今日も教室は騒がしい。
 喧騒が背景に漏れ聞こえてくる中、本をめくる。慣れたもので、この騒がしさの中でも僕は自分の世界に入りこむことが出来ていた。
 それでも、流石に目の前で繰り広げられるどよめきはかき消せない。僅かに耳を傾けながら、文章を目で追う。

「みなさーん、俺は奏汰の蛙化ポイント見つけましたよー! ゲコゲコッ!」

 栗原の大きな声に僕は一瞬、本から目を離した。当の奏汰は苦笑いを浮かべている。それを見て、もう一度目を落とす。

「えー、ちょっと気になるかも」

 やっぱり、田上さんが食いつく。
 四月になり、ようやくコートを手放せる時期になった。三年になろうともクラスは変わらないし、また一年、この箱庭が続く。新しく一からクラスの位置取りをしなくて済むから、僕は結構嬉しかったりする。

「だからさ、ポテトじゃなくてナゲットを選んだんだよ。ありえないだろ? 普通、ハンバーガーにはポテトだろ! はい、蛙化ー!」

 やっぱり、くだらない話だった。

「何それ、どうでもいいー。ってか、栗原が蛙化とか言ってんのまじうける」

「流行ってんだろ? 女子の間で」

「もう古いしー。そもそもそんな流行ってないから」

「なんだよ、ちょっと勉強したのに」

「蛙の勉強? 毬栗の勉強してた方がいいんじゃない?」

 奏汰の横槍に大きな笑いが起こる。果たして、何人が本気で面白いと思っているのやら。
 時計に目を向けると、まだ昼休みは三十分以上残っていた。
 ふと教室の外を見ると、窓越しに二組の芹沢が通り過ぎるところだった。彼は奏汰をひと睨みして、僕に目を向ける。首がくいっと斜め上に向く。背筋を冷たい震えが走った。
 奏汰は多分、芹沢(せりざわ)に気が付いていない。それでも、僕が席を立つと一瞬ちらっと視線を寄こす。
 いつものように芹沢は二人の取り巻きを添えて、先に行ったようだ。わき腹がずくっと痛む。
 教室を出る時、秋永さんとすれ違った。

「どっか行くの?」

「……ちょっと、図書室に」

「そか」

 受験を控えた大事な一年。僕はあまり思っていないけれど、奏汰はどうなのだろう。双子なのに、僕には奏汰のことがよく分からない。だから、波風は立てたくない。問題なんて、起こしたくない。()()()の奏汰はもう見たくなかった。
 校舎を出て、裏坂を上る。急こう配な坂道の上にはテニスコートがある。最近は煙草の吸殻が落ちていたとかで、わざわざ昼休みまで教師が見回りをしていたから、呼び出されたのは久しぶりの事だった。
 テニスコートは二段に分かれている。芹沢と取り巻きの二人はその上段で、細い煙を立ち昇らせていた。
 石段に足をかけたところで、彼らは僕に気が付いたようだ。その瞳が気怠るげに僕へと向く。制服の下の肌が粟立っているのが分かった。震える身体を必死に押さえつける。

「なあ、」

 階段を登り切った途端、芹沢がその大きな体躯を持ち上げて僕に詰め寄る。

「これチクったのお前じゃねえよな?」

 芹沢が短くなった煙草を指で弾く。足下に転がったそれは、まだ赤い火が小さく点っていた。

「……違う、けど」

「じゃあ、男テニの奴らか。めんどくせぇことすんなよな」

 大柄な身体がゆったりと近づいてくる。フェンスが背中に当たってややけたたましい音を立てた。
 刹那、みぞおちに鈍い衝撃が走り、息が漏れる。明滅する視界。よろめく身体を取り巻きに抑えつけられた。息がうまくできない。短く、犬のように口を開けて小さく声をあげるしかなかった。ようやく喉がかっぴらいて大量の空気が肺になだれ込むと、涙がじわっと滲んだ。痙攣したように震える腹筋はまるで怯えている心の内が体現されているみたいだ。
 また、この時間が始まった。
 左のわき腹に芹沢の脛が突き刺さる。僕は変に堪えることなく、そのまま横っ飛びに地面へと倒れた。浅い息を繰り返し、何とか零れそうになる涙を堪える。
 呼吸に合わせて、蹴られた箇所が鈍く疼く。見えない鈍器で殴られ続けているみたいだ。

「やっぱり、顔ムカつくな……」

 冷酷な眼差しで見下ろす芹沢を、ただただ見返すしかなかった。
 百九十の伸長と、筋肉付きの良い身体相手に僕が一縷(いちる)の抵抗すら出来るはずもなく、再び腹に鈍痛が走る。転がった際に口に入った砂利が、涎と共に咳に塗れてコートに滴った。
 執拗に腹や背中を(なぶ)られ、その度に僕は小さな呻き声と息を漏らす。
 その間、芹沢は何も言わなかった。もう僕を見てすらいない。彼が見ているのは、僕と全く同じ外見の奏汰だ。周囲の目を集めるようになってしまった奏汰を芹沢は疎ましく思い、そして、恐れている。
 僕も芹沢も憶病でいじっぱりだ。
 教師にチクられたり、校内で後ろ指を指されるのを恐れて、奏汰ではなく僕を痛めつける。僕なら、誰にも言わないし、言えないと思っているからだ。

「あいつがデカい顔してんの、ほんっとうに腹立つんだわ」

 そう言いながら、芹沢は転がる僕に腰を掛け、煙草に火をつける。九十近い重さが背にのしかかり、僕は無意識にえずいていた。硬い地面に爪を立てて掴むようにもがく。口の中を切ったのか、砂利に混ざって鉄の味がした。
 随分と温いいじめだ。
 ただ芹沢が僕をひたすら蹴って殴るだけ。取り巻きには何もさせない。それはきっと彼が力を誇示したいがためだろう。取り巻きもそれが分かっているから、ただ見て従うだけ。
 昼休みが終わるまで、じっと耐えていればいい。慣れてしまえば、別にそこまで辛くはなかった。

「おい、明日の昼も来いよ」

 チャイムのきっかり五分前に、芹沢は一言残して校舎へと戻っていった。
 春の温かな風が砂交じりの頬をなぞる。ずきずきと痛む身体を起こし、砂を叩き落とす。制服に少し跡が残ったけれど、これくらいなら問題ない。
 本当に手温い。だから、大丈夫。
 芹沢は臆病者だ。きっと過去の残像を追っているのだろうけれど、あの茅野(かやの)にはなりきれていない。

「――チクったら、小学校の時の事全部バラしてやる」

 その一言を予防線に張り、僕へのいじめが始まった時から分かっていたことだ。自分だって、過去が露呈してしまえば困るはずなのに。
 それでも、こんなちっぽけな痛みで奏汰を守れるのなら、それでいい。卑怯な僕が考えそうなことだ。あの時の過ちを正したいがためという、ただの勝手な償いに過ぎないというのに。