透き通ったうみを見ると、考えない?
ここに沈んで死んでいければどんなに素敵だろう、って。
揺らぐ水面をじっと見つめながらわたしは想像する。
わたしはこの中に沈んでいく。わたしのすべてに、この綺麗なみずが流れこむ。
わたしはそこで初めて満ちる。わたしのなかは外とつながる。わたしはみずの一部となる。それってすっごく綺麗な終わり。
新鮮なくうきを吸うように、思いっきりこの綺麗なみずを吸い込めたら。
いいえ、そんなことこれっぽっちもしなくたって、勝手にとくとくとながれてきて欲しい。わたしは自然になるの。綺麗じゃない?
わたしは真っ赤なワンピースのスカートを靡かせながらパラソルの下に敷いたレジャーシートの上に座るきみに言ったけど、そんなおかしなことを言ったってきみは困ったように笑うだけ。
賛同もしなければきみってちょっと変だよなんて首をすくめたりもしない。きみのそんなところはいいと思うよ。ただちょっぴり自分がないなぁと思ってしまうところはあるけれど。
わたしはおしゃべりするのをやめて、わたしをじっと見ていたきみの隣に座る。
きみは少し戸惑ったように身じろぎをした。なに、そんな今更動揺しちゃって。そうおちゃらけてきみをつつくと、きみはかおを真っ赤にしてうつむいた。
わたしは丁寧に口紅を塗った鮮やかな赤色の唇を指でそっとなぞる。わたしはきっと鮮やかな色が似合うの。わたしが濃い人だから、薄い色じゃあ見た目とずれちゃう。悪いギャップ。それにわたしも鮮やかな色は好き。だって綺麗な海はだいたい暖かい。暖かい海にいるのは色鮮やかな熱帯魚。熱帯魚は色が鮮やかでしょう?だから好きなの。それに熱帯魚は周りに自分が不味いと思わせたくておしゃれするんだってさ。それっていいよね。付き合いたい人、つまり本当に自分をわかってくれる人以外は寄せ付けないの。ほんと素敵。わたしも熱帯魚がよかったかも。
わたしはひとりでおしゃべりを続ける。大丈夫、おひさまにあたってぼーっとしているようにしか見えないきみがちゃんと話を聞いてくれてることなんてとっくに知っている。
うみに沈むなら、お化粧はとらないといけないかしら。うみのみずで滲んで、ブッサイクになっちゃうかも。そこで初めてきみが口をひらく。うみもきっと、空気を読んでくれるんじゃない?それにお化粧が取れたって紅愛さんは素敵だよ。わたしはにやりとした。きみはいつも臆病なくせに、こう言う時だけ真顔で言うの。天然タラシ。
ふふふ、ありがと。わたしは軽やかに笑って立ち上がる。毎日お手入れしている髪の毛が海風になびく。今日調子がいいの。ううん、お気に入りのきみに会うからいつもより丁寧にやったの。振り返って笑ってみせるとまた照れたようにはにかんだ。
そう、わたしにとってきみは、友人でも、恋人でもなくて、お気に入り。ちょっとからかってやりたい、遊びたい、そんな、わたしのお気に入りのおもちゃみたいになっちゃったきみは運が悪かったなぁとおもう。かわいそうだなぁって。他人事みたいに。もちろんきみにはおもちゃだなんて言ってないけど。でもきみはわかってる気がするんだ。わたしがきみのこと、弄んでるだけだって。やってみたかっただけのそんなキャラを演じて遊んでるだけだって。そうやってわかってても、きみはわたしのことが好きでしょうがないの。ほんと、かわいそう。別に意地悪なんかじゃなくて、ただそうおもう。
サラサラしてて、それでいてびっくりするくらい熱い砂を踏む。日焼けに気をつけていろんなスキンケアをしている真っ白な足が砂に埋まってぬくぬくする。でも熱くてまたパッと足を持ち上げる。わたしはパタパタと海の方に走っていき、濡れて灰色になった砂を踏む。じゅわっとしていて、ひんやりつめたくて、なめらかな砂。足についていた砂が濡れて足にまとわりついてほんのり嫌。わたしはしゅわしゅわとした白い泡に足をつける。波が引いたり来たりを繰り返して、わたしの足に塩からいうみのみずがかかった。
ぼーっと足にかかる波を見て、それからもう少し向こうに目をやる。エメラルドグリーンの、透き通ったうみ。みずぞこが見える、綺麗なうみ。太陽の光をキラキラと反射して、網目状の模様がみえる。ねぇ、みて。すっごく綺麗。無邪気な子供みたいにしてはしゃいで振り返ると微笑ましい、を体現したかのような笑みできみは答える。ね。集光模様って言うんだって。しゅーこーもよう?へぇ〜!
わたしは話しながらどんどんうみの方に歩いていく。膝までみずに浸かったところでわたしはストンとひざから崩れ落ちてみせた。もちろんわざと。
ほら、やっぱりきみが慌ててこっちに走ってくる。さっきあんな話したから、自殺でもするかと思った?うん。焦った。へへへ〜。ごめんね?みずに浸かりたかったの。わたしは肩までみずに浸かったまま、頭を持ち上げて逆さまにきみをみる。いたずらっぽく笑えばもう大丈夫。もう、ほんと心臓に悪いからやめてよ、なんて笑って許してくれる。
わたしはオフショルダーの服から出た肩を撫でる。みずの中では鮮やかな赤のワンピースがゆらゆら泳いでる。スカートの中を波が通っていく。まぁ、どうせわざわざ自殺なんてしなくたって死ぬんだから、大丈夫だよ。冗談半分で言ってやると、きみは眉をさげて少し泣きそうな顔をした。そう、そう言う反応。するってわかっててやってるわたし、すごく性格悪い。しょうがない。わたしはそう言う人。わざと心配させたり自分を惜しまれることで自己肯定感を感じる、そんなやつ。
ねぇ、なんで突然、こんなところに。ここにきて最初にきみが言ったのはその言葉。ちょっと困ったように。そうだよね、とわたしはのんびり言った。だって何にも言わずに行こうって言って連れてきたんだもん。
あのね、わたし。もうすぐ死ぬんだってさ。びっくりじゃない?きみは何にも言わなかった。きみは多分びっくりしすぎて何にも言えないだけ。それでやっと思考が回ってきてもきっと俯いてわたしの言葉を待ってる。いつもおかしなことを言ってるからきっと嘘だろうとか、いやでもなんか、嘘っぽくないとか、いろいろ考えてるんだろうな。
わたしは振り向かずに続けた。なんか、よくわかんないけど、気がついたらそんな設定になってた。お医者さんがわたしに言った時だけ覚えてるけど。あと、二週間だって。急すぎない?きみはやっぱり何にも言わない。わたしがわざと経緯を隠してるのか、本当にぼんやりしてたら気がついたらなんてこともわたしならあるかもしれないとか考えてるに違いない。
なんかよくわかんないからとりあえず死ぬまで何しよっかなーって思って。とりあえず仕事なんの引き継ぎもせずに辞めてやった。もう死ぬんで〜なんでブラックジョーク付きで。そしたら職場の人に陰口めっちゃ言われたけど、まあ気にしてない。わたしのことを嫌いな人ってたくさんいる。そりゃこんな変なやつだから、当たり前だろうなとは思う。だから日頃の行いでしょ、とか天罰だわ〜とか、ほんとに死ぬのかな嘘じゃない?言われた。へぇ、神様とか信じちゃう感じなんだ。素敵ね。そんなふうにしかおもわなかった。わたしはわたししか信じないけど。でもわたしが死ぬってのは正直よくわからない。誰かと間違えたんじゃないかなと思う。だってわたしってちょっとやそっとじゃ死ななそうでしょ?まぁとりあえず美人薄命ってことにしとけば都合よく捉えられるからそう言うことにしとこーとはおもうけど。
わたしなんかよりきみの方がずっと深刻そうにしててなんだか笑える。ふは、とちょっと息を吹き出してからわたしはまたのんびり話す。それでね、今日の朝起きたら、うみ行ってやろ、とおもって。ついでにどうせ死ぬんだしやらかしてやろーと思って、とりあえず銀行からお金全部下ろしてみたの。そしたらちょっとくらい悪いことしよ、っておもって、アルくんを連れ出したってわけ。
アルくんは今日もちろん、お仕事がある。でもわたしに強引に誘われちゃって、仮病を使わざるを得なくなった。かわいそうに。でもアルくんはいつも声が弱々しいから部長は全く疑ってなかった。アルくんは名役者かもしれない。
…ほんとに死んじゃうの?
うみに浸かったまま水平線を見る私に、きみはびっくりするほど消えそうな声で言った。アルくんの方が死んじゃいそうだ。わたしはそうらしいのよね〜と他人事みたいに言う。わたしはうみにたぷたぷと浸かっているとなんだか波に揺さぶられて落ち着かない気がして、不安になって、ついでに言うとちょっと寒くて、立ち上がった。ざばっと波がはねて、わたしのワンピースはペトリとしぼんで、からだにはりついた。ワンピースに砂がつくのに構わずわたしは砂浜に寝っころがった。冷えていた体にじわじわと熱が染みてくる。
ザザ〜…ザザ〜…と波の音がする。太陽にジリジリと焼かれる感覚がした。耳元を風が踊りながら去っていく。あぁ、生きてるな、っておもった。そしてわたしには似合わないな、ともおもった。
お腹空いてない?適当にそう言って、砂浜にある寂れた小さな海の家で、腰の曲がったおじいちゃんから焼きそばを買った。ん、おいしい!そうだね。それ以外なんにも話さないまま食べ終えた。べっとりとしたソースの塩辛い味が口にまとわりついていた。きっと私の歯には青のりがついてるだろう。私のカバンには全財産が入ってるのに、なんでこんなチープなもの食べてるんだろ。何食べたっていいのに。わたしはなんとなく散財してやりたくて、でもこのオンボロ小屋のおじいさんがそんな高いもの売ってるわけなくて、かき氷を全種類買ってみた。きみは何してるのと呆れて笑ったけど、食べるのには協力してくれた。思ってたよりシロップのラインナップは充実していた。正直ちょっと賞味期限心配だけど、どれも新品の瓶を開けていたから多分大丈夫だろう。どうせ他に客も来やしないからと、あまったシロップは瓶の蓋をして渡してくれた。7本も瓶持てないわと言ったらお店の奥から発泡スチロールがボロボロと崩れているクーラーボックスを引っ張り出してくれた。ぶきっちょに見えて結構世話焼きで優しいおじいちゃんだ。ありがとう!と孫みたいに言って、わたしは発泡スチロールの上に7個もかき氷を乗せてパラソルの下に戻った。いちご、みかん、れもん、めろん、らむね、ぶるーはわい、ぶどう。口の中で転がすようにひとつひとつ言っていく。虹みたい。ちょっと色が違うのはご愛嬌。
ねぇ、食べきれるかなぁ。食べれなさそうならなんで買ったの。えー大人買いってやつ?かき氷でやることじゃないでしょお腹壊すよ?大丈夫だよーこんな暑いんだし。ってか全部味一緒なんでしょ?夢ないこと言わないでよ〜。喋ってる間にもどんどん溶けてる。慌てて2人でかき氷を食べた。つめたくて、あまい。夏の味だ。熱で火照った体にしみる。
最後ジュースになってたかき氷を飲み干して、無事かき氷を食べ終わった。一個一個はそんなにおっきくなかったから、まぁギリギリいける。わたしはゴミを捨てに行くついでに色褪せた自販機でサイダーを買った。まだ飲むの?と笑われたから違うし〜とおちゃらけて返す。そしてクーラーボックスの中にペットボトルを入れた。なにしてるの?あとでのお楽しみ〜。
わたしは砂に埋もれたシーグラスを見つけて、拾い上げた。砂まみれ。洗おう。足場の悪い砂の上をむぎゅむぎゅと走っていき、これまた砂まみれの古びた蛇口を思いっきり捻った。砂水が出てくるかと思ったけど、意外とちゃんとした水が出た。ドバドバと無駄に勢いよく出した水の中にシーグラスを突っ込む。あっという間に全部流れ落ちた。いいな、表面がツルツルないい子はちょっと洗うだけで綺麗になる。溝だらけで複雑になっちゃった子には敵わない芸当だ。わたしはシーグラスをじっとみて、それからポケットに仕舞った。
ぼーっと海を見ているきみの後ろに膝立ちし、かぷ、とハグをした。あーるくん。耳元でそっと囁く。甘い艶やかな声で。吐息混じりに。きみはビクッとして真っ赤になった。ふふ、かーわいい。わたしはスーッときみの腕に指先を滑らせる。ひょろひょろみたいに見えるけど、意外としっかりしてるよね〜。なんか筋トレとかしてるの?…ほんのちょっとだけ。ふーん。腹筋割れてたりする?…い、一応ちょっとだけ。へぇ、かっこいい!耳元で話しながらそのまま手の甲側からきみの指の間に私の指を入れ込んで、きゅっと握る。きみはすっかりガチガチになっていた。免疫のない子って、揶揄いがいがあってほんと好き。かわいいもん。
ねぇ、そろそろ次のスポットに行きましょうか?ふざけて丁寧に芝居がかって言ってやるときみもノってくれた。いいですよ。どこですか?それは秘密です。そうですか。パラソルとレジャーシートを畳んで担ぎ、クーラーボックスと一緒にわたしの愛車のトランクに乗せた。わたしのワンピースとおんなじ、真っ赤な車。つけた名前はルージュ。フランス語で赤。和製英語で口紅。
どこのかわからない適当な洋楽メドレーを流して、ノリのいい曲が来たら音がわかりもしないのに適当に鼻歌をうたってリズムを取る。きみも時々目を閉じて少し楽しげにしてる。知ってる曲なのかなとおもった。きみならインテリ感あるし、洋楽に詳しそうだもんね。
2、3時間くらいドライブして、着いたのは山。山の上の小さな展望台。車のドアを開けた途端肺に入り込んできたのは、水分をたっぷり持ってそうな、フレッシュな森の空気。ここは?と聞かれたから山って答えた。いやそれは知ってるよ。海ときたら山でしょ?うーん…そうかぁ…。でもほら、景色、綺麗でしょ?うん。だからいいじゃん。そうだね。
ちょうど夕日が沈む時間だった。もうそんな経ったの?早くない?早いね。穴場なのか、ほとんど人がいない。まぁそもそも平日というのはあるだろうけど。下にはミニチュアみたいな街が敷き詰められていて、ひどくちっぽけだった。
街がだんだん薄暗いベールに覆われていく。建物はオレンジ色に染まって、黄色に光る。空は高貴な紫になって、わたあめみたいに細く裂かれた雲は薄く桃色に染まって、そしてやがて全部濃紺にのまれた。ずっとみていたはずなのにハッと気がつけば景色がまるきり変わっていて、夢から覚めたような心地だった。
そろそろ、帰ろっか。うん。
ドライブしながらわたしは話した。ねえねえアルくん、車持ってるっけ?ううん。持ってない。ルージュいる?え。いやほら、死んじゃうじゃん。わたしの愛車を中古に売り出しなんてしたくないわけよ。いらない?…あ、じゃあ、もらう。戸惑ったように、でもわたしのノリが軽いからそのノリに対応するようにさらっと言った。おぉ〜やったね。んじゃわたしが死んだら、ルージュをよろしく〜。
少し山を降りていくと、霧が出てきた。おっと、こりゃまずいぞ。どうするアルくん。どうするなんて言われても。羽瀬川有瑠!男の意地を見せろ!なんか使い方色々違くない?…とりあえず止まるしかないんじゃないかな。えぇ〜突っ切れないかな。無理でしょどんどん濃くなってるよ。車中泊かぁ〜。しょうがないよ。あ、なんかここ、空き地じゃない?きみが指を指したカーナビには道路から外れた謎のスペースがある。おぉ〜じゃあとりあえずここ目指そー。霧が晴れるまでの雨宿りだー。雨じゃないけどね。細かいことはいいんだよアル隊員。いつから部隊が出来たの。
無事ルージュを空き地に停めた。そして後ろに身を乗り出してクーラーボックスを取り、シロップとサイダーを取り出す。ほら、この中にサイダー入れれば美味しいソーダの完成よ?おぉ〜。…人工色素感半端ないね。もー、そーゆーこと言わないのー。
ソーダを飲むとじゅわじゅわと口が焼けるように炭酸が弾けた。霧まみれの夜の森には似合わないように思うけど、不思議とフロントガラスから入るわずかな車のヘッドライトを吸い込んだ人工的なシロップの色はこの景色に不気味に溶け込んでいた。
アルくんはなんの味が好きなの?いちご、かな。えーだめー赤はわたしの色なのー。いやそんなにこだわり強くないから大丈夫だよ。あ、そう?うん。きみの声がどこかふよふよしていて、気になってきみを見た。ぼんやりとした光に映し出されるアルくんの横顔は、いちごとは関係ないだろうけど少ししんみりした顔をしていて、ちょっとイタズラしてみたくなった。しんとした車の中だと、ほんの少し動いただけで衣擦れの音がやたらと響く。アルくんは気がついてこちらをみた。あ、気づいちゃった。でももう遅いもん。そう心の中でニヤリとして、わたしは彩られた真っ赤な唇を、アルくんの唇に重ねた。アルくんが避ける暇もないくらい、アルくんが何が起きてるのか察する時間もないくらい強引だけど、でも優しく唇に触れた。アルくんの唇は薄いけど柔らかかった。絶対きみはわたしがプレイガールで何百回もキスなんてしてると思ってるだろうけど、これはわたしのファーストキス。誰とも本気になったことはなかった。別にアルくんだって本気じゃないけど。お気に入りなだけ。ただからかってみたかっただけ。わたしはすぐに唇を離して、ポカンとしているアルくんにニッと笑った。
…なんで?
心底わからなさそうに、きみはそう言った。声が震えていて、突然のことにびっくりして、それでいて恥ずかしいのだろうとおもった。なんとなく、しよーとおもったから?…そか。あ、そうだ。ん?わたし非常用セットをルージュに入れてたんだよね。え?おーあったあった。さっすがわたし!グローブボックスからわたしは箱を取り出した。中にはカロリーメイトとビスコ、チョコバー。お菓子ばっかりだよ。そんなことないわよ。カロリーメイトはお菓子じゃなくて栄養調整食品なんだから。はい、どれがいい?え…じゃあカロリーメイト。はいはーい。何事もなかったかのように軽食を食べた。霧が晴れる気配がないので寝ることにして、トランクの隅にある毛布を持ってきて、座席を目一杯倒した。
少しして、きみは寝息を立て始めた。いびきはやっぱりかかないタイプ。寝顔がかわいい。わたしは音を立てないようにそっと車の外に出た。霧の中だけど、ほんの少し足元は見える。砂利を踏んで、少し歩いていくと道の端が見えた。やっぱりここは崖なのね、と小さくつぶやいて、崖っぷちギリギリに立った。ふわっと風が吹いて肌寒さにショールをかき寄せた。
下を向くとどこまでも続きそうな暗闇が広がっている。生命的な恐怖に本能が警鐘を鳴らす。下から吹き上げてくるような冷たい風に、吸い込まれそうな感覚に、ゾクゾクした。恐怖でいっぱいなはずなのに、どこかその感覚にほんの少しの恍惚感が混ざっていて、とびきり甘い毒だった。
わたしはしばらく立っていたけど、ふと思い出して、真っ赤ないちごシロップの瓶を傾けて、ぐっ、と飲んだ。後ろでほんの薄くだけど、砂利を踏む音がした。わたしはニヤリと笑った。唇の端から、紅い、いちごのシロップが少し垂れた。
*********
嫌な予感がして、目が覚めた。
何か違うと隣を見るとそこには空の毛布だけ。口の中に残ったカロリーメイトの粕がざらざらした。慌てて車を飛び出し、辺りを見渡すと少しシルエットが見えた。
思わず走り出しそうになって、でも急に行ったら逃げてしまうんじゃないかと思って、僕は慎重に足音を立てないように近づいた。
「ねえ知ってる?死への恐怖は生の証。こうしてみると、すっごく実感するの。あぁ、大丈夫。死ぬ気なんてないから。ねぇ、どう思う?生という当たり前であるはずのことに恍惚を感じる人類に美しさを感じる?それとも死という恐怖がありながらも生に縋り付くことに醜さを感じる?」
息を呑んだ。バレてた。こちらを振り返らずとも、確実に僕がいるとわかっている話し方で、君は死の底を見ながら話していた。
「ねぇ、怖いよ。でもさ、病院の消毒液臭まみれの冷たいベットで死ぬよりずっといいと思わない?」
初めて、紅愛が震えていた。ほんの少しだけ。でもこちらを振り返った顔は、この場に一番合わないような晴れやかな笑顔だった。
僕はなんにも言えないし、なにも言おうとは思わなかった。
「…帰ろう。もう霧もさっきより晴れてるよ。」
家に、帰ろう。こんな死の淵じゃなくて、あなたが本来いるべき生きる場所へ帰ろう。こんなこと言ったって、拒否されるんだろうけど、と思ったけど。
「うん、そうだね。」
意外なことに君はあっさりと承諾してもう一度下を見ると、くるりと方向転換してこちらに歩いてきた。あぁ、よかった、帰ろう、と思ったその刹那、
パリンッ
「…え?」
振り返るとそこには紅愛が倒れていた。
「紅愛さん?え?どうしたの?」
慌てて駆け寄り、声をかける。何も反応がない。呼吸を確認した。
息は、していなかった。
いや、間違いかもしれない。とりあえず、落ち着こう。
呆然と紅愛を見ているうちに、段々と辺りが明るくなってきた。
嘘つき。二週間後とか言ったのは誰だ。ほんとはわかってたんでしょ。
わかってて、死ぬ話とか、車の話とか、したんでしょ。本当に、計算高い女性だと思うよ貴方は。
紅愛のそばには割れた瓶が落ちていて、紅いシロップがついたガラスのかけらが美しく光っていた。
朝日が、昇った。
********
僕は冷たい君を後ろに乗せて、山を降りた。
君に託されたルージュを初めて運転しながら。
電話がつながったところで救急車を呼び、手遅れだとは思うけど、と病院に送った。
僕はとりあえず、紅愛の家にルージュを停めた。急な話だ。家に駐車場は無い。
バタバタはしたものの紅愛にもともと持病があったことで、僕は殺人を疑われることなく、無事平和に戻った。
そんな中、紅愛の遺言があったらしく、僕の元に送られてきた。遺言なんて、書きそうに無いのにと思ったら、あなた宛のこの一通しかなかったんですよと言われた。
遺言書には、大したことなんて書かれてなかった。
ただ、わたしのものは全部あげる、とだけ。あとはごめんね〜、と言うびっくりするぐらい軽い謝罪くらいだ。
初めて紅愛の字を見て、僕はどういう関係だったのかな、と考えた。字も知らないような関係。でも最期の1日に小旅行に出かけるような関係。
ほんとに全部くれるなら、君の心が欲しかった。ほとんど僕に心を開いてないのは知ってる。もちろん誰にも心を開いたことがないから、多分心の開き方だってわからないんだろうなとも思うけど。
紅愛の家のものを整理して、何もかもが終わったら、1ヶ月後。
僕は紅愛のルージュに乗って、もう一度、海に行った。
車に乗ると、紅愛にされた、最初で最期のキスを思い出す。
その直後に呆然と見た、美しく弧を描く紅い唇も。
僕はハンドルに重ねた手に額をつけた。
愛してた。本当に、愛してた。
嘘つきだけど
心を開いてはくれなかったけど
弄ばれていたけれど
どこまでも作り物だったけど
垣間見える君の寂しさはすごく、美しかった
そんな君を守ってあげたいと思ってた
でも、僕にそんな力は一ミリだって無かった
紅愛が死んで初めて、僕は思いきり泣いた。
びっくりするくらい、海は澄んでいた。
泳ぐ熱帯魚の赤を見て、あれは紅愛かもしれないなんでバカなことを考えた。
オンボロだったあのおじいちゃんの海の家は、潰れて解体されていた。
そこには熱すぎる砂が残っているだけだった。
ここに沈んで死んでいければどんなに素敵だろう、って。
揺らぐ水面をじっと見つめながらわたしは想像する。
わたしはこの中に沈んでいく。わたしのすべてに、この綺麗なみずが流れこむ。
わたしはそこで初めて満ちる。わたしのなかは外とつながる。わたしはみずの一部となる。それってすっごく綺麗な終わり。
新鮮なくうきを吸うように、思いっきりこの綺麗なみずを吸い込めたら。
いいえ、そんなことこれっぽっちもしなくたって、勝手にとくとくとながれてきて欲しい。わたしは自然になるの。綺麗じゃない?
わたしは真っ赤なワンピースのスカートを靡かせながらパラソルの下に敷いたレジャーシートの上に座るきみに言ったけど、そんなおかしなことを言ったってきみは困ったように笑うだけ。
賛同もしなければきみってちょっと変だよなんて首をすくめたりもしない。きみのそんなところはいいと思うよ。ただちょっぴり自分がないなぁと思ってしまうところはあるけれど。
わたしはおしゃべりするのをやめて、わたしをじっと見ていたきみの隣に座る。
きみは少し戸惑ったように身じろぎをした。なに、そんな今更動揺しちゃって。そうおちゃらけてきみをつつくと、きみはかおを真っ赤にしてうつむいた。
わたしは丁寧に口紅を塗った鮮やかな赤色の唇を指でそっとなぞる。わたしはきっと鮮やかな色が似合うの。わたしが濃い人だから、薄い色じゃあ見た目とずれちゃう。悪いギャップ。それにわたしも鮮やかな色は好き。だって綺麗な海はだいたい暖かい。暖かい海にいるのは色鮮やかな熱帯魚。熱帯魚は色が鮮やかでしょう?だから好きなの。それに熱帯魚は周りに自分が不味いと思わせたくておしゃれするんだってさ。それっていいよね。付き合いたい人、つまり本当に自分をわかってくれる人以外は寄せ付けないの。ほんと素敵。わたしも熱帯魚がよかったかも。
わたしはひとりでおしゃべりを続ける。大丈夫、おひさまにあたってぼーっとしているようにしか見えないきみがちゃんと話を聞いてくれてることなんてとっくに知っている。
うみに沈むなら、お化粧はとらないといけないかしら。うみのみずで滲んで、ブッサイクになっちゃうかも。そこで初めてきみが口をひらく。うみもきっと、空気を読んでくれるんじゃない?それにお化粧が取れたって紅愛さんは素敵だよ。わたしはにやりとした。きみはいつも臆病なくせに、こう言う時だけ真顔で言うの。天然タラシ。
ふふふ、ありがと。わたしは軽やかに笑って立ち上がる。毎日お手入れしている髪の毛が海風になびく。今日調子がいいの。ううん、お気に入りのきみに会うからいつもより丁寧にやったの。振り返って笑ってみせるとまた照れたようにはにかんだ。
そう、わたしにとってきみは、友人でも、恋人でもなくて、お気に入り。ちょっとからかってやりたい、遊びたい、そんな、わたしのお気に入りのおもちゃみたいになっちゃったきみは運が悪かったなぁとおもう。かわいそうだなぁって。他人事みたいに。もちろんきみにはおもちゃだなんて言ってないけど。でもきみはわかってる気がするんだ。わたしがきみのこと、弄んでるだけだって。やってみたかっただけのそんなキャラを演じて遊んでるだけだって。そうやってわかってても、きみはわたしのことが好きでしょうがないの。ほんと、かわいそう。別に意地悪なんかじゃなくて、ただそうおもう。
サラサラしてて、それでいてびっくりするくらい熱い砂を踏む。日焼けに気をつけていろんなスキンケアをしている真っ白な足が砂に埋まってぬくぬくする。でも熱くてまたパッと足を持ち上げる。わたしはパタパタと海の方に走っていき、濡れて灰色になった砂を踏む。じゅわっとしていて、ひんやりつめたくて、なめらかな砂。足についていた砂が濡れて足にまとわりついてほんのり嫌。わたしはしゅわしゅわとした白い泡に足をつける。波が引いたり来たりを繰り返して、わたしの足に塩からいうみのみずがかかった。
ぼーっと足にかかる波を見て、それからもう少し向こうに目をやる。エメラルドグリーンの、透き通ったうみ。みずぞこが見える、綺麗なうみ。太陽の光をキラキラと反射して、網目状の模様がみえる。ねぇ、みて。すっごく綺麗。無邪気な子供みたいにしてはしゃいで振り返ると微笑ましい、を体現したかのような笑みできみは答える。ね。集光模様って言うんだって。しゅーこーもよう?へぇ〜!
わたしは話しながらどんどんうみの方に歩いていく。膝までみずに浸かったところでわたしはストンとひざから崩れ落ちてみせた。もちろんわざと。
ほら、やっぱりきみが慌ててこっちに走ってくる。さっきあんな話したから、自殺でもするかと思った?うん。焦った。へへへ〜。ごめんね?みずに浸かりたかったの。わたしは肩までみずに浸かったまま、頭を持ち上げて逆さまにきみをみる。いたずらっぽく笑えばもう大丈夫。もう、ほんと心臓に悪いからやめてよ、なんて笑って許してくれる。
わたしはオフショルダーの服から出た肩を撫でる。みずの中では鮮やかな赤のワンピースがゆらゆら泳いでる。スカートの中を波が通っていく。まぁ、どうせわざわざ自殺なんてしなくたって死ぬんだから、大丈夫だよ。冗談半分で言ってやると、きみは眉をさげて少し泣きそうな顔をした。そう、そう言う反応。するってわかっててやってるわたし、すごく性格悪い。しょうがない。わたしはそう言う人。わざと心配させたり自分を惜しまれることで自己肯定感を感じる、そんなやつ。
ねぇ、なんで突然、こんなところに。ここにきて最初にきみが言ったのはその言葉。ちょっと困ったように。そうだよね、とわたしはのんびり言った。だって何にも言わずに行こうって言って連れてきたんだもん。
あのね、わたし。もうすぐ死ぬんだってさ。びっくりじゃない?きみは何にも言わなかった。きみは多分びっくりしすぎて何にも言えないだけ。それでやっと思考が回ってきてもきっと俯いてわたしの言葉を待ってる。いつもおかしなことを言ってるからきっと嘘だろうとか、いやでもなんか、嘘っぽくないとか、いろいろ考えてるんだろうな。
わたしは振り向かずに続けた。なんか、よくわかんないけど、気がついたらそんな設定になってた。お医者さんがわたしに言った時だけ覚えてるけど。あと、二週間だって。急すぎない?きみはやっぱり何にも言わない。わたしがわざと経緯を隠してるのか、本当にぼんやりしてたら気がついたらなんてこともわたしならあるかもしれないとか考えてるに違いない。
なんかよくわかんないからとりあえず死ぬまで何しよっかなーって思って。とりあえず仕事なんの引き継ぎもせずに辞めてやった。もう死ぬんで〜なんでブラックジョーク付きで。そしたら職場の人に陰口めっちゃ言われたけど、まあ気にしてない。わたしのことを嫌いな人ってたくさんいる。そりゃこんな変なやつだから、当たり前だろうなとは思う。だから日頃の行いでしょ、とか天罰だわ〜とか、ほんとに死ぬのかな嘘じゃない?言われた。へぇ、神様とか信じちゃう感じなんだ。素敵ね。そんなふうにしかおもわなかった。わたしはわたししか信じないけど。でもわたしが死ぬってのは正直よくわからない。誰かと間違えたんじゃないかなと思う。だってわたしってちょっとやそっとじゃ死ななそうでしょ?まぁとりあえず美人薄命ってことにしとけば都合よく捉えられるからそう言うことにしとこーとはおもうけど。
わたしなんかよりきみの方がずっと深刻そうにしててなんだか笑える。ふは、とちょっと息を吹き出してからわたしはまたのんびり話す。それでね、今日の朝起きたら、うみ行ってやろ、とおもって。ついでにどうせ死ぬんだしやらかしてやろーと思って、とりあえず銀行からお金全部下ろしてみたの。そしたらちょっとくらい悪いことしよ、っておもって、アルくんを連れ出したってわけ。
アルくんは今日もちろん、お仕事がある。でもわたしに強引に誘われちゃって、仮病を使わざるを得なくなった。かわいそうに。でもアルくんはいつも声が弱々しいから部長は全く疑ってなかった。アルくんは名役者かもしれない。
…ほんとに死んじゃうの?
うみに浸かったまま水平線を見る私に、きみはびっくりするほど消えそうな声で言った。アルくんの方が死んじゃいそうだ。わたしはそうらしいのよね〜と他人事みたいに言う。わたしはうみにたぷたぷと浸かっているとなんだか波に揺さぶられて落ち着かない気がして、不安になって、ついでに言うとちょっと寒くて、立ち上がった。ざばっと波がはねて、わたしのワンピースはペトリとしぼんで、からだにはりついた。ワンピースに砂がつくのに構わずわたしは砂浜に寝っころがった。冷えていた体にじわじわと熱が染みてくる。
ザザ〜…ザザ〜…と波の音がする。太陽にジリジリと焼かれる感覚がした。耳元を風が踊りながら去っていく。あぁ、生きてるな、っておもった。そしてわたしには似合わないな、ともおもった。
お腹空いてない?適当にそう言って、砂浜にある寂れた小さな海の家で、腰の曲がったおじいちゃんから焼きそばを買った。ん、おいしい!そうだね。それ以外なんにも話さないまま食べ終えた。べっとりとしたソースの塩辛い味が口にまとわりついていた。きっと私の歯には青のりがついてるだろう。私のカバンには全財産が入ってるのに、なんでこんなチープなもの食べてるんだろ。何食べたっていいのに。わたしはなんとなく散財してやりたくて、でもこのオンボロ小屋のおじいさんがそんな高いもの売ってるわけなくて、かき氷を全種類買ってみた。きみは何してるのと呆れて笑ったけど、食べるのには協力してくれた。思ってたよりシロップのラインナップは充実していた。正直ちょっと賞味期限心配だけど、どれも新品の瓶を開けていたから多分大丈夫だろう。どうせ他に客も来やしないからと、あまったシロップは瓶の蓋をして渡してくれた。7本も瓶持てないわと言ったらお店の奥から発泡スチロールがボロボロと崩れているクーラーボックスを引っ張り出してくれた。ぶきっちょに見えて結構世話焼きで優しいおじいちゃんだ。ありがとう!と孫みたいに言って、わたしは発泡スチロールの上に7個もかき氷を乗せてパラソルの下に戻った。いちご、みかん、れもん、めろん、らむね、ぶるーはわい、ぶどう。口の中で転がすようにひとつひとつ言っていく。虹みたい。ちょっと色が違うのはご愛嬌。
ねぇ、食べきれるかなぁ。食べれなさそうならなんで買ったの。えー大人買いってやつ?かき氷でやることじゃないでしょお腹壊すよ?大丈夫だよーこんな暑いんだし。ってか全部味一緒なんでしょ?夢ないこと言わないでよ〜。喋ってる間にもどんどん溶けてる。慌てて2人でかき氷を食べた。つめたくて、あまい。夏の味だ。熱で火照った体にしみる。
最後ジュースになってたかき氷を飲み干して、無事かき氷を食べ終わった。一個一個はそんなにおっきくなかったから、まぁギリギリいける。わたしはゴミを捨てに行くついでに色褪せた自販機でサイダーを買った。まだ飲むの?と笑われたから違うし〜とおちゃらけて返す。そしてクーラーボックスの中にペットボトルを入れた。なにしてるの?あとでのお楽しみ〜。
わたしは砂に埋もれたシーグラスを見つけて、拾い上げた。砂まみれ。洗おう。足場の悪い砂の上をむぎゅむぎゅと走っていき、これまた砂まみれの古びた蛇口を思いっきり捻った。砂水が出てくるかと思ったけど、意外とちゃんとした水が出た。ドバドバと無駄に勢いよく出した水の中にシーグラスを突っ込む。あっという間に全部流れ落ちた。いいな、表面がツルツルないい子はちょっと洗うだけで綺麗になる。溝だらけで複雑になっちゃった子には敵わない芸当だ。わたしはシーグラスをじっとみて、それからポケットに仕舞った。
ぼーっと海を見ているきみの後ろに膝立ちし、かぷ、とハグをした。あーるくん。耳元でそっと囁く。甘い艶やかな声で。吐息混じりに。きみはビクッとして真っ赤になった。ふふ、かーわいい。わたしはスーッときみの腕に指先を滑らせる。ひょろひょろみたいに見えるけど、意外としっかりしてるよね〜。なんか筋トレとかしてるの?…ほんのちょっとだけ。ふーん。腹筋割れてたりする?…い、一応ちょっとだけ。へぇ、かっこいい!耳元で話しながらそのまま手の甲側からきみの指の間に私の指を入れ込んで、きゅっと握る。きみはすっかりガチガチになっていた。免疫のない子って、揶揄いがいがあってほんと好き。かわいいもん。
ねぇ、そろそろ次のスポットに行きましょうか?ふざけて丁寧に芝居がかって言ってやるときみもノってくれた。いいですよ。どこですか?それは秘密です。そうですか。パラソルとレジャーシートを畳んで担ぎ、クーラーボックスと一緒にわたしの愛車のトランクに乗せた。わたしのワンピースとおんなじ、真っ赤な車。つけた名前はルージュ。フランス語で赤。和製英語で口紅。
どこのかわからない適当な洋楽メドレーを流して、ノリのいい曲が来たら音がわかりもしないのに適当に鼻歌をうたってリズムを取る。きみも時々目を閉じて少し楽しげにしてる。知ってる曲なのかなとおもった。きみならインテリ感あるし、洋楽に詳しそうだもんね。
2、3時間くらいドライブして、着いたのは山。山の上の小さな展望台。車のドアを開けた途端肺に入り込んできたのは、水分をたっぷり持ってそうな、フレッシュな森の空気。ここは?と聞かれたから山って答えた。いやそれは知ってるよ。海ときたら山でしょ?うーん…そうかぁ…。でもほら、景色、綺麗でしょ?うん。だからいいじゃん。そうだね。
ちょうど夕日が沈む時間だった。もうそんな経ったの?早くない?早いね。穴場なのか、ほとんど人がいない。まぁそもそも平日というのはあるだろうけど。下にはミニチュアみたいな街が敷き詰められていて、ひどくちっぽけだった。
街がだんだん薄暗いベールに覆われていく。建物はオレンジ色に染まって、黄色に光る。空は高貴な紫になって、わたあめみたいに細く裂かれた雲は薄く桃色に染まって、そしてやがて全部濃紺にのまれた。ずっとみていたはずなのにハッと気がつけば景色がまるきり変わっていて、夢から覚めたような心地だった。
そろそろ、帰ろっか。うん。
ドライブしながらわたしは話した。ねえねえアルくん、車持ってるっけ?ううん。持ってない。ルージュいる?え。いやほら、死んじゃうじゃん。わたしの愛車を中古に売り出しなんてしたくないわけよ。いらない?…あ、じゃあ、もらう。戸惑ったように、でもわたしのノリが軽いからそのノリに対応するようにさらっと言った。おぉ〜やったね。んじゃわたしが死んだら、ルージュをよろしく〜。
少し山を降りていくと、霧が出てきた。おっと、こりゃまずいぞ。どうするアルくん。どうするなんて言われても。羽瀬川有瑠!男の意地を見せろ!なんか使い方色々違くない?…とりあえず止まるしかないんじゃないかな。えぇ〜突っ切れないかな。無理でしょどんどん濃くなってるよ。車中泊かぁ〜。しょうがないよ。あ、なんかここ、空き地じゃない?きみが指を指したカーナビには道路から外れた謎のスペースがある。おぉ〜じゃあとりあえずここ目指そー。霧が晴れるまでの雨宿りだー。雨じゃないけどね。細かいことはいいんだよアル隊員。いつから部隊が出来たの。
無事ルージュを空き地に停めた。そして後ろに身を乗り出してクーラーボックスを取り、シロップとサイダーを取り出す。ほら、この中にサイダー入れれば美味しいソーダの完成よ?おぉ〜。…人工色素感半端ないね。もー、そーゆーこと言わないのー。
ソーダを飲むとじゅわじゅわと口が焼けるように炭酸が弾けた。霧まみれの夜の森には似合わないように思うけど、不思議とフロントガラスから入るわずかな車のヘッドライトを吸い込んだ人工的なシロップの色はこの景色に不気味に溶け込んでいた。
アルくんはなんの味が好きなの?いちご、かな。えーだめー赤はわたしの色なのー。いやそんなにこだわり強くないから大丈夫だよ。あ、そう?うん。きみの声がどこかふよふよしていて、気になってきみを見た。ぼんやりとした光に映し出されるアルくんの横顔は、いちごとは関係ないだろうけど少ししんみりした顔をしていて、ちょっとイタズラしてみたくなった。しんとした車の中だと、ほんの少し動いただけで衣擦れの音がやたらと響く。アルくんは気がついてこちらをみた。あ、気づいちゃった。でももう遅いもん。そう心の中でニヤリとして、わたしは彩られた真っ赤な唇を、アルくんの唇に重ねた。アルくんが避ける暇もないくらい、アルくんが何が起きてるのか察する時間もないくらい強引だけど、でも優しく唇に触れた。アルくんの唇は薄いけど柔らかかった。絶対きみはわたしがプレイガールで何百回もキスなんてしてると思ってるだろうけど、これはわたしのファーストキス。誰とも本気になったことはなかった。別にアルくんだって本気じゃないけど。お気に入りなだけ。ただからかってみたかっただけ。わたしはすぐに唇を離して、ポカンとしているアルくんにニッと笑った。
…なんで?
心底わからなさそうに、きみはそう言った。声が震えていて、突然のことにびっくりして、それでいて恥ずかしいのだろうとおもった。なんとなく、しよーとおもったから?…そか。あ、そうだ。ん?わたし非常用セットをルージュに入れてたんだよね。え?おーあったあった。さっすがわたし!グローブボックスからわたしは箱を取り出した。中にはカロリーメイトとビスコ、チョコバー。お菓子ばっかりだよ。そんなことないわよ。カロリーメイトはお菓子じゃなくて栄養調整食品なんだから。はい、どれがいい?え…じゃあカロリーメイト。はいはーい。何事もなかったかのように軽食を食べた。霧が晴れる気配がないので寝ることにして、トランクの隅にある毛布を持ってきて、座席を目一杯倒した。
少しして、きみは寝息を立て始めた。いびきはやっぱりかかないタイプ。寝顔がかわいい。わたしは音を立てないようにそっと車の外に出た。霧の中だけど、ほんの少し足元は見える。砂利を踏んで、少し歩いていくと道の端が見えた。やっぱりここは崖なのね、と小さくつぶやいて、崖っぷちギリギリに立った。ふわっと風が吹いて肌寒さにショールをかき寄せた。
下を向くとどこまでも続きそうな暗闇が広がっている。生命的な恐怖に本能が警鐘を鳴らす。下から吹き上げてくるような冷たい風に、吸い込まれそうな感覚に、ゾクゾクした。恐怖でいっぱいなはずなのに、どこかその感覚にほんの少しの恍惚感が混ざっていて、とびきり甘い毒だった。
わたしはしばらく立っていたけど、ふと思い出して、真っ赤ないちごシロップの瓶を傾けて、ぐっ、と飲んだ。後ろでほんの薄くだけど、砂利を踏む音がした。わたしはニヤリと笑った。唇の端から、紅い、いちごのシロップが少し垂れた。
*********
嫌な予感がして、目が覚めた。
何か違うと隣を見るとそこには空の毛布だけ。口の中に残ったカロリーメイトの粕がざらざらした。慌てて車を飛び出し、辺りを見渡すと少しシルエットが見えた。
思わず走り出しそうになって、でも急に行ったら逃げてしまうんじゃないかと思って、僕は慎重に足音を立てないように近づいた。
「ねえ知ってる?死への恐怖は生の証。こうしてみると、すっごく実感するの。あぁ、大丈夫。死ぬ気なんてないから。ねぇ、どう思う?生という当たり前であるはずのことに恍惚を感じる人類に美しさを感じる?それとも死という恐怖がありながらも生に縋り付くことに醜さを感じる?」
息を呑んだ。バレてた。こちらを振り返らずとも、確実に僕がいるとわかっている話し方で、君は死の底を見ながら話していた。
「ねぇ、怖いよ。でもさ、病院の消毒液臭まみれの冷たいベットで死ぬよりずっといいと思わない?」
初めて、紅愛が震えていた。ほんの少しだけ。でもこちらを振り返った顔は、この場に一番合わないような晴れやかな笑顔だった。
僕はなんにも言えないし、なにも言おうとは思わなかった。
「…帰ろう。もう霧もさっきより晴れてるよ。」
家に、帰ろう。こんな死の淵じゃなくて、あなたが本来いるべき生きる場所へ帰ろう。こんなこと言ったって、拒否されるんだろうけど、と思ったけど。
「うん、そうだね。」
意外なことに君はあっさりと承諾してもう一度下を見ると、くるりと方向転換してこちらに歩いてきた。あぁ、よかった、帰ろう、と思ったその刹那、
パリンッ
「…え?」
振り返るとそこには紅愛が倒れていた。
「紅愛さん?え?どうしたの?」
慌てて駆け寄り、声をかける。何も反応がない。呼吸を確認した。
息は、していなかった。
いや、間違いかもしれない。とりあえず、落ち着こう。
呆然と紅愛を見ているうちに、段々と辺りが明るくなってきた。
嘘つき。二週間後とか言ったのは誰だ。ほんとはわかってたんでしょ。
わかってて、死ぬ話とか、車の話とか、したんでしょ。本当に、計算高い女性だと思うよ貴方は。
紅愛のそばには割れた瓶が落ちていて、紅いシロップがついたガラスのかけらが美しく光っていた。
朝日が、昇った。
********
僕は冷たい君を後ろに乗せて、山を降りた。
君に託されたルージュを初めて運転しながら。
電話がつながったところで救急車を呼び、手遅れだとは思うけど、と病院に送った。
僕はとりあえず、紅愛の家にルージュを停めた。急な話だ。家に駐車場は無い。
バタバタはしたものの紅愛にもともと持病があったことで、僕は殺人を疑われることなく、無事平和に戻った。
そんな中、紅愛の遺言があったらしく、僕の元に送られてきた。遺言なんて、書きそうに無いのにと思ったら、あなた宛のこの一通しかなかったんですよと言われた。
遺言書には、大したことなんて書かれてなかった。
ただ、わたしのものは全部あげる、とだけ。あとはごめんね〜、と言うびっくりするぐらい軽い謝罪くらいだ。
初めて紅愛の字を見て、僕はどういう関係だったのかな、と考えた。字も知らないような関係。でも最期の1日に小旅行に出かけるような関係。
ほんとに全部くれるなら、君の心が欲しかった。ほとんど僕に心を開いてないのは知ってる。もちろん誰にも心を開いたことがないから、多分心の開き方だってわからないんだろうなとも思うけど。
紅愛の家のものを整理して、何もかもが終わったら、1ヶ月後。
僕は紅愛のルージュに乗って、もう一度、海に行った。
車に乗ると、紅愛にされた、最初で最期のキスを思い出す。
その直後に呆然と見た、美しく弧を描く紅い唇も。
僕はハンドルに重ねた手に額をつけた。
愛してた。本当に、愛してた。
嘘つきだけど
心を開いてはくれなかったけど
弄ばれていたけれど
どこまでも作り物だったけど
垣間見える君の寂しさはすごく、美しかった
そんな君を守ってあげたいと思ってた
でも、僕にそんな力は一ミリだって無かった
紅愛が死んで初めて、僕は思いきり泣いた。
びっくりするくらい、海は澄んでいた。
泳ぐ熱帯魚の赤を見て、あれは紅愛かもしれないなんでバカなことを考えた。
オンボロだったあのおじいちゃんの海の家は、潰れて解体されていた。
そこには熱すぎる砂が残っているだけだった。