週明け最初の平日、出前のラーメンをゆっくりと完食し、家から持ち出した夕刊を優雅に眺めております。
 ざっとリードに目を通し――お母さま。本日も世の中は平和なようでございます。


 浅草・寺町通りに面した、実家(お寺)所有の雑居ビル、一階に詰めるようになって半年が過ぎました。
 夕方七つ半(午後五時)から五つ半(午後九時)までの短い時間ではありますが、ほぼ毎日退屈で仕様がありません。
 高校卒業()たての未成年(プー)にこんな真似をさせる兄様(にいさま)は、一体何をお考えなのでしょう。

 果たしてこんな調子で、私は世の中のお役に立てているのでしょうか。


☆☆☆


 カラン、という音に新聞から視線を逸らし、モニタをちらと見やると、どうやらお客さんのようです。
 開店直後のご来店とは、今日は「ツイてる」ようです。

 グレーのスーツ姿、初老の男性です。
 なんと申しますか……「おじさま」と「おじいさま」の間くらい、そんな微妙な塩梅でございます。

 折り畳みの傘を傘立てにそっと差し込み、ハンカチを取り出して肩の辺りをパパッと軽く拭うと、鞄を抱きながら、一つしかない椅子に腰掛けました。

 彼は、じっと張り紙の説明を熟読したのち、財布から五百円硬貨を取り出して投入すると、『ぼろアパートの管理人(未亡人)風』のボタンを押しました。
 やがて受話器をカチャリと持ち上げます。

 さあ、お仕事開始です。


☆☆☆


 男性のいるスペースと私の座る部屋は、防音の面でも完全に遮断されております。
 向こうからこちらは全く見えませんが、二か所に設置したカメラから、向こうの様子は私の眼前に置かれた二台のモニタに映し出されております。

 男性の綺麗なグレーの頭髪と、やや疲労の滲む青い顔がクリアに見えます。
 私も受話器を耳にあて、モニタ越しに男性の顔をしげしげ眺めておりますと、

【……もしもし】
「こんにちは。ようこそ『ツイてない御苑』へ。今日はどうされました」


 この店は『ツイてない御苑』という看板を掲げているのですよ、お母さま。

 日常でつい口にしてしまった、「ツイてない」或いは「ツイてねえ」を捨てていく、そんな意味合いだそうです。

 なにもかも兄様の思い付きです。
 お寺直営なので「御苑(墓地)」なのだそうです。
 ネーミングセンスも含めていささか釈然としない心持ちはいたしましたが、私は黙って従いました。


【……先般、ちょっと「ツイてない」ことがありまして……】
「左様でございますか。お気の済むよう、存分に吐き出していってくださいませ」

 向こうの声は変声装置(ボイスチェンジャー)によって、機械音のように聞こえます。どこぞの宇宙人のような塩梅です。
 いわゆる「ワ・レ・ワ・レ・ハ」風です。
 私の声は、男性が選択した『ぼろアパートの管理人(未亡人)風』で聞こえているはずです。

 兄様曰く――万一にも、先々それぞれの身元が漏れぬよう――という配慮なのだそうです。


【ある日突然、マイアミ・サウ●ドマシーン(※アメリカのバンド)の『(ワン)(ツー)(スリー)』という曲が聴きたくなりまして……ご存知でしょうか響子(きょうこ)さん】
「響子さんではありませんけど……ラジオ体操のような曲でしたか」

【――ちょっと、違いますね】
「――ちょっと、違いますか」

 申し訳ございません。お気を遣わせてしまいました。

【アマ●ンでCDを検索すると、当時のアメリカンポップスを集めた『魁・ゴールドベスト80‘S』というのしか出て来なくて……仕方なく中古のそれを注文しまして、届くや否や早速自室のパソコンへ挿入したわけです……あ、ちょっと失礼】

 男性は受話器を外し、ペットボトルのお茶にそっと口をつけました。
 音もなく喉仏が波を打ちます。

【――その夜、年甲斐もなくワクワクしながら、お気に入りのワインを飲みつつ待ちました】
「一曲目が流れてきますね」
【ええ。しばらくして、「♫ 幸せを 数●たら~ 」と……あろうことか「日本語」が聞こえてきたのです】
「ああ、空耳ア●ーみたいなものですか」
【違います。まんま、日本の歌謡曲だったのです、『サチコ』という……ご存知ないですか】
「えーと……確か、『ニ●ク・ニューサ』ですね」
【違います。そっちじゃないんです、「ばんばさん」の方で。まさかそちらをご存じとは……えー、要は、パッケージは本物でも、中身のCDは別物だったのですよ。『80年代の歌謡曲ベスト』だったわけです。びっくりです、そして……落胆しました】

「それは……ご愁傷様です」

 私は、頭の中でアニメの「管理人さん(未亡人)」を思い浮かべながら、たっぷりと情感を込めて言葉を送り出しました。

 男性は当時を思い出したのか、糸の切れた人形のようにカクンと(こうべ)を垂れます。


「当然、クレームですね」
【お店に事情を説明すると、本物をすぐ送りますと】
「で、返品ですか」
【それが……間違えたモノも差し上げます、と。迷惑料代わりに】
「『ラッキー』じゃないですか」

 彼は、ソーラープレキサスブロー(横隔膜へのパンチ)でも喰らったように、息を止めて黙り込みました。
 モニタに映る顔はチアノーゼの症状が見受けられます(※あくまで個人の感想です)。


 ややあって、

【……まあ、そう……ですね】
「よかったです」
【でも、昔の歌謡曲にはあまり興味がなかったので、そちらは妻にあげました】
「それはそれは。さぞサチコさんもお喜びに――」
【違います。ごっちゃになってます、それは多分他所(よそ)の奥さんです……えーと、()()の妻は意外にも喜びましてね。世代がドンピシャだったようで】

「よかったです」
【……ええ……】

「………………」
【………………】

 ひとしきり沈黙が下りました。


 私は頃合いで、

「お話は以上ですか」

 尋ねると、

【……はい。以上です……】

 気の抜けたような、力の無い言葉が返ってまいりました。


 いつもなら「ほんとツイてないですね」で終わるところですが、本日は逆転のお話で……。
 まあ、終わりよければ全てよしです。

「お疲れ様でした……ゴッド・ブレス・ユー(神のご加護を)」

 モニタの男性がキョトン顔で、こちらを凝視しています。
 見えないはずですが。

【ここは、「お寺さん」直営と耳にしたのですが】
「ええ、そうです。あまり、変な拘りは無いのです。また『ツイてない』或いは『ツイてねえ』などということが『万一』起こりましたら、遠慮なくいらしてください」
【……はあ……どうも、ありがとうございました……】

 男性はぼーっと立ち上がり、浮かない顔で、のそのそ店を後にしました。


☆☆☆


 私は高尚な人間ではありませんので、「導く」などと大それたことは出来ません。
 取りあえず、「ツイてない」人の愚痴や雑談に付き合ってあげなさい――つるっぱげの兄様からは、それだけしか申しつかっておりません。

 心配は無用ですよ、お母さま。
 私もコレで生計(たつき)をたてているわけではありません。

 ……こんな調子で儲かるわけがないでしょう。