『ママ、怖いよ!』

 激しく怒涛の嵐が吹き荒れる中、聞くだけでも悲痛な金切り声を上げし4、5歳頃のあどけない少年。

 彼の正体が、幼き日の自分の片鱗だと知った時、涙が溢れた。


 *

 びゅんびゅんと泣き喚き、その涙を頬に打ち付ける風。

 遠く彼方のどぶねずみ色の空に光って落ちた、ゴロゴロと雷鳴を轟かせ、癇癪を起こす稲妻。


 まだ穢れなく「純粋無垢」、「無邪気」という言葉がお似合いの彼は、混沌とする外界に意志の強い瞳を向け、ちょこんと体操座りをし、永久に待っていられた。

 大人に助けを求めに行こうという考えは一瞬たりとも脳裏に浮かぶことはない。


 “もうすぐママが迎えに来て抱き締めてくれるんだ。”


 そう、信じて疑わなかったから。


 しかし、着実に彼の懐中時計の歯車は狂い出し、季節は現実世界の狭間から微睡みから入眠へと移り変わっていく。

 一瞬が何時間にも思えてきた頃には、少年はすっかり疲れ果ててしまい、ついにうとうとと、とても幸福であり悲惨とも呼べる幻想の住処で新しい暮らしを始めた。


 優しい微笑みを浮かべたママは、僕をふかふかの羽毛布団をひいたベットに寝かしつけて、親しみやすく慈愛に満ちた声で子守唄を歌ってくれている。

 部屋の暖炉の炎はパチパチと燃え上がり、薪の上に火の粉が舞うのが微かに見え、温もりを感じた。


 ああ、どれくらいの時間が経ったのだろう。

 いつの間にか風は止み、どす黒かった雲の隙間から太陽がぱあっと顔を出し微笑みかけていた。
 愚かな己を嘲笑されているみたいだ。


 『…この夢がいつまでも続けばいいのに。』


 僕がそう思った瞬間、漆黒のマントを羽織った友達は現れ、囁く。

 『ここはおとぎの国だよ、少年。本当は、誰も見てなんかいない。君の声は誰にも聞こえていなんかいない。君はね、捨てられたんだよ。』

 彼の拳は、僕の胸をとんとんと叩くと同時に、反論できない言葉を投げ付ける。
 それは、僕の防衛本能が鈍感になろうと努めたネガティブな感情のブラックホールの所在を突き止め、敏感にさせ、ぐるぐるとかき混ぜ、気づかせた。

 ああ、ずっと僕は愛が欲しい。
 飢え、求め、焦がれ、路中を彷徨うこじきのように渇望していた。
 ほんとうは、ずっとさびしかったんだ。
 目の前の景色は全部、偽り。
 砂漠の上をひとり渡り歩いて、すっかり渇き切り枯れ果ててしまった喉を潤してくれる、あのあと一雫でもいいから生命の水が欲しかった。

 悲観的な眼で見る世界は、何もかもが凶器となって、僕を傷つけていく。
 そのループの穴から抜け出せず、現実逃避をしようと瞼を閉じても、とめどなく溢れてくる苦しみ。

 いっそ道を途絶えさせたい。これ以上進む事ができぬように。
 立ち止まりたい。
 何も考えられない、考えなくていいあの黄泉の世界にいったほうがずっと幸せなんだ。

 生きることより、死ぬことの方が何百倍も。

 『あっははは。』

 得体の知れない不気味な笑い声。
 被害妄想だと分かっているのに、何か目に見えない誰かに本当に嘲笑されているような気がしてならない。

 木枯らしが吹き荒れ、そこから分岐した枝から何かを眺める観察者の流浪の旅人、カラス。
 漆黒の鳥は、

 『カァーー』

とすでに見捨てし、空っぽな空に向かって、何か一言、嘆かわしそうに言い残すために鳴いた。
 そして、羽音と共に、一枚の黒い羽根をはらりと落としては、また新天地へと飛び立っていく。

 
 彼が去る時の俯瞰した眼から涙を零す光景は、見間違いであったのだろうか。