◇

 彼女は手術後の患者が一時的に収容されるリカバリールームにいた。

 ベッドの上に横たわった彼女は僕の姿を見て微笑んでくれたけど、肌はかさかさで、あんなに澄んでいた目は落ちくぼみ、窓から差し込む光で、つややかな黒髪だけが輝いている。

 ――あっ。

 その輝きの理由に気づいて僕は言葉を失ってしまった。

 ずっと、そうだったんだね。

 彼女は僕の表情を見上げながらウィッグを外した。

 髪と同じくらいつやのある丸い頭が露出する。

 顎が震えて、僕は言葉をかけることができなかった。

「小説よく書けてたよ」

 空気が抜けるようなかすれた声が静かな病室に響く。

「犬上くんは才能あるよ」

 ――ないよ。

 そんなもの、ひとかけらも。

「だって、モデルの私が感動したんだから」

 僕は、小説の続きを書き記したノートを差し出した。

 愛おしそうに一文字一文字に目を通し、時には笑みを浮かべ、時には涙を浮かべ、彼女は僕の小説を読んでくれた。

「やっぱり、最後は書けなかったんだね」と、閉じたノートに彼女が視線を落とした。「ごめんね、ハッピーエンドじゃなくて」

 ――君が謝ることじゃないよ。

 淡雪みたいな死を書けなかったのは僕の力不足なんだから。

 だけど、喉が詰まって声が出てこなかった。

 涙をこらえるのに精一杯で。

 僕は君に何も言ってあげることができなかった。

「私、海岸デートしてみたかったな」と、彼女がつぶやく。

 どうして過去形で言うんだよ。

「せっかく、こんなに素敵なカレシができたのに」

 だから、なんで過去形なんだよ。

 僕らには現在だって、未来だってあるだろ。

 だけど、現実は容赦なく今この瞬間をバッサリと断ち切ろうとする。

 彼女が精一杯の微笑みを僕に向けた。

「ねえ、この腕が切り落とされる前に、手を握ってくれる?」

 僕は彼女が差し出した震える左手を両手で包み込んだ。

 彼女の手は硬く、荒れていて、骨に古びたゴム手袋をはめたような感触だった。

 僕の手に彼女が右手を重ねる。

「つかまえた」

 そして、僕の手を引き寄せる。

「犬上くんの手は柔らかいね」

 胸元に置かれたノートの上で、僕らの指が絡み合う。

 このまま二人だけの時が永遠に続いてくれればいいのに。

 そうであればいいのに。

 僕が心からそう願った時だった。

「これから私が呪いをかけます」

「なんでよ」

「犬上くんは小説家になります」

 それが呪い?

「そして、ハッピーエンドしか書けなくなります」

「全然呪いじゃないじゃん」

「だからもう、私の小説は書かなくていいからね」

 ――なんで?

 どうしてそんなことを言うんだよ。

 僕にその質問をさせないように、彼女は頬を引きつらせながら僕の手を離した。

「じゃあ、次の鬼は犬上くんね」

「え、鬼ごっこだったの?」

 彼女はうなずく代わりに微笑んだ。

「ほら、十数えなくちゃ」

「しょうがないな。一、二……」

「ちゃんと目をつむって後ろを向いて」

「はいはい」

 僕は病室の窓に額を押しつけて目を閉じた。

「いーち、にーい、さーん……」

 十数え終わって振り向くと、彼女は目を閉じてじっとしていた。

 ――僕の小説を胸に抱きしめたまま。

 その手に触れてささやきかける。

「ほら、つかまえたよ」

 彼女は目を閉じたままだ。

 ――え……。

 おい、ちょっと……。

 どうしたんだよ。

 おそるおそる揺らしてみても、彼女は死んだように動かなかった。

 死んだ……ように。

 え……。

 え!?

 どうして……。

 僕はナースコールで看護師さんを呼んだ。

「た、大変なんです。あの、その、えっと……とにかく、すぐ来てください」

 それからのことは何も覚えていない。

 波が洗い流してしまった砂浜の絵みたいに、記憶がすっぽり抜け落ちてしまって、どうやって家に帰ったかすら覚えていない。

 みんなが泣いていたお通夜でも、涙を流した記憶がない。

 今でも、思い出そうとすると白い靄が流れてきて何もかも消えてしまう。

 ――最初から、何もなかったかのように。

 まるで、すべてが幻だったかのように。

 あの日から僕はずっと夢を見ているような気がする。

 だって、そうだろ?

 この世に彼女がいないなんて、そんな現実、ありえないんだから。