彼女が消えてしまう日。
手術を1時間後に控えた瑠菜に、僕はベッドの横で寄り添っていた。
手を握ることは出来ないけれど、そっと励ますように自分の手と彼女の手を重ねていた。
「ねえ、……天使くん」
彼女がそう呼んでくれるのも、あと何回だろう。
そんな考えをどうにか振り払って、最大限に優しいトーンで聞き返す。
「うん?」
「私ね、月に帰るんだ……」
ぼんやりと窓の外を眺めている瑠菜は、そんなことを呟く。
僕は平静を装って、こくりとうなずいた。
「瑠菜の名前も、フランス語で月っていうからね」
「そうだよ? だからかなあ、どうしても月に惹かれてしまうの」
放っておいたら本当に消えてしまいそうで、月に帰ってしまいそうなほど、いまの瑠菜は儚い。
「いつか私、天使くんに聞いたよね……。『私が月に帰っても、見つけてくれる?』って」
「覚えてるよ。僕は確か、うなずいた」
「そうだったね。だから、私はもう寂しくない。……安らかに帰れるよ」
いまは既に19時。
まだ夜は更けていないけれど、瑠菜が消えてしまう日だということを象徴するように、今夜の月は美しく輝いていた。
まだ、どうしても実感が湧かない。
瑠菜はこうして生きている。
隣でにこやかに微笑んでいる。
それなのに、どうして繋ぎ止められないのだろう。
「何度も何度も伝えたけど。天使くん、本当にありがとう」
「まだ、……僕はここにいるよ」
「うん。でも、天使くんはわたしに……何回言っても足りないくらいのありがとうをくれたの」
「それは……僕の台詞だよ」
瑠菜は僕の存在を、たくさん肯定してくれた。
明るい笑顔の裏に、弱音を隠す強さを持っていた。
そんな彼女に励まされたのは、僕のほうだったのだ。
「やだなあ……。天使くんとお別れかあ……」
「…………違うよ、僕は天界にいるから、いつだって会える」
「あはは、そっか。それならここからいなくなっても楽しい場所だね、きっと」
違う、会えない。
もう瑠菜の無邪気な笑顔は見れない。
それなのに、どうしたって仕方のない嘘を吐いて、彼女の笑顔を守りたい。
「……天使くん」
ふわっと微笑む瑠菜を見ると、苦しいくらいの鋭い痛みが胸を突き刺す。
僕はどうして、彼女の人生の見届け人なんだ。
……出来ることなら、彼女を不死身にさせてあげられる存在が良かった。
何もできない無力な僕は、瑠菜に笑顔を返す。
「ね、ほら、……月が綺麗だよ。天使くん」
────『好きな人と月を一緒に眺めていたら、" 月が綺麗ですね "って言っちゃうかもしれない』
彼女が数日前呟いていた言葉を思い返して、油断したら泣いてしまいそうになる。
まだ外は薄暗く、はっきりとは見えない。
だけど僕は、同じように言葉を紡ぐ。
「すごくすごく……綺麗だ」
あの月は、美しくて荘厳な月は、僕が大切に想う瑠菜を連れ去ってしまう。
あと数十分で、彼女は彼処へ行く。
「ふふ、私いま……夏目漱石の気分だよ」
「それなら僕は、夏目漱石の隣で、……月を見上げるよ」
「……あはは、天使くんったらロマンあるじゃん」
僕らは正反対だった。
瑠菜は良く話すし、僕は口下手でいつも聞いてばかりだ。
彼女は良く笑うし、僕はへたくそな笑みを浮かべるのが精一杯だ。
彼女は強いけれど、……僕は臆病だった。
「どうしてだろうね、天使くんをいま、……すごく抱きしめたい」
「……うん」
返事のかわりに、そっと彼女の頭を撫でた。
温もりこそないけれど、僕の動作を目で見て、瑠菜は嬉しそうに目を細めた。
「不思議と私、怖くないよ。だって、天使くんがそばにいたら、無敵になった気がするから」
「どちらかというと、僕が瑠菜に、無敵にしてもらっているよ」
「あはは、じゃあ……お互いさまだね」
……瑠菜、行かないで。
どこにも行かないでほしい。
消えないでほしい。
帰らないでほしい。
笑顔を守らせてほしい。
そんな願い、叶わなくても。
それでも良いから、瑠菜の隣にいさせてほしい。
「……もうすぐだね」
気付けば、手術の時間まであと10分になっていた。
正式には準備までの時間だけれど、別れが迫っているのは確かだった。
担当医や看護師さんが来る前に、僕は退散しなければならない。
瑠菜を遠くで見守るために。
「ありがとう、ありがとう。本当にありがとう……天使くん」
「……言いすぎだよ」
「ううん。私、……天使くんに初めての感情ももらったよ。自分がいなくなっても、相手の幸せを強く願うっていう感情。……簡単に言えば、愛だね?」
「……僕はずっと瑠菜のそばにいたいって、消えないでほしいって、初めてこんなに強く願ったよ」
「ふふ、……嬉しいね。それももしかしたら、愛なのかなあ」
僕らは不器用で、未熟で、この感情が何かわかっていても、言えなかった。
それは別れの瞬間だとしても、変わらず、僕らは不器用だった。
病室の外で、夜なのに騒がしく、人が行き来している足音が聞こえてくる。
本当にこれで終わるのかと思うと、悔しくて辛くてしんどくて、どうにかなりそうだった。
それなのに、当の本人の瑠菜は笑顔を絶やさない。
その強さは、こんなに小さく華奢な身体のどこに、存在しているのだろうか。
「……そろそろお別れだよ、天使くん」
一筋の涙も見せない瑠菜は、完璧な笑顔を僕に向けた。
僕の記憶に、いちばん美しく、天使のような彼女の笑顔が焼き付くように。
そして僕は、困ったような表情をして、それでいて、これがお別れじゃないという意味を込めて、首を横に振った。
「僕は……、僕は……」
何を言っても、あとで言い足りなかったと後悔する気がした。
だけど時間が迫っている中、彼女との過ごした時間が温存される前に、言わなければならないことがあった。
「この夜、ずっとずっと……月を眺めているよ」
瑠菜を、見届けるよ。
だって、瑠菜は死ぬんじゃない。
月に帰ってしまうだけなのだから。
なんとか振り絞った言葉は、あまりにも哀しかった。
涙を堪えるのに必死で、そんな勇気のない僕の言葉に、瑠菜は仕方なさそうに眉を下げて笑った。
「……じゃあ私を見つけたら、笑ってね。今みたいに悲しい顔じゃ、月に帰れないよ」
ほら、見つけてくれるって言ったでしょう?
そう目を細める瑠菜は、やっぱり僕の天使だった。
「結城瑠菜さん、入りますよ」
病室の扉の前で、足音が止まる。
タイムリミットだ。
惜しい気持ちを押し込み、僕は病室から姿を消そうとする。
多くの人が彼女の部屋に入ってくるその前、その瞬間に。
……彼女は僕を優しい笑みで包み込んで、そっと呟いた。
「私はもう、……朝日を見れないんだね」
──────僕の名前は、“ アサヒ ”だった。
初めてそれを教えたとき、彼女は『素敵な名前だね』と小さく呼んでくれた。
彼女は、もう明日の朝日が見れないと、そういう意味で言ったのかもしれない。
だけどロマンを好む瑠菜はもしかすると……、もう僕に逢えないという意味を込めたのかもしれない。
それが、瑠菜の最期の言葉だった。
僕も彼女も、泣かなかった。
たくさんの大人たちに連れられて病室を出て行く彼女を、扉が閉まるまで、ずっと笑顔で見守っていた。
瑠菜を笑顔で送り出すために。
彼女に心配かけないために。
そして、……彼女がいなくなるこの世界を、生きるために。
その夜は、雲ひとつない美しい夜空だった。
僕はその夜空を、ただずっと、眺めていた。