AM六時。鼓膜に鳴り響くアラームを止め、ベッドからゆっくりと体を起こす。カーテンを開けると、眩しい日差しが目に入る。
 ――今日も夜が明けて、朝が来てしまった
 憂鬱な気分になりながら、私は布団を片付ける。重い足を頑張って前に出して、一階へ続く階段を降りた。

 「あっ、おはよう、愛海(まなみ)ちゃん」

 「愛海お姉ちゃんおはよう!」

 四十歳の母と、五歳の妹が私に笑顔で挨拶をしてくれる。
 猛烈な吐き気に襲われるが、悟られないように “偽りの笑顔” を作る。

 「……沙耶香(さやか)ちゃんおはよう、早起きだね。由里香(ゆりか)さんもおはようございます」

 妹のことに対して呼び捨てではないことはまだしも、母に対して “お母さん” とは呼んでいない。はたから見ると、普通の家庭ではない、と思うだろう。
 私はいつも笑顔で振る舞う。自分の感情を表に出さないために。頑張って口角を上げて、できる限り明るいトーンで話す。

 「もう朝ご飯できてるからね。お父さんはもうお仕事行ったよ。愛海ちゃん、卵焼き好きかな?」

 私はリビングの椅子に腰を掛けると、すぐさま友里香さんはご飯や卵焼き、味噌汁を食卓に出してきた。
 ――できるだけ、卵焼きは避けたかった。 “本当のお母さん” のことが頭によぎる。思い出してしまうから。

 「いただき、ます」

 ゆっくりと卵焼きを口に運ぶ。出汁が利いててほんのり甘い卵焼き。確かに友里香さんの料理は美味しいが、スルスルと喉を通らない。
 ――お母さんの味は、甘くなかったのになぁ。

 「美味しいね、お姉ちゃん」

 「……そうだね、友里香さんの卵焼き美味しいです」

 「良かった、また作るね」

 “美味しい” と言ったからには完食しないといけない。嘘を吐いたのだからそれは仕方ないけれど、正直甘い卵焼きは苦手だった。
 何とか完食し、食器を流し場へと片付ける。それからスクールバッグを肩にかけて、靴を履く。
 ――早く学校に行きたい。こんな家に居たくない。

 「……行ってきます」

 「行ってらっしゃい、気をつけてね」

 「愛海お姉ちゃん、行ってらっしゃい!」

 玄関にある写真を見て、心の中で呟く。
 ――お母さん、行ってくるね。
 外へ出た瞬間、一人の女性が家のインターホンを鳴らそうとしているのが目に入った。どうせチラシ配りの人だろう。

 「あっ、おはようございます。チラシを配っている者なのですが、愛の学校というものをおすすめしたくて。神様への感謝を育む学校になってまして――」

 「……すみません、結構です。チラシはポストに入れてくれれば、見るので」

 「そうですよね、学生さんですもんね。朝早くからごめんなさい。失礼します」

 女性は頭を下げ、チラシを渡してきた。そこには大きく【神様への感謝を】と書かれている。神様なんて、いる訳がない。だって神様がいたらこんなに不幸になるはずがないから。

 「神様なんて、馬鹿馬鹿しい……っ」

 私はそのチラシをくしゃくしゃに丸めて、スクールバッグの中に入れた。そして一歩ずつ後ろめたい足を頑張って前に出す。蝉の鳴き声が聞こえて汗が頬に垂れてくるこの真夏は、大嫌いだ。 


 横断歩道で信号待ちをしていると、私と同じ高校の制服を着た人が具合悪そうにしていた。見るからに顔が青ざめているし、手で口を抑えている。熱中症、の症状だろうか。
 誰もその人のことを見て見ぬふりをしていた。人間なんてこんなものだろう。知らない人を助ける人間なんて、そうそういないから。けれど私は考えるよりも先に行動していた。

 「……あの、大丈夫ですか?」

 男の人だったから、話しかけるのには勇気が必要だった。でも私は、昔から困っている人がいたら放っておけない性格だ。こういうことをお節介、というのだろうか。

 「ありがとう。その制服、俺と同じ高校だよね。一緒に学校行ってくれる?」

 そう言われたので私は頷き、その人の隣について一緒に学校まで足を運んだ。どうせ同じ高校だし、今日は早めに出てきたから遅刻はしないだろう。

 「本当に助かった。俺ちょっと軽い病気持ちでさ。もう回復してきたから大丈夫、ありがとな」

 その人は笑みを浮かべながら、額の汗を手で拭っていた。けれどその人の顔色がまだ青白く、息切れもしている様子だった。

 「……無理、してますよね」

 「え?」

 「私も、いつもそうやって嘘を吐くから分かるんです。まだ体調良くないんですよね。一緒に保健室、行きましょう」

 その人の意見を聞く前に、私は強引に保健室に連れて行ってしまった。けれどやっぱりその人はまだ青ざめた顔をしていて、熱もあったらしい。自分の行動は間違っていなかった。
 途端に、朝と同じく猛烈な吐き気に襲われる。でも私は大丈夫、大丈夫、大丈夫。その言葉を脳内に繰り返して、いつもと同じく笑顔を作る。

 「本当にありがとう。きみ、何年何組? 何て名前?」

 私が保健室を出る直前、その人が私に話しかけてきた。 “名乗る程じゃない” ってよく漫画の台詞で見かけるけれど、流石にそういう台詞を言うわけにもいかないし。
 でも、できるだけ苗字は避けたかった。この苗字を口にするのは、とてつもなく嫌気が差す。

 「……一年五組、水坂愛海(みずさか まなみ)です」

 「俺は一年三組、夏谷 麗太(なつたに れいた)。水坂、じゃあな」

 夏谷くんは笑顔で私を見送ってくれた。見惚れてしまうほど、今度は作りものじゃない、素敵な笑顔。
 ――……かっこいい。
 一瞬でもそう思ってしまった。ビー玉のような透き通る目、さらさらした前髪、太陽のような眩しい笑顔。まだ入学して数ヶ月しか経っていないからか、夏谷くんを見るのは初めてだ。
 胸が高鳴っているのが分かる。頭の中にまで、心臓の鼓動が伝わるくらい、ドキドキしている。
 これは真夏のせいだろうか。


 保健室から出て、私は階段を登り、四階にある教室へ足を運んだ。なぜ一年生の教室が四階なんだろう、とこの学校を恨む。やはり汗がダラダラと出てきて、とても気持ちが悪かった。
 ――早く夏が終わればいいのに。

 「あ、雪白(ゆきしろ)、おはよう」

 途端、担任の教師が声を掛けてきた。雪白、という苗字は “今の私ではない” 。けれどその言葉に反応してしまう。だって、前の苗字だったのだから。

 「先生、おはようございます。今は雪白じゃなくて、水坂です」

 「あ、そうだったな……。すまん、まだ慣れてなくて」

 「いえ、よく言われるので大丈夫です。ではお先に失礼します」

 大丈夫じゃないのに大丈夫と言って、笑顔を作る。そうしないと、自分が自分ではなくなってしまいそうで、怖かった。


 三年前、私が中学一年生のとき。お母さんが病気で死を迎えた。お母さんは私が小学三年生のときから入院していたけれど、亡くなったのは最近だからまだ信じられなかった。お母さんがいないことを。そして三年間、父と二人で生活をしていた。

 私はそのことに不満は無かった。けれど父は不満があったんだと思う。今年の春、父は再婚した。そして今の義母――友里香さんと、私の義妹の沙耶香ちゃんと四人で暮らしている。

 詳しくは聞いていないが、お父さんは子供の頃から虐待を受けていて、高校生のときから一人暮らしを始めたと言っていた。そしてお母さんと付き合って結婚することになり、お父さんが婿に行ったそう。

 だから “雪白” はお母さんの苗字だったのだけれど、友里香さんと結婚したお父さんの苗字 “水坂” に変わった。

 私は今の生活のほうが嫌だった。父が母を忘れて、今幸せに暮らしているのが信じられないから。私は友里香さんのことを “お母さん” と呼んだことはないし、沙耶香ちゃんのことを妹だと思ったことはない。一度も。

 お母さんは最期、私に言った。『ずっと笑顔でいてね。約束だよ』と。お母さんの想いを受け取って、私は毎日どんなときでも笑顔でいる。その約束だけは絶対に守りたい。たとえ、作り笑いだとしても。


 「あっ、まなみん、おはよう!」

 「愛海ちゃんおはよ」

 教室に入ると、親友二人が私のところへ駆けつけてくれた。明るくて天真爛漫な花菜(かな)ちゃんと、優しくて礼儀正しい遥香(はるか)ちゃん。
 私達はそれぞれ違う中学校から来たが、昔から知り合いだったようにとても仲が良い。私の本当のお母さんがいないことと、お父さんが再婚したことは伝えている。二人とも私の過去を受け止めてくれた。

 「花菜ちゃん、遥香ちゃんおはよう」

 「まなみんまなみん、今日三組に転校生が来たんだって! しかも男子で結構イケメンらしいよ。知ってた?」

 ――えっ……三組?
 それを聞いた瞬間、夏谷くんのことを思い浮かべた。もう入学してから三ヶ月も経っているのに、私は夏谷くんのことを一度も見かけたことはなかった。
 思えば『一緒に学校行ってくれる?』って、今朝も聞かれたし。もしかしたら夏谷くんが噂になっている転校生なのだろうか、と思った。

 「後で休み時間見に行ってみよ」

 「彼氏欲しいもんねっ、あたし達」

 「うーん、そう思ってるのは花菜ちゃんだけなんじゃない?」

 「って言いながら、はるるんも彼氏欲しいでしょ?」

 そう話しながら、二人は笑い合っていた。私もまた無理して笑顔を作る。こうしないと、この関係性が壊れてしまうかもしれないから。また大切な人を失いたくない。その気持ちが、私の中でとても大きかった。


 花菜ちゃん、遥香ちゃんと休み時間に、その男子の転校生を見るため、三組へ会いに行った。私は心の何処かで、夏谷くんだったらいいなと思っていた。
 ――そんな偶然が起きたらいいな。

 「あっ、いたいた、あの子じゃない?」

 「本当だ! 机で囲まれてるね」

 そんな奇跡なんて起こるはずがない、って思っていた。けれど私は、その転校生の顔を一目見て分かった。
 あの太陽のような眩しい笑顔をする人は、初めてだったから。

 「あれ、水坂じゃん!」

 その転校生は、夏谷くんだった。信じられない、奇跡が起きた。私が助けて仲良くなった人が転校生だったなんて。
 同時に、夏谷くんの周囲にいた人達が真っ先に私の方を見た。“誰あの女” “夏谷くんと知り合い?” そんなことをヒソヒソ言われている気がして、怖くなってしまった。

 「えっ、ちょっとちょっと、まなみん知り合いなの?」

 「愛海ちゃん、知り合いならそう言ってくれれば良かったのに!」

 どうしよう、変な誤解をされてしまった。
 花菜ちゃんと遥香ちゃんにそう言われた。私が夏谷くんと知り合ったことを言わなかったから、二人は怒っているのだろうか。もう親友じゃなくなってしまうのではないか。その不安が頭から離れなかった。
 言わなかったのは確信が持てなかったから。そう言おうと思ったけれど、喉に言葉が詰まって発せなかった。

 「ああどうも、転校してきた夏谷です。水坂には今朝、助けてもらって。俺体調悪かったから」

 「そうだったんだ! まなみんの友達の長澤(ながさわ)花菜でーす」

 「高城 (たかしろ)遥香です」

 ……ああ、夏谷くんは救世主だ。
 私が困っているときに、助けてくれた。何を言おうか迷っているときに、夏谷くんが二人の誤解を打ち解けてくれた。本当に太陽のような、素敵な人だ。
 ――やっぱり、かっこいいなぁ。

 「長澤さん、高城さんもよろしく。じゃあ水坂、またな!」

 二人には “さん付け” に対し、私だけに呼び捨て。そんな些細なことだけど、自分でもびっくりするほど胸が高鳴っていた。私だけ、特別のような感じがして。
 自分なんか幸せになる権利ないと分かっていても、彼と出会えたことが本当に奇跡だなと思った。