河村さんが死んだ。
 その知らせを聞いたのは、彼女がこの世界からいなくなってしばらく経ってからのことだった。

 もう鳴ることはなかったメッセージアプリの通知がぽこんと音を立て、開くとそれは増本くんからだった。

『純が、亡くなった』
『持病の心臓病が悪化した』
『志渡にはちゃんと話しておこうと思って』

 たった三行だけのメッセージだった。
 僕は理解できないままそれに既読だけつけて、放心状態だった。






 河村さんが死んでから最初の冬であり、大学最後の冬があっという間にやってきた。
 就活はぎりぎりだったけれど、今年の夏に無事内定をもらうことができ、春からは新社会人となる。
 単位も卒業に足りる分はあるし卒論発表もいま終えたから、あとは本当に卒業を待つだけとなった。
 発表はスーツでという指定だったから、就活を終えてから着ていなかったリクルートスーツを数か月ぶりに引っ張り出して身につけている。
 大学に足を運ぶのは、きっと今日が最後になるだろう。
 降り出した雨粒に濡れた黒地のスーツの裾を払い、久しく開けていなかったドアの前に立った。
 
 部屋に入って電気をつけると、2つの長机と乱雑に置かれた何脚かの椅子が、以前と変わらないままそこにあった。
 設備が乏しいこの部屋は、夏は暑くて冬は耐えがたいほど寒くなる。
 冷え性だった河村さんが電気ストーブを持ち込んだのは、大学2年の冬だったっけ。
 そんなことを思いながらストーブのスイッチを入れ、その近くに椅子を手繰り寄せて腰かけた。
 机の上には僕が読みかけていた本と、少しほこりをかぶった彼女が遺していった本が積まれたままになっていた。
 読まないままになっていた「最終巻」が目に入ったけれど気づかなかったふりをして、別の一冊を適当に手に取り、読む気はないのにぱらぱらとページだけめくっていく。

「志渡……?」
「あ……、増本くん」

 がちゃりと音を立ててドアが開かれると、そこには増本くんが立っていた。
 去年の冬にテレビでやっていた彼らの街頭インタビューを見てから、僕は意図的に彼らを、特に彼を避けていた。
 そうこうしている間に河村さんは亡くなって、その時に来た増本くんからのメッセージにもいまだに返事をしていないから、最後に喋ったのが思い出せないくらい昔のことのように感じてしまう。
 あのメッセージのあと、増本くんが話したい素振りをしていたのは知っていた。
 けれど、知りたくない現実まで突き付けられそうで、僕はずっと見ないふりをしてきた。

「……少しだけ、時間がほしい」

 真っ赤な目をした増本くんが、震える声でそう言った。
 ……今日は逃げるわけにもいかなそうだ。





 彼女との思い出がたくさん詰まったあの場所では話しにくく、バス停前のベンチに腰を下ろした。
 5限が終わったこの時間は真っ暗で人もまばらだから、幾分か話しやすい。
 節電のためなのか、薄ぼんやりとしたにぶい灯りを放つ電灯の明かりがちょうどいい具合だった。

「……正直、悔しいから。俺から志渡に話すことなんてなにもないんだけど」

 そう前置きして増本くんが口を開いた。


 河村さんの命がもう永くはないことを知らされたこと。
 そしてそれを僕には知らせないでほしいと言っていたこと。
 さいごに、河村さんが増本くんに交際を申し込んだこと。

「付き合ったことがないから、さいごに恋人気分を味わいたかったんだってさ。それでまんまと好きになった俺も俺だけど」

 苦虫を嚙みつぶしたような顔で放たれたその言葉に、好きで付き合ってたわけじゃなかったんだと初めて知った。

「……簡潔すぎて、増本くんがなにを言いたいのかわからない」
「だよなあ。俺だって話したくねーもん」
「なに、それ。自分が時間ほしいって言ったくせに」

 煮え切らない態度の増本くんにもやもやするけど、好きな人が亡くなる辛さは僕も同じくらいよくわかるから、それ以上はなにも言えなかった。
 鼻をすする音が隣から聞こえてきたのに気づかないふりをした。
 すると彼がポケットをごそごそし始め、僕の方ににゅっと腕を突き伸ばしてきた。

「ん」
「なに、これ? 手紙? 増本くんから?」
「アホか」

 そう言って手渡された真っ白な封筒は、彼のポケットに押し込められていたせいでしわになっていた。
 それをいぶかしげに見てから裏返せば、小さく丸い文字で『河村純より』と書かれていた。

「……宛名書かれてないけど、本当に僕宛?」
「むかつくからちょっと黙ってて。純から志渡へって預かった」

 それを聞いて心臓が跳ねた。

「俺にできることは、あとこれだけだから」

 ひとりでいる時にでも読んでと、そのまま増本くんはどこかに行ってしまった。
 真っ暗な中あるのはゆらゆら光る街頭だけで、そんな不安定な明かりの中、僕は手紙を開いた。













 志渡くんへ

 まずは君に謝りたいことがあります。
 あんなに心配してくれていたのに、死んじゃってごめんなさい。
 
 それからあの日。
 志渡くんがわたしに言おうとしてくれていた言葉をむりやり遮って、本当にごめんなさい。
 志渡くんが伝えてくれようとしていたのがなんだったのか、自意識過剰でなければきっと当たっていると思うから、嬉しかったけれどかなしくて、わたしはあの日、あなたの言葉をわざと遮りました。

 勘違いじゃなければいいなと、これまで何度思ったかわかりません。
 核心的な言葉をここで言うのはずるいから言わないけれど、勘違いじゃなければいいと、心から本当に、そう思っていました。


 昔から見た目のことで周りからいろいろ言われることが多くて、わたしは病気もあったから体格もよくならなくて、周りから優しくされることが多い人生でした。
 うらやましいと思われるかもしれないけれど、どこか腫れ物に触るかのような扱いで、いつもかなしく思ってたんだ。

 だけど志渡くんは、最初から違っていたよね。
 平気で人をなじるし、冷たいし。
 けれどわたしにはそれが心地よかった。
 普通の人として見てくれているんだと感じられたから。

 志渡くんは意地悪なだけじゃなくて心配性だったし、少し臆病でもあったよね。
 ただ冷たいだけの人だったら、わたしは志渡くんのことをこういうふうにおもうことはなかったんじゃないかなと思います。

 入院が決まってから、わたしの命はそう長くはないと、お医者さんからそう言われました。
 退院したあの日、志渡くんに会って、わたしの決意は一瞬ぶれました。
 きっとそれが伝わったから、志渡くんはわたしに伝えようとしてくれたんだよね。
 わたしに受け入れる勇気がなかったから、志渡くんを選べませんでした。
 一番残酷な方法で、あなたを忘れようとしました。
 あなたの友達の増本くんも傷つけました。
 ごめんなさい。

 たったこれっぽちの言葉で志渡くんにちゃんと伝わるかがわからないけれど。
 さいごに。

 思い出してくれるかな、わたしが言ったお気に入りのセリフ。
 それが志渡くんに対するわたしの想いでした。


 PS.最終巻、読んでなければ読んでほしい。

              河村純                    









 手紙を読んだあと、すぐにサークル室に走ってあの本を探した。
 君のお気に入りのセリフが乗っているあの本と、最終巻。
 
 読んだら、君が死んでから初めて涙が頬を伝った——。