また、朝を迎えた。

 今日で瑠菜の余命は、2日に迫っていた。


 彼女のもとへ行くのが辛くなり、病室へ向かうのに足が重い。

 だけど彼女を見守るために存在している僕は、いつもより遅い時間に降り立った。


「あれ、天使くん遅刻?」

 今日も変わらず明るく迎えてくれた瑠菜は、退屈そうに読んでいた文庫本を閉じて首を傾げた。

 僕に対して『遅刻』なんて言葉を使ったのは瑠菜が初めてだよ……と思いつつ、こくりとうなずく。


「寝坊……かな」

 瑠菜との時間が限られていくのを感じるのが辛くてなかなか行けなかっただなんて、そんな臆病さを垣間見せるわけにもいかず、またもや小さな嘘をつく。

 すると、彼女は可笑しそうに目を細めてから言った。


「天使くんが寝坊って、似合わないね」
「……僕だって、眠いときがあるんだ」

「あはは、そうだね。天使くんってスケジュール管理とか上手そうだから、意外だなって思ったの」
「スケジュール管理……。その前に、僕は寝るっていう概念もないんだよ」

 結局嘘だということをネタバラシするはめになり、呆れたような口調になってしまう。

 瑠菜は少し、天然なところがある。
 だってほら、いまもきょとんとして、僕が嘘をついたことにも気付いていない。


「そうなの? いいなあ。ということは天使くんの時間は無限だ」

「うん、……そういうことになるかな」

「なんだかんだ私、天使くんのこと全然知らないなあ……」


 昨日あんなにたくさん話したのに、と思うけれど、彼女と過ごす時間はどれだけあっても足りない。

 こんなふうに思うのは初めてで、自分自身もかなり戸惑っている。


 それなのに、今日は僕が臆病なせいで、少し瑠菜との時間が削られてしまった。
 口惜しい気持ちを隠しながら、彼女と続けて話す。

「瑠菜は、さっきまで何を読んでたの?」

 ベッドの上に放り出されてある文庫本を指差して言えば、彼女は思い出したように口を開いた。


「夏目漱石の、『吾輩は猫である』だよ。小さい頃読んだのを思い出して、久しぶりに開いてみたんだ」

「さっき、すごくつまらなさそうに読んでたように見えた、けど」

「えーっそういうこと言う? それは、天使くんの登場が遅かったからだよ」


 鼻息を荒くして憤慨する瑠菜に、ごめんごめんと謝れば、彼女はすぐに機嫌を良くして続けた。


「私、月を眺めてたら不思議と心が安らぐのね」
「うん?」

 突然話が飛躍したかと思えば、そうではなく、脈絡は繋がっているらしい。


「ほら、夏目漱石が『 I LOVE YOU 』を『月が綺麗ですね』って訳したエピソードは有名じゃない?」

「ああ、僕も聞いたことある」

「でしょ? 私初めてそれを知ったとき、美しいなって思ったの。どうしたって、私にはそんなふうに訳せない。でも、好きな人と月を一緒に眺めていたら、『月が綺麗ですね』って言っちゃうかもしれない」

「うん……? 僕には……難しいかな」

「あはは、大丈夫。私も好きな人はいたことないもん。でもね、すごく素敵な言葉だと思うよ」

「……うん、瑠菜がそう言うなら、そうなんだろうね」

「もう、やっぱり、天使くんにはロマンがないなあ」


 やれやれと息を吐いた瑠菜に、いつもの彼女みたいに僕が拗ねそうになる。

 でもそんな子供っぽいことは出来ずに、平然と流した。


 いまはまだ夕方で、月は薄くしか見えない。
 それを窓からじっと眺めて、彼女は少し困ったように眉を下げて僕を呼ぶ。


「……ねえ、天使くん」
「うん?」


 瑠菜の声のトーンが、少し下がった。

 彼女が僕を見ないで窓の外を見るときは、いつだって儚い横顔をしている。


 それに気づいた僕は、心臓が苦しくなるのを悟られないようにするのに必死だった。


「私を不死身にして……なんて、無理なお願いだよね」



 辛うじて、平静を装った。

 出来ているかは、わからない。

 でも、瑠菜はわざと僕を見ていなかったから、苦しくなったのを悟られなくて助かったのだ。
 僕は、何も言えなかった。

 彼女がどんな気持ちでその言葉を紡いだのか、考えただけで辛くて、口を開けなかった。

 数秒の沈黙が落ちると、途端にぱっと無理やり笑顔を作った瑠菜は、目尻を下げて微笑んだ。


「違うよ、嘘だよ。天使くん」
「……瑠奈」

「ごめん、……困らせるつもりはなかったの。本当だよ」


 僕は笑って流すべきだったのかもしれない。
『やってみようか?』だなんて言って、彼女の自然な笑顔を守るべきだったのかもしれない。

 でも僕は、それ以上に、彼女がもうすぐ消えてしまう哀しさに耐えられなくなっていた。

 こんな感情、持つべきじゃないってわかっているのに。


「僕こそ、……ごめん」

「わ、なんで天使くんが謝るの? ほんと、優しいんだから」
「僕は、……瑠菜に何も与えられてない」

「何言ってるの。もらってばかりだよ?」


 顔を上げれば、彼女はうっすらと涙を浮かべて、少し怒ったような表情をしていた。


「天使くんは、もっと自分に自信を持ってよ。わたし、天使くんのその優しさ、すごく良いと思う」

「……瑠菜は、僕をたくさん褒めるから」

「だって、全部本当のことだもん」


 ムッとして言い返してくる瑠菜は、いつになく真剣な顔をしていた。

 その表情を見ていたら、なんだかじわじわと元気が出てきて、思わず笑みが溢れた。


「瑠菜は、すごいよ」
「えー? どこが」

「すごい。強くて、優しい。僕も、瑠菜のそういうところ、良いと思う」
「え、えーっ、そんな突然照れること言わないでよ!」

「瑠菜はいつも、僕に言うだろう」
「でも、天使くんがそんなこと言ってくれるなんて……感激だよ」


 そう嘆いた瑠菜は、ぽとりと涙を落とした。

 きっと僕の言葉で泣いたわけじゃないのだろう。
 もっときっと、苦しい理由。

 胸がギュッと痛んで、彼女のそばに寄り添う。

 ベッドの横に立ち、手を握ってあげたくても、それすらも叶わない。


「ね、天使くん。……もっと困らせちゃうかもだけど、ひとつ言ってもいい?」
「うん、……なに?」


「私、もっと生きたいなあ……」



 小さな声だった。

 ちゃんと耳を澄ませていないと、聞き逃してしまいそうなほど。


「それで、もっと天使くんと話したいな……」

「…………うん」



 僕も、涙が滲んだ。

 瑠菜がこんなふうに自分の想いをぶつけるのは、初めてだったから。

 だけど、なんとか堪えて、彼女が泣いているのを静かに見守る。


「私、まだこんなに元気なのに。まだ17歳なのに……どうして死なないといけないの……?」

「……うん、…………うん」

「だめだなあ、私。自分で決めたことなのに……」


 とめどなく涙を流す彼女を、抑えきれず抱きしめた。

 もちろん、僕は透けているから、彼女に温もりを与えることは出来ない。


 だけど感覚こそないけれど、僕は瑠菜を包み込むようにして、そっと腕を回した。


「天使くん……抱きしめてくれてるの?」

「いちおう……その、つもり」

「もー……っ、優しいにもほどがあるよ……」


 そっと僕の背中に腕を伸ばし、瑠菜も抱き締めるようにして腕で輪っかを作った。

 僕らは温もりこそ分かち合えないけれど、心は繋がっていた。


 感覚など、なくていい。
 ただ、見えない温もりがあるだけで、充分だった。

「……ありがとね、天使くん」
「僕は、何もしてないよ」

「ううん。すごく心が軽くなったよ。……だから、もう弱音は吐かない」

 にっと口角を上げて笑った彼女は、その瞳に涙こそ滲んだいたけれど、いつもと変わらなかった。


 それがまた、彼女の強さであり、弱さだ。

 少しだけ弱音を吐いたところも、きっと瑠菜の強さだ。


「もう、大丈夫だよ。天使くん」

 いつまで経っても瑠菜を抱きしめるようにして立っている僕に、彼女は柔らかく笑って言った。

 こくりとうなずいて彼女の隣に座ると、窓の外が見えた。

 暗くなっていく空を眺め、また夜が来る絶望感に苛まれる。


「天使くん、まだここにいる?」


 さっきまで泣いていた瑠菜を置いていくはずないのに、彼女は不安そうに尋ねてくる。


「いるよ」


 そううなずけば、瑠菜は嬉しそうに笑顔を向けてくれるのだから敵わない。


 いつしか彼女の一挙一動に心が左右されている。
 それが続く日々も有限なのだと思うと、また胸が鋭く痛んだ。

 夜が明けないように、僕らは今夜も語り尽くす。


 瑠菜が話し疲れて寝てしまうそのときまで、ずっと話し続けていた。