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「十時ですね。授業に来ないと評価がつけられない。日数もそろそろ危ないでしょう」
それは、学校で偶然聞いてしまった先生たちの会話。
クラス担任と数学教師は面談の日取りだとか、本人の意思がどうだかと話を進めていた。要するに進級が危ういということだ。
十時風太。同級生で、小中高と一緒の幼なじみ。
素行が悪いわけではないけれど、教師陣に目をつけられていることは知っていた。風太は週に2、3日しか学校に来ない。今週はもう木曜日なのに、月曜日に見かけたきり今日も登校していなかった。
本当は、すぐにでも探しに行きたかった。授業を抜け出すなんて大層なことはできなくて、ほとんど頭に入らないまま最後の授業を終え、ホームルームの前に抜け出した。
もうすぐ12月の寒空の下を駆け回る。決して広くはない町なのに、ただ一人を見つけようとすると簡単には捕えられない。道の行き止まりにはいつも、透き通った青が待っている。そこに赤が差して淡く交わるころに、探していた人を見つけた。
吸い込んだ息が唇を滑るとき、ぴりっと裂けるような痛みが走る。切れた唇の血はすぐに乾いて、冷たい風を肺いっぱいに吸い込む。そうして、声を張り上げた。
「風太!」
縁に赤錆の目立つ桟橋に寝そべり、靴を脱いで投げ出したつま先で海面をゆらゆらと掻きながら、瞼を伏せていた。
風太に近付いて頭上に影を落とし、もう一度呼びかけると、閉じていた瞼が震える。
ぼんやりと彷徨う眼はわたしを見つけるとゆっくりと瞬きをして、つぐみ、と唇が動く。
「裾、濡れてるよ。捲らないから」
紺のズボンは海水を吸ってふくらはぎの辺りまで色を変えていた。当の本人は気にしていない様子で、浸していた足を持ち上げて膝を立てる。ぺたっとついた足裏からコンクリートにじわじわと水が滲んでいく。
「家に帰ったら、ちゃんと乾かすんだよ」
「干しときゃ乾くかな」
「海水に浸かっていたんだから洗わないと」
「そうか。まあいいや、明日は」
わたしが目を細めたことに気付いたのか、風太は不自然に言葉を切った。明日は、何と言うつもりだったのだろう。
ここに来るまでにいくつも用意したはずの誘い文句たちは霧のように散って、手札は何も残っていない。
風太の横に座って、靴と靴下を脱いだ。ざらついたコンクリートの上に足を乗せて、そっと、海面に下ろそうとしたとき、素早く身を起こした風太がわたしの足を掴む。
「ちょっと、何?」
「何って、月深が何してるんだよ。何月だと思ってる」
「風太は浸かっていたのに」
「馬鹿。真似すんな」
物言いにむっとして、掴まれた足を強引に伸ばそうとすると、諭すように名前を呼ばれた。その一声に妙な圧があって、渋々足を引っ込める。
枕にしていた鞄からタオルを取り出し、濡れたズボンの裾を握りしめる風太を横目に、こんな時間から沖に出る船が澪を引いて遠ざかって行くのを見送った。
「いつからここにいたの?」
「昼前」
「ずっと?⠀船のおじさん達に何も言われなかった?」
「ずっといたけど、別に何も。巻き寿司はくれた」
「木吉商店の。海苔がパサパサのやつ」
「そう。口の中の水分全部持っていかれんの。飲み込めないし」
へばりつく海苔の食感を思い出しでもしたのか、風太は声を上げて笑った。珍しいな、と思う。学校で見かける風太は、こんな風に笑ったりはしない。もう一回笑った顔が見られないかと凝視していると、怪訝な表情に張り替えられた。
「で、何の用があって来たんだよ」
「風太を探してた」
「うん、だから、何で?」
何でと言われても、馬鹿正直に風太が留年の危機かもしれないから、とは口にできない。数学の単元、来週から変わるって。明日は総復習って言っていたし、出ておいた方がいいよ。先程霧となったはずの適当な理由が頭の端っこに舞い戻ってきた。急いで手繰り寄せてまくし立てると、風太は勢いに気圧されたのかこくこくと二度頷いた。
「言ったね?⠀明日一限だから」
「いや、何も言ってはいないんだけどな」
「待ってるから」
強引に押し切れば、風太は嫌とは言わない。そういう質なのだと知っていて切り札にするのはずるい気がしたけれど、なりふり構っていられない。風太は返事を寄越さず、こめかみを引っ掻いていた。
ウミネコの鳴き声が遠のいて、吹きすさぶ風のエオルス音が耳を劈く。遠くの海面に魚が跳ねるのと同時に17時のサイレンが鳴り響く。
「月深」
「なに?」
「気ぃつけて」
このサイレンを合図にわたしが家に帰ることを風太は知っているようだった。またねと言い残して風太のそばを離れる。
風太はわたしを呼び止めなかったし、わたしも風太を振り向かなかった。
17時。町が夜に向かって駆け出し始める時間。12月の夕空は深い藍を引き連れて瞬く間に空を塗り替えていく。
木の根を踏みしめて、伸び放題の雑木をかき分けて進む。風太と別れて10分が経っていた。いつもはきちんと整備された道を使うけれど、あんまり遅くなるといけないから近道を選んだ。
小高い丘に聳える、小さな神社。いつも真新しいお供え物が置いてあるのは、この先に住んでいる老齢の夫婦がここの管理をしていて、毎日綺麗に掃除や手入れをしているからだ。
鳥居をくぐり、お社の前に膝をついて両手を合わせる。