「ねえ天使くん、見て見て」


 楽しそうに呼びかけてくるその声に振り向く。

 瑠菜(るな)は、屈託のない笑みを浮かべて僕を見ていた。


「ほら、月。すごく綺麗じゃない?」

 瑠菜が窓を指差して教えてくれたのは、夜の曇り空にぼやけている満月だった。


「……曇ってるから、ぼやけてるけど」

「もーっ、天使くんにはロマンがないなあ」


 呆れたようにそう言われ、言葉に詰まる。

 瑠菜は何だって綺麗だと思うのだろう。
 彼女の日々は有限なのだから。

「私にはぼやけて見えない。この月はどこまでも美しくて煌びやかだもん」

 そう僕にニコッと微笑みかけてくる瑠菜は、昨日初めて出逢ったとは思えない人懐っこさを見せた。

 それと同時に、瑠菜はどこか儚げな横顔で窓の外を眺める。


「私は4日後、月に帰るんだ」

 僕はこういうとき、上手く言葉を返せた自信がない。
 ただ彼女を見つめているだけの僕に、瑠菜は眉を下げて笑った。


「天使くんなら私を見つけてくれるよね?」

 彼女の言葉に辛うじてうなずいた。

 瑠菜がいま、どんな気持ちで月を眺めているのか、痛いほどわかっていたから。





 
 僕が瑠菜のもとへ降り立ったのは、昨日の朝だった。

 病院の個室で、今みたいにただ窓の外を眺めていた瑠菜の前に僕は現れた。

 はじめ白い服を着た僕を見たときの瑠菜の表情といったら……正直、かなり面白かった。

 目を白黒させてゴシゴシして、やっと僕が夢の中の存在ではないとわかってくれたであろう瑠菜は、こう言った。

『……す、透けてるよ?!』


 あわあわしながら僕の身体を指差してくる瑠菜の、その天真爛漫さに、思わず小さく笑ってしまったのを覚えている。


『はい、透けてます』

『え……っ、どういうこと? これは幻覚?』

 ぺたぺたと自分の頬を触りながら、現実であることを確認しているであろう瑠菜。

 可愛らしい動作をただ何も言わず見ていたら、突然彼女は何か納得したように大きくうなずいた。


『わかった、きみは“ 天使くん ”なんだね』

『……天使?』

 まさかその発想はなくて驚いていると、瑠菜は首を縦に降る。

『私の寿命が近いことをわかって、そばにいてくれる、優しい天使くんなんでしょう?』

 そのとき、瑠菜は曇りのない笑みを浮かべていた。

 僕のことを“ 天使 ”と呼ぶなんて、まちがっている。

 僕はそんなに良い存在じゃないのに。


『天使、ではないですけど……』

『いや、でもわたしはきみのこと天使くんって呼ぶからね! あと、敬語禁止!』


 僕の役割は、“ 余命5日に迫った孤独な人間の見届け人 ”だった。

 人間ではない僕は、死なない。

 いままで何度も、何十回も、旅立っていく人間を見届けてきた。
 もちろん、“ 天使 ”などという大それた者でもない。

 そんな存在である僕は、この日の朝、天から彼女を見守るよう、司令を受けたのだ。

 僕が瑠菜のもとへ来たということは、彼女の寿命は昨日の朝の時点であと5日。

 それを彼女はわかっている。
 死が迫ってくる怖さを、僕はわからない。

 だけど、瑠菜は僕に笑みを向けてくれた。


『ありがとう。私、寂しかったの』

『寂しい?』

『うん。わたしね、心臓弱くて小さい時からずっと入院してるの。だから友だちがいないんだ』

 病院は自分の家みたいだよ、と冗談めかして言う彼女は、少し無理をしていることはわかった。

『だから、天使くん。私と友達になってよ』
『友達?』

『そう。私の最初で最後の友達』
『それは……』

 僕が最後になるなんて、荷が重い。

 それに、最初で最後だとあっけからんと言ってのける彼女の強さにもびっくりしていた。

 反応に困って表情を伺えば、彼女は申し訳なさそうに笑った。

『あはは、ごめん。そんなに深い意味はないよ。天使くんは優しいね』

 口下手な僕は、見届け人のくせに、気の利いた言葉ひとつ言えない。
 黙っていると、彼女は重い空気を変えるようにして口を開いた。


『私の名前は、瑠菜。呼び捨てでいいよ』

『……瑠菜』

『うん、天使くんの名前は?』


 尋ねられて教えると、瑠菜は僕の名前をそっと呼んで、ニコッと笑った。


『素敵な名前だね』

『そう、かな』

『うん! ふふ、本当に友達が出来たみたい。嬉しいなあ』


 ふふ、と頬を緩ませる瑠菜は、彼女には言わなかったけれど僕にとっても最初の友達だった。

『天使くん、仲良くしてね』
『……こちらこそ』

『ふふ、天使くんが照れてる』
『……照れてない』

『えー? 絶対照れてるよ』






 
 それが、昨日の瑠菜との出逢いだった。

 1日経った今日も現れた僕を、彼女は笑顔で迎えてくれた。


 話しているうちに気付けば夜になり、月が病院の窓から見えている。

「そういえば、天使くんって何歳なの?」

「歳?」

「そうそう。見た目はわたしと同い年の17歳くらいに見えるけど、実際どうなんだろーって」

 不思議そうに首を傾げた瑠菜。

 この質問は、いままで見届けてきた人皆んなが聞いてきた。

 余命が迫った人たちに言うには少しためらう言葉を、僕は何十回も、なんでもないふりをして答える。

「僕らは歳っていう概念がないんだ。思い返してみれば、何十年……もしかしたら何百年は生きてるよ」

「そうなの? じゃあ、いままで私以外にもたくさんの人を見守ってきたんだね」


「うん。それに僕は……不死身なんだ」

 もうすぐ命の灯火が消えてしまう瑠菜に、あまり伝えたくはなかったこと。

 彼女の表情が暗くなるのは、辛いと思ったから。


「不死身かあ……かっこいいね、天使くんって」


 羨ましいよ、とにこりと微笑んだ瑠菜は、少しも哀しさを見せない。

 明るくて素直で、優しい子だと思った。
 その笑顔の奥に隠している弱さを、僕は気づいていた。

「……そんな死なない僕が、瑠菜を見届けようとしているなんて変な話だと思う?」

 瑠菜からしてみれば、皮肉だろうと思う。

 いままで見届けてきた人の中には、僕に自分の悲しみをぶつけてくる人もいた。

 死の恐怖がわからない僕が、死期が迫っている人間のそばにいるなんて、間違っている。


 それは何度も、僕に司令を出す天界に伝えてきた。
 だけど、この役割を外されることなく、僕はずっと続けている。

「どうして? そんなこと思わないよ」

 俯いた僕に、瑠菜は驚いたように目を見開いた。
 その様子に、今度は僕がびっくりしてしまう。

「どうしてって……死なないんだよ、僕は」

「それが天使くんなんでしょう? もちろん羨ましいけど、私はそんな天使くんが現れて、話し相手になってくれて嬉しいもん。むしろ明るい気持ちになれるよ」

「……」

「私が死んじゃっても、天使くんはずっとずっと生きている。なんだろね、それも悪くないなって思うんだ」


 瑠菜は、強い。
 彼女の立場なら、僕はきっと、そんなふうには言えない。

 僕の気持ちも考えて言ってくれているのかもしれない。
 寄り添う側は僕なのに、気づけば瑠菜に救われている自分がいた。

「……瑠菜のほうが、ずっとかっこいいよ」

「あはは、そんなことないよ」


 そう言うと、瑠菜はふと俯いた。

 その横顔は儚げで、どこか消えてしまいそうな雰囲気を纏っていた。

「私ね、4日後に死ぬって確実に決まってるわけじゃないんだ」

 暗い顔を見せないために、僕じゃなくて、窓の外を眺めている瑠菜。
 彼女の声が少しだけ震えていることに気付いても、僕は何もしてあげられない無力だと思い知る。

「心臓の手術がね、控えてるの。その手術が上手くいけば、学校にも通えるようになるかもしれないんだ」


 ふふ、と頬を緩める瑠菜は、すぐに落ち込んだように視線を落とす。


「でも、成功率はすごく低くて、たぶん私は……持ち堪えられずに死んじゃうのね」

「……瑠菜なら、大丈夫だよ」


 無責任な言葉しか掛けられない。

 でも、瑠菜は死なない気がしたのだ。


 ……いや、本当は、旅立ってほしくなかったのだ。
 僕の言葉に、瑠菜は少し目を見開いて、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。


「ありがとう、天使くんは優しいね」

「僕は、こんなことしか言えない」

「いいの、大丈夫。嬉しいよ」

 瑠菜は本当に17歳なのだろうか。
 無邪気なところもあれば、どこか大人びている。

 生きることに執着していないように見えて、すごく生きたいと叫んでいる気がする。


「私の家族は、手術にも反対だったんだ。そんなのしなくても、数年は生きれるから。でも、私は、こんな病院にずっといる未来より……少ない可能性でも、明るい未来を得たかったの」

 瑠菜の瞳は潤んでいた。
 それを堪えるように、彼女は唇を噛み締める。

「家族は、……臆病で、もうすぐ死んでしまうかもしれない娘に会うのが辛いんだろうね。私はここでずっと、孤独だったんだ」

 昨日僕が降り立ったとき、彼女は嬉しそうに迎えてくれた。
 その表情の裏には、そんなふうに思う哀しさがあったことなど、僕は察してあげられなかった。

 彼女を抱きしめたい衝動に駆られるのに、僕は触れられない。

 透けているから、いまにも泣きそうな彼女の肩に手を置いてやることもできない。


「だから、天使くんが来てくれて本当に嬉しいの。私、まだ生きられる気がしてきた。きっと手術は成功するって」

「成功するよ、……必ず」

「ふふ、天使くんにそう言ってもらえたら大丈夫な気がしてきた」


 僕も、瑠菜も、本当はわかっていた。
 “ 見届け人 ”の僕が彼女のもとへやって来たということは、彼女が4日後に旅立つのは、変わらぬ運命だということを。

 だけど、このときの僕は、瑠菜は死ぬわけがないと思っていた。

 何十人と見届けてきたのに、たくさんの死を目の当たりにしてきたのに、現実などわかっているのに、彼女は死なないと信じていた。


「よし、暗い話は終わり! 楽しい話をしよう?」

 ぱんっと手を叩いて、空気を一変させる瑠菜。
 そう言いながらも、彼女の瞳は依然として潤んでいた。

 でも僕は、気付かないふりをする。
 そのほうが、きっと彼女のためだから。


「もう23時だけど、眠くない?」

 瑠菜に問いかければ、彼女は拗ねたように唇を尖らせる。

 そんなふうにコロコロと表情が変わる彼女に、少しずつ惹かれている自分がいた。


「天使くん、私のこと早く寝させようとしてるでしょ」

「いや、そんなことないよ」

「ある! まだ帰らせないからね! 話したいことたくさんあるんだから」


 もちろん僕は天界に帰ったところで他にすることはないから、彼女の話を夜な夜な聞くのも楽しい。

 僕はどうやら、瑠菜の見届け人と言うより、話の聞き役みたいだ。


 それも悪くないな、なんて思いつつ、夜が更けるなか瑠菜の他愛のない話に耳を傾けるのだった。