席に座って、風太と呼びかけるとすぐに振り向いた。おはよう、と口にする風太に、おはようの時間は過ぎてるよと返す。
「数学、終わっちゃったよ」
「みたいだな、制服乾かなくてさ。間に合わなかった」
「ちゃんと洗った?」
「いや、どうせ週末に洗うし。塩ぱらぱら落としてるけど気にすんな」
風太が歩いたあとに塩が散らばる様を想像すると笑えた。午後の授業は英語とLHR。久々に姿を見せたこともあって、英語ではバンバン当てられていた。ノートは空っぽ、教科書も開いているだけなのに、ほとんど正答してしまうのだから意味がわからない。
一年の締め括りという内容のLHRでは、まず毎日登校しろよと同じグループの男子に茶化されて、来年の目標にすると適当に返していた。
放課後、ある程度人が減ってから教室を出ていこうとする風太を呼び止めた。
「風太、一緒に帰ろう」
「ああ、いいけど、先生に呼ばれてるから待ってて」
「お説教じゃない?」
「そうかも。叱られて帰ってきたら慰めて」
先生に呼ばれていると聞いて、もしかして留年の話でもされるのではないかと身構えるけれど、わたしがそれを知っていることを知られるわけにはいかない。
別室に向かう姿を見送り、机に突っ伏すと、間断なく後ろから肩をぎゅうっと押されて呻いた。
「肩は良くなったの?」
「千夏。うん、今朝よりはだいぶ。まだちょっと気になるけど」
「今日は寝違えないようにね。誰待ちしてる? 一緒に帰らない?」
「風太を待ってる。千夏こそ部活は?」
「体育館、調整中で使えなくて休みになったの。でもそっか、先約があるなら仕方ないね」
男子バレー部、といってもほとんど同好会のような部活のマネージャーをしている千夏と普段は帰宅時間が被らない。せっかくの機会だけれど断って、少し駄弁ってから別れた。
千夏を見送って五分が経つころに、風太が教室に戻ってきた。出ていくときには持っていなかった冊子を手に、顔をしかめている。
「なにそれ」
「課題。全部提出して、授業のノートも書いたら今学期の評価つけられるってさ」
「いつまでなの?」
「一週間。この量なら、まあ……平日サボ、休めば終わるか」
「なに本末転倒なこと言ってるの。サボるとか言わない。課題は家でできるでしょう。ノートは放課後になら、わたしのを写していいから」
ひとまずは危惧していた留年を回避できる、ということだろうか。そういう話が本人に伝わっているのかは不明だけれど、与えられた課題を提出すれば評価はしてもらえる。風太は頭がいいから、課題に関しては心配いらないだろう。あとはこれまでの授業のノート。これもわたしの物であれば貸すことができる。
俄然気合いの入るわたしに風太は嫌そうな顔をしていたけれど、妥協はしていられない。
早速一教科、ノートの書き写しを強制した。ぶつくさ言いながらも向かい合わせた机の上で、わたしも自分の課題を広げる。
教室にはもう他に人はいない。シャーペンの走る音、エアコンの音、お互いの息遣い。風が窓を揺らす音。風太といると、時間の流れをとても遅緩に感じる。
「そこ、間違ってる」
「え、どこ」
「ここ。月深それ、かけ算だけど。大丈夫?」
「ただのケアミス。代入は合ってるし」
「でもテストだとバツだろ」
軽口を叩き合うのも何だか楽しくて、集中なんてできやしない。さらさらと流れる風太の文字は、存外整っていて読みやすい。普段から、文字を書いていないとこうはならないと思う。
ふと、廊下がにわかに騒がしくなる。別のクラスの数人が教室の横を過ぎていく。何が楽しいのか大声で笑っていて、その中の一人と目が合う。
背が高くて目立っていたということもあるけれど、何より、その一人はわたしと風太を目に止めてぴたりと歩みを止めた。他の数人はそのまま過ぎ去っていって、廊下には彼だけが残る。窓越しに見つめているのに目が合わない気がして、風太を見る。視線を辿って気付いた。彼が見ていたのは、わたしではなくて風太だ。
見つめているというより、向こうは風太を睨んでいるようだった。しばらくそうしていると、先を行っていた誰かに呼ばれたらしく、あっさりと視線を逃して去っていく。
風太は廊下を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「さっきの、絢斗だよな」
「そうだね」
「なんか、感じ変わった? 襟足刈り上げてるのすげえかっこいいけど、前と顔が違う気がした」
「眉を整えたんじゃないかな。それだけで印象が変わるし」
稲見絢斗。小学校、中学校が一緒だった同級生の一人だ。小学校はこの町にいくつかあったのと、通学に時間はかかるけれど、高校は遠く離れた学校に通う人も多いから、ずっと一緒の人は実はそんなに多くない。
絢斗は他の人よりはよく知っているというだけで、特段仲がいいわけでもなかった。去年もクラスは違うし、顔を合わせても別に話をするわけじゃない。連絡先だって、知らない。