられることになる」

「故郷に帰らず、日本のために尽くしてくれてたんだね」

「でも、三浦按針の最期は結構悲しいものでね。家康の死後、日本は対外拠点を長崎と平戸に限定してしまったせいで、外交顧問である三浦按針の仕事は無くなっちゃったんだよ。そのまま家康を追うように元和六年、病気で亡くなったとさ。はい、授業終わり!」

 偶然たどり着いた異国の土地で主人を無くし、存在意義すら奪われた三浦按針の心境はどんなものだったのだろうか。幸せだったのか、不幸だったのか、僕には想像しかねる。

「それで、どうして急に三浦按針ツアーなんてやったのさ」

 彼女は舗装された川先をゆっくりとなぞるように歩く。等間隔に並んだ柳の隙間から、ちょうど三浦按針に関する資料が展示してある建物が見えた。

「んー、実は私があの朝灯台に行く前、こうやって三浦按針のことを考えてたんだよ。だから、最後に話しておこうと思ってね」

 朝日が顔を出す。

「最後……?」

 くるっと彼女が身を翻し、僕に向き直る。柳の影が、射し込む朝陽に照らされた彼女の半分を隠した。

「無理心中しよう、とは言わないよ。でも、良かったら付いてくる?」

「どこに……?」

「分かんない。あてのない旅。まあ、一つだけ目的はあるから、最初は西の方へ。その後は決めてない」

「今日も学校だよ?」

 彼女は切なげな瞳を下げ、口元に笑みを携えて何も言わなかった。ただ、そっと手が差し出される。
 小さな手だ。白磁の手首は簡単に折れちゃいそうなくらい細い。

「出来れば、私は付いてきてほしいと思ってる。こう見えても、私は臆病者なんだよ?」

 まだ、目をそらし続けていることがある。
 僕がこの手を取ってもいいのだろうか。そんな資格が僕にあるとは思えなかった。
 でも、僕がいなければ平和な解決にたどり着くかもしれない。なにより、今ここでこの手を取らなければ、彼女とはもう二度と会えない。うるさいくらいの胸中が、彼女の鋭い眼光が、今にも崩れてしまいそうな儚い気配が、僕にそう告げている。

「……分かった。僕も行くよ」

 彼女の手をしっかりと握る。すると、彼女はおぼろげな笑みを零して握り返してくれた。

「それじゃ、行こうか。きっと、楽しくなるね」

 僕と彼女の少し背伸びをした旅が始まった。

         *

 思えば、夜明け以降も彼女とずっと一緒にいるのは初めての事だった。もちろん、学校でも顔を合わせるのだが、それは言ってしまえば仮の姿みたいなもの。
 僕と彼女の関係は、一体何なんだろうか。名前の付けようがない、特別なもの。かといって、そんな大それた何かがあるわけでもない。互いにちょっとずつ、弱いところを曝け出しているだけの奇妙な関係だ。

「はい、ちーず!」

 突然、隣で静かだった彼女がスマホを向ける。音もなく、画面が瞬く。

「チェックして?」

「……何の?」

「目瞑ってない? ちゃんと盛れてる?」

 あぁ、そうか。
 彼女の決め顔は置いておくとして、僕の顔はいたって普通だった。突然だったし、不意を衝かれた真顔に近いものだ。

「分からん。大丈夫なんじゃないかな」

「よし、じゃあいっか」

 車両の電光板が次の駅名を示した。同時に流れるアナウンスに耳を傾け、手元の乗車券に目を落とす。

「名古屋まで一瞬だね」

「そりゃ、隣の県だからね。新幹線を使えば一時間もかからないよ」

 彼女はスマホに目を落としたまま答えた。
 朝の八時半。ちょうど、朝のホームルームが始まったくらいだろうか。僕と彼女は新幹線の中にいた。当たり前だけど、周りを見渡しても自分たちくらいの見た目の人は見当たらない。
 周りにはどう見えているのだろうか。二人とも私服ではある。出来ることなら、大学生のカップル程度に見られていると助かるのだが。相当な覚悟をして飛び出してきたのに、職質にあって連れ戻されたりしたんじゃ、あまりに不格好すぎる。それこそ、死にたくなるような恥ずかしさだ。

 親には一応、書き置きを残しておいた。元々、奔放な性格だしさほど問題にはならないと思う。特に父親なんかはむしろ息子の成長を喜んでいるかもしれない。ウチの親はそういう性格なのだ。

「出来た! あっ、もう着いちゃった! 早く降りるよ!」

 まるで僕を急かすような言いっぷりだが、僕は既に荷物を手に持って立ち上がっている最中だった。彼女のキャリーケースもまとめて二つごろごろと運び、先にホームへ降りる。

「置いて行かないでよー!」

 頬を膨らませて怒る彼女は少しだけいじらしかった。
 僕は彼女のキャリーケースを渡し、反対の手を取る。何の疑問を抱くでもなく、素直に握り返されたのはちょっぴり嬉しかったりする。

「どしたの? 惚れた?」

「人、多いからさ。はぐれたら面倒だし」

「ふーん、そっか。そういうことにしておきますか」

 その実、照れ隠しというわけではなかった。相貌失認の彼女を思ってなんて知られたら、きっとあまり良い気はしないのだろう。
 彼女はありのままを僕に望んでいる。それなら、伝えるべきではない。僕が彼女の手を取りたかったという事実は、確かにその通りなのだから。

 名古屋駅からさらに電車を乗り継ぎ、外の景色はビル群から再び自然が濃くなる。ゴールデンウィーク明けの朝っぱら、ローカル線は人がほとんどおらず、途中までひと車両貸し切り状態だった。

「そういえば、さっき何かが出来たって言ってなかった?」

「ん? あぁ、これね」

 彼女がスマホの画面をすいっとスクロールする。彼女のSNSだった。写真がずらりと並び、その最新の投稿に思わず声が漏れる。

「嘘でしょ……」

 それは紛れもなく先ほど新幹線で撮った写真だった。写真の下部には『駆け落ち中』と書かれている。

「これで後戻りできなくなっちゃったね」

 意地悪気に笑う彼女。僕はキリキリと痛む胃に無理矢理水を流し込むことで、何とか冷静を保っていた。
 果たして、帰って来ることはあるのか。帰りたくない理由が一つ増えてしまった。

「どうしてくれるのさ……」

「ふふっ、いいじゃん、いいじゃん。私は構わないんだよ」

 そりゃ、こんな投稿をするくらいなんだ。そうなんだろうけど。

「僕が構うに決まってるじゃん」

「どうして?」

「どうしてって……、それは……」

「私、君のこと結構好きだよ?」

 どうしてこんな時ばかり、彼女と目が合ってしまうのだろう。逃げるように目を閉じると、心臓の高鳴りがうるさかった。

 名古屋を出てさらに一時間四十分。長い揺れも特別退屈することもなく、僕らはあてのない旅の唯一の目的地に到着した。
 同じ駅で降りる人はほとんどが旅行客で、どこか地元を彷彿とさせる。
 駅前には土産物屋が何店舗か立ち並び、駅には付属の観光案内所。待ち構えるのは看板を持った旅館のスタッフ。やはり、温泉の観光地は大抵どこも同じ構造らしい。大きな文字で『下呂温泉』と書かれたモニュメントを見て思う。

「流石に長かった。腰痛いや」                                 

「四時間近くかかったからね。僕も身体が痛い」

 幸いだったことと言えば、大型連休明けの平日だから、旅行客もほとんどいないことくらいだ。
 彼女がここを目的地に決めた理由は聞いていない。尋ねる勇気が僕には無かった。だから、もちろんこの後だってノープランだ。

「流石にチェックインはまだ出来ないから、先に荷物を預けられるか聞きに行こっか」

「ホテルなんていつの間に取ってたの?」

「母親がお客さんに貰ったんだと思うけど、ペアの宿泊券が家にあってね。勝手に使っちゃった。旅費浮いたね」

 彼女についていくと、想像を上回るちゃんとした旅館だった。動きを固める僕と、やたらたじろぐ彼女に対しても完璧な接客でもてなされ、荷物を預かってもらう。

「なんてところに泊まろうとしてるんだよ」

「いやー、まさかこれほど良い旅館だったなんて、私も知らなかったんだよ」

 彼女は急こう配な坂をゆっくりと下りながら笑ってごまかした。

「それで、この後はどうするの?」

「私の本当の目的はここからまた少し移動しなくちゃいけないからね。今日は観光でもしようよ」

 広い山間を流れる川に沿って温泉街がつくられていた。海を主軸にした地元とは正反対で、ようやく旅行気分が芽生える。
 食べ歩きの店が多く、近くにはかの有名な白川郷もあり、足が無くても半日程度なら退屈せずに済みそうだった。

「ねえ! 大変だよ! このお店、()え過ぎる!」

 なだらかな坂道に立ち並ぶ店は、意外にも若者を意識した外観やコンセプトの店も多くあった。その度に彼女は立ち止まり、SNS用の写真を撮る。結局のところ、達観した考えを持つ彼女もまた年頃の女子高生ということなのだろう。毎回、僕も巻き込んでツーショットは勘弁してもらいたいけれど。

「焼きおにぎりにバターって、とんでもないカロリー爆弾じゃない?」

「いいんだよ、どうせ一日中歩くんだし。買ってくる!」

 当たり前だけれど、めちゃくちゃ美味しかった。

「岐阜と言えば飛騨牛! だけど、流石に金銭的に断念かなあ」

 バイト禁止の高校生の懐事情は芳しくない。しかも、これから先、何にお金がかかるのか分からないのだ。僕も彼女も出来る限りの軍資金をかき集めてきたけれど、それでも贅沢をするには心もとない。

「旅館の夜ご飯で出てくるんじゃないの?」

「残念ながら、素泊まりプランなんだよね。夜ご飯は外で食べよ」

 なるほど、やっぱり飛騨牛は諦めるほかなさそうだ。
 不意に、彼女の横顔に吸い込まれた。その様子に気が付いたのか、彼女はわざとらしく僕の手を取って歩き出す。

「見すぎじゃない?」

 顔が見えなくても、分かるものなのだろうか。少しうかつだったかもしれない。

「いや、こうして昼間に秋永さんといるのが、すごく不思議で……」

 彼女はなるほどという風に頷いた。

「私たち、朝までの関係だもんね」

「嫌な響き過ぎない?」

「ふふっ、本当のことだからしょうがないね」

 存外、彼女は元気だ。一口に表現したものの、僕の杞憂を晴らすにはその言葉で十分だった。
 彼女はきっと、この旅の中で終着点を探している。それがいつなのかは分からない。全ては彼女の気まぐれ次第。今、不意にそう思うのかもしれないし、もしかしたら軍資金が尽きて路頭に迷うのが先かもしれない。
 彼女が決意した時、僕はどうするつもりなのだろうか。自分でも、分からない。止めるのか、黙って見過ごすのか。もしかしたら、一緒に――なんてこともあり得るのかもしれない。

 彼女の手を取る右手が、じわりと汗ばむ。まだ夏には早いとは言え、五月も半ばを過ぎた。日によってはいやらしい暑さになることもある。
 この数か月で、僕は彼女の見方が随分と変わった。たくさんのことを知ったし、彼女の弱さにも触れた。今の僕は希死念慮を抱く彼女を止めるのだろうか。それとも、彼女に対して芽生えたこの小さな憧れは、僕にも同じ感情を誘発させるのだろうか。


 結局、夕飯は洒落たものをなんて出来ず、近くのファミレスで取ることにした。
 宿にチェックインし、部屋に通されてようやく僕はペア宿泊券の意味を理解する。

「同じ部屋……になるよね。当たり前か」

「そりゃ、そうでしょ」

 当の彼女は一切気にしていないようで、パタパタとせわしなくルームツアーを決行していた。
 部屋の入り口を開けると、すぐに優しい色の畳が目に入る。温かみのある和風な照明が部屋全体を包み込み、中央には座卓と座布団が置かれていた。窓の外は暗がりにぼんやりと明るく浮き立つ庭園と、山々が一望出来る。

「うわっ、部屋に露天風呂ついてる! すごい!」

 障子を開ける彼女を追いかけるように覗くと、白い湯気がふわりと立ち込めている。二人用の檜桶の露天風呂だった。

「高そうな旅館なだけあるね」

「テ、テンション上がって来たー! どうする? 一緒に入る?」

「そんなわけないじゃん。大浴場行ってくるよ」

「あ、待って。私も一緒に行くよ」

 事前に二人で四十分後と決めたので、三十分で出ると彼女は姿はまだなかった。自販機で瓶のコーヒー牛乳を二本買い、彼女を待つ。
 僕が彼女を待つというのも、新鮮なことだ。いつも、彼女は先に一人で待っているのだから。
 彼女もこんな気持ちだったのかな、と若干そわそわする心地に問いかける。来たら、何を話そう。この後は、どうしよう。そんなことを考えながら、彼女も待っていたのだろうか。
 しばらくして、彼女が出てきた。そして、僕の持つコーヒー牛乳を見た瞬間、目を子供の様に輝かせる。

「買っといたよ」

「くぁーっ! 気遣いの鬼過ぎる! ありがとう!」

 彼女に一本手渡し、二人そろって蓋を開ける。上機嫌な彼女にずっと褒められていた気がするけれど、僕は湯上りの彼女を必要以上に見ないように必死だった。
 部屋に戻ると、大きめの布団が二つ隙間なく敷かれていた。子供の様に布団へダイブする彼女を横目に、僕は布団をずらそうと縁を持つ。

「えっ、何で離しちゃうの?」

「いや、駄目でしょ。流石に」

 彼女は首を傾げ、二つの布団の間にまたがるように足を伸ばす。

「いいよ、どうせ無理矢理襲われたら、私は抵抗のしようがないんだからさ。くっ付いてても変わんないよ」

「……しないけど」

「知ってるよ。優しいもんね」

 けらけらと彼女が笑う。
 僕は諦めて手を放し、彼女の隣に胡坐をかく。

「でも、この旅はずっと私と同室なんだし、本当に我慢が出来なくなったら相談してね。ちゃんと考えるから」

 一応、考えてくれはするのかと一瞬、(よこしま)な思いがよぎる。

「理性がどうとか、普通にしてたらあり得ない話だから」

「えっ、そうだったんだ。男の人はさ、衝動が抑えられなくなることがあるって聞いてたから、ずっと怖いなって思ってたのに」

「そんなの意志の弱い人の言い訳だよ。もしくは病気」

 きっと人は我慢の振り分けが出来るんだと思う。誰だろうが、何でもかんでも耐え続けることなんて出来ない。無意識化で我慢することと、しなくていいことで分けている。その取捨選択が人によって違うだけだ。

「良かった。(ただ)れた旅になってしまうところだったね」

 彼女は安心したように布団を被る。眠くはなかったけれど、僕も横になった。薄張りの天井が月明りで青白い。慣れない布団の重さに息が詰まった。
 やっぱり、夜の空気はどこか重々しく感じる。

 不意に手に何かが触れた。じわっと熱が解ける。それはもう一度僕の手に触れた後、ぎゅっと布団の中で握りしめてくる。
 少し早い脈は僕のか、彼女のか。
 ややあって、僕は天井を見つめたまま言った。

「どうしたの?」

 もぞっと隣で彼女がこちらに寝返りを打つ気配がした。

「手くらい、いいじゃん」

「別に僕はいいけど」

 僕しかいないのに何を言ってるんだと思う。

「明日、お父さんに会いに行ってみようかと思って」

 ちょっぴり意外だった。

「……そうなんだ」

「うん……」

 握った彼女の手が、少しだけ震えている気がした。