康保五年――、
 そして元号が安和へと変わろうとしていたこの時期、齢四十の後半に入っていた安倍晴明は、自らの足跡をたどって護衛を連れて信田の森へとやってきていた。
 この当時、安倍晴明は師である賀茂保憲(かものやすのり)より”天文道”の継承を命ぜられていたが、晴明を何かと敵視する賀茂光栄(かものみつよし)との確執から逃れるため、積極的には政治ごとに関わらず、日々安穏と暮らしていたのだった。
 そもそも、晴明は出世に興味がなかった――、自らの出自もあって周囲から奇異の目があり、そもそものその強大すぎる実力ゆえに妬まれてもいたからである。
 それこそが、この歳になっても重要な役をこなさず、表舞台に立たなかった最大の理由だったのである。

 安倍晴明は信田の森に入り、数度目のため息をつく。その理由こそ自らの連れた護衛が原因であった。
 護衛の名は石川悪右衛門――、かつて信田の森にて、主人を裏切った裏切り者を殺して出世したのだ――、等と嘯いて五月蠅く笑う何とも粗暴な男であった。
 いちいち、その出世話を聞かされていた晴明はもはや辟易した気分になっており、その話を耳から耳へと聞き流し、ただ笑って頷くだけになっていた。

「おい、聞いているのか? 晴明よ――」
「はいはい、聞いていますよ」
「ふんっ、どうだかなぁ……」

 そんなやり取りをしつつ二人は信田の森の奥――、その奥へと分け入ってゆく。
 やがて日が空の頂点に昇りきった頃、彼らは目前に小さな塚を目にしたのである。

「む……? アレは……」

 悪右衛門はそう呟いて塚のある方を見る。なぜなら、その塚に参るように一人の少年が佇んでいたからである。
 少年は烏帽子も被らず狩衣を着ており、その姿はまるで平安貴族の若君といった姿だった。
 だがしかし、その瞳にはどこか陰鬱で悲しげな雰囲気があった。
 その少年を見た瞬間、晴明はその少年の放つ異様な雰囲気を感じ取り、思わず眉根を寄せてしまう。

「……あれは?」

 晴明は隣にいる悪右衛門に問う。すると悪右衛門は首を傾げつつ答えた。

「ふむ? こんなところに……旅人か?」
「まさか……あのような少年が、一人で?」

 そう――、その少年は、齢はいまだ十を越えていないように見えた。そのような子が一人で旅をするとは到底思えなかった。
 ましてやここは京からは遠く離れており、道中には賊が出るような山もあるというのだから尚更だった。
 ならば何故、このような場所に一人でいるのか――、その疑問に頭を悩ませていると、不意に悪右衛門がその少年の方へ歩いて行くではないか。

「む? 何をする気で――」

 晴明は慌てて悪右衛門を呼び止めようとするが、既に悪右衛門は少年の元へ辿りついており、声をかける寸前だった。

「おう坊主、お前さんは何者だい?」

 悪右衛門は笑いながら話しかける。
 少年は突然見知らぬ者に話しかけられたにもかかわらず、平然とした様子でただ黙って悪右衛門を一瞥すると言った。

(おれ)の名を問う前に――自分の名を言ったらどうだ?」
「む……」

 その尊大ともとれる少年の態度に、顔を歪ませる悪右衛門――。さすがに”いけない”と感じた晴明は、慌ててその二人の間に割って入るようにして少年に話しかけた。

「まあまあ、そう邪険にしなくても良いではないですか……。私達は怪しいものではありません。私は安倍晴明――こちらは悪右衛門といいます。貴方のお名前をお聞かせ願えませんでしょうか?」

 晴明の問いかけに対して、少年は静かに口を開く――。

(おれ)の名は蘆屋兵衛道満(あしやのひょうえみちたる)だ――」

 そう答える少年――、その時、晴明の背後の悪右衛門の眉が一瞬ピクリとなったが、晴明は気づくこともなく少年に言葉を返す。

「このようなところに、貴方はお住まいに――?」
「いや――、(おれ)は播摩の国より、両親の足跡をたどって旅してきたのだ」
「なんと?! 一人旅――なのですか?」

 齢十にも満たない少年の一人旅と聞いて、さすがの晴明も驚きを隠せない。この時代において、元服前の子供の一人旅など普通ではありえない事だったからだ――。

「危なくはないのですか?」

 晴明は心配になって尋ねる。だが、道満と名乗った少年は涼しい顔で言い返した。

「ああ、問題無い――」

 少年はそう答えただけで、二人を無視するように塚の方へと顔を向けた。

「その塚は……」
「……さあな――、おそらくはここで死した者を想って、誰かが建てたのであろう」

 その塚を悲しげな様子で見つめる少年を見て、それこそが彼の両親の塚であろうと確信を得る晴明。
 その少年の、齢に似合わぬ達観した――、そして老成した様子に、晴明はかつての自分自身を見たのだった。
 だからこそ、自然にかつて自分が問われた問いを口に出していた。

「――童子よ」
「む?」
「この日本のはじまりはわかるか?」
「――知れたこと。天神七代、地神五代、人代のはじまりは神武天皇とされてはいるが、瓊瓊杵尊こそそれだ」
「詳しいですね。ならば、仏法のはじまりは――」
「大聖世尊釈迦牟尼仏。日本に広まったのは聖徳太子からだ――」
「ならば、儒道は――」
「大聖人孔子――」

 晴明の問いにすらすらと答えていく少年の様子に、ついに晴明はうれしくなって笑顔を向けた。

「なんとも――、優れた知恵を持つ童子よ……。貴方は都に上るつもりはないですか?」
「――ない」

 晴明の最後の問いに、にべもなく答える少年。晴明は心の中で”なんとも惜しい話だ”と思ったのである。
 ――と、不意に背後の悪右衛門が、大きな声で笑い始める。
 何事かと振り返る晴明に、顔を歪ませて笑う悪右衛門は答える。

「蘆屋――、蘆屋とは……」
「ぬ?」
「さっきまで思い出せずにいたが……、やっと思い出したわ! その蘆屋こそ、俺が始末した裏切り者の名よ――」

 その言葉に晴明は嫌なものを感じた。悪右衛門は可笑しそうに顔を歪ませて言う。

「女狐に魅入られた愚かな男……、そうそう、蘆屋将監とか言ったか? その首を手柄にして俺は出世したのだ!」

 そう言って笑う悪右衛門に――、少年は感情のない目を向ける。

「蘆屋――将監?」

 そう呟く少年の耳に、悪右衛門の下品な笑いが響く。その時、晴明は何か嫌な気配を感じ少年の目を見た。
 その瞬間、晴明はぞっと背筋が凍りつく感覚を覚える。
 その目はまるで何も映していないかのように暗く淀み、虚空を見つめていたからである。

「――っ!?」

 少年の目に宿った底冷えするような暗い光に気圧され、思わず息を飲む晴明。
 そんな晴明には気づかず、少年は悪右衛門の方へ向き直ると言った。

「おまえか――」

 その声音は、先ほどまでの淡々とした声とは異なり、怒りと憎しみに満ちた怨念のような声であった。

「両親を――、母を――、父を殺したのは――」
「ぬ?」

 悪右衛門は少年の言葉の意味が一瞬わからず困惑する。だが、その声音が少年の怒りの大きさを伝えており、悪右衛門の顔からは血の気が引いていた。

「な、何を――、まさか?」

 晴明はその様子を見て一瞬にして事情を察する。そして”これはいけない”と考えて懐に手を入れた。
 ――その晴明の予想は当然のごとく的中し、少年は懐より短刀を取り出して悪右衛門へと向けたのである。

「ま、待て!!」

 晴明が叫ぶと同時に、短刀を手にした少年が悪右衛門へと走る。

「この!」

 突然の事にも素早く反応した悪右衛門は、その短刀の一撃を避けた後、その腰の太刀を抜き少年へと向けた。

「は――、まさか、あの女狐にはあの馬鹿の子供がいたのか!」

 その下卑た笑いに少年は激昂する。このままではいけないと、晴明は懐の符を二枚取り出して、素早く「急急如律令」と唱えたのである。
 その呪は争う二人の身を縛るものであった。しかし――、

「あ!」

 晴明はその瞬間に理解する。――少年への呪が瞬時にかき消えていた。

「――父母の敵」

 そのまま駆けた少年は、呪で身動きのとれぬ悪右衛門へと短刀を突きたてる。
 晴明は、思いがけず少年の敵討ちの手助けをする形となって顔を青くした。

「――童子」

 そう呟いた声が届いたのか、少年はその場に短刀を落としたのである。

「なんと――」

 少年は小さく呟く。

(おれ)は――」

 少年の前で、悪辣なる悪右衛門は冷たくなっていく。晴明はその男を一瞥すると少年へと目を向ける。

「――童子よ、お前は――」

 その言葉を聞いて、さっきまでとはかけ離れた弱々しい目を向ける少年。

「――(おれ)は、なんてことを」

 その目には明らかな後悔が見て取れた。――だからこそ晴明は答えた。

「まさか――お前の親の敵を護衛として連れていたとは――。童子よ気に病むな」

 悪右衛門はこともあろうに、子の前で死んだ親の嘲笑をしたのである、こうなるのも当然と思えた。しかし――、

(おれ)は――、激情にかられて。なんてことを――」

 少年は弱々しくその場に跪く。その目には涙すら見えた。
 その様子に晴明は嫌なものを感じて答える。

「早まるなよ? あ奴は親の仇であったのであろう? お前が気に病んでどうにかなってどうする」

 その言葉に少年は――、

「しかし――、親の仇とは言え、それを手にかけたのは罪――、(おれ)はその罪を償わねばならぬ」

 そう答えて落とした短刀を手にした。

「早まるな! なんとするつもりか?!」

 その様子を見た晴明は、少年の手から短刀を奪い取る。少年はそれをみて――、

「――まさか、早まるつもりは毛頭ない。(おれ)は――これより罪を償うべく僧になろうと思います」
「まさか……、本気なのか?」

 その少年の言葉に驚きを隠せない晴明。少年ははっきりと、決意の籠った瞳で晴明に答えた。

「……親より賜った名を捨てるのはしのびないゆえに、その読みのみを変えて――、これより(おれ)は”道満(どうまん)”――そう名乗ろうと思います」
「どう……まん」

 その少年の決意の目に――、感じ入った晴明は大きく頷いて言った。

「わかった……、私がその証人となろう」
「ありがたい」

 少年は初めて晴明に恭しく頭を下げる。かくして、蘆屋兵衛道満(あしやのひょうえみちたる)は、その名を”蘆屋道満《あしやどうまん》”――そう改めたのである。

「童子よ――、もし心が変わったなら、都へと私を訪ねてくるがいい。私が都での後見人となってやろう」

 そう晴明は答えて道満に笑顔を向ける。――それに対し道満は、ただ頭を下げて首を横に振るだけであった。