これは恋人への裏切りにあたるのだろうか。家に帰るなり僕はズボンのポケットから夢の欠片を取り出した。ほんの少しだけ、持って帰ってきてしまった。一センチ四方の紙をほんの数枚、でもまぎれもなくこれは早月の人生のひとかけらだ。それを全部捨ててしまうなんてどうしてもできなかった。
 これでよかったのかはわからない。僕には早月がわからない。さっきまで腕の中に早月がいた。あんなに近くにいたのに、心はまだ遠いのだろうか。
 彼女は今日、「マスコミ」という言葉を発した。彼女のことをインターネットで調べれば、何かわかるだろうか。やはり僕は早月が思うほど誠実ではないようだ。本来はお互いのことは対話の中で知るべきだが、僕は禁じ手を使うことにした。もうなりふり構っている場合ではなかった。
 検索窓に「仁科早月」と入力すると予測に「陸上」と表示された。これも彼女との会話の中で何度か出てきた言葉だ。陸上部だったのは間違いないだろう。
 二年前すなわち僕が中学二年生の年の陸上のインターミドルの記事を見つけた。中学三年生の早月が女子百メートル走の全国大会で優勝した時の記事だ。中学生女子の歴代最速記録は11秒61、それに大きく迫る11秒65という好記録での優勝だった。
 彼女は12秒フラットが自己ベストの僕より速かった。それは女子にしては速いな、なんて可愛いレベルの話ではなかった。彼女は日本の頂点に立ったアスリートだったのだ。
 早月はインタビューの中で、高校でも全国制覇をして、今度こそ高校記録を、そしていつかは日本記録を塗り替えたいと言っていたが、それを最後に陸上の世界から姿を消した。
 遡って早月の記事や記録を検索する。早月は中学一年生の頃からずっと大会や記録会で活躍していた。ふと思い立って、「仁科早月」ではなく旧姓の「佐藤早月」で検索をかけた。
 彼女は小学生の時から大会で活躍していたのかもしれない。「日本ではブカツに入っていないとスポーツの大会に出ることができない」という間違った知識を持って日本に帰ってきた僕は、陸上選手になりたいと豪語しながらも小学生大会の存在を知らず、中学生になって陸上部に入ったときに備えて近所を適当に走り回っているだけの世間知らずな少年だった。でも、陸上一筋の彼女ならきっとその痕跡を残しているはずだ。
 予想通り、小学生の陸上女子百メートルの歴代記録のホームページがヒットした。歴代四位タイ記録。佐藤と言うよく見る苗字のせいで検索にノイズが入ったが、特集記事も見つけた。
 改姓の理由は両親の離婚。そして中学女子陸上界に旋風を巻き起こした選手の突然の病気による引退。そのどちらも少なくとも僕が観測した限りのネット記事にはその記述はなかった。母親がマスコミから守ってくれたというのはそういう意味なのだろう。
 メダルを手に笑う小学生の早月は今よりずっと髪が短かった。僕があの頃必死で追いかけた眩しい後ろ姿が鮮明に瞼の裏によみがえる。苦い記憶とともに蓋をしていたあの時の気持ちとともに。
 散々人の相談に乗っていたくせに、僕はとことん自分の感情には疎かった。名前を知らなかったあの複雑な感情。僕は遠ざかる“佐藤先輩”の後ろ姿に恋をしていたのだ。
 決して敵わない存在に生まれて初めての衝撃を受けた。そして次の瞬間、心を丸ごと奪われた。それが僕の初恋だった。女の子に負けたから悔しくて恥ずかしかったのではなく、好きになった女の子に負けたから悔しくて恥ずかしかったのだ。
 早月にはきっと永遠に敵わない。早月が僕を好きになってくれるよりも、信頼するよりもずっと昔から僕は早月の虜だったのだから。無意識の遥か奥底でずっと恋をしていたのだから。
 早月はずっと昔から変わっていなかった。僕が好きになった早月のまま、もう一度僕の前に現れて僕は二度目の恋をしたのだ。インタビューの中で彼女はずっと同じことを言っていた。小学生の彼女も、中学生の彼女もどの記事でもこう未来を語った。
「まだ見ぬ景色を求めて高みを目指しています。誰よりも速く、どこまでも遠くへ走り抜けたい」
――ロケットで行ったことがないくらい高くまで飛んで、青い地球を見下ろすの。それから、誰よりも速く、どこまでも遠く宇宙の果てまで行けたら素敵じゃない?
 形は違えど、彼女はずっと昔から同じことを望んでいたのだ。これを知った今、僕はどうするべきなのだろうか。

 答えが出ないまま“その日”は来た。奇しくも四月十二日、一九六一年にガガーリンが人類史上初めて宇宙へと飛び立った日だ。午前一時、「今すぐ来てくれ」と隼兎から連絡が来た。僕は大急ぎで病院に行った。
 病室に着くと、早月にはたくさんの機械が繋がれていた。不規則な電子音が不気味に鳴り響いていた。モニターに映る脈拍は目に見えて弱くなっていた。
「早月!」
 僕の声に反応して、早月が目を開けた。
「昴、来てくれたんだあ」
 か細い声で早月が言った。
「早月、頑張って早月!」
 目から涙がボロボロ零れた。
「昴、私ね、楽しかった。今までありがと、大好き」
 やめてくれ、別れの言葉なんて聞きたくない。
「嫌だ! 逝かないで。僕を置いていかないで」
 握った早月の手には全く力が入っていなくて、脈ももうわからないほど弱かった。
「僕が勝つまで一緒に走ってくれるって約束しただろ!」
 一生勝てなくていい。まだ僕は早月の後ろ姿を追いかけていたいんだ。
「一緒に宇宙旅行行くんだろ……なあ」
 僕は馬鹿みたいに泣き喚いた。
「ねえ、昴。今度こそ本当に最期のお願い」
 やめてくれ、最期だなんて言わないでくれ。そう思いつつも僕は早月の“お願い”に弱いから耳を早月の耳元に近づけてしまう。そして、それを全部叶えるために奔走するのだろう。
「長生きして私の夢代わりに叶えてね。私の後追っちゃだめだよ」
 それが最期の言葉だった。ピーという音とともにモニターの心電図が平坦になり、早月は二度と目を開けることはなかった。
「嫌だ! 嘘だって言ってくれよ早月! 早月! 死ぬなよ! なあ、早月!」
 病院中に響き渡らんばかりの声で僕は号泣した。この世の終わりぐらいに泣いた。早月のいない世界なんて本当に滅んでしまえばいいとさえ思った。

 どんなに泣いたところで時は戻らない。世界は否応なく前へと進んでいく。僕の耳に「葬儀」という単語が耳に入った。
 よろよろと立ち上がり、早月の御両親に向き直った。
「お話があります」
 なあ、早月。僕、何度も忠告したよな。僕は口が軽いって。
「僕は、早月さんから伝言を預かっています」
 でもさ、早月。君だって僕とのことを何でもかんでもベラベラ隼兎にしゃべっていたんだからおあいこだ。文句があるなら化けて出てきてくれ。いくらでも殴っていいから。
「生前、早月さんは宇宙葬を望んでいました。遺灰をロケットに載せて、宇宙の深淵に向かってどこまでも遠くに冒険したいと言っていました」
 元々こういうプロジェクトだった。自分では言えないから、超高額の宇宙の果てまで冒険するプランでの宇宙葬をしたいと代わりに説得してほしい。これが早月の本当の望みだ。宇宙の果てまでの冒険を語るときも、遺書を破いて捨てた時も彼女の目は未練の色に染まっていた。
 思えば、マイペースな早月に振り回された半年間だった。一瞬だけ宇宙に行くためにささやかな協力をしてほしい。これは彼女にとっては妥協の産物だったのだ。どうして、最初に彼女が僕にした妥協なしのお願いを断ってしまったのだろう。「いいよ」って言えなくてごめん。今なら迷わずOKするのに。君に振り回された日々は最高に楽しかったから。
「お金は今すぐ高校辞めて働いてでも必ず返します。早月さんの最期のお願いを叶えてあげてください」
 僕は土下座をした。地面に頭をこすりつけてボロボロ泣いた。
「何を馬鹿なこと言ってるの」
 早月の母親が冷たく吐き捨てた。許可をとるまで顔を上げるつもりはなかったので見えなかったが、きっと僕のことをものすごく睨んでいるのだろう。
「散々家族の時間を邪魔しておいて、今度は地球に二度と帰って来られない冒険ですって? ふざけないで! 死んだ後の早月まで私から奪うつもりなの!?」
 頭上から次々に罵倒の言葉を浴びせられた。でもめげなかった。僕は「お願いします」と叫び続けた。
「母ちゃん、いい加減にしろよ! 昴になんてこと言うんだよ、謝れよ!」
 隼兎が突然叫んだ。
「昴は俺の恩人で、姉ちゃんの彼氏だぞ。なんでそんなひどいことが言えるんだよ」
 あの気弱だった隼兎が僕を庇ってくれた。
「昴の話聞いてやれよ。俺も姉ちゃんも不器用だから、言いたいこと父ちゃんと母ちゃんに言えなかったんだよ。不器用な父ちゃんと母ちゃんならわかるだろ。不器用だから離婚したんだから。だから、昴が代わりに聞いてくれてたんだよ。昴の言葉は姉ちゃんの言葉なんだよ!」
 隼兎は涙声だった。早月の母親は隼兎に気おされて黙った。僕は改めてお願いをした。
「遺灰を、ほんの少しだけでもいいんです。宇宙に連れていくって約束したんです。本当は結婚したかったし、医者になって病気を治したかったし、おばあさんになるまでずっと幸せにしてあげたかった。でも、それが叶わなかったから僕が早月さんにできることはもうこれしかないんです。早月さんの人生のひとかけらを、お嬢さんを僕にください!」
 長い静寂のあと、ずっと黙っていた父親が口火を切った。
「顔を上げなさい」
 その声は怒っているようには聞こえなかった。
「顔を上げなさい。大事な話は目を見てするものだ」
 再度促され、僕は顔を上げた。父親はしゃがんで、ひざまずく僕と目線を合わせていた。
「十六歳か。まだ君は子供だ。無限の未来と可能性がある若者だ」
 優しく、そして真剣なまなざしで僕を見つめていた。
「これから長い人生を生きる子供に、大人がこういうことを言うのはよくないかもしれない。しかし、私は大人である前に早月の父親だ。父親らしいことは何一つできなかったが、最期くらいは父親として言わせてほしい」
「はい」
 僕は気を引き締めて次の言葉を待った。
「早月のことを忘れないでくれ。一生、早月だけを愛し続けてくれ。君が十八歳になったら、早月の心とだけでも結婚してほしい」
 言われなくても、最初からずっとそのつもりだった。僕は大きな声で返事をした。
「はい!」
「ありがとう。昴君、宇宙葬の手続きのやり方を“義父さん”に教えてくれるかな」
 なあ、早月。見てるか。聞いてるか。叶ったよ、僕たちの夢。成功したんだよ、僕たちのプロジェクト。
「はい!」
 僕はありったけの声で返事をして、さっそく手続きに取り掛かった。その間、母親は賛同の言葉も反対の言葉も一切発しなかった。一通り終わった後、むすっとした母親に再度声をかけられた。
「私ね、あなたのこと嫌い。ずっと病室に入り浸って、本当に非常識で図々しいったらありゃしないわ。だからね、絶対に謝らないから」
 僕の行動は社会通念上正しくなかった。そんなことは分かっていた。わかったうえで、それでも一秒でも長く早月と一緒にいたかった。でも、僕も謝らない。それは早月との日々を否定することになってしまうから。
「でもね、私わかるの。親だから。早月はあなたといるときが一番いい顔してたの。陸上で優勝した時よりもずっと。だからね、謝らないけどこれだけは言うわ。早月を幸せにしてくれてありがとう」
 僕もきっとこの人とは分かり合えないだろう。けれども、伝えなくてはならない。最期に早月に会わせてくれたことを。最期の願いに無言の許可をしてくれたことを。
「ありがとうございました!」
 僕は九十度頭を下げて、心の底からの感謝を精一杯伝えた。