風太もさして興味はない様子だった。書き取る速度も速いから、あっという間にノートを埋める。次の教科のノートを自分から取り出した風太に、まだするのかと聞くのも野暮な気がして、日が傾くまで続けた。
「土日で課題終わらせたら、月曜日は来なくていいか」
「絶対に来て。冗談面白くないよ」
来ないだなんて言わせない。課題が出たから大丈夫、ではなくて、それは今学期の残り日数は登校した上でだと叱り口調で言うと、先生と同じことを言っていると苦笑する。
風太が何の理由もなく学校を休んでいるわけではないことはわかっている。風太にとって、町の中を歩き回って一人で過ごす時間が必要だというのなら、それを尊重してあげたい気持ちだって持っているけれど、わたし達は学生で、そこにはルールや規律がある。
「そんな顔しなくても、ちゃんと来るよ。わかってる」
自分がどんな顔をしていたのかわからない。無理強いをするつもりはないのだと今更言えなくて、いくつかノートを貸そうとしたら、月曜日に見せるんだからいいよと突き返された。優しさを一回りも二回りも大きく張り巡らせてくれる様を目の当たりにして、自分の先の発言を恥じて悔やむ。誤魔化すように、手早く荷物をまとめた。
学校を出て、海沿いの道を歩く。風太の家はこの道を真っ直ぐに辿った先の小高い丘の上にある。家屋がひしめき合うこの辺り一帯からは外れた、端的に言うと近寄り難い感じのいかにもな豪邸。
住んでいる世界が違うように思えるけれど、風太は案外庶民的だ。物怖じしないし、警戒心も薄い。だから、この町の誰とでも打ち解ける。つい先程には開店前の酒場に集まった漁師のおじさん達に絡まれていた。
17時のサイレンが響き渡る。山間にこだまして尾を引く音を聞きながら、夕焼け空を眺めた。胸がざわめくほどの赤を深い藍が追い立てていく。
「よく焼けてるな」
「そんな、パンみたいに」
「明日は晴れるだろうな」
明日は、風太は何をするだろう。家にいて課題漬け、なんて姿は想像ができない。課題をする時間も配分しながら、心の赴くままに出かけるのなら、わたしも町を歩けば出会えるだろうか。そんなことを思いながら、自分の家へと続く分かれ道に着く。
「じゃあ、また来週」
「うん、また」
「だから、そんな顔しなくても行くって」
たぶん、沈んだ表情を出してしまっていた。教室を出る前のやり取りから、風太の自由を取り上げているような心地がずっと胸に残っていた。
風太と別れてから、いつものように神社に向かう。真新しいお供え物が置いてあった。今日の出来事はいつもに比べて多かったと思う。代わり映えしたから。風太のことばかりを並べて満足したら、腰を上げる。言いたいことだけ言って去っていく日が続いていた。明日はお供え物を持って来ようと決めて、家への道を引き返す。
今日はおばあちゃんが在宅のようで、玄関の鍵が開いていた。明かりもついていて、居間の戸を開けるとおばあちゃんはテーブルに物を広げて家計簿をつけていた。手書きの文字で丁寧に。読み書きをするときだけはつけている眼鏡を外し、月深、と第一声。
声の感じでわかる。何か怒っているなあ、と。心当たりがいくつかあることに頭を抱えたくなりながら、戸の縁に背をもたれて耳を傾ける。
「月深、朝起きたら風呂の戸は開けておいて。洗い物は自分が使ったものを片付けるくらいできない?⠀今朝はお弁当を作らなかったんでしょう。お昼は何を食べたの?」
「ごめん、気をつける」
「お昼は?」
「パンにしたよ。購買の。レシートもらってない」
これに加えて、暖房を消していなかったとかはないことに胸を撫で下ろす。わたしが全面的に悪い、というか普段から言われていることをしていなかったから素直に謝った。
おばあちゃんはとりわけ食事には厳しい。栄養バランスにはそこまで口うるさくないけれど、三食しっかり食べなさいとは昔から言われてきた。昼休みの購買は混み合っていたし、おつりがないように支払ったからレシートを断ったけれど、しっかりもらっておけばよかった。
「もういい?⠀先にお風呂に入ってくる」
「何なの、その言い方」
「いいって、いちいち。普通に言ってるだけ」
「月深」
何か言われる前に、逃げる。そそくさとその場を立ち去れば、おばあちゃんは追いかけて来ない。余程のことをしなければ。
いつもこうだ。言い合いような、小競り合いをするたびに、なあなあにしてしまう。口で勝てる相手ではないし、勢いに任せて良くない言葉を口にしてしまうことも嫌だった。
おばあちゃんが家主なのに、おばあちゃんがいると息苦しい。自由を奪われているように感じる。この家で過ごすにも、ルールや約束事がいくつも存在する。
不自由で、息苦しい。
でもそれを、生きやすく崩すような勇気はなかった。