ものすごい風雨の中を徒歩で帰ったら、近いとはいえずぶ濡れになりかなり体が冷え、夜にはひどい頭痛と38度の高熱が僕を襲った。
 こんなことになるなら素直に増本くんに送ってもらえばよかったと後悔したが、もう遅い。
 幸い明日は日曜で講義はないし、家には解熱剤を常備していたのですぐにそれを飲み、ひたすら横になって過ごしていた。
 


 月曜日の朝になって熱は下がったけれど、頭痛は変わらずひどいままだった。
 けれど今日の講義は学部の必修科目があり、これ以上休むと出席日数が足りるか足りないかの瀬戸際だったので、気休めに薬を飲んでマスクをつけて登校した。
 いつも通り講堂の後ろ側に席を取ると、前の方の扉から河村さんが入ってくるのが見えて、反射的に視線を逸らす。
 サークル室で過ごしている間はお互い普通に話しかけるけれど、一歩外に出ればお互いが知り合いだと周りからはわからないくらい、僕たちは不干渉だった。
 お互いそうしようと決めてそうなったわけじゃないけれど、なんとなく、部室の外ではそうするべきなのかと思ったから。
 それは増本くんも同じで、必要以上にふたりで外で喋ったことはこれまで一度もない。
 そんなことを考えながら講義のメモを取るためのルーズリーフとタブレットを取り出し机に準備していると、ポケットに入れていたスマホが震え、アプリの通知が来たことを僕に知らせた。
 スマホが鳴るのなんてゲームの通知くらいしかないけれど、講義が始まるまで少し時間があったから取り出して見てみると、普段使用することはほとんどないメッセージアプリの通知だった。
 不思議に思ってトーク画面を開いてみると、一番上に河村さんの名前があるのが目に飛び込んできて、すぐさまタップしてメッセージを開いた。
 入部した日にお互いIDの交換はして友達登録だけはしていたけれど、実際にやり取りをするのは初めてのことだった。

『マスクしてるけど、風邪?』

 端的な言葉と、『心配だにゃー』と猫が喋っている風の、いかにも彼女が好みそうなかわいいスタンプが一緒に送られてきていた。
 画面から顔を上げて前の方の席に座っている送り主の彼女をちらりとうかがってみると、彼女も同じようにして僕を見ていたから、急いで返事を打った。

『ちょっと顔を隠したい気分でして』
『なにそれ、中二病的な? ちょっと痛いよ、それ』

 好きな人とアプリでやり取りをするのは初めてで、少しだけ浮足立っていた僕の心を返してほしい。
 心配させるのも悪いなと思いふざけて返信した結果がこれだったから色気がないけれど、軽口を叩き合えるこの関係は悪くないなとも思う。
 けれど勘違いされたままは癪なので、訂正のメッセージをすぐさま送る。

『嘘に決まってるでしょ。ただの風邪です』

 そう打ったところで教授が入ってきて講義の始まりのチャイムが鳴ったので、返事もしばらくは来ないだろうと一旦スマホを机の上に置いていつも通り授業を受ける態勢に入る。
 けれど、またすぐにスマホの通知が光ってメッセージがきたことを告げた。
 不思議に思って開いてみると、またもや河村さんだった。

『そんなことわかってるよ。それより風邪ひいたのって、土曜日にわたしのこと待っててくれて、大荒れの中帰ったからだよね? ごめんね』

 ごめんにゃさい、というさっきと同じ種類の猫のスタンプも一緒に送られてきていた。

『増本くんと思いのほか話が盛り上がっただけで、別に河村さんのことを待ってたわけじゃないし。相変わらず自意識過剰』

 教授にばれないようにスマホを隠しながら、嫌味交じりに返事する。
 本当は河村さんと少しでも長く一緒に過ごしたくて待ってたことは、僕だけの秘密だ。
 ほんのちょっとだけ素直に話せたらもっと仲良くなれるのかもしれないけれど、好きな人との距離の詰め方なんてわからないから、いつも嫌な言い方をしてしまう。
 普通の女子だったらここで嫌われそうなものだけど河村さんは違って、平気で僕に言い返してくるからそこに甘えているのかもしれない。
 嫌な思いをさせていることに間違いはないだろうから、気を付けなくてはとは常に思っているけれど、現実はなかなかうまくいかない。

『そういえば、この講義のあとって空きだったよね? 部室行く?』
『行く』
『そっか、じゃあまたあとで!』

 しばらくくだらない言葉の応酬が続いたあと、そうしてやり取りは締めくくられた。
 気づけば講義時間の半分はとっくに過ぎ去っていて、真っ白のままのルーズリーフに愕然としたけれど、心はどこか陽だまりのような温かさで満ちていた。







 講義が終わり空いた時間に軽くなにか食べようと、敷地内にあるコンビニでツナマヨのおにぎりとお茶、それからお菓子をいくつか買ってからサークル室に来ると、そこにはすでに河村さんがいた。

「遅かったねー」
「コンビニ行ってから来た」
「えー、そっか。飲み物買っちゃった? 一昨日のお詫びにと思ってあったかいの買ったんだけど」

 そう言って河村さんはホットレモンのペットボトルを、英字のロゴが入った黒い鞄から取り出した。

「買ったけど、ありがたくもらっておく」
「うん。一昨日は本当にごめんね」
「いや、別に河村さんのせいじゃないし」
「そう?」
「うん」

 そんな会話をしながら河村さんとは少し離れたところにある椅子に座り、もらった飲料の蓋を早速あけ口に含む。
 ホットレモンなんて普段自分で買ったりしないから、なんだか新鮮だ。
 久々に飲んだら甘酸っぱいレモンとほんのりとはちみつの香りがして、とてもおいしかった。

「お菓子買ったけど、食べる?」
「食べる食べる! いいの?」
「ん。なんでも好きなのどーぞ」
「わーい! ありがとう!」

 さっきコンビニで買った袋からおにぎりとお茶だけ取り出して、お菓子が入ってる袋を河村さんに渡した。
 彼女は嬉しそうに、どれにしようかなあなんて楽しそうに言いながら、なにを食べようか迷っている。

「これにきーめた!」

 そう言って彼女が手に取ったのはいちご味のポッキーで、やっぱりなと思いながら残りのお菓子が入った袋を受け取った。
 箱を開けて食べ始めた彼女を見届けてから、僕もツナマヨのおにぎりを頬張る。
 たったひとつのおにぎりを食べるのにそう時間はかからなくて、いつも通り右耳だけにイヤホンをつけて流行りの曲を流してから目を閉じた。
 片耳をあけておくのは、彼女がなにか話しかけてくるかもしれないと淡い期待を抱いているからだ。
 大体は特に話すことなく、時間になるまでお互いが思い思いに過ごすだけなんだけれど。
 と思っていたのも束の間で、目を閉じてから5分もしないうちに「……志渡くん、寝た?」と、珍しく僕を気遣うかのように小さな声で話しかけられた。

「……寝てないけど。なに?」

 そう言いながら目だけ開けて、彼女につられるように僕もいつもより少し小さい声で彼女に返した。

「いつも音楽聞きながら寝ちゃうから、たまには喋りたいなと思って」
「……別に、いいけど」

 彼女からそんなことを言われるなんて夢にも思わなくて、上擦りそうになる声を必死で堪えたけど、内心はかなりのガッツポーズを決めていた。

「いつも音楽、なに聴いてるの?」
「え、これ? わからない。なんかテレビとかでよく流れてるやつ」

 正直なところ、特別音楽が好きというわけじゃない。
 無音だと寝にくいという理由だけでいつもイヤホンを付け、テレビで聞いた覚えのある曲をただ再生しているだけだ。
 僕の答えにまるで信じられないというような表情をして、彼女は僕をまん丸の目で見つめていた。
 
「好きだから聴いてるんじゃないの?」
「え、特には」
「だったらなんで聴いてるの?」
「無音だと寝にくくない?」

 僕の返答に今度は口をあんぐりと開け、今度は呆れたように僕を見た。

「今までわたし、志渡くんって音楽が好きなんだなー、趣味なのかなーって思ってたんだけど。なんならおすすめのアーティストとか聞きたかったんだけど。なんの意味もなく寝るためだけに聞いてたってこと?」
「期待外れで悪いけど、そういうことになるね」
「……失礼なこと聞くけど、志渡くんって趣味とかあるの? なんか、なんにも興味なさそうで怖いんだけど」
「そう言われると不服だけど、趣味って言うほどの趣味はないかな。強いて言えば昼寝は好き」
「それは趣味って言わないんじゃない……?」

 こわごわとした表情で僕を見てくる河村さんの態度に、僕ってそんなにやばいのかと不安になる。
 確かに19年間生きてきて好きなことはこれだと言えるものがひとつもないのは、人生の薄さを表わしているようで不甲斐なくも感じてしまう。

「あのさ、もし志渡くんがよかったらなんだけど。読書、してみない?」

 河村さんは言いながら自分の鞄をあさり、中から一冊の本をおずおすと取り出した。
 著者名は僕が見たことのある人ではなく、またタイトルも聞いたことがないものだった。
 おどろおどろしい表紙の絵に似合わない、爽やかな恋愛を彷彿とさせるタイトルの本で、どうやらシリーズものらしい。
 彼女が手に持っているのは第四巻のようだった。

「この作家さん大好きなんだけど、新作は数年に一冊出るか出ないかだし、すごくマイナーみたいで誰も知らないんだよね。だから感想とか考察とか言い合える相手がほしくって」
「そこで僕に白羽の矢が立ったと」
「だって、趣味ないって言うんだもん。なら読書にハマってみるのも悪くないかなって思って。まあ、読書仲間がほしいってのが一番の理由なんだけど。……それにね、本っていろんなことを教えてくれるし、いろんな世界に連れて行ってくれるんだよ」

 最後、噛みしめるように言った彼女の言葉に少しの引っ掛かりを覚えたけれど、気のせいのようにも思い、「ふーん……。とりあえず、それってどういう内容なの?」と、ひとまず話を聞いてみることにした。
 僕が少し興味を示したことが嬉しかったのか、ぱっと表情が華やいで本のざっくりとしたあらすじを教えてくれる。

「表紙がちょっとグロいからホラーだと思われて敬遠されがちなんだけど、実は恋愛ミステリーでね……」

 など、嬉々としていかにこの本が面白くて読むべきかを力説してきた。
 鼻息荒く必死で説明する彼女の姿がやけにかわいくて、彼女がそこまで言うのならさぞかし面白いのだろうと、生まれてから読書なんてほぼしたことがなかったけれど、ひとまず読んでみることに決めた。
 なにより、ただ興味もない音楽を聴き寝て過ごすだけの時間を、彼女と話す時間に変えることができるのなら、幸せだと思った。

「河村さんがそこまで言うなら、読んでみようかな」
「えっ! ほんと!? うれしー!」

 そう言って彼女が満面の笑みを浮かべるから、マスクの下で僕も笑ってしまった。

「一巻はね、そこにあるんだ。志渡くんの前のー……、そう! それ!」

 机の上を指さしながら僕に指示を送る河村さんに従えば、机の上に積み重なっていた本の山から第一巻が見つかった。
 誰かの私物だろうと気にせずにいた机の中心部に積み重ねられたいくつかの本の山たちは、河村さんのものだったらしい。
 探し当てた第一巻は、繰り返し読んだからか文庫本のページに読み癖がついていてなにもしなくても少ししなるけど、本当にこの本が好きなんだなとわかる。

「これ、借りていってもいいの?」
「もちろん! そうだ、毎週月曜のこの時間は、感想とか言い合いっこしようよ!」
「え、僕そんなに早く読み終わる自信ないけど」
「途中でもいいの! なんだったら、どこまで読んだーとか、ここがおもしろいとか、そういうことを話せるだけでいいの」
「そういうもんなの?」
「うん。そういうものなの」

 かくして、僕は河村さんと共通の話題と、毎週月曜の2限目に合法的に会う権利を得たのだった。

「来週から楽しみだなあ」

 そう言って笑う彼女が本当に嬉しそうだったから、またマスクの下で小さく笑った。