誰もいない空き教室、僕と彼女は誰にも見つからないように、置かれてある机の裏に隠れた。
「ふふふっ。ふふっ」
クスクスと笑う優雨は、なんだかとても面白そうで、へそを曲げたままの僕を見て、声を出さずに笑っていた。
「何がそんなにおかしいの」
「ちっ…違うっ…て!ちょっと…ね」
そう言ってまた笑う彼女に、顔を真っ赤にした僕は、「それより」と話をそらした。
「先生、多分心配しているよ。早く戻ろう」
「ええ。なんで?一時間くらい良いでしょ」
そう言い張る彼女に、僕は何も言えずうつむいていた。
反対しようと思っているのに、彼女がまた消えてしまうと思うと、なぜか怖いのだ。
静かな空間が、なぜかいやで僕は、「じゃあ…」と言葉をつづけようとしたとき、
「翔くん、いる?」という、聞きなれた声が聞こえてきた。
これは…間違いなく、あかりだ。
その声に反応したのか、優雨もびくり、と肩を震わせ、しゃべらなくなった。
「先生が困っていたよ。翔くんがいないって。ねぇ?ここにいるんでしょう。出てきてよ。かくれんぼのつもり?」そう言って、ガラガラ、とドアが開けられた音が耳に届き、入ってきたんだと確信した。
どうする。潔く見つかるか、それともどこかに隠れるか。
幸運なことに、今あかりはいつもかけているメガネをかけていない。
ぼんやりした手つきで手をのばしているし、たぶん何も見えてないんだろう。
今なら、隠れられる。
「…こっち!」
どうするか迷っていると、小さな優雨の声が聞こえ、僕の身体は右に傾いた。
ガタン、と音を出しながら、キィ…と扉が閉まり、光が消える。
「ちょっ…優雨?」
「ごめん。でもちょうどいいと思ったから」
たぶんここは、ロッカーの中。しかも、二人同時にひとつのロッカーに入っている。
もちろん、密着状態である。
僕より数十センチ小さい優雨は、僕の胸にすっぽり収まっている。
男子生徒の中では低い方の僕が、彼女より大きいなんて考えもしなかった。
数秒後、ガラガラ、と再度音が鳴り、あかりが出て言ったことを示してくれた。
僕はほっと一息ついて、ロッカーのドアを開けようとしたとき、きゅっ、と僕の袖を握ってきたひとが、ゆるりと体を縮こませ、僕をそのまんまるの瞳で見据えた。
「もうちょっと、ここ居たい」
「…え。いやっ。それは、ちょっと…」
「落ち着くの。君と一緒だから、余計に」
そう言って顔をうずめた彼女は、子犬のような目で僕を見た。
「…いや、でも暑いでしょ。こんな真夏に…」
「そんなことないって…もしかして、君、あつい?」
僕は首を振って、暑くない。と答えた。
それは、本心。
なぜか彼女の周りは、冷気が集まっているようで、真夏でも涼しいと思えてしまう。
「えっと…。でも今の状況はさすがにヤバいから、出よう」
「…うん」
やっとのことで彼女の了承を得て、僕は身体をねじりながらロッカーを出る。
「ふぅ…」
温かい日差しが、さらに僕の体温を上げていく。
「大丈夫?顔赤いよ」
そう言った優雨に、大丈夫。といったくせして、僕の体温は上がりっぱなし。
「…ちょっと風が当たるとこに行こうよ!」
そんな僕に気を使ったのか、優雨は嬉しそうに微笑んで、教室を出ていく。
どこに行くつもりなのだろうと思いながら、僕はゆっくりと彼女のあとを追っていく。
「私がね、この学校に来る理由が、これなんだ」
タンタン、と音を出しながら階段を昇っていく優雨の後を、ぽんぽん、と音を出しながら行く僕。
「ちょっと、ここから目をつむってて」
一番上の階にきたとき、優雨が僕の目を伏せた。
真っ暗な視界の中、こっちにきて、という優雨の声を頼りにそっと前へ進む。
「もーいーよ」
―息を、のんだ。
目を開けたとき、そこにあったのは、彼女の顔でも、堅苦しい学校の風景でもなく、ただ、三百六十度、青い空があった。
「…」
「ねぇ、この空を見て、どう思う?」
「…綺麗だと思う」
普通の感想だ、と思うだろうが、そういうしかなかった。
この空は、綺麗なんだ。
ただ、ひたすらに。
だから、そういうしかなかった。
けれど、優雨は満足したように、うんっ。と嬉しそうに頷いてくれた。
「空はずっと先まで続いているの。そう考えると、自分の想いとか、自分の考えとか、ほんとうつまんないなって思う。どうせ空には敵わないし、神様のいうことには逆らえない」
しゃがみこんだ優雨は、ぽつり、と口にした。
「空には、かなわない」「神様の言うことには逆らえない」
彼女は現実をちゃんと見ているひとなのだろうか。
「…君は、自分がちっぽけだって思う?」
気づけば、そう言っていた。
彼女は驚いたように、僕に目を向け、にっこりと笑った。
その笑みが、yesかNoなのか、僕にはよくわからなかったけれど、ひとつだけ、痛いほど身に染みたことがある。
それは、彼女は空が好きだということ。
そして、自分の未来をちゃんと持っているということは、はっきり断言できた。
それほど、彼女はきっと、世界のことをよく知っているんだろう。
二人きりの屋上で、僕らは一時間以上過ごした。
他愛もない会話をしたり、スマホアプリをしたり、ジェスチャーゲームなど、いろんなことをした。
結局、教室に戻ったのは三時間目が終わった直後。
先生から怒られると確信していたけれど、先生は何かいいたげに、教室を出て言った。
「怒られなくて、よかったね」と耳打ちしてきた彼女は、振り向けばにこり、と笑ってくれた。

「ねぇ、第一日曜日って空いてる?」
放課後、いつものように桜海に集まった僕らは、ベンチに腰掛けながら、ゆったりと一緒に買った飴をなめていた。
彼女が今日、ここで僕に話しかけたのは、これが初めてであった。
「日曜?空いてるけど。なんで?」
「おおっ。じゃあ、土曜は?」
「それも…多分空いてる。けど、第一ってことは二週間後だろう?まだまだ先の話じゃないか」
「あー。うん、そうなんだけどね。もうすぐ夏休みでしょう?会えなくなるの寂しいから、ちょっと二人で出かけたいなって」
「なるほど。君は僕を連れ出したいわけだ」
「せーかい。ってことで、水族館のチケット手に入れたけど。どうする?」
優雨はひらり、とポケットから水色のチケットを取り出した。
「これ、イルカショーの参加賞つき」
イルカ、と聞いて僕はすぐチケットを一枚受け取り、「行くに決まっているじゃないか」と平然と答える。
すると優雨は途端に大きく笑い、にっこりと口角を上げた。
「だよねっ。ってことで、次の第一土曜日、ここ集合ね」
「で?日曜は何するの?」
じゃあね、と去っていこうとする優雨にそう投げかけると、「そのひは、動物園行くの。写真、撮ってもらうからねー!」そう言って桜海を去っていった。
ひとり残された僕は、はあ、とため息をつきながらも、苦笑する。
ほんとう、身勝手なひとだ。
まるで、ゆめでも見ているかのようにさせてくる。
…そう。ここからだ。
僕が彼女を好いていると、自覚したのは。


「おっはよー!」
次の日聞こえた声は、優雨のものではなく、あかりの声だった。
「おはよ!翔くん!」
そう言ってバシッと僕の背中をたたくあかりに、おはよう、と返す。
「ね、昨日はどうした?」
「え?」
「ずぅっと居なかったでしょ。結局来たのも四時間目くらいだったし」
ああ、と僕は頷いた。
「優雨と屋上に入り浸っていたんだよ。空がすごく綺麗だった…」
そう告げると、あかりはびっくりしたように僕を見て、そう。と答えた。
「それで…優雨って人は、友達なの?」
「あぁ…どうだろう。大切な友人でもあるし、恋人でもある。どっちが正解かはわからないけれど、僕は彼女といるのが好きだよ」
「…そう。あのね、翔くん。優雨ってひとは…」
「あかりっ」
あかりが何か言おうとした瞬間に、教室のドアの後ろから、手を振ってくる先輩がいて、翔琉先輩!とあかりがすぐさま走って行ってしまった。
ひとりになった僕は、スマホを開いて彼女にメールする。
【今日も学校来ないつもり?単位危ないよ】
まるで過保護な親だな、と思いながら、僕はそのメッセージを送信した。
すると、すぐに既読、という文字がついて、【だいじょぶ!こう見えても私、頭いいから】と送られてきた。
…ウサギが筋トレしているスタンプと共に。
ふふ、と笑いを漏らしてしまったのは、彼女が芸人にでもなっている姿を想像したから。
僕は、【わかった】と文を打って、句読点をつけたところで送信し、電源を落とした。
僕はノートと教科書を取り出して、授業に集中するため、スマホをカバンに押し込んだ。

「疲れたぁ。もう終わりにしようよ…」
「まだ三十分しかやってないじゃないか。学校に行ってないんだから、それくらい良いだろう」
放課後、僕らは図書館に足を運んでいた。
それは、彼女が何も勉強をしていないということに気が付いたから。
「ぬう……」
「そんな顔しても無駄」
僕は、どうして彼女がここが分からないのかが分からない。
「…じゃあ!数学じゃなくって、精神的な学習しよう!」
「精神的?」
「恋と愛の違いっていうのはどう」
優雨は得意げにそう言ったあと、僕の顔を覗き込んだ。
「…いいけど、優雨が教えてくれるの?」
「うん!もちろんっ!」
僕らは立ち上がって図書館を出た。
そして、いつものように桜海のベンチに座って、「恋というものはね」と優雨がしゃべりだす。
「恋っていうものは、異性や、親しみのあるひとに対するものなの。他のものに盲目になってしまうけれど、その相手が恋しくなる。ほしくなってしまう。それが恋ってものだと思う」
優雨は少し悲しそうにそう言った。
「で、愛っていうものは親子愛、兄弟愛、動物など命あるものへの愛など対象が異性に限らず広いのも恋との違い。どう。わかった?」
「…なるほど。愛っていうものは、なければ人間は生きていけないのだろうか…」
「生きていけないっていうわけではないと思う。けど、愛がなければ無能の人間になってしまうと思う。愛がもらえなかったら、何もなくなっちゃう」
優雨はニコリと笑って、今キミは、恋をしてる?と聞いてきた。
「…恋、というものなのだろうか」
僕はじっ…と優雨を見て、そう言った。
「なあにぃ?あたしのこと、好きになっちゃった?」
「…」
僕は、答えることができなかった。
仮に僕らは付き合っている。
だから僕は、何も言うことができない。
「…そっか。そうだよね。私たち、付き合ってるもんね」
優雨はベンチから立ち上がり、笑顔を作って振り返った。
「…悲しいな。君はいつか、違う人と愛しあう。違う人と愛を誓う」
「そりゃ、仮だから…」
当たり前だろう、と言おうとすると、優雨は一瞬、ぐしゃっと顔を崩したけれど、すぐににっこりと笑った。
「…ねっ。明後日から、夏休みでしょう。夏休みが始まって、一週間たったとき、夏祭りがあるの。一緒に行かない?」
「夏祭り…?」
「うん。その前日に浴衣も買いにこう!」
優雨は嬉しそうにそう告げて、じゃ、また!と桜海を去っていった。
「ほんとう、台風みたいなひとだな」
僕は再度、そうこぼして桜海を去った。

時は本当に、すぎるのがはやい。
「ねえ、これとかどう?アジサイ!」
「うぅん…。こっちの向日葵とかどう。こっちの方が、君の容姿を引き立てると思うよ」
「けど、ちょっと派手じゃない?」
僕らは、近くの浴衣屋に足を運んでいた。
それは、もちろん明日のなつまつりの浴衣を選ぶため。
「わあっ。この海と桜の浴衣、すごく綺麗!」
「たしかに。まるで、桜海の様だね」
そういうと、キラキラと視線を向けてきた優雨に僕はうん、とうなずいた。
僕は名札を探し、その金額を見た。
「…優雨、さすがにやめよう。君のお金でも、多分買えない」
「え?なになにっ、そんなに高いの?」
優雨は一緒に僕の手元を覗き込んできた。
「…¥8000円だよ。さすがにやめよう」
「へっ?私、二万円持ってきたから、だいじょうぶ!キミの分も払うよ」
そう言って、先ほど選んだ僕の浴衣と、この八千円もする浴衣を持ち、ここで待ってて、と言いのこし、レジへ走っていった。

数十秒後、彼女は持っていったままの浴衣を持ってきた。
「おかえり」
「うん!」
袋をもらわなかったのだろう。彼女は浴衣のハンガーを持ったまま、こちらに駆け寄ってきた。
「で、次はどこ行くの?」
「おっ。行く気満々だね。その通り!次は…って、言いたいところなんだけど、今日は私、用事があるの」
そう言ってはい!と浴衣を差し出した優雨に、僕は困惑した。
「用事?」
「うん!」
「家の用事なの?」
「あー。まあ、そう言えば。今日は、お父さんとお母さんの命日なの」
優雨はにっこりと笑って、そう言った。
…僕は、唖然とした。
お父さんと、お母さん。ということは、両親二人とも、なんらかの事情で死んでいるということだ。
「…そう、なんだ。わかった。ごめん。引き留めて」
「ううん。大丈夫っ!またねーっ。明日、楽しみにしてるっ」
ばいばーい、と手を振って帰っていく優雨を見送った僕は、その後自分の家に帰った。
家に帰って、ソファでくつろいでいると、気づけば七時になっていた。
カバンの中にあるスマホが振動していたため、僕はすぐにスマホの電源を入れた。
すると、あかりからのメールと、着信が一件届いていた。
メールの内容は、【明日、彼氏が予定あるらしいから、一緒に夏祭り行かない?】という内容だった。
俺はすぐ、あかりに連絡をしようと思ったけれど、思ったより苦労が溜まったいたため、電話を掛けた。
一コール、二コールと続いたとき、ブル、とスマホが振動して、電話の奥から、
〈もしもし。翔くん?〉
「うん。ごめん、気づいてなくて」
そう言ったあと、僕は冷やしておいた昨日の残りをレンジに入れて温めた。
〈だいじょうぶ。それで、一緒に行ける?〉
あかりの声は、はずんでいた。
今までも、ずっとなつまつりは彼女と行っていた。
魚釣りや射的、そんなものをして楽しんでいた。
最後にある花火大会も、彼女としていたし、見ていた。
けれど、今年はそうもいかない。
「…ごめん。僕、もう約束しているんだ」
〈えっ?あ、そうなの。クラスの男子友達?〉
「ううん。女の子。彼女だよ」
〈…へ?しょ、翔くん、彼女いたの?〉
「え?ああ、まぁ。仮だけど」
自分で言ったくせに、仮、といったことがなぜか悔しくて、小さい声でごまかした。
〈そう、なんだ。それなら、仕方ないね〉
あかりは納得したようにそう言ったあと、じゃあまた、といったように聞こえた。
だから僕は、うん、と答え、通話終了ボタンを押した。
そう思うと、なぜか楽しみに思った僕は、早めに寝ることにした。
八時四十五分、ご飯とお風呂を済ませた僕は、ベットの毛布にくるまった。
もうすぐ九時といったところか。もうそろそろ寝ようと思った僕は、スマホの電源を落とし、目を閉じた。
目の前には、真っ暗になった電球がぼんやりと僕を眺めていた。
そんなとき、僕は眠りについた。


―これは、いったい誰の“夢”なのだろうか。
目を開けると、目の前には見覚えのある淡い茶色の髪の毛をまとった女性と、同じく茶色の髪の毛をまとう、紳士的な顔をしている男性。
“夢の中の自分”は、その二人を交互に見つめながら、イメージカラーに似合うような、紫色のアネモネの花と、赤いチューリップを花瓶に添えた。
「…お母さん、お父さん」
ややくぐもった声で、聞き覚えがあるはずなのに、うまく耳で拾えない。
「…なんで、なんで死んじゃったの」
その言葉は、“お母さん”と“お父さん”に向けてなのか、もしかしたら、ほかのだれか、例えばこの夢の主に向けてなのか、僕にはわからない。
けれど、きっとこの主は、救いを求めているんだろう、と何となくわかった。

ゆっくりと目を閉じ、また開けると、そこにはいつもの朝があった。
僕以外に誰もいない家。
誰もいないんじゃないかと疑うほど、静かな空間。
そこに、僕だけが居た。
ベッドのシーツが濡れるのにも関わらず、僕は泣いていた。
生まれて初めて、夢を見て泣いた。
「…いまごろ、あの夢の主も、泣いているのかな」
ぽつりとこぼした言葉を、僕の耳は逃さなかった。
自分の言葉にびっくりして、思わず口を押えたけれど、持ってきておいた、机に放り投げてある浴衣を見て、僕は一気に現実世界に戻ってきた。
そうだ。今日は、夏祭りに行くんだ。優雨と一緒に。
そう思うと、ウキウキして、時間が長く感じた。
夢のことなんかもう忘れて、精一杯楽しもう、と思えた。
そして迎えた、夏祭りが開かれる三十分前。
桜海に集合、とメールが送られてあるのに気づいた僕は、いつものような足取りで、桜海に向かった。
歩いて数分ごろ、桜海が見えた僕は、少し早歩きで歩き出した。
すると、桜と海がえがかれた浴衣を着ている女性が、後ろにあるベンチにも見向きもせず、海を眺めているのが見えた。
あの浴衣を着るのは、たった一人しかいない。
「優雨!」
なびく茶色髪に見とれながら、僕はその後ろ姿に声をかけた。
すると、その女性はゆっくりと振り返り、僕と目が合った瞬間に、花が咲くように、笑った。
「…しょーくん」
ぽつりとこぼしたかのようにそう言った彼女は、嬉しそうに僕に駆け寄った。
カランカランと音をたてながら近寄ってきた優雨を、僕は全身で受け止めた。
優雨の顔は見えなかったけれど、香ってきた優雨のフローラルの香りを吸って、優雨の存在を実感できる。
次の瞬間、優雨はうずめていた顔を上げ、恥じらいを見せた僕にもかまわず、ニコリと笑って、
「…浴衣姿、かっこいい」
そう言った。
「…ありがとう」
そういうのが精いっぱいだった。
彼女はいつもは元気はつらつとしていて、生き生きとして見えた。
けれど、目の前にいる彼女は、普通の女の子。
いつもは恥ずかしがったりしないくせに、「そっちも可愛い」と言ってやると、耳まで真っ赤にしてしまった。
二人で肩を並べて、会場に向かうと、もう夏祭りは始まっていて、たくさんの客でにぎわっていた。
「どこから行く?」
優雨が楽しそうにそういってくれたため、僕はすぐさま、「りんご飴」と答える。
すると、優雨はびっくりしたように僕を見て、少し嬉しそうにほほを緩ませた。
「ふっ…。ふふっ。もう、これだから君は。普通女子と行くときは、わたあめっていうべきだよ」
そう言って、くすくすと笑い始める優雨に、今度は僕が真っ赤になってしまった。
結局、僕の希望通りりんご飴売り場に行くと、売ってくれたお姉さんが、サービスで僕の分を5%引きで売ってくれた。
「んー!おいしい!!ここのりんご飴、家族と来た時、絶対買ってたの。味も一緒のまんま!」
そう言って、吸い付くようになめる彼女に、僕は笑いをこらえきれなかった。
そのあとも、射的や金魚すくい競争、スーパーボールすくいなど、たくさんの屋台で遊びまくった僕たちは、時間さえも忘れて、楽しんだ。
「プログラム二番、線香花火でーす!10円で売りますが、誰かいりませんかー?」という声を掛けられるまで、僕らは気ままに楽しんだ。
「おっ。線香花火だって!ねね、負けた方が、勝った方の言うことを聞くなんてどう?」
彼女は花火を見つけるなり、にやにやした顔でそう言ってきた。
だから僕は、「受けてたとう」と答え、線香花火を一つ購入した。
「それじゃ、行くよ」
火に線香花火を近づけながら、優雨が言った。
だから僕も、うん。と答えた。
線香花火の先を握ったまま、火のほうに花火を近づけると、ボッという音と共に、線香花火が赤く染まった。
「…綺麗」
隣にいる優雨が、ぽつりと言葉にした、ように聞こえて、僕もうん、そうだね。と答えようと、彼女の方を向いた。
…息を、飲んだ。
燃える炎と、光り輝く花火を見ながら、優雨は笑っていた。
まるで、ずっとこれが見たかった、というような。
始めて線香花火を体験し、心から綺麗だと思う子供様な、そんな無邪気な表情。
思わず見とれていると、ほかの客にぶつかってしまった。
「あっ、すいませんっ…」
ぶつかってしまったひとは、悪気はなかったようで、頭を下げて僕に誤ってくれた。
「いいえ。花火、楽しんでくださいね」
僕はそう言って、線香花火の方に視線を落とすと、線香花火の火は、消えていた。
「やった。私の勝ち」
そう言って、消えた線香花火の火を、名残惜しそうに見た彼女は、すぐ僕に視線を戻し、「お願い事、聞いてもらうよ」と嬉しそうにいった。
「おねがいごとって、何?」
僕がそういうと、優雨は、「少し、歩こうか」と言って立ち上がった。
会場を出て、砂浜を歩く。
近くには、あの桜海も見える。
「…私のお願いはね。君に話を聞いてもらいたいの」
彼女は笑ったままそう言って、僕の返答も聞かず、声を発した。
「…火ってね、儚いって私は思う。水をかければ消えてしまうし、時間がたっても消えてしまう。そんな儚いものでも、ひとはそれがなきゃ生きていけない」
僕は、何も言わなかった。
話を聞いてもらいたい、という願いを、かなえるために。
「…本当、笑えるでしょう。いつかは消えてしまうのに、大切にするなんて。それが、ほかの人の人生を奪ってしまうことも、あるっていうのに。やっぱりひとは、それを大切に、守っていこうと思う。それって、すごく変だと思わない?」
僕は、無言のまま、こくりと頷いた。
優雨は満足したように、話をつづけた。
「…もうすぐ、七夕だね。彦星様と、織姫さまが、年に一回会える日。この日は、誰もがよる、晴れてほしいって願う。でもそれは、織姫様たちを信じているっていうわけじゃなく、単に天の川が見たいっていう、自分の欲の塊なのかもしれないね」
急に話が変わったのは驚いたけれど、僕は黙ったままだ。
「…七夕ってね、祭りがあるところがあるでしょう。けどね、花火は、上げちゃダメなんだよって、お父さんに言われたことがあるの。花火は空に打ち上げるから、彦星様と、織姫さまの邪魔になっちゃうんだよって」
彼女が、何の話を僕に聞かせようとしているかは、わからない。
けれど、この話を、ちゃんと聞かないといけない気がして、僕は波の音と共に聞こえる、彼女の美しい声に耳を澄ませた。
「…この時間が、永遠に続けばいいのにね」
優雨はくるりと振り返って、そう微笑んだ。
「…私ね、もうすぐ」
彼女が言いかけた、そのとき。
ひゅるる、と音がして、静かな砂浜に、大きな花が咲いた。
ぴかぴかと光るひとつひとつの火は、まるで儚さを示しているようだった。
「…綺麗だ」
僕はそのとき、彼女の前でそう言った。
言わざるを得なかった。
後悔なんて、しなかった。
「そうだね」と言われることを、信じていた。
覚悟で振り返った、そのとき。
振り返る時、一瞬見えた、彼女の顔は、ゆがんでいて。
助けて、と言っているように思えた。
僕の視界に、彼女を全身抑えることは、できなかった。
―優雨が消えた。
頭の中は、それしかなかった。
「優雨…?」
真っ暗な砂浜に、どんどんと打ちあがる花火。
「優雨!!」
僕はその音にも負けじと叫んだ。
けれど彼女は、返事さえ、してくれない。
僕は走った。
さっきの屋台のところや、通りすがりの一般人に、こんなひとを見ていませんか、などとも声をかけた。
けれど、僕の姿は見ても、彼女の姿は見えなかった、といわれてしまった。
どうしようもなくなった僕は、屋台のベンチに座っていた。
すると、「あれ?翔くん?」という、懐かしい声が聞こえて、僕は顔を上げた。
「…あかり?」
「おおっ!まさかこんなところで出会えるとはねぇ。で?彼女とはうまくいってる?」
あかりはわたあめ棒をくるくると回しながらそう言った。
「…あかり、優雨を見なかった?」
「へ?ゆう?」
だれだろう、と言いたげな表情のあかりを、僕は咎めた。
「しらばっくれないでくれ。空野優雨だよ。一緒のクラスだろう」
「えー?そんなひと、いたっけ」
彼女は頭の上にはてなマークでもあるかのように、そう言った。
口角は、完全に下がっている。
「ほら、僕が授業をサボった時があっただろう。あのとき、一緒にサボった子だよ」
僕がそういうと、あかりの顔は、ハッと青ざめた。
「…ねえ。翔くん。驚かないでね?」
何か嫌な予感がした。
花火は大きな円を描き、地面に落ちていく。
そのとき、あかりはこういった。
「…優雨って子を、誰も見てないよ」



「…優雨」
花火大会が終わり、僕は桜海のベンチに座っていた。
頭の中は、優雨ばっかりだ。
あのゆがんだ顔が、今も忘れられない。
「…優雨」
真っ暗な海に、僕はもう一度問いかけた。
あかりの話によると、あのときサボったのは僕ひとりだけであり、学校に空野優雨という女子生徒はひとりもいないらしい。
そして、彼女と撮った写真は、証拠を消すかのように、ぐにゃりと曲がっていたり、思い切りぶれていたりしていた。
まるで心霊現象のように思えるが、僕はそうは思いたくない。
きっと彼女は、なにか僕に言いたいことがあるんだと。そう思いたかった。
いや、そう思いたい。
僕は勢いよく立ち上がって、“あの場所”へ向かった。
そう、僕らが初めて出会った、あの場所に―。

普段誰もいないのだから、こんな夜ふけに誰かがいるはずもなく、僕は一人立ちすくんでいた。
そして、あのときのように、ベンチに座った。
その瞬間、懐かしい気持ちでいっぱいだ。
あのとき、僕は死にたい、といった。
ここで、本気で。
そしたら彼女が降ってきた。
これは、神様のちょっとした同情だろうと、思っていた。
けれども違う。
彼女の優しい心が、僕を救いに来たんだと、そう思いたいと思うようになった。
だから僕は言う。この場所で、またキミと会うために。
「……死にたい」
それは、本心のものじゃなかった。未完成の、ぐちゃぐちゃになった心が生み出す、弱さへの言い訳。
けれど、彼女にはきっと聞こえているはずだ。
「…ほら、やっぱり」
僕の隣には、間違いなく、彼女が、座っていた。
うすい茶色い髪の毛は、さっきはまとめていたのに、今はおろしていて、その美しい瞳は、じっと自分の足元を眺めている。
「……」
「優雨。こんどは、君の番だ」
僕は確かにそこにいる、彼女に言った。
「今度は僕が、君を救う」
優雨は涙も流しそうな顔を上げ、ふっ、と顔をゆがめて、笑った。
「…いつ頃、だったかな」
静かなバラ園に、彼女の声が響いた。
「お父さんとお母さんが死んで、いじめが起こった。対象者は、もちろん私」
笑える話じゃないはずなくせに、彼女は今日も笑っている。
「…いろんなことをされた。先生だって、助けてくれなかった。きっと私の元気がないのは、親を失って悲しいからだって思ったんだろうね」
彼女は静かにそう言って、息を吸った。
「…こんな人生ならね、捨てちゃおうって思ったの」
それは本心からの言葉だと、僕は思った。
「君が中学二年生の時、私も中学二年生。ほんとうは、君が通う高校に行くはずだった。けど、中学三年生に上がって、いじめはどんどん増えて言って…」
彼女はそのとたん、花が咲くように笑ったと思った。けれどそれは、きっと自分の醜いところを隠すためだと思う。
「……晴れた日だった。三時間目の授業中こっそり抜け出して、屋上に上がってね。得意の身体能力を生かして、フェンスによじ登って…」
そこまで言って、ハッとした優雨は、僕を見た。
僕は頷いた。
「いいたくないなら、言わなくていい」
と言おうとしたけれど、先に彼女が口を開いたため、僕は口を閉じた。
「…そこから落ちて、死のうとしたけど、足がすくんじゃったんだ。けど、私身体能力はあっても、バランス力なくって。事故で落ちちゃった」
そう言ってくすくすと笑った彼女の瞳は、まったく光っていない。
いつもの、生き生きとしている瞳じゃなかった。
「幽霊になってから、ひまでひまで、ずっとさまよっていたらね。君に会ったの」
彼女は嬉しそうに僕を見て、そう告げた。
「死にたいって言っていたから、焦って言っちゃったんだよね。けど、君は私が見えていた。それで結果オーライだと思った。無理な彼氏役を引き受けさせて、君とずっといられるようにした。私、欲張りだからさ。本当は、君の姿がカッコいいって言っていた女の子たちに、嫉妬してたの」
そう言った彼女は、さらに笑ったあと、僕をじっと見つめた。
「…君と関わるほど、気になって、君と近寄るほど、ドキドキして。生まれて初めての恋も、生まれて初めてのドキドキも、君が最初なのに、それが死んだあとってないよね」
そう言った優雨は、またわらった。
けれど、その表情はどこか歪んでいた。
「……なんで、死んじゃったんだろうって思っちゃった」
優雨はぽつりと吐き出した。
彼女の名前通り、優しい雨が降るように。
「死ななければ、きっと青春を謳歌していた。死ななければ、君と普通に恋に落ちることができた。もう少し我慢すれば…私は、報われたかもしれないのに」
彼女はたぶん、本気でそう思っている。
死ななければ、僕と普通に、恋だってできたかもしれない。と。
「…けど。僕を救ったのは、幽霊のキミだったよ」
始めて、僕は口をはさんだ。
静かなバラ園に、まっすぐな言葉が響く。
「死にたい、と口にした僕を救ったのは、君だった。もし君が、死なないで人間だったとしても、僕の苦しみを見抜くことは、たぶんなかったと思う。けれど、幽霊のキミは僕の苦しみを見抜けた。僕はそれが嬉しかった。もちろん、生きててほしいと思った。一緒に生きて生きたかった。けれど、もし幽霊のキミがいなかったら、僕は本当に、死んでしまっていたかもしれない」
だから、と僕はまっすぐに優雨を見つめ、笑った。
「君は君のままでいい。僕は僕のままでいい。変える必要なんてない。誰にも、変えろという権利はない。君の人生が終わったあとも、それは君の思うがまま、好きなようにすればいい」
言い切ったとき、優雨のほほに、ひとつ、しずくが通った。
ひとつ流れ、地面に落ちると、もう止まらなくなった。
二つ目、三つ目、四つ目。
大粒のしずくが、彼女のほほをつたって下に落ちていく。
彼女は、何も言わなかった。
僕も、もう何も言わなかった。
けれども確かに、そこには愛があった。
決して受け入れてはいけない、愛の誓いが。
「…なんで私、死んじゃったんだろ」
震えた声で、彼女は僕に問いかけた。
彼女は涙で濡らした瞳とほほを拭わずに、そのまま笑った。
あの、花が咲くような笑顔で。
「…君が死んだのは、僕と出会うためだよ」
僕はそう答えた。
多分僕の声も、震えていたと思う。けれど、何も問題はなかった。
泣きたいときは、泣けばいい。きっと誰かが、受け止めてくれるから。
泣きじゃくる優雨を、触れられないぶん、甘やかした。
朝が昇ってきても、優雨が泣き止まないのなら、僕は一夜だって超す勢いだった。
けれど、朝陽が昇ってきた直後、優雨の涙は、こぼれるのをやめた。
「…太陽が完全に上った時、私は消えちゃう」
太陽を拒絶しながら、優雨は求めるように僕に言った。
「その間、何してほしい?」
僕はニヤリと笑いながらそう言って見せた。
すると彼女は、同じように涙を浮かべながら、ニンマリと笑って、「ぎゅーってして」と甘えた。
僕は彼女の身体を、思い切り抱きしめた。
今度は感じる。彼女の体温も、表情も。
きっと今、彼女は笑っている。
作り笑いじゃなく、ほんとうの笑顔で。
気づけば朝陽は完全にうえに上っていて、抱きしめて離さなかった彼女は消えていた。
けれど、なぜかとてつもなく、すがすがしい気分だ。
「…優雨。僕は、僕の人生を生きる。だから少し長いかもだけど、待っててほしい」
朝陽に僕はそう言った。
優雨ならきっと、こういってくれる。
「しょーくんならできる!」
風がふわりと僕の耳を撫で、僕の大好きな明るい声をのせてやってきた。
きっと、彼女はあのときの選択肢を、後悔なんてしていない。
そしてきっと、彼女は今も、笑っているはずだ。
僕は最初の一歩を踏みしめ、朝日に向かって、歩いて行った。