彼女の余命が、残り3日になった。
なんだか早く瑠奈に会いたくて、彼女が目覚める前に病室に降り立つ。
そんなことは初めてで、自分でもかなり瑠菜に感情移入していることは自覚していた。
でも彼女との時間は有限なのだから、それくらいしたって惜しいほどだと思う。
ゆっくりと目覚めた瑠菜は、僕なんかより、ずっと天使のようだった。
「わ、天使くん。今日は早いね」
「思ったより早く着いたんだ。おはよう」
照れくさくて、嘘をつく。
意識的に早く会いに来たなんて、言えるはずがない。
そんなことを察するはずもなく、瑠菜は眠そうな目をゴシゴシと擦って微笑んだ。
「おはよう、天使くん」
うーんと伸びをしながら、瑠菜はふわあっと大きくあくびをしている。
「まだ眠たいなら、寝ていて良いよ」
「わ、またそうやって寝かそうとする!」
わたしは子供じゃないんだからね、と頬を膨らませる瑠菜は、少し……いやかなり子供っぽい。
抗議してくる拗ねたような表情が可愛らしくて、なんだか意地悪したくなるのだ。
「また、朝が来ちゃったな」
小さく呟いた言葉を、拾うことは出来ない。
僕にとっては、変わり映えのしない何でもない朝。
だけど、彼女にとっては、朝が来るのはカウントダウンと同じなのだ。
瑠菜が朝目覚めたときに肩を落としたのも、現実が見えて苦しい。
やっぱりこんなときに気の利いた言葉ひとつ言えない自分の不器用さに腹が立った。
「そうだ。今日は、天使くんの話をしよう」
「僕の話?」
急にどうして。
目を見開く僕に、瑠菜はすっかり目覚めたようで、にっと笑って言った。
「私ばっかり話してるもん。それに、天使くんのこと、もっと知りたいの」
「……そんなに面白くないよ」
「あはは、違うよ。面白さを求めてるわけじゃないの。ただ天使くんがいままでどうやって過ごしてきたかを聞きたいだけ」
僕はすごくつまらない日々を過ごしている。
そんなことを話すのに、瑠菜の時間を割きたくなかったけれど、彼女が瞳をキラキラさせて待っているから、仕方なく話すことにする。
「具体的に、なにを話せばいい?」
自分から自分のことを話す機会はあまりない。
だから戸惑いながらそう尋ねたら、瑠菜はうーんと悩んでから口を開いた。
「そうだなあ……。例えば、いままでこんな人見届けてきたよーってお話とか?」
「ああ、……それならひとつあるよ」
つい1ヶ月ほど前に見届けたのは、かなり個性的な子だったから強く印象に残っている。
瑠菜も楽しんで聞いてくれそうだな、と思って言えば、彼女は案の定嬉しそうに顔を綻ばせた。
「わ、どんな人だったの?」
追想すると、無邪気な笑顔が浮かんでくる。
あの子もいまこの世にいないのだと思うと、ひどく胸が痛みそうになる。
だけれど僕は何十人と見届けているから、逐一そんな感情を持っていると、いつか壊れてしまう。
だから、死を悲しいとは思わないようにしている。
見届け人とは、そういう存在なのだ。
「5歳の男の子だったんだけど……初めて僕を見たとき、驚きすぎだんだろうね。『幽霊さんだ!』って叫んじゃって」
「幽霊さんって……あはは、可愛いね」
「うん、でも他の人には僕が見えないから、男の子の大きな声に看護師さんが慌てて駆けつけてきちゃって」
「えーっ、それは大変だね」
あのときは参ったな、といまでも微笑ましくなる。
瑠菜もこうやって普通に僕と話しているけれど、個室じゃなければかなり怪しまれるだろう。
だから彼女が少し大きい声で笑うと、看護師さんが不審に思わないかひやひやするのだ。
「それで、なんとか『僕は怪しい人じゃないから、看護師さんには内緒にして』って必死に懇願して、なんとか男の子に弁解してもらったんだ」
「あははは、5歳の子に気遣わせちゃったんだ。だめだなあ、天使くん」
「それは本当に……反省してるよ」
なるべく驚かさないように現れたつもりだったけれど、小さい子にはさすがに無理があったようだ。
僕の存在を理解してくれたその子は、看護師さんがいなくなってからたくさん話してくれた。
「うそうそ。天使くんってその見届け人ってやつ、天職だと思うよ? きっとその子にとっても、特別な存在だったんじゃないかなあ」
「うーん……そうだったら良いけど」
「きっとそうだよ。そっか、天使くんは私だけの天使くんじゃないんだね……ふふ」
「……なにを笑ってるの」
「なーんもないよ? ただ、なんかちょっとだけ嬉しいのと、切ないのと?」
「わからないよ……」
瑠菜の感情はわかりやすいはずなのに、いまはぜんぜん見えない。
困ったように眉を下げた僕に、彼女はまたもや笑った。
「天使くんが私のところに来てくれて良かった。本当に、そう思ってるよ」
「……そっか」
「うん。ほかの見届け人さんじゃ、嫌だもん。天使くんが来てくれた私は、当たりだね」
「瑠菜は僕を、買い被りすぎなんだって」
「そんなことない! わたしがこんなふうに、たくさん話したいなって思うのは、天使くんだからだよ」
瑠菜の言葉が、胸の奥に染み込んでいく。
僕の存在を丸ごと包み込んでくれる温かさのおかげで、僕までも優しい気持ちになれる気がした。
「……僕も、瑠菜のもとへ降り立って良かった」
素直な気持ちを言うのは、こんなにも恥ずかしいものなのか。
照れくさくてそっぽを向いて言えば、瑠菜は少し沈黙してから、ぷっと吹き出した。
「もーっ、ちょっとドキッとしちゃったじゃん」
「……聞かなかったことにして」
「やだよ、いまの言葉は私の宝物になったからね」
「忘れてくれて良いのに……」
ちらりと瑠菜の顔を見れば、彼女は少し赤い頬を緩ませていた。
そんなふうに笑みを浮かべている瑠菜を見るのは初めてで、柄にもなくこちらも鼓動が高鳴ってしまう。
「よし、今日はこれから月が見えるまで、天使くんの話を聞く会ね!」
「え、もう話すことないんだけど……」
「そんなことないでしょ! ほら、記憶を思い出して」
「そう言われても……」
強引な瑠菜に乗せられる僕。
この距離感が心地よくて、ずっと話していたいと思う。
弾けるように笑う瑠菜を、そばでこうして見守っていられるのもあと3日。
近づいてくるその瞬間を、僕は見ないようにしていた。
────そうでもしないと、苦しくて切なくて、消えてしまいそうだったから。