私、林清香(さやか)は恋に落ちた。
その人は、同じ部署で直属の上司。
私とは10歳くらい上で、転職組で即戦力としてこの会社に入った。
本当に見事な手腕で仕事をこなし、そして男性女性関係なく気遣いをする。
そんな人を私は初めて見た。
大抵の男性上司は、気に入った女の子だけ甘かったり若い子だけ甘かったりで、同性まで配慮する人なんていなかった。
けれど、あの人は違った。
人一倍仕事をしているのを側で見ていた。
私が一度ヘマをしたとき、彼がフォローを即座にしてくれた。
あの時の鮮やかなフォローは未だに思い出すと、感動する。
でも後で、1人だけ会議室に呼び出された。
私はこっぴどく叱られることを覚悟していた。
それだけの事をしてしまったし、私は怯えながら会議室に行けば、彼に座るよう剥がされた。
怒ると思っていた彼は、淡々とどこがまずかったのか、何によりそのミスが引き起こされたのか、どう直すべきか、事細かに指摘し、そんなに私の仕事を見ていてくれたのかと驚いた。
そして彼は言った。
『君が真面目で努力しているのはわかっている。
だけどこれは仕事だ、ミスはミス、問題は放置できない。
だが失敗なんて人間である以上誰にでもある。
要はその後のフォローがどれだけ出来るかだ。
場合によれば逆に信用を得る場合だってある。
今話したことは君も理解したね?
そこを踏まえて再度頑張りなさい』
と。
彼は無駄に甘やかすような言葉を言うことも無意味な叱責もしなかった。
私のためを思って言ってくれている、それが全てから伝わってきた。
不謹慎だけれど、とても嬉しかった。
『ありがとうございます!
今後ともご指導の程、よろしくお願いいたします!』
私が頭を勢いよく下げたら、ぷっ、という声に驚いて顔をあげると、私の顔を見た途端、思い切り彼は笑い出した。
初めて見た、子供の様に屈託無く笑う顔。
恋に落ちる、私はその瞬間を味わった。
『君は面白いね』
そう言って優しく笑った彼に、私はなんとしても近づきたくなった。
あの一件後、より必至に仕事を頑張った。
そしてとあるプロジェクトのメンバーに選ばれた。
リーダーは彼だった。
ある時、地方にプレゼンに行くため、私は彼に出張の同行を指名された。
嬉しかった。
プレゼンを任せて貰える。
それだけ仕事ぶりを認められた気がした。
周囲も、喜ぶ私の背中を押してくれた。
「いや~良かったですー、ふふふ」
「うん、良かったから頑張って歩いて。
ほらぶつかるよ、前見て」
私は任されたプレゼンが大成功に終わり、そのまま取引先との会食に出席。
緊張してお酒を飲んでいたせいか取引先を見送ったあと、一気にお酒が回ってきた。
ふらふら歩く私を、彼が支えてくれている。
思ったより大きな腕が私を軽々と支えているようだ。
食事を接待したレストランが入っていたのは自分達の泊まるホテルだったので、私は余計にあっという間に緊張感が解けてしまったのと、成功の嬉しさで笑顔になる。
そして、彼が私を構ってくれることが嬉しい。
「ルームキー出せる?自分で部屋に入れるね?」
「はいー」
私は鞄からごそごそとルームキーを出して、薄い入り口に差し込もうとするけれど、入り口が逃げてしまう。
「あぁもう、貸して!」
彼は私の手からキーを取り上げると、すんなりとドアを開けた。
「大丈夫だね?入れるね?」
「はいー」
ごん!とドアに勢いよく頭をぶつけ、ずるっと倒れそうになるのを彼が支えた。
ため息が聞こえ、彼は再度私の身体に手を回す。
私は安心しきって彼に寄り抱えれば、彼は何か言いながらも引きずるようにベットまで運んでくれた。
「ここにミネラルウォーター置いておくから。
勝手に触って悪いけどスマホは横に置いておくよ?
明日朝電話かけるから」
冷たいベットでごろんと寝転がりながら、横で声をかけながら何かしている彼の腕を、むんずと掴んで勢いよく引っ張った。
どさり、と私の真横に倒れ込み、彼が驚いてすぐベットの端から立ち上がろうとするのを止めるため、私は再度彼の腕を掴んだ。
「好きです」
「・・・・・・え?」
「好きなんです」
酒の勢いって凄い。
こんな場所で二人きり。
もう告白するならここしかないと思えた。
なんとか上半身を起こし、私から距離を取ろうとする彼の腕を掴みながらそういうと、彼は目を見開いて私を見た。
「課長は、どう、思ってますか?私の事」
彼は黙っている。
私の視線から顔を逸らした。
「嫌いですか?」
「いや、まさか」
「女として魅力無いのはわかってますけど」
「いや、君は魅力的だよ」
思ってもいない言葉が彼から飛び出し、今度は私が目を丸くした。
いつの間にかこちらを見ていた彼はしまった、というように手を口に当てると、ばつが悪そうに顔を背けた。
「なら、私を女としてみてくれませんか?」
「見てるじゃないか」
「抱いて下さい」
私の言葉に、彼の表情が固まった。
彼は腕を掴んでいる私の手を、もう一つの手でゆっくりと外した。
「悪酔いしすぎだ」
「本気です」
私は起き上がり、未だベットの縁に腰掛けたままの彼に近づく。
「君は忘れてないか?俺は既婚者だぞ?」
「知ってます」
「からかうのもいい加減に」
「本気なんです」
今度は強く言った。
窓からの明かりしか無い部屋で、彼の目が揺れている。
「家庭を壊す気なんてありません。
家族のために頑張っている課長も大好きなんです。
だから、邪魔しないから」
私は彼の首に腕を回し、身体を密着させた。
さっきは手を外された。
だけど今彼は全く動かない。
心臓の音が聞こえる。
きっと自分の心臓の音なのに、この早鐘は彼の物だったらいいのにと願ってしまう。
どうか私にドキドキして欲しい。
女として見て欲しい。
「好きです」
彼の耳元で囁く。
ドサリ、という音共に、突然私の目線が天井に向く。
そこには、彼の切羽詰まったような顔。
「・・・・・・良いんだな?」
そこには、見たことも無いほどに雄な表情を浮かべる男がいた。
私はその表情が、劣情が、自分に向けられていることに全身がぶるり、と震える。
そして、静かに頷いた。
*********
あの出張で彼とは一線を越えた。
実は初めてだと言うと、彼は本当に優しく愛してくれた。
これで本当の愛が詰まっていたら、どんなに凄いだろうというほどの優しく、そして情熱的な夜だった。
私はこの事で、仕事に悪い影響があることは覚悟した。
あれだけ必至に彼に認めてもらおうと努力したことを、酒の勢いをかりて全て無にするようなことをしたのだ。
だが彼は驚くくらい今までと同じように接してくれた。
またミスした時やはり1人呼び出された。
もしかしたら、なんてふしだらな事がよぎったけれど、彼は一切私に手を出すどころか、触れもしなかった。
私はもうあれで終わったのだと思った。
ひとときの事だったとしても、憧れた彼に抱かれた記憶があっただけで私は嬉しかった。
けどまた2人で出張があり、今度は彼から求められた。
彼が私と出張にいけるよう、上手く仕事を作ったと聞いて驚いた。
「こっちが理性を必死に押さえているのを楽しんでいたのか?」
荒々しい雄の表情と声で、私は再度彼に抱かれた。
前回とは全く違うものを彼から与えられ、それを味わいながら、自分がかわっていく気すらした。
周囲から一目置かれ幹部候補と言われ、家族もいる彼が、余裕無く自分を求める姿は、何の取り柄もなかった私の承認欲求を恐ろしいほどに満たしてくれた。
気がつけば、月に一回の逢瀬を楽しむ間柄になっていた。
そう、言ってしまえば不倫だ。
まさか私がそんな事をするなんて、一番私が驚いている。
でも、私はもの凄く充実していた。
熱心に仕事に励み、尊敬する上司に厳しく時には優しく指導をうけ、彼と食事にでかければ素敵なレディのような扱いをされ、ベットでは子供の様に私を求める。
それこそ夢のような時間のような気がした。
*********
「ねぇ、林さん、この頃綺麗になったわよね?」
「え?」
「そうそう、私もそう思ってた!」
朝、更衣室で着替えていたら、そんな事を同僚達に言われた。
「なーにー?彼氏が出来たの?」
「そうだと思った!
なんか子供っぽさ抜けて色気が出てきたというか」
「なんですかそれ」
私は皆から興味津々に詰め寄られ、驚いてしまう。
驚きながら、頭の中が真っ白になりそうなのを悟られないように笑顔を浮かべる。
「で、彼氏いるの?」
「いません!いません!」
私が必至に否定すると、みんなじろりと私を見た。
「嘘だよね」
「嘘よねぇ」
「そんな」
私が否定しても皆は納得していないようだ。
ここで課長との関係が公になってしまったら、彼が今までしてきた努力を潰してしまう。
そんなことは絶対出来ない。
「その、ここだけの話にしてもらえますか?」
私は小さな声で本当に困惑した表情で言うと、みんな、面白そうに近づいてくる。
私は一応何かあった時のために仕込んでおいたものを、こっそりと取り出す。
「私の大好きな人です・・・・・・」
みんながその写真を見て、固まった。
「これ、今人気急上昇のイケメン俳優君でしょ?」
「今度の朝ドラに抜擢されたって言う」
そう言うと私を一斉に見る。
信じられない物を見る目。
だがここで信じて貰わなければならない。
「その・・・・・・彼のおっかけをしてることは内緒にして頂けると」
「嘘!おっかけしてんの?!」
「実は前回の出張、現地解散にしてもらってそのままロケ地に行ったんですけど、後で課長にばれまして」
「前回の出張でそんな事してたの?!」
「もちろん業務終了後ですよ?
まぁ打ち上げしようという課長のご厚意を断ってしまいましたが」
えへへ、と笑うと、みんなが顔を見合わせている。
「なんか信じられないけど聞いたことはあるなぁ」
「友達にもいるよ、もっと凄いけどそのせいかめっちゃ綺麗になった」
「林さんみたいな真面目な子の方が、こういうのにはまっちゃったりするものなんだね」
予想外にみんなが納得してくれて、私は小さくほっとした。
反面、最後の言葉にはドキリとさせられた。
私だって、そうなるとは思っていなかったのだから。
「って事があって」
彼と同じベットでまどろみながら、先日起きた話を報告した。
「まさか君がそんな仕込みをしていたなんて」
そう言って彼が笑いながら私の頭をゆっくり撫でる。
腕枕も最初は緊張したが、今は少しでも触れていられることが嬉しい。
「だって、私のせいで課長の出世や家庭に影響するなんて嫌」
「君のおかげで、俺はエネルギーをもらえているよ、ありがとう」
優しい声で温かい胸板に引きよせられる。
幸せだ。
彼とは一緒になれないけれど、それでも私は本当に幸せだった。
一番辛いのは、この幸せを誰にも話せないことだ。
この関係も気がつけば一年も続いていた。
私はこの事を墓まで持って行くべきだと思いつつも、誰かに聞いて欲しかった。
そして、幼なじみのあの子なら、一番私を知っている彼女なら、困ったような顔で聞いてくれるかも知れない。
私は、彼女と会う約束をした日、意を決してその事を話した。
「それ、不倫よね?」
「う、うん、まぁ・・・・・・」
「あのさ、向こうの奥さんから賠償請求ってのされるんだよ?」
「それは」
「むこうは遙かにおっさんで、従順な若い子とヤレてあっちが得してるだけじゃない」
「そんな事無いよ!私は色々」
「凄く幻滅した。
そういう汚い子だと思わなかった」
彼女の表情は軽蔑、それだけだった。
私はその顔を見て、どうしていいかわからず言葉も出せない。
「もう、連絡してこないでね」
彼女はそういうと、1人お店を出て行った。
きっともう二度と彼女には会えない。
彼女なら、受け止めてくれると信じていたけれどそうではなかった。
わかっている。
こんなことはいけないことだってわかっている。
でも、幸せなの。
私は今はこれで良いの。
彼のおかげで私は沢山自信をつけられたの。
それを受け止めて貰えなかった事実にただ胸を締め付けられ、そして大切な幼なじみを一人失ったことに、私は一人、カフェで俯いた。
私はこの事を彼に話すなんて出来なかった。
しかし、唯一理解してくれると思った幼なじみに全てを否定され、切なさや悲しさや、憤りがうずまいてずっと苦しい日々が続いていた。
突然その時のことが思いだしてしまい、涙が溢れてくる。
誰かに聞いて欲しい。
説教はしないで。
不倫がいけないなんてことなんて、一番私がわかっている。
ただ聞いてくれる、安心して話せる人が欲しかった。
そんな相手はいないだろうかとネットで検索していて『宿り木カフェ』という不思議なサイトを見つけた。
女性客と男性スタッフがネット通話で話す、それもカフェで店員さんと話すような気楽さで、なんて書いてある。
まさに私が欲している事だと思い、私は規約をざっと読んですぐに登録を始めた。
スタッフ希望欄には、彼と同じ歳の30歳半ば、既婚者、仕事が出来る人、そして説教をしない人、という要望を入れた。
そして、自分がどういう状況なのか記入できる欄もあったので、既婚者と不倫関係にあることを書いた。
このことを話したい事が目的ではあるけれど、もしかして特定されたりしないかと心配もよぎった。
しかし個人情報は必要無かったし、秘密厳守との一文を信じて連絡を待った。
それだけ私はこれを一人だけで抱えていることが辛くてしかたなかったのだ。
利用するのにヘッドセットがあると良いと書いてあったので、安いものを買って準備した。
どきどきしつつ、宿り木カフェから連絡のあったスタートの時間になった。
パソコン画面に着信を知らせる表示が出る。
私は何か悪いことでも今から始めるかのような気持ちになりながら、びくびくと通話ボタンを押した。
『こんばんは』
「こ、こんばんは」
そこから聞こえたのは、低めの落ち着いた声だった。
『あはは、緊張してるね?
先に自己紹介を。
僕の事はリュウと呼んで下さい。
会社を経営している30代後半の既婚者です。
希望には30代半ばとあったけど、まぁ35歳は超えてるから後半ということで。
まずは大丈夫かな?』
「あっ、はい!」
ゆっくり、でもしっかりと耳に届く言葉。
私は何故か彼の雰囲気に圧倒されて、慌てて返事をした。
『急に知らない男性と話すんだ、緊張しない方が無理ってものだよ。
何か飲み物は近くにあるのかな?』
「あ、はい!コーヒーを用意してます!」
思わずびしっと返事をしたら、ヘッドセットから、くくく、という押し殺したような笑い声が聞こえた。
どうしよう、色々変な子に思われたのかもしれない。
『緊張させてごめんね?
実は僕もコーヒーを横に置いていてるんだ。
まずはお互い少し喉を潤そうか』
リュウさんはそういうと、少しして向こうから喉をならす音がしっかりと聞こえた。
私も慌ててコーヒーを飲む。
「・・・・・・はぁ」
思わず息を吐くと、また耳元に笑い声が聞こえた。
「す、すみません・・・・・・」
何だかもの凄く恥ずかしい。
さっきから空回りばかりしている気がする。
『いや、こちらこそ笑ってごめんね、面白い子だなって思って』
楽しそうにそう言うリュウさんに、何故か一気に彼が重なった。
声は全く違うのに、顔も見えない相手で通話しているだけなのに。
そうだ、先に大切な事を話さなければならない。
「あ、あの!」
『なにかな?』
「私、不倫してるんです」
『うん』
勢いで言ったはいいが、普通にうん、と返されると、その先どういうべきなのか言葉が出てこなかった。
少ししてまたリュウさんの笑い声が聞こえ、どう続けたらいいのか頭がまっ白になった。
何か喋ろうとするけれど上手く言葉に出来ない。
彼は、大丈夫、ゆっくりで良いよと優しく声をかけてくれ、それでも私が恥ずかしさとか戸惑いで言葉に詰まると、彼は今日は何を食べたの?などと答えやすい質問をしてきてくれ私はただそれに答えるだけで精一杯だった。
『そろそろ無料分の自己紹介タイムが終了するね』
「ほんとだ!」
『さて、もし僕で大丈夫なら日程はサイトに表示してあるから。
ご予約、お待ちしています』
何だかいたずらっぽい声で言われ、私は恥ずかしい気分に襲われた。
「今度からよろしくお願いします!」
私は思わず頭を下げた。
やはりくすくすと笑い声が聞こえる。
『うん、こちらこそ』
初めての通話が終わり、私は緊張の糸が切れたように机に突っ伏した。
初めての通話は緊張のせいかあっという間で、他にも会話があったはずなのに、まともに話した記憶が思い出せない。
今度こそ、今の気持ちを聞いてもらわなければ。
三十分で何を話したかわからないのならこの時間じゃ足りない。
私は早々に二回分、1時間で予約してしまった。
*********
『こんばんは』
「こっ、こんばんは!」
緊張で思わず声が裏返った。
ちょっとした間の後、ぶはっ!と大きな笑い声が聞こえた。
「すみません・・・・・・」
『笑ってごめんね?
いやいや初々しくて良いよ。
さて、今日は前回聞けなかった、君の彼氏のことでも聞かせてもらおうかな?』
まるで私の気持ちを知っているかのように何やら楽しそうな声で話題をふられ、うっと言葉に詰まる。
話そうと思ってこのサイトに登録したはずなのに、いざ話そうと思うと不倫なんて話してはいけないという今までのストッパーが邪魔をしてしまう。
そんな私を見通してか、
『そうだなぁ、相手はどんな人なのか、君との馴れ初めとか、Hは上手かとか?』
ぶはっ!と思わず今度は私が吹き出すと、ごめんごめんと笑い声で謝られた。
『君が好きな人はどんな人なのか、僕に教えて?』
遅くもなく早くもないのに、しっかり相手の心を掴むようなリュウさんの声が、私を話しやすいようにと手を差し伸べている。
私は、今日も横に置いているコーヒーの入ったマグカップをとり、ぐいと飲むと、意を決して話し始めた。
彼との出会い、相手は尊敬した上司であること、遙に年上なのに可愛いと思ってしまったこと、恋に落ちてしまったこと。
そんな人に認められたくて必死に仕事を頑張ったこと、そして、酒の勢いを借りて彼に迫ったこと。
それを彼は上手く短い質問をし、私が話せばうん、ほぅ、それで?と話すことを促すように心地良い相づちを打ってくれた。
リュウさんからすれば仕事で当然のことなのかも知れないが、こんなにも気持ち良く彼のことを他人に話せたのは初めてで、私は妙な高揚感に包まれていた。
『こんなに奥手そうなお嬢さんが、酒の勢いとは言え迫ったんだねぇ。
迫られた男は果報者だ』
「そ、その点は私もあの時の自分は、本当に自分だったのかと思うくらいで。
今思い返すと何でそんな凄いことが出来たのかと、ふと思い出しては恥ずかしさで穴に入りたいと思う事すらあります」
『それだけ必死だったんでしょ?』
「多分・・・・・・。
彼も、凄く途惑ったと思います。
仕事先で、それもただの部下と思っていた相手に。
こんなことに彼を引き込んだことは、本当に申し訳無いと思っていて」
『引き込んだ?』
「普通の家庭を持つ人に、不倫させてしまったことです」
『彼が、君が不倫に引き込んだって言ったの?』
「いえ、そんな事は一度も。
私を気遣っているのかと」
『うーん』
「あの、何か?」
『彼は相当仕事できる人なんだね』
なんとなく話題をかわされたような気がしたけれど、彼のことを話せるのがとにかく嬉しくて私は続けた。
「はい!
中途採用なのにもう既に幹部候補として、次は花形部署に異動じゃないかって言われてます」
『へぇ、そんなに仕事出来るならうちに欲しいなぁ』
「そういえばリュウさんは社長さんなんですよね?」
『そうだね』
「ベンチャーとかITとかですか?」
『まぁそういう系統かな』
「その、リュウさんは不倫したことありますか?」
『ん?今してるけど?』
「えっ?!」
私が思い切って質問したことが簡単に返されて驚く。
それも今不倫してるって。
『あれ?意外かな?』
「い、いえ、社長さんとか忙しいのにどうやってそんな時間をと。
ご家族も居るんですよね?」
『居るよ。子供も居る』
「お子さんも居るんですか?!」
『おや、彼は子供は居ないのかな?』
「はい、共働きでそういう余裕は無いとかで」
『ふーん、それは飢えていたでしょうに』
「はい?」
『仕事の出来る男はね、往々にして性欲が強いんだよ』
「そ、そうなんですか?!」
『割と常識だと思うけどな。
経営者とかまぁバリバリ仕事してる男は、相手にする女性が一人じゃ足りないよね』
「足りないんですか?!」
『いちいち驚いてて新鮮だねぇ』
確かに驚きすぎてしまっていた。
だって驚く内容ばかりで。
私は、すみません、と謝ると、可愛くて良いよなんて言われ、顔が熱くなった。
「リュウさんはその、不倫してどれくらいですか?」
『きっと君は僕のしている不倫が最近で、相手も一人とか思っているだろうけど、僕は結婚前からそういう女の子は数名いるし、今も進行形で二人いるよ?』
「えぇっ?!
トラブルにならないんですか?!そんな同時になんて」
既婚者と不倫した、その事にただ負い目を感じて孤独にすら思っていた私に、突然遙かに上級者が現れて驚いた。
まさかこんな人が本当に居るだなんて。
『全員、僕が既婚者で妻を愛していて妻と別れるつもりは無いということを、みな理解した上で僕の猫になった子達だからトラブルは起きないよ。
そもそも僕も相手は選ぶからね』
猫・・・・・・。
紳士そうに思えるリュウさんが話すことは驚く内容ばかりなのに、それに何故か嫌悪感は抱かなかった。
それは私も不倫をしているからかも知れないが、なんとなくそれとは違うような気がした。
「相手の女性は全員独身ですか?」
『そうだね』
「みなさん美人ですか?」
『僕は皆を可愛いと思っているよ』
「やはりモデルとかアナウンサー的なお仕事の女性ですか?」
私の質問に、耐えきれないかのようにリュウさんは笑い出した。
『きっとドラマとかそういうの影響で、僕が美人達をはべらせてるイメージを持ってる?』
「そうです」
そういうとリュウさんはまた笑い出した。
その声は楽しそうで聞いていて嫌な気分には一つもならない。
最初から彼は、私を馬鹿にするような雰囲気を感じなかった。
声だけだからなのか、余計にそういう物を感じ取れる気がする。
『おっと、そろそろ時間だね』
「ずるい!」
『逃げる気は無いよ。
聞きたいならまた今度質問においで。
でも本来君がこのカフェに来た目的である、自分の事を話すのも忘れないようにね?』
楽しそうな声で言われ、気がつけばリュウさんが知りたくて話がしたかったことに気がついた。
「はい、また1時間で予約します」
『えぇ、どうぞ』
まるで爽やかな笑顔が思い浮かぶような声で通話は終わった。
彼と食事に行く時にはいつもとてもスマートに対応してくれるけれど、なんだかそれよりもリュウさんは遙かに手練手管を知り尽くした人のようで、話しながらドキドキしてしてしまう。
「やっぱり社長さんなんだもん、お仕事出来ると女性の扱いも慣れているんだろうなぁ」
私は感心しつつ、ドキドキしている気持ちがなかなか抑えられないまま次の予定を入れた。
*********
「楽しそうだね」
コピー機で書類のコピーを取っていたら、ふいに後ろから課長に声をかけられた。
違う意味で驚きそうなのを隠し、ちょっと驚いた振りをして普通に答える。
「そうですか?」
「例のおっかけのせいかな?」
後ろの方から、ぶっ!という笑い声がして振り向くと、先日更衣室でおっかけの話をした同僚達がいた。
「そ、それはあまりこういう場所では」
周囲を見回し戸惑い気味にそう言うと、課長はほどほどにねと言って、おかしそうに笑って去っていった。
「遊ばれてるね」
「あそこで吹き出さないで下さいよ。
というか課長にバラしたんですか?酷い」
私がそういうと、さっき吹き出した同僚がにやりと笑った。
「お気に入りの林さんが他の若い男に夢中で、課長も面白くないのかも」
「え?どうしてそうなるんですか!?」
思わず焦ってそう言うと、にやにやしつつ彼女は言葉を続ける。
「だって課長、林さんには優しい顔するもの」
私はすぐに言葉が出なかった。
そんな事知らなかったし、以前と課長が私対する態度なんて変わらないと思っていた。
まさか他の人からそんな風に思われていたなんて。
どうしよう、変な勘ぐりを周囲がしだして課長の迷惑になってしまったら。
私は内心もの凄く焦ってきた。
「まさか!課長は誰にだって優しいじゃないですか」
「そうかなー気のせいかなー」
「からかって遊んでますね?」
「うふふ、じゃぁそういう事にしておいてあげる」
面白そうに私を見ると、彼女は仕事に戻り、私は印刷物を持ってその場を離れた。
自分の席に戻り未だ心臓がどくどくしている。
不倫がバレてしまう恐怖が襲ってきて妙な汗が浮かんできた。
早く彼と話がしたい。
こんな不味い話、すぐに伝えなければならないのでは無いだろうか。
しかし彼はここの所仕事が忙しく、次のデートの予定も立てられなかった。
会社内で二人だけで会うのはどの場所であったとしても禁止にしていたし、連絡は専用のSNSを使っていたが使う時はかなり気を使っていた。
とりあえず私はお昼に外に出た時に、こういう指摘をされ、心配している事をSNSで伝えた。
その夜家に居るとSNSで彼から連絡が入り、今電話が出来ないかとの事だったので、すぐにOKのスタンプを押して返す。
彼から電話がかかってきてすぐに出る。
「お疲れ様です。もしかしてまだ会社?」
『お疲れ様。
そうだよ。まぁここは会議室で誰もいないから安心して』
「あの、ごめんなさい、あんな内容送って」
『いや、これは俺の失態だ。
無自覚にやってたんだろう、今後は気をつける』
「うん、こっちも気をつける。
でもその、実はそんなこと聞いてまずいと思いつつ嬉しかったりしたの」
『そうか、この頃会えていないからね。
なら今度会うときには思い切り甘やかしてあげるから』
「・・・・・・うん。
まだ仕事があるんでしょ?
早く済ませてお家に帰ってあげて」
『ここの所ずっと0時過ぎだったからなぁ、そうするよ。
気遣いありがとう。じゃぁ』
通話が終わっても顔がにやけてしまう。
こんなことがあって幸せだと思わない訳が無い。
私は早くリュウさんにこの話がしたかった。
『言うねぇ、その彼氏』
彼との電話での事を報告したら、楽しそうにリュウさんは答えた。
「まずいことだなと思いつつ嬉しくて」
『それはそうだろうね、特別って事だから』
特別。
その言葉を口に出し、顔がだらしなくなってしまう。
会社の話をして、リュウさんのお相手はどんな女の子だろうかと聞きたくなった。
いや以前から気になっていたけれど。
「リュウさんの彼女さん達は会社の人ですか?」
『はは、まさか。
自分の雇ってる子達には絶対手は出さないよ。
面倒なことになるからね、それこそ君達のように』
「そ、そうですよね・・・・・・。
じゃぁ、その彼女さん達とはどうやって知り合ったんですか?」
『色々かなぁ。
こういう仕事してると色々な人と会うから』
「そうだ!前回聞けなかった相手の女性達の話を是非詳しく!」
『おや、覚えていたか、残念』
リュウさんの声は全く残念そうじゃない。
むしろずっと私を面白そうに観察している感じだ。
「やっぱりモデルとかそういう美人な方々ですか?」
『先に言っておくと、僕はイケメンとかでは無いからね?』
急に真面目な声で言われ、私は思わず吹き出した。
想像ではきっと格好よくスーツを着こなし、どんなときでも余裕在る表情で社長室にいそうな気がする。
『ということで僕の外見目当てでは来ない。
要は中身で勝負というとこかな』
「社長さんなら近づく女性は多そうですね」
『それは否定しない。
けどね、僕の彼女たちは、そういうのに興味のない子達ばかりなんだ』
「そうなんですか?」
『そう。
そういう肩書きに興味のない子を落とすのが僕の楽しみの一つ』
「なんか悪趣味ですね」
思わず呟いて、しまったと思った。
段々張っていた緊張が解けて、するする口に出てしまっている。
失礼なことをして嫌がられたのではと思ったのに、向こうからは軽い笑い声が聞こえた。
『強いて言えば、狩りをする男の本能だとでも思って欲しいかな』
「うわぁ」
『そういう君も狩られた獲物でしょうに』
「えっ?」
リュウさんの突然の言葉に驚く。
駆られた獲物、宿り木カフェに行き着いたことだろうか。
それとも彼とのことを勘違いしているのだろうか。
「それって不倫の事ですか?
いえ、あれは私が強引に迫って」
『例の初めての夜、彼は避妊具を持っていたんだよね?』
「え?はい、そう言えば」
『おかしいと思わなかった?
何故持っているのか理由を聞いたことは?』
「いえ、何も・・・・・・。
初めてでしたしそういうものなのかなって。
そもそも疑問に思ったことも無かったので、理由も聞いたことは無いです」
また向こうからは押し殺したような笑い声が続いていた。
私には何が何だかさっぱりわからない。
『そうか、彼も酷い男だな』
「リュウさん、さっきから意味がわからないです」
揶揄われたままで、私は流石にムキになったように言った。
ごめんね、と言うリュウさんの声は笑うのを我慢しているようだった。
『あのね?
彼はずっと前から、君を狩りのターゲットにしていたんだよ』
「・・・・・・え?」
『彼は転職組だっけ?
前の会社でも食べていたかもしれないね、慣れているところを見ると』
私は呆然としていた。
狩りのターゲットって何?
課長が前の会社でも私にしていたようなことをしていた?
『聞いていると僕に近い部分がある。
だから彼の事が、考えが割ととよくわかるんだよ。
彼は君のことが気に入って、君の方からけしかけるように罠を張ってじっと待っていたのさ』
「まさか・・・・・・」
『普通部下との出張で避妊具持参するかな?
あわよくば君としようと万全の体制で臨んでいたんだよ。
さて、彼女はこのパターンだとどうでるかなって、心底楽しみに過ごしていたと思うよ?』
「そ、それは私の仕事ぶりを認めていた訳じゃ無いって事ですか?
したいから、なんか落としやすそうな女だから、あのプレゼンに同行させたってことですか?!」
思わずどんどん声が大きくなる。
私は彼に仕事ぶりを認められてプレゼンを任されたのだと思っていた。
それが身体目的で安く見られていたとしたなら、私はどうすれば。
『勘違いしないでね』
落ち着かせるような声が聞こえた。
『彼は君の仕事ぶりを認めているよ。
聞いていると出世にどん欲であるようだから、そこは分けているだろう。
まぁ、これは僕の話だけど、必死に頑張っている子で自己評価が低かったり、あまり褒めて貰える機会が無くてまだまだ伸びるのにもったいない、という子がいると、育てたくはなるね。
そういう子を振り向かせて、僕がどんどん自信をつけて仕事で伸びたり、女性として美しくなっていくのを側で見ていると本当に嬉しいし楽しい。
彼女たちが自信の源になるよう、自分もイイ男であり続けようと生きる活力になるんだ』
最後は嬉しそうにそう話すリュウさんの言葉を聞いて思いだした。
「そういえば彼が、私のおかげでエネルギーをもらえてるって言ってました」
『だろうね。
もちろんそこには、オスとして若い女の子を抱けている事と、自分が可愛がっている子に慕われているほどの自分であることに喜びもあるんだけども。
ようは君に呆れられないように努力しようと思える、そういうのが活力になるタイプなんだろう。
やはり、僕に近いね』
「男性ってお金や地位が活力になるんじゃないですか?」
『あぁそれは当然。
だからもっと欲しくなるのさ、自分はどこまでやれるのかって。
仕事も出来て、家族もいて、彼女も居て、全てを満足させる、最高だろう?』
リュウさんは、さらっと凄い事を言った。
私は全く知らない人種と話しているようで、なんだかわからなくなっていた。
私なんて日々の仕事でヘトヘトだった。
彼との関係が始まって私に癒やしを、女性としての満足感を与えてくれていると思う。
それが大切な幼なじみを無くし、誰にも言えないイケナイコトだとわかっていても、怖いくせに私にはまだ止める勇気なんて無い。
だけれどリュウさんはこんなにも自分がしていることを、まるで誇りのように話しているように思える。
それは罪悪感との狭間にいる私には、同じ不倫をしていても信じられない部分だった。
「なんというか、リュウさんみたいな人ってほんとに存在するのか疑問に思えてきました」
『証明しろと言われると困るけど、君が知らないだけで僕のような事をしているヤツなんてそれなりにいるよ。
まぁ君には刺激が強すぎるかも知れないけれど、僕は今の生活がとても気に入っている。
こうやって獲物になった可愛い女の子とも話せる訳で』
何故か、ネットの向こうの見たことも無いリュウさんが、私のすぐ目の前で何か獲物を狙う男性のような笑みを浮かべているような気がして、ぞくり、とした。
『おっと、怖がらせたかな。
いけないいけない、つい狩りモードが』
「そんな恐ろしいモード、切っておいて下さい!」
『ごめんね、つい』
「ついじゃないです!
なんかぞくりとしたじゃないですか!」
『おやおや、本当に彼に良いように仕込まれているようだ』
「なんか彼を凄い生き物みたいにしてませんか?」
『そうかな?今度聞いてごらん?
実は前から私を狙っていたんですかって。
あぁ、ただそれで彼の寝た子を起こすようになっても僕は責任を持てないけれど。
それに』
「そ、それに?」
『きっと君に親しい男が出来たことに気がつくだろう。
嫉妬心を酷く煽ることになるから、そのあたりも覚悟して行動してね?』
本当にリュウさんは楽しそうに話している。
むしろ話してきたら面白そうなのに、って感じだ。
彼に聞いてみたい。
聞いてみたら、一体彼はどんな反応をするのか。
「でも嫉妬なんて、あの彼がするでしょうか?」
『そうだね、一度はそう見せないようにするかも。
でも間違いなく闘争心に火をつけることになるからね。
我慢してやっと手に入れた獲物を、今じっくり独り占めして味わっているんだ。
それに他のオスの匂いなんかついてたら、それはまずいだろうねぇ』
「いや、単にここで話しているだけですし」
『匂いというのは比喩だ。
ようは君の脳内に、自分以外のオスがいることが許せないのさ』
「それは、リュウさんもそうだからわかるんですか」
『そうだよ』
段々彼とリュウさんが重なって感じてくる。
彼が私に嫉妬してくれるのかも知れない。
いつも心だけは私の方が大きく思っているように思えている。
だけどもし煽ることが成功すれば、それは彼が私をどう思っているのかが分かるわけで。
『・・・・・・今、煽ってみたいと、思っているだろう?』
ゆっくりとそう言われ、図星を疲れた私は思わずごくりとつばを飲み込んだ。
『いけない子だね、自分から罠にはまりに行くなんて』
本当に余裕ある笑みで、楽しそうに笑うリュウさんを勝手に想像する。
もしもリュウさんに出会ってしまったのなら、私はあっという間にこの人の罠にはまり、その手へ落ちてしまいそうだ。
「私、実際にリュウさんに会わないで良かったと思います」
『そうだろう?
ここのシステムは非常にありがたいよ、お互いにとってね』
*********
私はずっとリュウさんの言葉が気になっていた。
彼は本当に私を狙っていたのだろうか。
知りたい。
結局私はその欲求に勝てなかった。
久しぶりのデート。
いつものように食事をし、ホテルに入った。
彼から降り注ぐ口づけを味わったあと、私は切り出した。
「実は聞きたいことがあるの」
私の真面目な顔と声に彼はきょとんとしたあと、お互い並んでソファーに座る。
私は少し俯いた後、意を決して彼を見た。
「あのね?最初の時、ゴム持っていたよね?それは何故?
もしかして・・・・・・私を狙っていたり、したの?」
最後、怖くなって目を彼から背けてしまった。
気のせいだ、自意識過剰だと言われるのが怖くなったのだ。
だけど少し時間をおいて、笑い声が聞こえる。
私は驚いて彼を見た。
「なんだ、てっきり俺の気持ちを知っていたものと」
目を見開く。
どういう事だろう。
「え、気持ち?
もしかしてあの夜よりずっと前からってこと?」
「そうだよ」
「じゃ、じゃぁあのプロジェクトに選抜されたのは・・・・・・」
「それは勘違いしないでくれ。
仕事はプロ意識を持ってやるよういつも言っているだろう?
まぁ2回目の出張は完全に自分の下心で泊まれるように日程を組んだだけ。
そもそも君の仕事の部分は切り離していたよ。
そして最初のプレゼンは君だからこそ任せたんだ。
出張で泊まることに決まったときは、あわよくばと思っていたことは認めるよ」
にっこりとそう言い放った彼を呆然と見る。
全てリュウさんの言ったとおりだった。
急に、もしかしてリュウさんが彼なのではと思えてくるほど重なってくる。
じっと彼を見つめていたら、彼の目が細まった。
「で、君にそんな事を吹き込んだのは誰?」
「えっ・・・・・・」
「今まで何も疑問に思っていなかった君が、突然そんな事を言ったんだ。
誰かに指摘されたんだろう?
で、そんな事を君が信頼して話すことが出来る相手、男だね?
それをそんな風に指摘できる男って俺の知ってるやつ?」
「あ、その」
「なんだか嫌な感じがするんだよなぁ。
相当心から信用しきっているだろう?その男の事を。
そうじゃなきゃいつも慎重な君が誰かに話すわけが無い」
「あ、あの」
「さて、今からじっくり吐いてもらおうか、俺の知らないその男の事を」
彼はにっこりと微笑んでいる。
ゆっくりと近づく彼の顔を見ながら、全身の血の気が引く音が聞こえた。
くっくっくっとヘットフォンの向こうで、ずっとリュウさんは笑っている。
「本当に散々だったんですって・・・・・・」
彼の嫉妬心は驚くほどのものだった。
私は翌日声が嗄れ、身体中が筋肉痛になった。
彼は日頃から鍛えているというのは伊達ではないようで、年上なのに一切翌日疲れていなかった。
『で、『宿り木カフェ』の事を彼に話してしまったと』
「その場でスマホをチェックされました・・・・・・」
またむこうから笑い声が聞こえる。
『で、彼はサイトを見てなんて?
やめろとは言われなかったでしょ?』
「そうなんです!
てっきりやめろと言われるのかと」
『そもそも始めた理由を伝えたんでしょ?』
「はい、その点については彼が謝ってました。
彼のせいじゃないのに」
『まぁ誰にも言えないのはきついし、彼にもそれは責任があるから当然だ。
で、やめないで良い理由を彼はなんて言った?』
「規約を見て、納得したようでした」
『あはは、まぁ一応そういうことにしただけだよ』
「一応?」
『彼は僕と同じで、狩る事に楽しみを覚えるタイプだ。
それもじっくりと待ってる時間も楽しめるほどの。
だから、君がここに来て僕と話をしていたって嫉妬はしても止めることはない。
今度は僕から君を奪い返す楽しみが出来たのさ。
自分の事だけで君が一杯になれば勝ちだからね。
むしろこのサイトは、危険な愛のスパイスくらいに感じてるだろう』
今までなら彼とリュウさんとは時々重なって見えることがあったとしてもやはり違うと思っていた。
だけれど彼も認めたのだ、おそらくそのネットの彼は自分と似ているのだろうと。
そのせいで、リュウさんの言葉が彼の言葉のように聞こえてしまう。
「前の会社でもそうだったか聞いた?」
『忘れていました。
というかそれどころじゃありませんでした』
やはり笑い声が聞こえる。
少ししてリュウさんが話し始めた。
『僕はね、可愛がってる女の子達が綺麗になって自分の元を離れていくのが嬉しいんだ』
「え?」
『ある程度すると、彼女たちは自分から離れていくんだよ。
喧嘩して別れるとかじゃない、満足して、今度は自分の幸せを掴みに歩き出すんだ。
僕はあくまで原石を磨く職人みたいな者で、美しくなった宝石が高い額で良い客に買われるのを見ると僕も満足する』
「そ、そういうものですか?」
まさか不倫というような関係で、そんな別れ方が、終わり方があるなんて思わなかった。
『僕は彼女たちのおかげで良い男であり続けようと努力できた。
彼女たちはそんな僕に愛されることで自信をつけ、美しくなった。
僕を踏み台にしてステップアップしてくれるなんて、そんな嬉しい事は無いじゃ無いか』
ヘッドフォンの向こうから聞こえるリュウさんの声は、本当に満足そうだ。
『・・・・・そろそろ僕とカフェで過ごす時間も終わるね』
「そう、ですね・・・・・」
彼の事を沢山初めて話せた人。
リュウさんと話さなければ、自分が彼から狙われたいたなんて知らなかっただろう。
でも、それがまた私に自信をつけてくれたのだ。
『確かに不倫は道徳的にも問題だし、いざとなれば全てを失ったり民事上の責任も問われる』
急に真面目な声で話し出したリュウさんの言葉を、はい、と答え私は耳を傾ける。
『でも好きな人と両思いになれるなんて人生で早々にない。
くだらない男に何度もひっかかるより、君が尊敬し憧れた男にそこまで夢中にさせた君は凄いんだよ』
「そんなほめ方、初めてされました」
そういう見方もあるんだ。
夢中になってくれているかはわからない。
だけど彼と出会え、過ごせている時間は幸せだと思う。
『君もわかっているように、この関係は長くは続かない。
周りも気がつくほど君は魅力的になってきているのだろう。
きっと君に想いを寄せる男だって現れているのかも知れない。
そして彼が離婚することはない。
なら、少しずつ、意識を外に向ける頃合いだ』
そうはっきりと言われ、急に、怖い、という感覚が襲ってくる。
『怖いかい?』
「・・・・・・はい」
『でも十分お互いに高めあえたはずだ。
もしも彼がそれを許さないのなら、それは筋違いだ。
彼は絶対、君を選ばないのだから』
どくん、と心臓が掴まれた。
そうだ、それをわかっていたはずなのに、もうかなり二人で過ごしていることで、時々忘れていなかっただろうか。
二人で会う時は、私が唯一になってほしいと。
それくらいは許されると思ったけれど、それはどんどん欲深くなっていくのだろうか。
「そろそろ、巣立ちの時なのでしょうか」
『少なくともどこかで巣立たないといけないね』
「リュウさんは相手にそう言われた時、寂しくないですか?」
『そうだなぁ。
寂しくない訳じゃ無いけど、僕は彼女たちに妻という位置は絶対にあげられないから、巣立つ様子が無いようならむしろ飛び立つように仕向けているからね。
その後の報告も彼女たちはしてくれるし、辛い時はいつでも声をかけるように言っている。
アフターケアという訳じゃ無いけど、一度可愛がった以上責任を持たないと』
「なんだか不倫なのに変な話ですね」
『確かにね』
「本当に奥さんにしたいと思った人はいませんか?
要求してきた人は?」
『どちらもないよ。
女の子を見る目には自信があるんだ。
というか人を見る目は自信があるよ。
こういう仕事で伸びているのもそういうのがあってこそだし』
「そんなリュウさんの一番になるなんて凄いですね、奥様」
『僕にはもったいないくらい素晴らしい女性だよ』
「でも不倫するんですね」
『そこに山があると登りたくなるじゃないか』
「意味が分からないです」
私が呆れた声で言うと、ほんとにね、と笑い声が聞こえた。
「彼が別れたくないと言ったらどうしよう。
いやそんなことないのかな」
思わず呟く。
面と向かってそんなことを言える自信はまだない。
それに、簡単に手を離されるのも寂しい気がする。
それは単に肉体関係だけ結べればそれで良かったと突きつけられる訳で。
『彼が本当に僕に似ているのならきっと寂しいながらも見送るし、その後仕事に影響させることもしないだろう。
でももし彼が君に不条理な執着をするのなら、そこまで夢中にさせた君の魅力を自分の中で褒めながら、目一杯振ってあげなさい』
とても優しい声でリュウさんはそう後押ししてくれた。
私はどうしたいだろう、どうされたいのだろう。
「まだ自分の中で怖い気持ちと戸惑いがあります」
『そうだろうね。
でもね、これはきっかけだと思えばいい。
巣立つ時を僕から聞くために出会ったのだと』
「・・・・・・元々は幼なじみを失った事が発端だったんですけどね」
『それは仕方ない、君がしたことの罰だ。
彼女だっておそらく傷ついただろう。
真面目で純潔に見える親友からそんな言葉を聞いたんだ。
自分の気持ちを一方的に理解して欲しいとぶつけてしまったのは、君が反省すべき点だね。
でも君は人としても女性としても彼に出会って成長出来た。
幼なじみのことはその分の経費だと思いなさい』
「・・・・・・はい」
リュウさんの言葉って凄い。
多くの女性が彼によって磨かれたのかと思うと、彼女たちが羨ましく思ってしまった。
『そろそろ時間だね』
「リュウさん」
『ん?』
「色々とありがとうございました。
リュウさんって彼女たちにとってリアル宿り木カフェみたいですね」
笑いながらそういうと、笑い声が聞こえてきた。
リュウさんの笑い声は優しくて、時に意地悪に聞こえて。
だけれど決して私を見下すこともなく、優しく寄り添ってくれた。
最後に彼が言った言葉も、全てが私への優しさ故だってわかる。
こんな凄い人に出会えたことも、きっと私は幸運だったのだろう。
『こちらのお客様にも、彼女たちにも喜んで貰えるスタッフでいられるように精進しなければ』
「ふふ。
私も頑張って巣立つ準備します」
『そうだね、まずは準備だ。
君が素敵な未婚の男性と出逢えることを祈っているよ』
「はい!リュウさんもほどほどに」
笑い声が聞こえる。
リュウさんの笑い声は大人だったり子供だったり、話していて本当に楽しかった。
『それはなんとも。
・・・・・・では、さようなら、素敵なお嬢さん」
「・・・・・・はい。
リュウさん、さようなら」
通話終了の表示がパソコンに出て、私はヘッドフォンを取り外した。
これは彼から巣立つための出会い。
私はきっと彼に包まれ、やっと大人の女性として自信を持って歩けるようにしてもらったのだろう。
怖いけど、少しずつ外の男性に目を向けていかなければならない。
彼の唯一の席に座ることが出来ない以上、私が選ぶ道は一つしか無いってわかっていた。
ただ、甘い時間に捕らわれてそこから抜け出す勇気が無かった。
そのきっかけを、宿り木カフェのリュウさんがくれたのだ。
私は、残りの少なくなったコーヒーのマグカップを持つと、一気に飲み干した。
*********
彼にこの事を話したらどんな反応をするのだろうか。
もしかしたらすぐさま話もしてくれなくなるのだろうか。
急に態度が変わってしまうかもしれないと、不安ばかりでとても怖かった。
私は勇気を出して彼に、折り入って話がしたいと連絡した。
会うのは怖いから電話でと思ったのに、彼は頑なに、会うまで話をしないで欲しいと言った。
ようやく二人きりで会えることになったその日、車で出かけることになった。
途中話し出そうとしたら止められ、行った先でとまた止められて話すことは出来なかった。
もしかして、怒って山奥で置いておかれたらどうしようかと変な心配が横切る。
そんなことをする人では無いってわかっているのに、不安ばかりが増してしまう。
着いた場所は、街が見下ろせる高台だった。
あちこちにカップルが見受けられるが人のない場所まで誘導されると、彼は私に向き合った。
「好きな人が出来た?」
「え?」
「別れを言いに来たんだろう?」
困ったように言う彼に言葉を上手く出せない。
「俺のせいで大切な幼なじみを無くして、ずっと誰にも言えない関係を続けさせて申し訳無かったと思ってる。
本音を言えば渡したくはないけれど、そんな事を言える立場じゃないからね」
あぁリュウさんの言ったとおりだ。
きっとこうやって、リュウさんも巣立つように切り出したりしたのかもしれない。
「違うの」
じっと彼は続きを促すように私を見ている。
「もうそろそろあなたから巣立つ時期なのだろうと思って」
「好きな人が出来たのではなく?」
「出来るのならあなた以上に好きになれる人に、これから出会いたいと思います」
私がそう言って笑うと、彼は大きく息を吐いた。
「そうか。
例の怪しげな彼の入れ知恵か?」
「まぁそうです」
「彼は俺がどうするって言った?」
「まさにさっきのような発言で。
彼なら巣立ったとしても仕事には影響させないだろうとも」
その言葉に彼は笑った。
「きっと彼に会えば同族嫌悪で喧嘩してしまいそうだ」
「本当に似てると思うよ?」
「俺もそう思う」
「あの」
「ん?」
「前の会社でも不倫していたの?」
上目遣いで聞けば、彼はにやりと笑った。
「残念。それは彼の期待を裏切るようだが、君が初めてだよ。
そして、もうこんな事はしないと思う」
「本当に?」
「そうそう危険を冒してまでモノにしたい女性になんて出逢えないよ。
それに・・・・・・こうやって別れを言われるのは、身勝手だけど辛いとわかったしね」
そう言って彼は私を抱きしめた。
「巣立っても、何かあれば相談に乗るよ、一人の上司としてね」
「うん・・・・・・。
凹んだ時は美味しい物でも食べに連れてってね、上司と部下として」
「あぁ、わかった。
君に恥じない上司としてこれからも頑張ろう」
辛い。
気を抜けば泣き崩れてしまいそうだ。
初めて本気で好きになってそして愛してくれた人は、既に他の女性のものだった。
苦しいけれど、私は頑張って笑顔を浮かべた。
「私に幸せをくれてありがとう」
「こちらこそ。
君と過ごした時間をきっと俺は忘れない」
私達は笑って手を繋いで、夜景のよく見える方に歩き出す。
あと少しだけ、最後のデートを楽しむために。