最近、馬鹿みたいに時間が過ぎるのが遅くなった。
 それもこれも僕に意気地がないのが悪いのだが、あの一件以来河村さんとは妙に気まずくなってしまった。
 メッセージを送ってみても会話は盛り上がらないし、自然とフェードアウトされてしまう。
 僕は足しげく金曜の3限にサークル室に通っていたが、いつからか河村さんは完全に顔を出さなくなった。
 いままでは来れない日があると必ずメッセージをいれてくれたけど、なにもないままぱったりと。
 本当に突然のことだった。
 けれどもしかしたら、彼女からしたらなにも突然ではなかったのかもしれない。
 こうなるべき時がきたから、こうなったのかもしれない。
 大学内で彼女の姿をたまに見かけたから、完全に避けられているのだとふいに気づかされた。
 もたもたしているうちに学年も変わり履修も変わったから、いまは河村さんがいつ空きコマなのかさえ知らずにいる。
 真面目な河村さんは一年のうちから講義を詰めて多めの単位を取っていたから、もしかしたらもうほとんど学校には来ていなくて、たまたま見かけた日も本当に偶然だったのかもしれない。
 こうなった原因は、きっとふたつだった。
 ひとつめはあの日に彼女の望んでいただろう言葉を僕が言えなかったこと。
 ふたつめは……、はっきりと理由はわからないけれど、やっぱりこれも僕が彼女に望む言葉をあげられなかったから、だと思う。
 後になって悔いるから後悔なんだというけれど、後になってみないとわからないことなんて山ほどある。
 今回のこれも、そういうことなのだ。

 一か月に一冊から、一か月に二冊いくかいかないかくらいまで読むのが早くなり、河村さんから勧められたこのシリーズの本も残るは最終巻だけになった。
 けれど、最後の一冊をサークル室に取りに行く勇気がなくて、ずっと読めないままでいる。
 時間が経つのは遅いはずなのに、過ぎ去ってしまえばあっという間だ。
 なにをして過ごしていたのか自分でもわからないうちに、季節は三度目の冬になっていた。

 冬は、去年も一昨年も僕にとっては印象深い季節だった。
 主に河村さん絡みで。
 今年は苦い意味で印象深い冬になるのだろう。
 





 「俺が彼女の名前を呼んだんですよ。純、って。ただ用事があって後ろから名前を呼んだだけだったんですけど。彼女が振り返った瞬間、スローモーションみたいに見えて。なぜかすごくきれいだなと思って。その時ですかね。ああ、これが恋なんだって気づいたのは」


 小さなローテーブルで質素に夕飯のカップ麺をすすっていると、テレビから覚えのある名前が聞こえてきて、喉元で息が詰まった。
 一人暮らしのワンルームにお似合いの小さな画面に顔を向けると、そこにはちらつく雪の中少し照れくさそうに笑う男と、同じような顔をして、だけど困ったように笑う女の姿が隣り合って映っていた。
 それを見て、電撃のような痛みが体に走り、苦しくなる。
 雪が降りホワイトクリスマスとなった駅前は、イルミネーションを見に来た若者たちでごった返しているようだった。
 彼らもそのうちのひとりのようで……、画面の中には声の主の増本くんと、久しく見ていなかった河村さんの姿が映っていた。
 街頭インタビューのようで、恋人を好きになった瞬間を取材しているようだった。


「えー! そんな漫画やドラマみたいな展開で恋に落ちることって本当にあるんですね!」
「いやいや、正直自分でもびっくりしてるんですよ! そんなことって本当にあるんだなって」
「いやあ、でもなんだかすごいですよ。おふたりはまだ学生さんですか?」
「大学3年です。就活も終わって時間ができたので、久しぶりのデートなんです」
「ちょっと……! 恥ずかしいからやめてよっ! テレビなんだよ?」
「はは、ごめんごめん」


 浮ついた声色でリポーターの質問に答える増本くんの声は弾んでいて、口元には笑みがこぼれていた。
 そんな彼の様子につられるように、赤くなった顔を隠すようにうつむきながらも、彼女もまた笑っていた。
 吐き出した息が白く空気を染め、黒い大きな男物の傘の中に身を寄せ合っている姿を見ると、最近ましになってきていた心の傷がじくっと痛む。


「おふたりはいつからお付き合いされているんですか?」


 そんなふたりの姿をほほえましいと言わんばかりに、リポーターは質問を重ねた。
 増本くんと河村さんが付き合っている——、というのはなんとなくわかっていた。
 大学内でふたりを見る機会は減っていたはずなのに、偶然見かけたときにはいつもふたり一緒にいたから。
 みんなの輪の中の一員としてではなく、ふたりきりで。
 過去に度外視した可能性は、現実となってしまった。
 そう、いつから、だったんだろう。
 いつから彼女は増本くんを好きで、付き合うことに決めたのだろう。
 増本くんも……、いつから、だったのだろう。
 ぬるくなったカップ麺を一旦テーブルに置き、食い入るように画面を見つめふたりの返答を待っていると、増本くんが静かに話し始めた。


「実は、明日で一年記念日なんですよね」
「えー! おめでとうございます! それじゃあ今日は前祝いですか?」
「そうなんです。さっきちょうど予約したホテルで夕食を取って、その帰り道にイルミネーションを見に来たんです」

 
 明日で一年——。
 その言葉に頭を強く殴られたような衝撃が走った。
 その日は僕が彼女に告白を遮られたあの日のことだ。
 そのあともテレビの中ではいくつかの質問が交わされていたようだが、頭になにも入ってこないまま、気づけば「本日はありがとうございました。お幸せにー!」というリポーターの呑気な声で番組は締めくくられ、次のテーマへと移り変わっていった。
 目に焼き付いているのは、恥ずかしそうに微笑む彼女の表情だけだった。

 あぐらをかいていた足に痺れを感じて、その痛みでとっくに忘れていたカップ麺の存在を思い出した。
 覗き込んだら汁気はすっかりなくなっていて、見るからにまずそうだ。
 ホテルで食事、なんてものにほど遠いものを感じながら、彼らとの差をまた突き付けられたようで、自嘲しながら冷めて伸びきった麺をまたすすった。