夏休みは毎年、二泊三日でママの実家に帰省する。
新幹線とバスで五時間かけてたどり着く、海と山の隙間に家が点在するような町。
それも、今年で最後になる。

ママの実家に一人で住んでいた、ママの叔父さんが入院した。
退院しても、施設に入ることになるらしい。
もう長くないと思う、とママがしんみりと話していた。
管理する人がいない家はあっという間に廃墟になってしまうから、これを機に片付けて、いずれは取り壊すらしい。
わたしも来年は高校受験だし、遠いし、海水浴が楽しい歳でもない。
三つ上の兄も、高校生になった途端に一緒に来なくなった。
地元より少しだけ涼しいのと、退屈を持て余して宿題がはかどるところだけは助かるけど。
家に着くと、ママが去年と同じように鍵を開けて、ガラガラと大きな音を立てて引き戸を開けた。
石を敷き詰めた土間にトランクのタイヤが引っかかる。
静まり返った玄関。
スニーカーを履いていても足元がひんやり冷たい。
軋む階段を登って、二階の和室にトランクを置いた。
いつも泊まるのは元ママの部屋だった六畳間。
部屋の壁には、色褪せたポスターが貼られたまま。
昔のアイドルだと教えてもらったけど、名前は覚えてない。
ママが物置部屋から布団を抱えて運んでくる。
「美優、上掛けも欲しい?タオルケットだけでいい?」
「タオルケットでいい」
「じゃあこれ使って。もう、家の中ほとんど空っぽ。叔父さん、終活ちゃんとしてたんだねぇ」
「…終活?」
「ちょっと前からわかってたみたいだしね、病気のこと」
「ふーん」
毎年ここに泊まるから毎年会ってはいるけど、叔父さんのことはそんなに詳しく知らない。
わたしが小学生の頃には、ママの実家に、おばあちゃんとおじいちゃんと叔父さんが三人で住んでいたけど、おばあちゃんとおじいちゃんは夫婦で施設に入って一人暮らしになった。
仕事は早くに辞めていて、夏休みには毎年お寿司を注文してくれる、おじさんとおじいちゃんの真ん中くらいの人。
いや、どっちかというとおじいちゃん寄りかも?
だって、ママの叔父さんということはおばあちゃんの弟だもの。
いくつ離れてるか知らないけど。
「今年は海、行かないの?」
「かき氷だけ食べる」
小さい頃から、海で泳いだあとは近くにある喫茶店でサンドイッチやかき氷やコーヒーゼリーを食べるのが楽しみだった。
これも来年からもう出来ないのか、と思うと少し寂しくなる。
「今日はいつも叔父さんが頼んでくれてたお寿司屋さんの、店の方行こっか」
「え、お店あるの?」
「あるわよぉ」
ママは嬉しそうに、だけど少し寂しそうに言って、また部屋を出ていった。
触るとざらざらする壁にもたれる。
背中が痛い。
でも、これも最後だし。
「暗くなるから、お寿司の前にお墓いってからにしましょ」
「はーい」
お墓参りの準備をして、ママの運転でお寺に向かう。
「この車もよくここまで頑張ったわ」
叔父さんが長年乗っている車も、いずれは廃車になる。
手動であける窓も、カセットテープも、この車でしかみたことがない。
こんなにレトロな車なのに、ラジオからは学校でも人気のアイドルの新曲が流れてくる。
車で五分もかからないところにあるお寺の駐車場は、まだ明るい時間なのになんとなく怖い。
綺麗に管理されているお墓よりも、木や雑草が多くて暗いから。
叔父さんもここに入るのかな。
だとしたら誰が掃除するんだろう。
ママが一人でわざわざここまで来る?
家も無くなるのに?
日帰りはわたしだって疲れるから無理だろうし。
遠くにお嫁に行くのって、なんか大変。
ご先祖様の墓の前で、手を合わせながら、そんなことを考えてしまった。


海沿いの道を走って、交差点のない路地を曲がる。
スナック、焼肉屋さん、和菓子屋さんが並ぶ通りの、お寿司屋さんの前に駐車して、ママは車を降りた。
「いいの?ここ。路上駐車じゃない?」
「いいの、いいの」
ママがそう言ってお寿司屋さんの戸を開ける。
「久しぶり」
「マリちゃん!久しぶりねぇ〜娘さん?大きくなったねぇ〜、キーちゃんはどう?」
真梨子だからマリちゃん。
ママの名前。
近所の人からママがこう呼ばれているのを聞くたびに、ママにも、マリちゃんという子供だった時代があることを感じる。
キーちゃんはママの叔父さんの名前。
キヨシだからキーちゃん。
漢字は知らない。
「手術してだいぶ良くなったみたいだけど、退院してもどこか施設じゃないと難しそう」
「寂しくなるわぁ」
カウンターに座って、ママとお店の人が話すのを聞き流しながら、お寿司を口に運ぶ。
アジ、マグロ、タコ、何かわからない貝、何かわからない魚。
新鮮で美味しい、のだと思う。
でも、回転寿司もちゃんと美味しいし、まだわたしにはこの良さがわからない。
ワサビだって、わたしにとってはただ辛いものだし。
サービスだよって出してくれたアイスがハーゲンダッツだったのが嬉しかった。


海から登った朝日が障子を突き破ってまぶたに刺さって目が覚める。
ママの地元は朝早くから空気が明るい。
海に反射して太陽が二個になってるのかもしれない。
それくらい、家にいる時よりも朝が早く来る。
いつもなら絶対に起きない時間に一階に降りて行く。
ママも、さっき起きたという顔で顔を洗っていた。
「あら早いね」
「眩しくて寝てられないもん」
「今日はお昼に海辺行くから、朝は簡単でいい?」
「何でもいい」
海辺というのはいつもの喫茶店の名前。
海のそばにあるから海辺。
「叔父さんがね、お米あるから食べちゃって欲しいって」
まだ新しい炊飯器でご飯が炊けている。
「昨日お寿司屋さんで塩サバもらったから混ぜご飯しておにぎり」
「じゅうぶん贅沢」
フライパンでサバを焼いて、ほぐしてご飯に混ぜて握る。
ママが冷凍庫をあけて、閉めて、冷蔵庫を開けた。
「冷蔵庫の中身空にしてコンセント抜いて欲しいって言ってたから、何か腐ってるかと思ったけど何もないわ」
「そのマヨネーズ、賞味期限大丈夫?」
ドアのポケットに転がっているマヨネーズを指すと、ママがフタを確認する。
「来月までいける」
「…捨ててあげたほうがいいんじゃない」
冷蔵庫も物置も片付けてある。
去年来た時は冷凍庫にアイスを買ってくれていた人が。
「これ食べたら、涼しいうちに裏庭の草むしりだけ手伝ってくれない?」
「ええー…いいけどぉ」
嫌だ、と言いかけて、家庭科の宿題に家の手伝いがあることを思い出した。
おにぎりを食べ終わって、飲みかけのペットボトルのお茶を持つ。
玄関からスニーカーを持ってきて、裏庭に出た。
ママが物置から使い古しの軍手とゴム手袋とゴミ袋を出してきて、二人で狭い庭の雑草をむしる。
だんだん太陽が昇ってきて、蝉が鳴き始めた。
「二人でやると早く終わって助かるわぁ」
ゴミ袋半分くらいの雑草を取り終えて、外のホースで手を洗う。
そのあと、ママは二階の廊下に梯子をかけて屋根裏に登って行った。
どすん、ガタガタという音を聞きながら、やっとダイニングテーブルに宿題を広げる。
兄も一緒に来ていた時は居間の大きいテーブルでやってたけど、正座は疲れるし、仏間と一続きになってるから一人の時はなんとなく怖くて近寄りたくない。
蝉が鳴き続けている。
古いエアコンの稼働音。
苦手な数学の文章題をなんとか解き終わった時、ママが汗だくでダイニングに入ってきた。
「ママ軽くシャワー浴びてくる。すぐ出るから、ご飯食べに行こ」
「はーい」
宿題を閉じて、先に玄関に出ると、屋根裏か押し入れから下ろしてきたらしいアルバムが、土間の隅に積んであった。
ママを待つ間に開いてみる。
何かのお祭り。
運動会。
この家の前で、おばあちゃんとおじいちゃんと、子供の頃のママと、若い頃のママの叔父さんが集合している写真。
着替えを終えたママが玄関に出てきた。
「まさか、アルバム、捨てるの?」
「捨てないわよ。うちで預かろうと思ってる」
「おじいちゃんおばあちゃん、元気にしてるのかな」
「顔見て行きたいけど、時間がないのよ」
おじいちゃんとおばあちゃんが入っている施設はここから車で四十分くらい。
去年帰省した時は顔を見せにいっていた。
おばあちゃんが足を骨折したのを期に、早めに色々考えて老後のお世話になるところを決めて叔父さんに家を譲ったけど、まさか叔父さんが若いうちに病気になるなんて思ってなかったらしい。
人生って、そう計画通りにいかないものだと思う。

海水浴場は歩いていける距離にある。
だから喫茶海辺も、歩いていける。
毎年開けているはずなのに、木製のドアは一瞬気後れする重さ。
店内に入った瞬間に、久しぶりにタバコのにおいを感じた。
窓際の席に座ると、日焼けしてガサガサの木製テーブル。
大きな窓から見える海水浴場。
子供部屋から持ち込んだと思われる漫画がぎっしり詰まった本棚は、側面にステッカーがたくさん貼られている。
小学生の頃の兄はここで漫画を読むのが好きで、海水浴よりかき氷より、生まれる前の少年漫画に夢中だった。
道路工事の作業員らしい若い男性が4人、談笑しながら定食をかき込んでいる。
「マリちゃん今年も来てくれたのね。美優ちゃん、いらっしゃい。キーちゃんの具合どう?」
「手術でちょっと良くなったけど、退院してもこっちには帰れないかも」
水を運んできたおばさんに、ママが昨日と同じような返事をしている。
毎年来ているわたしに、毎年同じように大きくなったと言っていたおばさん。
「キーちゃんたまに来てくれてたから寂しいわぁ、昔はコーヒー豆も買ってくれてね」
「コーヒーに凝ってた頃あったねえ、身体悪くしてから飲まなくなって」
この店に来るのも最後だと思うと、メニューがなかなか決まらない。
オムライスもナポリタンも、きっと全国どこでも食べられる。
だけど、ここで、この席で食べるのは最後。
迷った末に、サンドイッチにした。
ここのサンドイッチは薄焼きたまごとハムときゅうりが挟んである。
たまに家でも作ってくれるけど、ここで最後に食べるならこれだと思った。
オレンジジュースとサンドイッチを食べていると、ママが頼んだペペロンチーノが運ばれてくる。
「…何それ」
「ここのペペロンチーノはこれなの」
ナポリタンのケチャップ抜きみたいな、具沢山のペペロンチーノ。
ペペロンチーノってもっとシンプルだったと思うけど。
「ママはね、この店でペペロンチーノを覚えて。でも結婚する前にパパと入ったお店のペペロンチーノは全然違ってて」
「うん」
「やっぱりここのペペロンチーノが、ママにとってペペロンチーノなの」
「…家でも作ってよ」
「おんなじ味にはならないのよ、サンドイッチもそう。水が違うから」
そんなに違うかな、と不思議に思って、最初に出してくれた水を飲んでみた。
水は水の味だった。
ママが店員さんとおしゃべりしている間、漫画の棚をなんとなく眺める。
小さい頃にアニメをみていた漫画の隣に、背表紙が白く日焼けしたひときわ古そうな漫画が並んでいた。
指を伸ばしかけた時、ママに呼ばれた。
「美優、ママちょっと午後からあちこち用事に出かけるから、晩御飯ここで買ってもいい?」
「全然、いいけど」
「何がいい?」
「何でも」
すごく考えてサンドイッチを選んだけど、結局最後に食べる海辺のご飯はパックに詰められた焼きそばになった。
ビニール袋に焼きそばとゆで卵と菓子パンを入れてもらって、歩いて帰る。
途中、自動販売機でお茶と水も買った。
明日の朝に出発するし、家に誰もいないから、生ゴミが出ないように生活しようと思うとこういう食生活になる。
「明日の朝どうしようと思ってたから、パンもらえて良かったわ」
「バス停のところのお店でも良かったのに」
海辺の近くにある、いつも使うバス停のそばにある小さい商店。
そこに売っている、少し離れた町のパン屋さんのクリームパンがけっこう好きだった。
「それも良いね、お兄ちゃんのお土産に買おうかな」
「昼からどこ行くの」
「役場とお宮と、キーちゃんの同級生が、お見舞い預かって欲しいって言うから取りに行くの」
「あー」
それはついていっても仕方ないから、宿題しながら留守番することにした。
お宮というのはお祭りを仕切っている神社。
ママは、お祭りの時期に帰ってきたいねと言ってたけど、いつも日程が合わなくて、わたしは結局、この町の祭りをみることは一度もなかった。
「車乗って行くから、戸締りして、誰か来ても開けないでね」
「うん、気をつける」
ママが出かけて、いよいよ一人になった。
午前中は順調だった宿題が進まない。
テレビもつまらない。
家庭科の宿題以外は手付かずで、時間だけが過ぎて行く。
窓の外に目を向けると、あんなに明るく青かった空が夕暮れにむけて白く薄まっている。
「気分転換しよ」
暇な時間があるうちに宿題の大半を終わらせることで、あとで楽をしたい。
時間は早いけどお風呂に入っちゃおう、と思って二階の和室に着替えをとりに行った。
去年まではタオルなんかも使いっぱなしで叔父さんに洗濯を任せていたけど、今回はタオルも全部持ってきて、帰って家で洗濯しないといけない。
そのせいで大荷物になってしまった。
トランクをあけると、古いアルバムが入っている。
玄関に積んであったものとはまた違う。
開いてみると、ママの子供の頃の写真ばかり。
わたしが友達と撮るような、学校や遊園地の楽しそうな写真。
浴衣のママが、金魚がはいったビニール袋を持って家のそばでポーズしている写真に目が止まる。
写真の隅に三十年前の日付。
三十年前はママも、わたしと同じように中学生だった。
当然のことなのに、不思議な感じ。
アルバムを閉じてタオルと着替えを取り出すと、廊下に出て階段を降りる。
あの写真の池、どこなんだろ。
ママが帰ってきたら聞いてみよう。
そう、思った時、足元が滑った。
油断していた。
この家の階段って、とっても急で。

ママも落ちたことがあるって、聞いたことある。

ドドドドバン、バシャン!

…バシャン?

「マリちゃん!」
腕を掴まれて引っ張られる。
「大丈夫!?」
「…だ、大丈夫…」
ボタボタと髪から水が滴る。
「良かったね〜着替えあって。ほらさっさと脱いでおいで」
何が起きたのかわからない。
背中をさすってくれる女の人はママに似てるけどママじゃない。
髪型が全然違う。
こんな、見たことないボリュームのパーマがかかったロングヘアの人は知らない。
でも、この家は、知ってる。
少し広いけど、ここはママの実家の裏庭。
今朝草むしりをしたから見間違えるはずがない。
物置があるはずの場所に、小さな池があって、赤い金魚が泳いでいる。
「どうしたの、ぼーっとして。どこか痛い?」
「あ、えっと、痛くない」
「良かった良かった。もう、ついでだしお風呂入っちゃいなさい」
「は、はい」
そう追い立てられてお風呂に入った。
タイルの冷たい床に身体が強張る。
お風呂場、こんなだったっけ?
タイルの床と浴槽にビクビクしながら、シャワーを浴びる。
見たことないシャンプーを恐々使って頭を洗った。
何これ、どこここ。
「マリちゃん着替え置いてあるからね〜」
のんびりした声に我に帰る。
マリちゃん。
…マリちゃん!?
慌てて鏡を覗く。
知らない、けど、知ってる。

ママ。

写真で見た、三十年前の、ママ。

嘘だ。
わたし、ママになっちゃったの!?
呆然としながらタオルで身体を拭いて、用意してあった服に着替えた。
Tシャツと、短すぎるハーフパンツ。
ママ、こんなの着てたんだ。
剥き出しの足はこんがり日焼けしている。
落ち着かない。
ドライヤーが見当たらなくて、仕方なくびしゃびしゃの髪のままお風呂を出た。
「マリちゃん、浴衣干しておいてあげたから」
「あ、ありがとう」
優しくそう言ってくれた人は、たぶん、昔のおばあちゃん。
若い頃はこんな感じだったんだ。
階段から誰かが降りてくる。
「真梨子、池に落ちたんだって?」
顔を出したのは、アルバムの写真で見たまんまの、ママの叔父さん。
実物はもっと若い。
当たり前だけど、昔の若者の格好をしている。
「…キーちゃん」
思わず口に出た。
ママが、そう呼んでいたから。
「そうなの、昨日祭りで掬った金魚放そうとしたら、滑ったみたい。びっくりしちゃった」
「真梨子は毎年金魚掬ってくるけど、なかなか長生きしないんだよな」
そう言って、裏庭に出て行く。
その後ろについて、わたしも改めて裏庭を見に行った。
わたしが知っている裏庭の、物置があるあたりに、小さな池と小さな花壇がある。
何年後かに、ここを埋めて物置を作ったんだとわかった。
「ほれ真梨子、金魚のエサ。去年のがずっと残ってるぞ」
「あ、はい」
キーちゃんに渡された袋から、パラパラと池にエサを撒く。
赤い金魚が我先にと口をぱくぱくさせている。
キーちゃんはすぐに家に戻っていった。
ぱくぱくとエサに夢中になっている金魚を見つめながら膝を抱えて、もう一度ここに飛び込んだら元に戻れるのかなと考えていた。

何もやる気になれないまま時間だけがすぎる。
居間でテーブルの前に体育座りして、画質の悪いテレビをぼんやり眺めていた時、わたしでも知っているお笑い芸人が、すごく若い姿で出てきてびっくりした。
「最近よく出てくるわねこの人」
「そう…だね」
話しかけられて慌てる。
おばあちゃん、いや違う、ママはお母さんって呼んでた。
ママの話し方を一生懸命思い出して答える。
「ドラマにも出てくるし、長者番付にも載ってたからな」
キーちゃんがテーブルの角に座って缶ビールを開けた。
「長者番付って?」
「税金をたくさん納めた人のランキング。それだけ収入があったってことだよ。新聞に載るんだよ」
何それ、怖い。
そんなのに乗ったら犯罪者に狙われそう。
「まあでも、冬に出てたドラマも面白かったしな」
「ドラマ…」
わたしはこの芸人がドラマに出てるイメージがない。
CMではよくみるけど。
「そうだ、長井さんにティラミスもらったの。夕飯の後に食べようね」
「おじ…お父さんは?」
「今日も裏の田中さんところで麻雀」
おばあちゃん、今はお母さんが呆れたように笑う。
おばあちゃん、若い頃けっこう綺麗だったんだと今更思った。
テレビをみていて気がついたけど、見たことないボリュームのパーマ、若い女の人が似たような髪型をしている。
この頃の流行りなのかな。
三十年後、おじいちゃんには苦労させられたから老後は悠々自適に過ごしたい、と高級な施設を選ぶおばあちゃん。
今はまだ苦労の真っ最中らしい。
しばらくすると、晩御飯だよ、とそうめんが出てきた。
昔はここでご飯食べてたんだ?
すごい、わたしが使った覚えのある食器がそのまま。
三十年ずっと使ってるんだ、このお茶碗。
「そろそろ真梨子の好きな番組始まるよ」
キーちゃんがチャンネルを変えた。
「あ、え」
ママが好きな番組って何だろう?
わたしが知っているママは、とにかく美味しいものが次々出てくる情報番組ばかりみている。
アレンジレシピを覚えて作ってくれたりもする。
だけど、その番組は大型のセットで芸能人がゲームをするバラエティだった。
新人アイドルとしてゲームに挑戦している人の名前が、わたしにとっては大御所の女優さんだったのでびっくりする。
この人は、何年後かに結婚して早くに離婚して、それを三十年後も笑い話にしている。
そんなことを知った上で、初々しい綺麗な人をみるのは複雑な気分。
そのあともテレビの中には脱税がバレた人とか、政治家になってる人なんかが次々が出てきて、テレビを見ているだけで疲れてしまった。
だって、そんなこと、今言えないし。
未来を知ってるってこんなに気まずいんだなとため息が出る。
「マリちゃん元気ない?濡れて風邪ひいちゃった?」
「そう、かも」
「ティラミス明日にする?」
「…うん」
明日。
明日もわたし、マリちゃんなのかな?
階段を登って和室に入る。
部屋の隅に貼られたポスターが色鮮やかな笑顔を向けてきた。
…この人、こんな顔してたんだ。
ちょっとパパに似てるじゃん、と初めて思った。

眠れない。

障子をあけると、暗い海の上に月が浮かんでいる。
夜中に目が覚める時に見慣れた景色で、今の自分がママになっているなんて嘘みたい。
夢ならいいのにと思ったけど、ポスターの色鮮やかさが現実を突きつけてくる。
喉が渇いた。
階段を慎重に降りる。
転がり落ちたら元に戻れるかもしれないけど、自分からここを落ちる勇気も出ない。
居間のテレビがついている気配がする。
キーちゃんが、テレビの前に座っていた。
びっくりさせないように、わざと足音をたてる。
「真梨子、起きてきたのか」
「なんか寝れなくて」
水道から水を汲んで飲み干す。
ダイニングテーブルの上に見覚えのあるパックがあった。
「あ、海辺…」
「海辺が祭りで出した売れ残りもらったんだ、食うか?」
「うん」
パックを持って、キーちゃんのそばに座った。
割り箸を渡されて、その割れにくさに驚く。
全然綺麗に割れない。
割り箸って進化してああなってたんだ。
「へたっぴ」
揶揄うようにキーちゃんが笑った。
わたしは黙って焼きそばを食べる。
ママだったら何で言い返したんだろう。
テレビでは、見たことない俳優が大袈裟な芝居をしている。
なんてドラマだろうこれ。
ジャジャン、と急にギターの音がして隣を見る。
キーちゃんが急に、アコースティックギターをつまびきだした。
「…弾けるの?」
「昔聞かせてやったぞ、忘れた?」
「忘れた」
そう返すと、キーちゃんは苦笑いして歌い出す。
知らない歌だけど、いい歌。
昭和歌謡かな。
焼きそばの匂いとギターの音。
「上手いね」
「まあね」
「…キーちゃんって今いくつ?」
「なんだよ急に。二十五だよ」
「そっか」
わたしの知っているキーちゃんは、五十五歳で、入院していて、退院できるのかもわからない。
今目の前でギターを弾いて歌っている人が。
「キーちゃん、さっきから失恋の歌ばっかり」
「お前知らないのかよ、俺去年うちに連れてきた彼女に振られたの」
「あっ、ごめん…」
「ま、確かにいつまでも引きずってるのもな」
そう言うと、キーちゃんはギターを抱え直して、ちがう曲を歌い出した。
きっとそこには、彼女との思い出が詰まっている。
ザラザラした画面のテレビから賑やかな笑い声。
キーちゃんも、ママも、テレビの中の芸能人も、私が知っているよりずっと前から生きている。
当たり前のことなのに、今やっとわかった気がした。
歌い終わると、キーちゃんが照れくさそうにギターを下ろす。
「いい歌だね」
「去年の紅白で歌ってたろ、覚えてないのか?」
そんなこと言われても、三十年前の紅白のことなんて知らないよ。
「あんまり覚えてない」
「アイドルにはキャーキャー言ってたのに。部屋のポスター買ってやったの俺だぞ」
「ありがとう、大事にする」
あの白く褪せてるポスター、キーちゃんに買ってもらったんだ。
だからずっと貼ってあるのかな。
「…いい加減寝ろよ」
「うん…おやすみ」
二階の部屋に戻って布団に横になった。
ぐるぐる考えてしまって、眠れるかわからない。
頭の中でギターが鳴ってる。
知らない曲はやがて曖昧になって、わたしは眠ってしまった。

「まーりーこー」
階下から呼ぶ声がする。
マリ、マリちゃん、まりこ、と呼び方を変えながら声が近づいてくる。
まだ眠いのに、瞼を閉じていても朝日が眩しい。
「真梨子、いつまで寝てるの?朝ごはんが昼ごはんになっちゃう」
「それでいいよぉ…」
頭からタオルケットをかぶって、ハッとした。
わたし、まだママのまま!?
あわてて起き上がって階段を降りた。
おばあちゃんがテーブルに麦茶を出してくれた。
「マリちゃん、まず着替えておいで」
「う、うん」
着替えってどこにあるんだろう、と思いながら部屋に戻ると、見覚えのないタンスがあることに気がつく。
引き出しを開けて、Tシャツと青いギンガムチェックのシャツとデニムのショートパンツを選んだ。
ママ、青が好きなのかな。
わたしはあまり着ない色だから落ち着かない。
もう一度下に降りると、おばあちゃんが、夏休みだからってダラダラして、とか小言を言ってきた。
ママもそんなこと言われてたんだなと笑ってしまう。
「キーちゃんは?」
「出かけたわ。キーちゃんアパート決まったから、今日で用事済ますみたいよ」
「仕事?」
「前の仕事辞めて、新しい仕事決まったから引っ越すの。役所に手続き行ったんじゃない?前のアパートは彼女と住んでたから」
びっくりした。
ここに当たり前に住んでいるんだと思っていた。
いつ家を出て、また戻ってきたんだろう。
でも、聞くのも不自然だし。
「それよりマリちゃん、朝ごはん代わりにティラミス食べちゃってよ」
「あ、忘れてた」
おばあちゃんが、見たことない緑色の冷蔵庫からティラミスを出してきた。
昔の冷蔵庫ってあんなのなの?
食べようと思った時、玄関が開く音がしてキーちゃんの声がした。
「ねえさん、海辺のおばさんが魚くれるって」
「ええ私ちょっと行けないわ、マリちゃん行ってきて」
「えーっ、わたし?」
「夏休みなんだから少しお手伝いしてよ」
昨日草むしりしたのに、と損をした気になる。
でも、今のわたしは真梨子だし、草むしりもしてない。
結局、言われたとおり海辺に歩いて向かった。
キーちゃんはいつの間にかいなくなっている。
というか、キーちゃんがもらってきてくれれば良かったのに。
海辺への道は慣れたものだけど、わたしが知っている道とはずいぶん違った。
家を出てすぐ向かいの家は、いつもシャッターが閉じていたから知らなかったけど、ガラス戸の向こうにお菓子がたくさん並んでいる。
ここ、駄菓子屋さんだったんだ。
よくジュースを買う自販機がある場所は電気屋さん。
閉店したと思っていた酒屋さんの前に、レトロな瓶のジュースがケースに入って詰んである。
知らない街。
ママが育った街。
わたしが生まれた頃にはなくなっていた店たち。
海辺だけは時が止まっているかのようにそこにある。
相変わらず重いドア。
だけど、ペンキは剥がれていないし大きく軋む音もしない。
店内に入ると、窓辺のテーブルは真新しくて、ただ本棚はあのままステッカーだらけでそこにある。
「こんにちは、あの」
「あら、マリちゃんが取りに来たの?気をつけてもって帰ってね」
はい、と渡されたビニール袋がどっしり重い。
「お父さんに雨どい直してもらったお礼だから遠慮なく持っていって」
「わかりました」
そういえばまだ、おじいちゃんの顔を見ていない。
生魚が何匹も入った、生臭くて水っぽくて重い袋をぶら下げて来た道を戻る。
「お、真梨子」
向こう側からキーちゃんが歩いてくる。
手には大きな茶色いボストンバッグ。
「俺もうバスの時間だから行くわ」
「あれ、車は?」
「は?俺まだ免許もないぞ」
「そ、そうだっけ」
レトロな車を二十年近く大切に乗っていた人が、まだ免許も持ってないなんて。
「まあ免許もそろそろ取ってもいいかな。欲しい車あるし。じゃあな」
そう言ってさっさと行ってしまう。
「…キーちゃん!」
思わず呼び止めた。
「何?」
振り返る、カラフルなシャツ。
アルバムでみたあの服装。
「か、体に気をつけて」
できれば長生きして。
「またギター聴かせて」
あの歌のタイトルも知らない。
「たまには帰ってきて」
「注文が多いな、わかったよ」
そう笑って、いってしまった。
いってしまう。
カラフルなシャツが、路地の先の空と海に吸い込まれるように小さくなる。
ずっしりとビニール袋が重い。
氷が溶けて足元に水滴が滴って我に返った。
帰ろう。
家に、帰らなきゃ。
酒屋さんや電気屋さんや駄菓子屋の前を走り抜けて、玄関をあける。
いつもトランクのタイヤが引っかかる場所に、サンダルの先が引っかかってつんのめった。

あ、転んだ。

頬に衝撃を受けてビニール袋が吹っ飛んだ。

「いっ、痛ぁい…」
両手をついて上体を起こす。
ひんやり冷たい床。
土間じゃなくて廊下。

「え」

慌てて周りを見渡す。
生臭いビニール袋も、青いチェックのシャツもない。
「…帰ってきた」
思わず声が出た。
全部夢だったのかもしれない。
そのわりにはリアルだった。
ふらつく身体でダイニングに入ると、海辺の焼きそばがそのまま置いてある。
昨夜食べたのに。
そういえば、ティラミスを食べ損ねてた。
冷蔵庫は見慣れた白。
勝手口から裏庭に出ると、金魚のいた池は物置が置かれていて見る影もない。
今度は居間に入る。
テーブルの前に体育座りしていると、がちゃん、と玄関の鍵が開く音がした。
「ママ」
急いで玄関にでると、ママが、あのギターを手に下を向いていた。
「真梨子、今ね、今…叔父さんが亡くなったって連絡あって…」
「えっ」
「同級生から、借りてたギター返すって預かったんだけど、ついさっき病院から電話来て…急に…」
ママが言葉に詰まる。
わたしも泣きそうになったけど、必死に堪えた。
「…ママ、これからどうするの?」
「おじいちゃんおばあちゃんに連絡して、お葬式の手配して…一回帰るけどすぐにまたこっち来てここでお葬式できるようにして…美優には悪いけど明日のバス早めていい?」
「ねえママ、わたし明日、一人で帰れる。ママはおじいちゃんおばあちゃんのところに行ったり、色んな手配したり、一度家に帰ってる場合じゃないだろうし。一人で帰れるから」
「でも」
「大丈夫、毎年来てるんだもん。新幹線くらい一人で乗れるよ。ママはおばあちゃんとおじいちゃんのそばにいてあげて。でもそのギターは、わたしがもらっていい?」
「いいと思うけど…」
「ありがとう!」
ママが疑問に思わないように一息で話すと、ギターを奪うように受け取って、階段を駆け上った。
二階の和室に入ると、色褪せたポスターが目に入る。
あのポスター買ってやったの俺だぞ、と得意げだった声。
窓の向こうの海が、夕暮れの空を映して薄水色をしていて、カラフルなシャツの柄はどこにも見えない。

「…体に気をつけてって、言ったじゃない」
未来は何も変わらなくて、ただ、わたしの耳に、かすかにギターの音色が残っている。

キーちゃんが最後に聴かせてくれた、あの歌を弾けるようになりたい。
まだ持ち方もわからないギターを抱えて、強くそう思った。