――“君”と、あの夜空を眺めたかった。

 満点の星屑と、細やかな夜凪。
 満月も良いが、三日月でも良い。
 敢えて少し雲隠れている月でも、趣深い。

 ――だが“君”の顔は、隠れて欲しく無い。

 もう一度見たい。
 この目で。
 その笑顔を。

 もう一度感じたい。
 この耳で。
 その声を。

 しかし積層雲は現実を覆い。
 しかし積乱雲は現実を破壊し。


 ――夢を、欺瞞した。















 











 




 


 ――――『星屑欺瞞」――  ――
















 














 



「……綺麗だね。星弥(せいや)君」
「そ、そうだね…………」

 目の前を、二匹のエイが通り過ぎる。
 硝子に閉じ込められた、オメガブルーともウルトラマリンとも見える大宇宙。
 無数の惑星(さかな)が、青く白く、煌めいている。
 相変わらず小宇宙とは矮小であると感じてしまう。

 ――だが俺の心も、硝子に閉じ込められた小宇宙(ミクロコスモス)なのだ。

 これからもずっと、別の小宇宙に囚われる。
 人を宇宙と称すならば、この社会は謂わば多全宇宙(マルチバース)で。
 しかし今の自分は、ただその内の一つにすら成り得ていない。ただある一つの矮小なる衛星なのかも知れない。
 酷く滑稽だ。反吐が出る。
 しかしまぁ、たった三年、兄の傀儡となるだけなら。それくらいなら良いかと引き受けてしまったのが間違いだったかと、今更ながら思ってしまう。
 勿論、可愛い女子と共に過ごせるのなら、本来なら心底嬉しいことであるが、此度は別だ。
 この心の最奥に沈殿する汚泥が、蟠りとなって、血液となって、何れ血肉となるまでが、心底恐ろしくて堪らない。
 ……恐ろしくて、堪らないのだ。

「初めてのデート、水族館にして正解だったね」
「……そうだね」

 そう言って笑う彼女は、目の前のどの星屑よりもよっぽど燦然と輝煌していた。
 しかし俺は、そうだと首肯するしかできない。

「……私ね、昔から水族館が大好きなの」

 彼女は、その瞳を星空へと向けた。

「なんか、星みたいじゃない? 水槽の中って。照明に照らされる銀鱗。鮮やかな空色の水槽。ここからその水面を見上げるとさ、星屑が散ってる様で、綺麗じゃない?」

 フィクションならば、「(ほたる)の方が綺麗だ」とかしょうもない美辞麗句を宣うのだろうが、当然俺がそんなことを言うことが出来る筈も無し。
 これもまた首肯する他、俺は何もできない。

「……何時か、本当の星空を。星弥君と一緒に見たいな」
「そうだね……」

 星弥も、(ほたる)も。
 綺麗な名前だと、ついつい憧憬の念を抱いてしまう。

「ってか、さっきから『そうだね』しか言って無くない? どうしたのよ、今日」
「い、いや。ちょっと。女の子とデートだなんて初めてだから、緊張して」
「……中学生の頃とか、雲斗(ゆくと)君と一緒に出掛けたりしたじゃない」
「いやでも、二人きりじゃなかったし……」
「うーん……あっ! ほら、小学生の時に、二人で買い物に出かけたじゃない! あの、近所のショッピングモールとか」
「いやでも、小学生の頃だし……あんまり覚えてないや」

 実際は覚えてないのではなく、知らないのだが。

「まぁ私も、あまり覚えてないや」

 覚えていたら面倒だった。

「それに……私も緊張してないって言ったら嘘になるし…………」

 (ほたる)は、その両頬を少し赤らめた。
 相変わらず、綺麗だ。
 全く、羨ましい。

「デートなんか…………初めてだし」
「そうなのか。てっきり(ほたる)のことだから、こういう経験豊富なんだと思ってた」
「んなわけないでしょ! 彼氏だって、星弥が初めてだし……」
「そ、そうなんだ………………」

 こりゃ星弥も喜ぶ訳だ。

「話を戻すけどね」

 次の水槽に移るべく(ほたる)は歩き出す。
 
「星が好きなの、昔から。でも、星ってもう見えないじゃない、町が明るすぎる所為で」

 両手を腰の後ろで結んで歩く(ほたる)は、足を止めて、振り返り、俺の目を、その瞳で貫いた。

「だから何時か、何処か静かな場所で。星弥君と二人で、ゆっくり星空を眺めていたい」

 真面目な顔で、しかしその口角は少し上がっていた。
 微かに、微笑んでいる。
 

「そうだね。いつか一緒に見られるといいね」

 ……よくもまぁ、平然と嘘を吐く。
 叶わぬ夢だと存じている身の上で、飄々と()かせる。
 自分が怖い。他人(ひと)が怖い。
 段々と、日に日に増幅していくこの思いが、軈て自分の全てを瓦解させてしまいそうで、怖い。
 ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと。この世の万象に、畏怖している。
 
「だね! 約束だよ!」

 体全体で俺の方を向いて、(ほたる)は破顔した。
 その笑顔を見るたびに、心が徐々に呪いに蝕まれてゆく様。

「それじゃあ、行こっか」

 そう言って(ほたる)は、そっと俺の手を握った。

「えっ……」

 思わず手を引きそうになったが、何とか握り返した。
 
「…………っ」

 ふと(ほたる)の方を見ると、その顔は先程より紅潮していて、可憐な彼女が少し嫣然として見える。

「い、行こうか…………」

 俺がそう返すと、(ほたる)は小さく頷いた。

 
 ◆

 
 ただ、ずっと心の最奥に沈殿する汚泥。
 俺は、俺を欺瞞している。