寛和元年――、その年の半ばにあたるある日のことである。
内裏での日々の職務を一日こなし終えた藤原兼家は、日が傾きかける夕刻になってから、牛車に乗って自身の屋敷への帰路へとついていた。彼は静かに息を吐く牛の背を眺めながら、帰る道すがら何やら思案している。
「――ああ、忌々しい藤原為光めが――」
藤原兼家の心は今日も同じ考えにとらわれる。
その『藤原為光』とは――、先の未来において藤原北家為光流の祖となる人物であり、藤原師輔の九男とされる公卿の名である。
兼家の異母兄である藤原伊尹・兼通らから可愛がられていた彼は、その政治的才能が認められ、平安時代の宮廷で他の多くの貴族を追い越す昇進を繰り返した。その結果、兼家にとって忌々しいことに、彼は藤原兼家の地位すら越えることになったのだが――。
藤原兼家が天元元年に復権した際、藤原為光との地位はなんとか再び逆転することになる。しかし、永観二年――、すなわち今から二年前に、為光が春宮大夫として仕えてきた師貞親王が花山天皇として即位し、その折に自身の娘である藤原忯子を入内させたのである。その後、その娘は花山天皇から深い寵愛を受けるようになり、それによりその父親である藤原為光の地位は更に強固なものとなってしまった。
このような事態に至り、藤原為光という存在は藤原兼家にとって何よりも憎むべき政敵となり、それゆえに両者は裏で激しい政争を繰り広げることになった。この政争はただの地位争い以上のもので、深い敵意と憎しみが絡み合っていた。
そして、あまりに醜いその争いは今なお続いており、兼家の心の中にある為光への憎しみは日々増すばかりであった。
「何とか――、あの者を追い落とす手立てはないものか――」
そう深い考えに沈んでいると、突如として牛車がその進行を急に止めた。何か予期せぬ事態でも起きたのかと思わず動揺し、窓の外へと視線を向けると――、
「貴様は――」
「――」
兼家が窓から外を覗いたとき、彼の目に飛び込んできたのは一人の男の姿だった。その男の表情は、何か非常に嫌なものを見たかのように歪んでいた。
「お前は――確か、安倍晴明の所の――」
「蘆屋道満……でございます」
そう言って、道満は少し気が進まないような態度を示しながら、形式上の敬意を示すため――とばかりに軽く頭を下げた。彼の態度は非常に不適切で、あからさまに無礼であった。
この不遜な態度に対して、兼家は怒りを感じつつも、落ち着いて対応することを選んだ。彼の心の中には怒りが泡立ってきていたが、彼にも貴族としての誇りがあるのか、理性を保ち、目上の者らしい言葉を選んで返答した。
「このような場所で何をしておるのじゃ?」
「――いえ? 少々、見廻りなどを――」
「見廻りとな? お前はそのような事もしておるのか?」
「いいえ――」
道満は少し考えた後、口を開いて答える。
「普段はこのような事はしませんが、今回はある不穏な妖気を感じた故、例外的に見廻りをしておる次第で――」
「なに? 不穏な妖気じゃと?」
「――ええ」
兼家は顔を怒りの表情に変えて、道満の言葉に言い放つ。
「――それは、この平安京に妖魔が潜伏しておるという話ではないか?! 陰陽師どもは何をしておる!!」
「――だから、こうして……」
兼家は道満の言葉を聞かずに、さらに言葉を浴びせかけた。
「このまろが妖魔に襲われでもしたらどうするのじゃ!! この平安京を支えておるのはまろであるぞ!!」
「――ち……」
兼家の言葉を聞いた道満は、はっきりと舌打ちをした。兼家はその態度を見咎める。
「なんじゃ? お前――まろに対しその態度は……」
「道満――でございます。兼家様……」
「どうでもよいわ――、そのような事! 貴様もしっかり仕事をこなせ! 妖魔をこの平安京に一匹も入れるでない!!」
道満はその言葉に対してしばらく考えた後、今度は深く頭を下げた。兼家はその態度を上から見下ろしながら言った。
「ふん――、まろは屋敷に帰るぞよ」
兼家は牛車に戻り、そのまま進行を続ける。道満はそれを冷たい目で見送った。
「――あの男は、何かとまろに妙な目を向けて来るな。一度安倍晴明めに言っておかねばならぬか」
兼家がぶつぶつ呟きながら進むと、再び牛車が停止する。兼家は顔を歪めて、再び外を見る。
「あ――」
そして、外を見た兼家の目に飛び込んできたのは――。
「玄狐じゃと――?!」
目の前に現れたのは、黒い毛並みを持つ狐であった。その姿は、闇夜を這いずる影のようにも見えたが、その存在自体がまさしく吉兆の証であり――。
「おお!! なんとこのまろの前に――、玄狐が――」
兼家はそれまでの気分をすっかり改善させて笑っている。
「ふふふ――、まさに吉兆……、これからはまろが……平安京の――」
その黒い狐の姿を見た兼家は、心の中で様々な想いを巡らせ始める。それはまさしく、政敵・藤原為光が自分との争いに負けて、自分の前に跪く哀れな姿であり。
その笑顔は――、何とも醜く、そして歪んでいた。
◆◇◆
兼家の前を通り過ぎ、そのまま平安京のはずれへと向かった玄狐は、街の喧騒を背に足音ひとつ立てずに走り続ける。その姿はまるで風に乗った葉のように軽やかで、誰もがその存在に気付くことはなかった。そして、平安京を取り囲む高い壁の間を一目散に駆け抜けた玄狐は、その壁を越えて都の外へと身を躍らせた。
「――」
不意に玄狐が平安京を振り返り、そして――、
「わしを追ってきたのか? 小僧――」
そうはっきりと人間の言葉でつぶやいた。
「――玄狐……、いや、その四本の尾からすると妖狐のたぐい……、気狐あたりか?」
そう声が聞こえて、何者かが平安京の方から歩いてくる。――それは無論、先ほどの蘆屋道満である。
「それと――、拙僧の名は蘆屋道満だ……、小僧ではない」
「――わしからすれば、すべからく小僧であるぞ?」
玄狐がそう言って言葉を返すと、道満は目を細めて睨んだ。
「ふふ――、吉兆を呼ぶ玄狐――、そのわしをなぜそのような目で睨むか?」
「――お前が本当に吉兆ならば……な。お前の身から恐ろしいほどの殺気が出ておるぞ?」
「はは――、これはしたり……、見えてしまったか。醜い塵を見てしまったのでな」
笑って言う玄狐は、三日月のような笑顔を浮かべた。その言葉に対し、道満は薄く微笑んで答えた。
「――その意見には同意するが――、お前がそう見ているのはあの貴族だけではあるまい?」
「ふふ――、そうだな……、”今のわし”にとっては……な」
その言葉を言った玄狐の身体が、空間と共に歪み始め、変化を遂げる。その姿は――、
「それがお前の――、人としての姿」
「その通りよ――」
筋肉質の上半身を晒した男がそこに立っていた。彼は黒髪で、女性用の振袖を身に着けていた。
「わしがこの姿をさらすのは珍しいのだぞ?」
「ほう? その珍しいものを拙僧に見せたのはなぜだ?」
その道満の言葉に、深い笑みを浮かべて玄狐は答えた。
「お前の――”今の力”を知りたくなった……」
「今の力? ――お前……、過去に拙僧と?」
「いや――、初対面であるぞ? ――だが、わしの千里眼では……貴様が至る有様が見えるのだよ」
その言葉に道満は不審な目を向ける。
「は? 未来が見えると? 拙僧の未来がなんだと……」
「今は知る必要はない――、どうせイヤでも至る」
玄狐は歯を見せて笑い、それを睨みつける道満は戦闘の構えを取った。
「ふふ――、蘆屋道満……。宿命のニンゲン――。わしがこの平安京にやってきた理由は――、もしかして貴様がいたからかもしれぬな?」
「……下らん与太話は終わりだ――」
「クク――、そうであるな。ではゆこうか蘆屋道満――。わしの名は”雅辰”……、人に絶望し――人を殺す天よりの使いなり」
――かくして、平安京の郊外において、雅辰と名乗る謎の妖狐と蘆屋道満の、運命の糸が交錯する戦いが静かに幕を開けた。だが、それは後に起こる事件の、ほんの始まりに過ぎなかったのである。
内裏での日々の職務を一日こなし終えた藤原兼家は、日が傾きかける夕刻になってから、牛車に乗って自身の屋敷への帰路へとついていた。彼は静かに息を吐く牛の背を眺めながら、帰る道すがら何やら思案している。
「――ああ、忌々しい藤原為光めが――」
藤原兼家の心は今日も同じ考えにとらわれる。
その『藤原為光』とは――、先の未来において藤原北家為光流の祖となる人物であり、藤原師輔の九男とされる公卿の名である。
兼家の異母兄である藤原伊尹・兼通らから可愛がられていた彼は、その政治的才能が認められ、平安時代の宮廷で他の多くの貴族を追い越す昇進を繰り返した。その結果、兼家にとって忌々しいことに、彼は藤原兼家の地位すら越えることになったのだが――。
藤原兼家が天元元年に復権した際、藤原為光との地位はなんとか再び逆転することになる。しかし、永観二年――、すなわち今から二年前に、為光が春宮大夫として仕えてきた師貞親王が花山天皇として即位し、その折に自身の娘である藤原忯子を入内させたのである。その後、その娘は花山天皇から深い寵愛を受けるようになり、それによりその父親である藤原為光の地位は更に強固なものとなってしまった。
このような事態に至り、藤原為光という存在は藤原兼家にとって何よりも憎むべき政敵となり、それゆえに両者は裏で激しい政争を繰り広げることになった。この政争はただの地位争い以上のもので、深い敵意と憎しみが絡み合っていた。
そして、あまりに醜いその争いは今なお続いており、兼家の心の中にある為光への憎しみは日々増すばかりであった。
「何とか――、あの者を追い落とす手立てはないものか――」
そう深い考えに沈んでいると、突如として牛車がその進行を急に止めた。何か予期せぬ事態でも起きたのかと思わず動揺し、窓の外へと視線を向けると――、
「貴様は――」
「――」
兼家が窓から外を覗いたとき、彼の目に飛び込んできたのは一人の男の姿だった。その男の表情は、何か非常に嫌なものを見たかのように歪んでいた。
「お前は――確か、安倍晴明の所の――」
「蘆屋道満……でございます」
そう言って、道満は少し気が進まないような態度を示しながら、形式上の敬意を示すため――とばかりに軽く頭を下げた。彼の態度は非常に不適切で、あからさまに無礼であった。
この不遜な態度に対して、兼家は怒りを感じつつも、落ち着いて対応することを選んだ。彼の心の中には怒りが泡立ってきていたが、彼にも貴族としての誇りがあるのか、理性を保ち、目上の者らしい言葉を選んで返答した。
「このような場所で何をしておるのじゃ?」
「――いえ? 少々、見廻りなどを――」
「見廻りとな? お前はそのような事もしておるのか?」
「いいえ――」
道満は少し考えた後、口を開いて答える。
「普段はこのような事はしませんが、今回はある不穏な妖気を感じた故、例外的に見廻りをしておる次第で――」
「なに? 不穏な妖気じゃと?」
「――ええ」
兼家は顔を怒りの表情に変えて、道満の言葉に言い放つ。
「――それは、この平安京に妖魔が潜伏しておるという話ではないか?! 陰陽師どもは何をしておる!!」
「――だから、こうして……」
兼家は道満の言葉を聞かずに、さらに言葉を浴びせかけた。
「このまろが妖魔に襲われでもしたらどうするのじゃ!! この平安京を支えておるのはまろであるぞ!!」
「――ち……」
兼家の言葉を聞いた道満は、はっきりと舌打ちをした。兼家はその態度を見咎める。
「なんじゃ? お前――まろに対しその態度は……」
「道満――でございます。兼家様……」
「どうでもよいわ――、そのような事! 貴様もしっかり仕事をこなせ! 妖魔をこの平安京に一匹も入れるでない!!」
道満はその言葉に対してしばらく考えた後、今度は深く頭を下げた。兼家はその態度を上から見下ろしながら言った。
「ふん――、まろは屋敷に帰るぞよ」
兼家は牛車に戻り、そのまま進行を続ける。道満はそれを冷たい目で見送った。
「――あの男は、何かとまろに妙な目を向けて来るな。一度安倍晴明めに言っておかねばならぬか」
兼家がぶつぶつ呟きながら進むと、再び牛車が停止する。兼家は顔を歪めて、再び外を見る。
「あ――」
そして、外を見た兼家の目に飛び込んできたのは――。
「玄狐じゃと――?!」
目の前に現れたのは、黒い毛並みを持つ狐であった。その姿は、闇夜を這いずる影のようにも見えたが、その存在自体がまさしく吉兆の証であり――。
「おお!! なんとこのまろの前に――、玄狐が――」
兼家はそれまでの気分をすっかり改善させて笑っている。
「ふふふ――、まさに吉兆……、これからはまろが……平安京の――」
その黒い狐の姿を見た兼家は、心の中で様々な想いを巡らせ始める。それはまさしく、政敵・藤原為光が自分との争いに負けて、自分の前に跪く哀れな姿であり。
その笑顔は――、何とも醜く、そして歪んでいた。
◆◇◆
兼家の前を通り過ぎ、そのまま平安京のはずれへと向かった玄狐は、街の喧騒を背に足音ひとつ立てずに走り続ける。その姿はまるで風に乗った葉のように軽やかで、誰もがその存在に気付くことはなかった。そして、平安京を取り囲む高い壁の間を一目散に駆け抜けた玄狐は、その壁を越えて都の外へと身を躍らせた。
「――」
不意に玄狐が平安京を振り返り、そして――、
「わしを追ってきたのか? 小僧――」
そうはっきりと人間の言葉でつぶやいた。
「――玄狐……、いや、その四本の尾からすると妖狐のたぐい……、気狐あたりか?」
そう声が聞こえて、何者かが平安京の方から歩いてくる。――それは無論、先ほどの蘆屋道満である。
「それと――、拙僧の名は蘆屋道満だ……、小僧ではない」
「――わしからすれば、すべからく小僧であるぞ?」
玄狐がそう言って言葉を返すと、道満は目を細めて睨んだ。
「ふふ――、吉兆を呼ぶ玄狐――、そのわしをなぜそのような目で睨むか?」
「――お前が本当に吉兆ならば……な。お前の身から恐ろしいほどの殺気が出ておるぞ?」
「はは――、これはしたり……、見えてしまったか。醜い塵を見てしまったのでな」
笑って言う玄狐は、三日月のような笑顔を浮かべた。その言葉に対し、道満は薄く微笑んで答えた。
「――その意見には同意するが――、お前がそう見ているのはあの貴族だけではあるまい?」
「ふふ――、そうだな……、”今のわし”にとっては……な」
その言葉を言った玄狐の身体が、空間と共に歪み始め、変化を遂げる。その姿は――、
「それがお前の――、人としての姿」
「その通りよ――」
筋肉質の上半身を晒した男がそこに立っていた。彼は黒髪で、女性用の振袖を身に着けていた。
「わしがこの姿をさらすのは珍しいのだぞ?」
「ほう? その珍しいものを拙僧に見せたのはなぜだ?」
その道満の言葉に、深い笑みを浮かべて玄狐は答えた。
「お前の――”今の力”を知りたくなった……」
「今の力? ――お前……、過去に拙僧と?」
「いや――、初対面であるぞ? ――だが、わしの千里眼では……貴様が至る有様が見えるのだよ」
その言葉に道満は不審な目を向ける。
「は? 未来が見えると? 拙僧の未来がなんだと……」
「今は知る必要はない――、どうせイヤでも至る」
玄狐は歯を見せて笑い、それを睨みつける道満は戦闘の構えを取った。
「ふふ――、蘆屋道満……。宿命のニンゲン――。わしがこの平安京にやってきた理由は――、もしかして貴様がいたからかもしれぬな?」
「……下らん与太話は終わりだ――」
「クク――、そうであるな。ではゆこうか蘆屋道満――。わしの名は”雅辰”……、人に絶望し――人を殺す天よりの使いなり」
――かくして、平安京の郊外において、雅辰と名乗る謎の妖狐と蘆屋道満の、運命の糸が交錯する戦いが静かに幕を開けた。だが、それは後に起こる事件の、ほんの始まりに過ぎなかったのである。