「…死にたい」
ぽつりとつぶやいた声は、雨と共に地面にしみ込んで消えていく。
しずくがポタリと僕の髪の毛の先から零れ落ちていく。
数分前、僕はいつものように放課後を迎えた。
カバンを持った僕は、幼馴染のあかりに声をかけた。
「あかり。今日も一緒に帰ろう」
いつものように、そう言っただけなのに。
彼女は少し申し訳なさそうに、僕をちらりと見ながら、頭を下げた。
「ごめんね。翔くん。今日は彼氏と帰るの」
「…は?」
彼氏、という言葉に、僕は硬直してしまった。
だって、いつも内気で、みんなに合わせていたあかりは、彼氏なんてできるはずない、と思っていたから。
けれど、目の前の彼女は、生き生きとした瞳で、照れたように微笑んでいた。
「えへへ。ずっと好きなせんぱいが居てね、昨日やっと告白したんだ。そしたら、オッケーしてもらえて!今日は一緒に帰ろうって」
「……どうして」
「え?」
「なんで僕に言ってくれなかった?幼馴染だろう」
「いうタイミングがなかったの。別にいいじゃない。さ、私帰るから」
そう言って僕の横を通り過ぎた彼女はスキップをしながら帰っていった。
しつ、れん…?
ひとりで帰っているとき、思わず頭に浮かんだ文字に震えた。
…気づけば、ここにいた。
あまり人目につかないバラ園のベンチに座って、思わず口にした言葉に驚く。
いや、幼馴染が付き合ってショックを受けた、っていうだけ。
…けれど、多分彼女は僕にとって、大切な存在だったんだろう。
それがぶっ壊されて、思わず思いを口に出してしまったんだ。
「…はあ」
ため息をついたあと、手元にあるカサをさし、そこを去ろうとした、そのときだった。
「死んじゃだめっ…!!」
透き通るような声が、空から降ってきた。
そして、目の前に美しい薄茶色の髪の毛が現れた。
まるで、天使の様だった。
「死んじゃだめっ。絶対だめ!」
腰まで伸びた綺麗な髪をまとった少女が、僕の前に立ちふさがった。
そして、死んじゃダメ。という言葉を繰り返している。
どうやら、さっきの僕の声を聴いていたようだ。
「…いや、別に死なないけど」
「うそ!だってさっき言ったよ。死にたいって」
「…いや、それは。別に本気で死のうとは思ってない」
そういうと、疑わしそうにこちらを見てきた彼女に、僕は話題を変えるように、
「キミは誰?」と聞く。
「空野優雨だよ。よろしく!」
「よろしく。君は何年生?年下?」
身長はそれほどない彼女なので、年上はないだろうと考え、そういうと、彼女はぷく、とほほを膨らませた。
まずい、と思った。
もしかして、年上だったのだろうか、と困っていると、彼女は悲しそうに、そして寂しそうに言った。
「…クラスメイトデスケド。覚えてないんですか」
その言葉に僕は呆然とした。
さっきも思ったけれど、透き通った綺麗な声に、同じく透き通るうすい髪の毛に、外人のように美しい瞳。そしてすらりと伸びる足は、まるでモデルのようだった。
小さく小柄な体系も、彼女の魅力を引き立てている。
しかも、顔のパーツも整っていて、ケアなども欠かせないほど頑張っていることが分かる。
そんな彼女が、同じ学年、しかもクラスメイトだったなんて、信じられない。
「…そう。じゃあ、僕の名前も知ってるの?」
「もちろん。八神翔くんでしょ。クラスメイトなんだから、知ってて当然!」
そう言って疑わしい目を向けてくる彼女に、僕は一礼して話題を変えた。
「えっと。じゃあ…」
「ちょっとまって。また質問するつもり?」
「え?あ、まぁ」
どうしてここにいるの、と聞こうと思ったけれど、彼女の遮る声に止められ、僕はその続きを言うことができなかった。
「次は私のばん。君はどうしてここにいるの?」
こっちが言いたいよ、と思ったけれど、僕はあえて黙りこんだ。
その様子で、何かを悟ったのか、彼女はぽんぽん、と先ほど僕が座っていたベンチに座り、横をたたく。
僕はそこに腰を下ろし、ながながと語り始めた。
幼馴染に彼氏ができたこと。
なぜか複雑だと思ったこと。
置いて行かれたような寂しさを感じ、あんなことを言ってしまったことを、すべて彼女に打ち明けた。
その間、彼女は一言も声を出さなかった。
まるで、いいんだよ。と言っているような気がして、僕は彼女を安心しきっていた。
「…なるほど。つまりは、幼馴染に嫉妬をしていたわけだね」
「しっと…?」
僕はてっきり、彼女の方に、好意を寄せているのかとばかり思っていた。
「好きだって思うなら、そっちかもしれないけど、私はそう思う。だって、置いて行かれたように思うんでしょ。なら、寂しかったってことじゃない?前まで仲良くしていたのに、もう話すこともできなくなっちゃうのかもって。怖かったんだと思うよ」
そう言われ、なぜかしっくりした僕に嫌気がさす。
だって、彼女の幸せを、僕は拒んだということになる。
それは、最低な人間だというように、僕は聞こえた。
僕が再度黙り込んでいると、彼女はふふ、と微笑んで、僕の頭に手をのせた。
「大丈夫!人は誰しも、うらやましがることはあるよ。君は、最低なんかじゃないから」
まるで心を読んだかのような口調ぶりに、僕は思わず息をのむ。
始めて会って、そして話した相手に、僕はなんてことをしているんだろう。
けれど、この空間を手離したくないと思ってしまう。
そんな僕に、彼女は優しい言葉をかけてくれた。
…思えば、ここからだったのかもしれない。
僕が、彼女にひかれていたのは。
まっすぐな瞳は、僕だけを写していて、綺麗な声は、僕だけの耳に届く。
美しい髪はベンチにもたれかかるように垂れていて、まるでプリンセスの様だった。
そんな彼女に、僕が思いを寄せるのは、ここが第一歩の始まりだったのかもしれないと、今では思う。
死にたいと思うほどつらかった僕を救ってくれたのは、まぎれもない、君だった。

「おはよー!八神くん!」
次の日から、何も変わりない生活が戻ってきた。
普通に食事をして、普通に学校に行く。
そして、普通に授業を受け、普通に昼食を摂る。
なんて変わったことのない日。
けれど、ひとつだけ違うことがあった。
それは、彼女…空野優雨が、僕に話しかけてくるようになったこと。
朝、校門であったときも、「おはよう!」と元気よく言われたし、授業中も、「わかんないので八神君に聞きまーす」とあえて僕の名前を呼んだり。
そして、今昼休みの時間も、一緒に食べよう。と、屋上のテーブルとイスがセットで並んであるところに腰掛け、買ってきたサンドウィッチを美味しそうに食べる空野さんが目の前にいた。
「…おいしい?」
「うん!めちゃくちゃ」
そう言ってピースした彼女に、僕は、「そう」と曖昧な返事を返し、自分の手元にある焼きそばパンにかぶりつく。
一口食べる?と聞いてきた空野さんに、いいよ、と相槌を打ちながら、僕はぼんやりとパンにかぶりついていく。
パンの面積が、やっと半分になったとき、彼女が立ち上がって大きな声で宣言した。
「これってさー!もう友達でいいよねー!?」
まるで、空に問いかけるような大声で、彼女は叫んだ。
キラキラと光る眼で、僕を見つめながら。
「…君がそう思うなら、いいんじゃない」
「何その返事―!空返事じゃん。どう考えてもさー」
そう言ってまた座る空野さんに、笑みをこぼしながら、僕は再度焼きそばパンを口に運んだ。
あまりにも急展開過ぎて、何がなんだか自分でもわかっていない。
うらやましいと思っていた幼馴染のあかりも、不思議そうな顔でカレシの横でこちらを見ている。
いっぽう、本人はおいしそうにまたサンドウィッチにかぶりついていた。
「んー!やっぱ、おばちゃんが作るサンドウィッチが一番おいしい!」
空野さんは再度、大声でそう宣言した。

「ねえ、この問題の答え教えて」
放課後、図書室で一人勉強していると、隣にドカッと座ってきた空野さんの教科書を覗き込む。
すると、そこにはなにやらラクガキのようなあとが残されていて、ノートにはまだ何も書かれていない。
「…君、今まで勉強してきたの?」
「ひどっ。これでも学年30位以内は入ってたんだぞ!」
嘘だな。とうすうす気づいた僕は、ふうん。とまた適当に相槌を打った。
「で、どこが分かんないわけ?」
「…ここの問題ぜーんぶ」
「…そう。じゃあ、一から教える必要はある?」
「あります」
ここだけ即答した彼女に、僕はあきれ半分でため息をつく。
「…えっと、ここはこの公式を使って」
「あっ。なるほど。じゃあ、ここも…」
「ああ、そう。けど、ここはこっちを…」
そう言った彼女はすごいと言ったような顔を出した。
「わあ、解けちゃった。すごいね。君」
「…別に。いつも順位なんて25位くらいだから。一位の人の方がいいと思うよ」
「え、そう?」
そう言って首を傾げた彼女は、少し微笑んでいった。
「でも、私は君がいい」
断言したような言いぐさだった。
だから僕は、「そう」といおうと思った。いや、そういうしかないと思った。けれど、やめた。
それは彼女の言葉を否定するようにも聞こえるから。
「ありがとう」
一応お礼の言葉を言って、勉強に集中した。
「こちらこそ、ありがと。君に勉強教えてもらえることがまずラッキーだ!」
そう言ってにこ、と笑った空野さんは、さっきまでやっていた教科書を閉じて、ノートもカバンに入れた。
「もう終わりにしよー」
「え。いいの?もうすぐ中間テストだっていうのに」
「あー。その日私、家の用事で学校来れないから」
そう言ってウインクした彼女は、ほら、行こうと僕の腕を引っ張った。
「ど、どこに行くんだ…!?」
されるがままの僕は学校を出た彼女に連れられたまま、出会ったあのバラ園に連れて来られた。
「君はここが好きなの?」
「うーん…。好きなところは、別にあるんだけどね。けど、君にちょっと頼みごとがあって」
「…頼みごと?」
彼女には似合わないような深刻そうな顔を見て、僕の背筋はピン、と立った。
「あのね。私、恋愛がしたいの」
けれど、彼女から発せられた言葉は、僕が思っていることとは三百六十度違う。
「…恋の話なら女子同士でやりなよ。僕は関係ない」
そう言って立ち去ろうとした僕に、「ちょ、まってー!」と彼女が引き留める。
「ちゃんと聞いて。私、恋愛がしたい」
「…えっと。それって、僕と恋愛がしたい…ってこと?」
「そう!君は私の試験に合格したし、ここで出会ったのも、運命だと思うんだよね。だから…」
「いや。ごめん。君が好意を寄せてくれているわけじゃないっていうのはわかるんだけど、さすがに…。僕は幼馴染の変化にも敏感なのに。僕なんかが君の役に立てるかわからない」
そう言って言葉を並べ続ける彼女に、僕は思わず口をはさんだ。
そう言って、僕もながながと話し始めた。
「だから…。ごめん」
深く頭を下げた僕は、そこをこんどこそ立ち去ろうとしたとき、空野さんのため息が混じった声が僕の耳に届いた。
「……したかったなぁ。恋愛」
女子同士でするような恋の話のようなセリフに、僕は思わず息をのむ。
まるで、ドラマでもう長くはない、と言われた少女が、最後の最後にいうセリフの様であった。
どうするべきだろうとも考えず、僕は思わず振り返る。
彼女はベンチに座っていたけれど、僕の方を見ようとはしない。
少し目元がうるんでいるようにも見えた僕は、判断を誤った。
「…僕に、勤まると思う?」
思わずそう聞くと、彼女は少し顔を上げて、笑った。
「もちろん。だから私は君を選んだんだよ―」


「えっと…。具体的に、何をすればいいの」
決定的に、僕は彼女の彼氏になってしまった。
もちろん、仮だけれど。
「えっとね。まず、付き合うときで頼みたいことがあります!!」
そう言ってブイサインをした空野さんは、さっきとはまるで違う。
「これはキミに頼みたいこと。これを守ってもらわなきゃいけないから」
「ああ。わかった」
そう言って僕が頷くと、空野さんは再度、満足そうに笑った。
「まず一つ目。名前で呼び合うこと!」
「なまえ?」
僕が聞き返すと、彼女はうんっ、とうなずいた。
確かに、普通名字を呼びあうカップルはあまりみない。
それは僕も了承できたため、即答することができた。
「二つ目!このことは誰にも言わないで?」
「ああ、それなら僕もあまり噂なんてなりたくないからいいよ」
「じゃあみっめ!これは、君にとって重要なこと」
空野さん…優雨はにんまりと口角を上げ、僕をみた。
「私のこと、好きにならないでね?」
ふつうのカップルならありえない発言だけれど、僕は素直に了承することができた。
僕らはお試しで付き合うような、そんな関係のため、別に無理に愛し合うこともない。
まるでマンガのような物語だけれど、現実に起こればあまり驚きはしないものだなぁと思いながら、僕は答えた。
「…もちろんだよ。もし好きになったって、多分僕は口にすることはないと思う」
「ふふん。君は口が堅いねぇ」
「…っていうか優雨は君っていうの?名前で呼び合うと約束したのに」
「あーっ。忘れてたぁ」
そう言ってあはは、と笑った彼女は、よしっ。と気合を入れ、ベンチから立ち上がった。
「じゃあ私の大好きなところに、連れてってあげる!」

「…えっと、ここはどこ?」
バラ園から数分歩いたところ…海が見える、この街で一番高いガケの上。
それは、わかる。けれど、いつも見ている学校や、商店街も、大きな家々もない。
ここは、ほんとうに、“何もない”のだ。
「ん?町はずれの崖の上」
そう言った彼女はきれいだねぇ。と、近くにある桜の木の下に座り、長々とそう言った。
「ちょっ…ここ圏外じゃないか!マップ機能が使えない…」
「そりゃあ、私の秘密の場所ですから」
そう言ってふふん、と鼻をすすった彼女。
ここは風通しがよく、夏でも涼しそうだ。
「ここが、私と君…あ、翔くんの秘密の場所ね」
秘密の場所、という響きに、思わず夢みた僕は、すぐに了承した。
けれど、君と名前を間違えたのはルール違反として、アドレス交換をすることになった。
「…ねぇ」
数分そこで入り浸ってていると、彼女が少し不満そうに口をとがらせて言った。
「翔くんって言いにくい」
「いや、そう言われても」
詰め寄られた僕は、崖の端まで追いやられ、パラパラ…と土が崩れる音がした。
ここは柵で囲われているけれど、あるのは一つの二人用のベンチと、大きな桜の木。
桜の木のおかげで、この場所がばれずに済んでいる。
桜の花びらで隠されているため、ここは本当に秘密の場所だ。
夕焼が海に沈んでいく光景を眺めながら、優雨は楽しそうに笑った。
「じゃあしょーくんってよぶ。その方が分かりやすいでしょ?」
ふふ、と微笑んだ彼女は、イタズラに成功した子供のような表情だった。
そして、なんとも憎たらしい顔であった。
しぜんと、僕のほほも緩んでいた。
ふ、と思わず声が漏れて、僕らは声を出して笑いあった。

【今日はすっごく楽しかった!ありがとう】
夜、お風呂に入ったあと、濡れた髪の毛を乾かしながら、スマホを開くと、優雨から初めてのLINEが来ていた。
だから僕も文字を打って返信した。
【僕も楽しかった。明日も中間テストの勉強する?】
そう送ると、すぐまた返信が来た。
【あー。明日は学校、行けないんだ。けど、あそこでなら会える!】
それとともに送られてきた、土下座したウサギのスタンプに、僕は苦笑しつつ、【いいよ】と打った。
そして、立て続けに文字を打っていく。
【あそこっていうのわかりずらいから、違う呼び方に変えない?】
そこまで書いたとき、僕は文字を消してまた文字を打ち直して返信する。
【あそこ、っていうのはわかりずらいから、呼び方を決めよう】
すると彼女はすぐにまた返信をしてきた。
【いいよ!もちろん。私はあそこのことを、桜海って呼んでるよ!】
桜海…か。
【いいかもね。桜が咲いているからと、海って書いてあるから?】
【そうそう!良いでしょう。私が考えたのだよ。】
そう送ってきた彼女は、少し照れたようなスタンプを送ってきた。
【もう寝るね。お休み】
少し話し合って、九時を過ぎたとき、優雨がそうメールをよこし、会話は終了した。
そのあともちらちらとスマホを開いてみても、優雨からの返信はない。
彼女の門限は九時までなんだ。と新しく発見できたことが少しうれしく感じるのは、多分気のせいである。

「おはよーしょーくん!」
しょーくん、と呼ぶ声に聞き覚えがあり、僕は思わず振り向いた。
けれど、そこにいたのは、幼馴染のあかり。
「どうしたんだよ、その呼び方」
「へっ?昔はこう呼んでたでしょう。何たじろいでんのー?」
不思議そうな表情を見せたあかりは、変なのー。と自分の席に戻っていった。
俺はスマホを開いて、おはよう、と打っていく。
そうだよな。あいつは、学校に来れない、みたいな言っていたし。
僕は文字を打ち込んだあと、送信ボタンを押してスマホの電源を落とす。
けれど、すぐに短いメロディーが流れた後、ピカピカとスマホが光っていたため、僕は再度電源を起こし、書かいてある、〔優雨からの返信です〕という文字に胸を躍らせながら、それをタップする。
【おっはよ!愛しのしょーくん、今日は桜海に来れる?】
もちろん、と打とうとしたとき、先生が教室に入ってきてしまった。
やばい、と思って、すぐ打って送信。
スマホをカバンの中に忍ばせ、背筋を伸ばす。
「んん?いま、八神スマホ持ってなかったか?」
意外と鋭いな、と思いながら、睨んでくる先生に微笑んだ。
「はは、先生。言いがかりはよしてくださいよ。っていうか、もう30分ですよね?早くホームルーム始めましょう」
そういうと、先生は、少しびっくりしたように「そ、そうか…」と答えた。
あかりはそんな僕をみて、少し苦笑しながら、ナイス。と合図を送ってきた。
僕もこくり、と頷いて合図を送った。
辛うじて、僕のスマホが見つかり、没収されることはなく、放課後を迎えた。
学校出た後、すぐスマホを開いて、メッセージを確認する。
すると、【りょーかいっ】とメッセージが送られていて、僕はすぐ桜海に向かった。
「…優雨?いる?」
思ったより早めについた僕は、桜海についたとき、一番に口にした言葉は、彼女の名前だった。
けれど、肝心の彼女の顔は見えなかったため、僕は不安になって端まで移動する。
「優雨…」
不安になり、ゆっくりとつぶやくと、いきなり視界が黒に染まった。
「だーれだ?」
不安とは裏腹な、まっすぐな明るい声に、僕は確信を得た。
「優雨?」
「せーかい!」
とたんに明るい視界にもどり、にっこりと笑った優雨の顔が視界に移り、一気に安心した。
「遅いよぉ!」
「結構早かったと思うんだけど」
そう言い訳すると、彼女はぷく、とほほを膨らませて、「私としては遅かった!」と無駄口をたたいた。
「っていうか、僕は何をするためにここに呼ばれたの?」
「えっ?そりゃあもちろん、私といろんなことをするため!」
「…いろんな、こと?」
「そう!例えばね、このノートみて!」
彼女は嬉しそうに、小さいリュックサックからノートとペンを取り出し、覗いてみて、と僕に声をかけた。
僕はペラリと表紙をめくり、そこに書いてある文字に驚いた。
【君とご飯を食べる】
【遊園地の観覧車からみた夕焼を見る】
【夜に二人きりの桜海】
【君と一緒に星空を眺める】
などの、彼女の“希望”がずらりとそこにつづられていた。
「…これ、ほとんど、君って入っているけれど、それって…」
「もちろん、君のこと…じゃ、なくって、しょーくんのことだよ。他に誰がいるの」
そう言って微笑んだ彼女に、僕は思わず呆然としてしまう。
「これはね、私の、ゆめが書かれたノートなの」
「ゆめ?」
「うん。いつか、恋人とこんなことをしたいなぁって思ってかいた、ノート。素敵でしょ?」
そう言って微笑んだ優雨は、落ちていく夕陽の中にいるせいか、顔が赤く見えた。
そして、生き生きとしている、瞳が、スッと僕をみつめた。
「このゆめを、かなえたいの。だから、君に付き合ってもらう。具体的に言うと、この通りのことをしながら、写真を撮るって感じかな」
優雨はスマホのカメラを開いて、ニコニコと笑みを作る。
「もちろん、君も一緒に映ってもらうよ。これは、私と君のゆめだから」
「なるほど」
「でもね、そのためには、まず君を知らないといけない」
そう言った彼女は、女の子らしくウインクして、「君の苦しみを、ぜーんぶ聞きたい!」と宣言した。
「…えっと、苦しみ?」
「そう!カップルっていうのはね、二人の苦しみや悲しみを、半分こできる、パートナーのことなんだよ!」
「なるほど。ということは、僕は昔のことや、今のことを言わなきゃいけないと」
「そう!聞かせて、君の過去」
優雨はまっすぐな瞳で僕を見つめた。
だから、僕はいいな、と思った。
優雨になら、いいかもしれないと、そう感じてしまった。
だから、僕はこぼした。
自分のすべてを。

「僕は昔、よくしゃべる子だと言われていたほど、しゃべることが好きだった。けれど、小学三年生のとき、父にあのひとの息子とは話すな、と言われてしまったんだよ」
「えぇっ!?どうして?」
「なんだか、父が経営している会社のライバル企業の息子だったらしい。だから、あまり仲良くなってほしくない、と」
「えぇ、そんなので子供の自由を奪うなんて、卑怯な大人だね」
「あぁ…確かにそうだね。続けると、僕は彼の息子と友達になりたいと思っていたから、父の言葉も無視して、そのこと親友になった」
思い出すだけで苦しいけれど、彼の笑顔は、ちゃんと僕の頭に焼き付いている。
「初めて、親友になろうと言われたとき、すごく嬉しかったよ。父の言葉なんて無視して、ひたすら名前を伏せて彼と遊んだ。すごく楽しい日々だったよ。けど…」

思わず身震いして、だまりこくってしまった僕に、優雨は悲しそうに微笑んで、いいよ。と囁いた。
僕はすぅ、と息を吸って、彼女のように笑った。
「…数週間は、安泰だった。バレルこともなく、いつも彼と遊んでいた。けれど、一か月程度を超えると、父の様子がおかしくなった。誰と遊ぶのか、どこで遊ぶのか、そんなことを注意深く聞いてきた。だから、僕はその度、うそをついて遊びに行った」
「…」
「けれど、遊んでいる最中に父と出くわして、僕と彼は引き裂かれてしまった。父は僕に暴行を加えるようになり、無視されるようになった。今までは褒めてくれた100点のテストも、もらった賞状も、ほめてくれなくなった。しかも、向こうの息子の方にも危害を加えたりして、結局父はつかまった」
「そりゃあそんな仕打ち受けなきゃかわいそうだよ」
始めて彼女の目もとが少しうるんでいた気がした。
けれど、彼女は泣かなかった。
僕も、泣きはしなかった。
ただ思い出して、その静かな空間に身を任せていただけ。
けれど彼女は、しっかりと前を見据えていた。
「…あ。八神くんだ!」
桜海を少し出たところのコンビニに足を運んでいると、ちょうどクラスメイトの女子生徒に出会った僕は、「どうも」と少し声を下げて挨拶した。
隣には、楽しそうにお菓子を選んでいる空野さんもいる。
「ひとりー?」
「え…いや。空野さんと…」
「空野さん?」
彼女は少し首を曲げ、考えたように口角を下げた。
「えっと、ひとりだよね?」
「え?いや、そこに…」
僕が彼女の方に振り替えると、そこには彼女はいなかった。
変わりに、ぽつんと一つ置かれたお菓子が、寂しそうに影を作っていた。
「…え?」
先ほどまでいた優雨の影を見ながら、僕は呆然と立ち尽くす。
あたりを見回しても、優雨の気配は感じられない。
「えーっと。八神くん、大丈夫?」
クラスメイトの声に、僕はこくりと頷きながらも、ほんとうは大丈夫でも何でもない。
その日、結局桜海に戻っても、彼女はいなかった。
家に帰るとなんだかとても静かで、あの陰気腐った毎日が戻ってきたかのような感じだ。
夕陽の光が窓から差し込んで、僕を照らす。
部屋に戻った僕は、スマホを手に取って彼女にメールする。
【今日、どうして急にいなくなったの?】
送信ボタンを押そうとして…押せなかった。
指先が細かく震えていて、どうしても磁石のようにそこをタップすることができなかった。
けれど、数分固まったままも嫌だから、目を閉じて決意を胸に、ボタンを押した。
―既読は、つかなかった。
次の日になると、僕はすぐ隣の席にいた学級委員長に声をかけた。
「あの…」
「ん…。はい、何ですか?」
学級委員長はメガネをカチャカチャとかけなおし、読んでいた本を閉じて僕を見据える。
「えっと、空野優雨って、まだ登校してきてない?」
「そらの、ゆう…?」
委員長は少し驚いた顔でこちらを見てきた。
そして、覚えるかのような口調ぶりで、なんどもなんどもその名前を口にした。
「えぇと、すみません。私、覚えるの得意なはずなのに、その人を知らないんですよね…。じょうきゅう…」
委員長がそこまで言ったとき、あぶなっ!という声と共に、制服姿の、優雨が現れた。
「ゆ・・・空野さん!」
「ん?あ、おはよー八神くん。昨日はごめん!急用入っちゃって何も言えずにさよならしちゃったんだよねぇ」
そう言って汗を拭く優雨に、僕はほっと一息ついた。
「メール送ったんだけど、見てない?」
「えっ、マジ!?ごめん、見てない!」
そう言って、忙しかったからなぁと口にした優雨に、嫌われていたわけじゃないんだ、とこぼす。
そのとき、周囲の視線に気が付いた。
周りの視線は、彼女ではなく、僕に向いている。
その目は、何をしているんだ、こいつは。と言いたげなひとみ。
そう、例えば蛙を手のひらに乗せて可愛がっているひとに向けるような、そんな視線。
それを僕に向けているけれど、誰一人として、それを言葉に出さなかった。
どうした、と聞こうとしたけれど、目の前にいる優雨が会話を急かしているため、すきも与えてくれない。
「私、授業サボっちゃおうかなぁ」
あと数分で授業開始…というとき、彼女がつまんなそうにそう言った。
「え?」
「だって授業って、当たり前のことしか話さないでしょ。面白くない!」
ぶつくさいう彼女に、僕は困惑の目線を注ぐ。
だってそれじゃあまるで、おまえもサボれ、と言っているようだから。
「……言っておくけど、僕は」
「ねっ。君も一緒にサボろう!その方が私も楽しいし。言い訳は、トイレ行ってた、にしよー!」
そう言って、ほらはやくっ。先生にバレちゃうよ、とせかしながら、僕の腕をぎゅうぎゅう引っ張る優雨に、僕はしぶしぶついていく…いや、連れていかれるはめになってしまった。