星弥が、二か月前から入院した。
 去年までは、家の中で歩く程度ならまだ(こな)せていたが、ALSと診断されてから二年と半年。
 呼吸すら儘ならなくなり、医師に相談したところ、人工呼吸器をつけないとと言われたので、九月から星弥は病院で寝たきり生活となった。
 在宅でも人工呼吸器はつけられるらしいが、何かあったとき、入院していた方が直ぐに対処できるだろうとのことで家族で話し合った結果、星弥は入院することとなった。
 時折様子を見に行くが、もう会話はできない。
 なのでベッドの上に視線入力装置を取り付け、それで会話する。
 ALSなので、体は動かないし声も出せないし呼吸も儘ならないが、脳は正常に動いているのだ。
 だからこそ、視線を用いて文字入力ができる視線入力装置を用いて、星弥とは会話している。


 ◇


 そして十二月。

『ゆくと からだのちょうしは どうだ?』

 入力装置越しに、星弥が俺に話しかける。

「……まぁ、悪くは無いかな」

 体の調子は、悪くない。
 しかし心身二元論は現代に於いては誤謬であるので、心が摩耗しきっている今、何れ体調を崩すのは確実。
 尤も、それもこれもこの愚兄の所為なのだが。

『そうか』

 星弥の首に刺さった人工呼吸器。それの作動する音のみが、二人しかいない病室に響き渡った。

『ごめんな』

 その四文字が、入力装置に表示される。

『おれが おねがいしたばかりに』

 声も出せない。表情も変わらない。
 だが俺には、苦悶や悲哀に抱擁されている様に見えた。

『ほたるは どうだ?』
「どう……って?」
「…………」

 星弥は暫く黙り込んだ。

『げんき か』
「元気に、俺を星弥だと思ってるよ」

 星弥が、少し唸った気がした。
 どうせ気になったのはバレてないかどうかだろう。
 なら、また訊かれるのも面倒なので、もう先に答えてやる。

『そうか』

 暫く、沈黙がこの部屋の中を支配した。

「また来週、クリスマスデートに誘われてるからさ、行ってくるよ」

 今は十二月中旬。
 来週はクリスマスである。
 ただクリスマス当日は人が増えるので、イブに出掛けようという事になっている。

『   いってらっしゃい』

 星弥からしても、複雑な心境だろう。
 自分の彼女が、弟と付き合っているなど。
 嬉しい訳が無い。
 だがしかし、熒の幸せを星弥は願ったのだ。
 尤も、とてもじゃないがこれが最善手だとは、俺には思えない。
 熒を想うならば、死ぬまでともに生きる事が一番良いと俺は思う。
 しかし星弥は、そうは思わなかったようだ。
 一度俺も言ってみた。
 だが、星弥は聞く耳を持たなかったのだ。

「……このままだと、熒と再会することは叶わないよ?」

 否。会わせるつもりもない。
 ここまでやって、最期に甘えるなど、俺が許さない。

『わかってるよ』

 分かっている様で良かった。
 
「是非ともそうしてくれ」

 この日は、この会話を最後に帰った。


 ◆


「……綺麗だね」
「そうだな」

 クリスマスイブ。
 陽も落ち、月光が町を支配する時間帯。
 しかしこの日は、月光よりも電飾が町を彩っていた。
 カーマイン、シアン、マカライト、ジョーヌ、ブラン、アメジスト。
 狭い県道の傍らに植えられた街路樹が電飾に黒く陰る。
 星弥の居る病院とは徒歩十分程度の場所。
 この辺りは、綺麗な割には余り人の来ない場所。
 この町に住む人は大概が知っている場所だが、ここに来るなら電車に乗ってもっと綺麗なイルミネーションを見に行くが為に、毎年ここは空いているのだ。
 
「……受験勉強、どう?」
「どう、って?」
「いや、星弥の志望大学、偏差値高いじゃない? 私との時間が足枷になってないかなって……」
「なってる訳ないだろ。だから別に気にしないで」

 そう言うと、わかったと言って熒は微笑した。
 
「もう三か月後には卒業かぁ……」
「早いね」
「うん、早い」

 熒は思い出に耽って感慨深くなっているのだろうが、尤も俺はどうしてもその様な気になれない。

「私達も、付き合ってそろそろ三年が経つのか……」
「そうだね」
「……ありがとね」

 白い息を吐きながら、熒は言葉を紡ぐ。

「……昔、お祖母ちゃんが死んだときにさ。大好きだったんだよ。だからこそ、小学四年生だった私には、衝撃で。誰かと関わることすら、怖くなってしまって」

 だからその頃の熒は――

「誰かを想う事すら、憚られてしまって」

 熒は俺の顔を除く。

「でも星弥が居たから、私は人を想う事の嬉しさを知った。星弥が居たから、また人を愛せた。だから」

 ありがとね。
 そう言うと熒は、握っていた俺の手を、より強く握った。

「これからも。高校卒業してからも、ずっと隣にいてもいい?」

 もうこれ以上、この口から嘘を吐きたくない。
 今まで幾億回と繰り返した願いを、今になっても唱え続ける。
 もう少しすれば、星弥は死ぬ。
 だからこそもう。正直になっても良いかな。
 
「…………俺、さ」

 三年近く、自分の思いを話すことが無かったが為に、紡ごうにも中々言葉が思い浮かばない。

「俺、さぁ」

 ずっとその言葉を繰り返すしか出来ない。
 熒は少し動揺していた。

「俺……」

 
 ――その時、ポケットに入れていた俺のスマートフォンが震えた。

 
「ちょっとごめん」

 熒に断りを入れてから俺はスマートフォンを取り出す。
 母親からの電話だった。

「もしもし」
 
 電話に出ると。

『雲斗! 病院に来て! 星弥が……星弥が……!』

 俺はスマホを片手に握りながら駆けた。

「ちょ、ちょっと、どこに行くの⁈」

 慌てて熒も駆けだす。

 あの母の慌て様。
 ――星弥の容体が悪化したのか?
 余命は三年と言われていたが、早まったのか?
 確かに、いつ悪化しても可笑しくはない状況だった。
 だからと言って、今か。
 ――星弥。
 クソみたいな頼み事しやがって。
 おかげで高校三年地獄だったよ。
 このクソ兄貴が。
 ――星弥。
 そんで、行き成り死のうってか?
 ふざけんなよ。
 俺の気持ちを考えろよ。
 せめて、この鬱憤だけでもぶつけさせろ。
 じゃないと、気が済まない。
 ――星弥。
 星弥。星弥。
 死ぬなよ。
 勝手に死ぬなよ。
 お願いだからさ。
 生きて、生きてよ。
 鬱陶しい兄貴。
 面倒臭い兄貴。
 死なないでよ。
 ちゃんと、生きてよ。

「星弥!」

 熒が追いかけていることなど気にも留めず、一直線に星弥の病室に飛び込んだ。

「雲斗! 来て……」

 星弥の寝ているベッドの奥に、母は居た。
 しかし、父の姿は無かった。

「……星弥?」

 後ろで熒が絶句する。

「え……星弥どういう事……?」

 熒が俺にそう訊くが、当然答える余裕はない。
 それに俺は、星弥では無いのだから。

「星弥、起きろよ…………」

 首につけられていた人工呼吸器は外され、いつも星弥の頭上にあった視線入力装置も、当然ながら部屋の傍らに寄せられている。
 看護師数人が星弥を囲んで星弥を生かそうと努めているが、何をしているのか理解する余裕すら、今の俺は持ち合わせていない。
 ただ今は、星弥を喪う恐怖が、俺を包み込んでいた。

「いや、星弥じゃ無い……私は、今まで、全部……っ!」

 熒が、その事実に嘔吐(えず)いた。
 そのまま病室を駆け出て、トイレの方へと熒は駆ける。
 俺は星弥の傍らに立った。
 
「なぁ、俺を縛って、俺の三年間全部捧げて。勝手に逝くのか?」

 ――しかしその頼みを引き受けたのは、俺だ。

「ふざけるなよ。生きろよ。生きて、生きて」

 ――だから、星弥が責められる道理は無い。
 
 ――しかし今の俺にとって、そんな事はどうでもよかった。

「愚痴にでも付き合え……」

 看護師の叫ぶ声が聞こえる。
 後ろで母が星弥の名を呼ぶ。
 しかし、俺には何も聞こえなかった。
 果てしない静謐が、俺の耳を、体を、心を、束縛した。
 
 星弥が口をパクパクし出した。

「駄目だ! 星弥!」

 死戦期呼吸。下顎呼吸。
 死の直前に行う呼吸である。

「なんで……星弥ぁ!」

 必死に、必死に、星弥は生きようと藻掻いた。
 口を大きく開けて。
 大量の空気を吸い込んで。
 その体は、意志に背いて生きようとした。
 生きたいと願った。
 しかしその願い虚しく。
 その後も何度も名を呼んだが。
 返事をしてしてくれる事は、終ぞ無かった。


























 
 ◆


























 
 俺は部屋を出た。
 丁度父が病院に到着した頃である。
 仕事の途中だったのだが、星弥の危篤の報せを聞き急いで病院に向かっていた途中、母とのメールで、星弥の訃報に接した。
 顔が涙でぐちゃぐちゃになりながら病室に入る父と入れ替わるようにして、俺は病室を出た。

 
 ◇


 星弥の居た病室を出て廊下を進むと、窓辺にちょっとしたカフェスペースがある。
 そこに一人、熒は座っていた。
 イルミネーションの(まばゆ)い窓の外の景色を、ぼーっと睥睨していた。

 俺は熒の対面の椅子に座る。
 ……暫く、沈黙が続いた。

「……雲斗?」

 かすれた声で、熒は言った。
 熒の目を見ると、赤く腫れていた。
 袖も、服も、襟も、濡れていた。

「…………うん、何?」

 そうだ。俺は雲斗なんだ。星弥では無い。

「……今までも、ずっと、雲斗だったの?」
「…………うん」
 
 再び、永劫とも思える静謐がこの場を支配した。

「私の手を握っていたのも、雲斗?」
「うん」
「私がキスしたのも、雲斗?」
「うん」
「私の隣をいつも歩いてくれたのも、雲斗?」
「うん」

「私がずっと想っていたのも、雲斗?」

 いつの間にか熒の目は、俺の瞳を穿っていた。
 その瞳には涙が浮かんでいる。

「……いや、熒が愛したのは、星弥だ」

 そう、俺は雲斗であって、雲斗では無かった。

「熒の手を握ったのも雲斗だし、熒がキスしたのも雲斗だし、熒の隣を歩んでいたのも雲斗だ。でも、それは雲斗だが、俺ではない。ちゃんと熒は星弥の手を握ったし、ちゃんと熒は星弥とキスをしたし、ちゃんと熒は星弥の隣を歩んでいたし」

 ――せめて熒の記憶の中で、星弥と共に過ごした時が生きていて欲しい。

「ちゃんと熒は、星弥を想ってたよ」

 熒は両手で顔を覆った。

「違う。違う。私は星弥を想えていない。想う資格がない。だって、私は星弥を、ちゃんと見られていなかったってことでしょ? だから気が付かなかった。星弥は、雲斗は、ちゃんと私を見てくれていたのに、私は何も……」

 だから言っただろう?
 星弥のやり方は間違えているって。
 絶対こうなるんだよ。
 誰も幸せになんかならない。
 誠実に、正直に。
 好きな人なら、ちゃんと隠さず、直向きでいないと。
 想いを欺瞞して、迷惑な正義感振り翳した所で、結局悲哀しか生まれない。
 そして悲哀からは、何も生まれない。
 熒はちゃんとお前を想っていたぞ?
 それをお前は蔑ろにして。
 無視して、無視して。
 三年近く無下にして。
 熒の想いを唾棄して嬉しかったか?
 これで、満足なのか?
 何の悔いもなく、死ねたのか?
 否、そんな訳は無いだろう。
 なら、何を感じた?
 淋しさか?
 悔しさか?
 お前が死んだ今、その感情の汚泥は全て、熒が背負っているんだ。
 お前が背負わせたんだ。
 お前が背負わせたんだ。
 俺は贖わない。
 誰も贖えない大罪だ。
 せめてあの世で悔いていろ。
 心の底から、悔いているがいい。


 ◇

 
 その時ふと、窓の外を眺めた。
 先ほどまで見惚れていた美しい電飾が、道行く人々を装飾している。
 月が雲に隠れたからか。
 夜も遅いが為に町が暗くなったからか。
 その電飾の数々が、星に見えた。
 カーマイン、シアン、マカライト、ジョーヌ、ブラン、アメジスト。
 数々の色を持つ星屑が、道に沿って天の川の如き様相を形成している。

「……熒」

 今言う事では無い。
 それは重々分かっている。
 だが、今を逃せば、もう二度と言う機会は無いと思った。
 ――どうにかして、熒とずっと、関わっていたかった。

「熒、好きだ」

 ずっと、ずっと。
 ずっと好きだった。
 今は、熒は“俺”を見てくれている。
 星弥だと欺瞞した俺ではなく、雲斗を見てくれている。
 だから、ずっと心の中に留めていた感情を、伝えられる。

「今言うべき事で無いと重々承知している。熒が傷心しているのも承知している。でも、熒が“俺”を見てくれた今しか、無いと思ったんだ」

 しっかりと、正面を向いて言わなければいけない。
 決して隠す事はしてはいけない。
 決して嘘を言ってはいけない。

「ほんとすまん。でも、好きなんだ」

 告白など、一度もした事がない。
 だから、とても不恰好な、拙いものになってしまう。
 しかし、これが今の俺の精一杯だった。
 星弥の真似をする事でしか熒の隣を歩けなかった無力な俺の。
 精一杯だった。




「――ごめん」




 そう言い残して、熒は星弥の居る病室へと歩き始めた。
 想い虚しく、熒が愛したのは、雲斗では無く、星弥だったのだ。



 眼下では今も、無数の星屑が瞬いている。
 




 ◆





 ――“君”と、あの夜空を眺めたかった。

 満点の星屑と、細やかな夜凪。
 満月も良いが、三日月でも良い。
 敢えて少し雲隠れている月でも、趣深い。

 ――だが“君”の顔は、隠れて欲しく無い。

 もう一度見たい。
 この目で。
 その笑顔を。

 もう一度感じたい。
 この耳で。
 その声を。

 しかし積層雲は星を失い。
 しかし積乱雲は光と別れ。


 ――雲は、自分を欺瞞した。