約3年前の4月上旬。
 桜の花弁がはらはらと舞うので、思わず顔がほころんでしまうような日。
 私は、希望だけを胸一杯に抱いて某私立中高一貫校の入学式へ向かおうと階段を登っていた。

 “小学校4年生の時、生き地獄のような勉強の幕開けからよくぞ私は耐え抜いた!”

 第一志望校には届かなかったが、これからも、小学生の時みたいに成績優秀で優等生の“私”として頑張ろう。

 あの刹那に思いを馳せれば、見える世界がすべてがキラキラと輝きを放っていたような気がする。
 生きる喜びを歯でギュッと噛みしめ、がむしゃらに何もかもに情熱を注いだ。

 ここで、一つ注釈を入れようと思う。

 私は、脳機能の偏りから生じる自閉スペクトラム症(ASD)及び、注意欠如・多動症(ADHD)という発達障害である。
 
 症状の出方は千差万別。

 私の場合、人に過剰な警戒心を抱き、壁を作ってしまい人間関係の構築に困難であったり、完璧主義、極度の不注意、に悩まされてきた。
 また、運動が苦手な子も多く、私も例外ではない。
 
 脳の機能が凸凹していると判断された私たちのほとんどは、WISC検査を受ける。
 世間で言う“IQ”を計測するのだ。

 私の診断結果は、

 言語理解:119
 知覚推理:95
 ワーキングメモリー:85
 処理速度:76

 平均値は100。
 数字が高ければ高いほどその能力に長けることになり、IQが130を超えると「高IQ」、70を下回ると「知的障害」。
 学校で例えるなら、前者は、頭が良すぎて学校の授業が無意味に感じられたり、後者は授業に着いていけないケースが多い。
 どちらにせよ、生きづらくなってしまう。

 言語理解が高い私は、趣旨を理解する能力が高く、全体でおおよそ上位10%に位置付けられる。
 理論上、首都圏の高校偏差値で言えば、偏差値60程度の学力を所持することが可能だ。
 逆に処理速度は「知的障害」に比較的近い境界域に食い込んでいる。
 この能力は簡単に説明すれば、作業するスピードである。

 以上から総合的な結論は、授業の内容は容易に理解できる地頭でありながら、試験では全く時間が足りないのだ。

 勿論、見直しする時間は0。
 ケアレスミスも多発する。
 
 私は、小学生の頃までこれが普通だと思っていた。
 
 中学授業の塾での成績は、必ずしも芳しいものとは言い難い。
 時間を十分にかける事が出来れば100点採れるものでも、運が良くて80点が限界。
 しかし、小学校での勉強は楽勝であり、時間が足りないと感じる事は無く、満点が普通の成績であったし、読書もするので優等生というイメージが貼られていた。
 その為、自己肯定感は高く、成績を危惧したことはないに等しい。

 しかし、中学校に身を置いてみると状況は一変。
 スクールカーストの頂点には、先生に気に入られている子ばかりが降り立った。
 私の成績は、平均よりやや下で、実力不足ならば納得できる数値だったが、処理速度のせいで試験では全く実力を発揮できない。

 「解けたはずなのに……。」

 そう思えば思うほど、悔しくって、やりきれない。
 いけないと分かっていても、普通にテストを解け終えられる成績の良い子への嫉妬が渦巻く。

 自尊心を保とうと、せめて宿題だけは完璧に!と間違えた箇所について見直しコメントを入れるなどしたが、そもそも宿題も人より早くこなせない。
 特に数学は苦手で、周囲は30分〜1時間で終わらせる課題に5時間を要す。

 そして、何よりも私には自由時間が必要だった。
 こんな現実に耐え抜く為に、休む時間を削ってでも……。
 一睡もせずに学校に行ったこともある。

 そんな馬鹿みたいな生活を続けて、案の定、熱を出し、学校を休んだ日。
 私は頑張るのをやめた。
 宿題もまともにやらなくなった。

 でも、時は既に遅し。
 身体は疲弊し切って、おかしくなっていた。

 睡眠時間は平均4時間。
 もはや、遅刻常習犯。
 ダイヤが40分置きのバスに乗り遅れ、Chromebookと教科書を詰め込んだ岩石のような重さのリュックを背負い、大きな坂と階段を越えて、30分かけて、駅まで歩く日々。
 最寄駅から、全校生徒3000人の行列に揉まれて登校。
 
 全国大会で結果を残すレベルの部活の厳しさに、友人たちと集団退部したり、また新しい部活に入ってガチさに絶句してまた退部したり。
 試験で赤点を採っては、「補習民」の仲間たちと18:00まで再試験。

 中1の終わりには、週1で休むのがデフォルトと化したが、それ以上休むのは母が許さず、殴られ、怒鳴られた。

 授業では大好きな現代文以外は居眠り。

 「何であんたは休むの?」

 そう、母に聞かれたことがある。

 しかし、答えられない。

 私には、分からなかったのだ。

 頭なんか働いていなくて、自分の状況を冷静になんて見られなくて、自分が疲労し、壊れかけているだなんて夢にも考えなかった。

 中学2年生のある日。

 前述の通り、私は人間関係構築が苦手で、運動が苦手でクラスメイトに迷惑かけたり。。
 陰口を言われるのは日常茶飯事だった。

 そんな私にも、中学校に入ってできた大事な親友たちがいる。

 補習帰りに、

 「遅刻しちゃうけど塾に行って来るね。」

と、私は電車から降り手を振る。

 まさか、その日を最後に不登校になるなんて思っていなかった。

 塾では、頭が正常ではなかったからか問題文の意味を理解するので手一杯。
 頻繁に記憶喪失が起こり、何度も問題文の字を読み返して、1時間30分の授業中、3問しか解けなかった。
 果たして正解していたのかも定かではない。

 翌日、母は私を初めて起こさなかった。
 
 後に聞けば、もうすぐ夏休みだから、9月に行けるようにと計らったかららしい。

 私は、ひたすら眠り続ける。

 曖昧な記憶を辿れば、非24時間睡眠覚醒症候群の状態にあったのかな、、と思う。
 就寝時間が少しずつずれて、昼夜逆転を繰り返していた。

 結局、学校には行けるようになるはずもない。
 母と子共々、ストレス状態にあったということもあり、12月に精神科思春期病棟に入院するという流れになる。

 8:00に起床し、22:00に就寝という規則正しい生活環境の中で過ごしてから、2ヶ月。
 週2でフリースクールへと行き始める。

 あれから1年という月日を経て、3月の下旬、私は退院した。
 
 未だ体調は万全とは言えないが、既に内部進学辞退届を提出して、通信制高校入学への準備を進めている。

 不登校や発達障害などに配慮のある学校で、テスト時間を延長するなどの「合理的配慮」もある。

 少し先のことではあるが、センター試験でも、障害者手帳や診断書を用意すれば、試験時間を1.3倍増やして貰うことが可能だ。

 でも、あの時のやりきれない想いは、今でも決して癒えない瘡蓋として私の肌に刻み込まれている。

 結果的に不登校になって良かったとは思っているのだ。

 私の所属中学校では1週間休めば、もう遅れを取り戻すことは難しい。
 私は、分からないことを自分なりに理解し、納得してから、次の単元へと進みたかった。

 担任の先生が言うにも、それを叶えつつ学校でやっていける生徒は少数だと言う。
 自分のペースで1からやり直すのは、あの学校では不可能だった。

 でも、やっぱり何かが引っ掛かる。

 「もしも」、私の処理速度が早かったら。
 「もしも」、自分が疲れていることに気づけたら。
 「もしも」、誰かが気づいてくれていたら。

 「もしも」

 に囚われていても、何も生産出来やしないとは分かってはいるのに。

 これは私の持論だが、刹那的に大きな感情に囚われる時は、頭には言語が浮かんではこない。

 昔、

「怒っている人は困っている人なんだよ。」

と誰かが言った。

 きっと、それは感情を言語化し、考えに移行することができなかったため、その混乱に心が振り回されてしまったのだ。

 私が笑うのは、それが言語化するには勿体ないほど喜ばしいことだったから。

 本当に嬉しい時、言葉が出てこないのはきっとそのため。
 私が、感動の涙を流せない時、頭にはそれについての言語が生まれていた。
 感情のほとぼりが冷め、現実へ戻ってしまう自分をなぜだか残念に思うのは、複雑な矛盾を抱えてそれを解決しようともがくその様が愛おしく思えてしまうことがある。

 「言葉は概念を作る」

 ある意味、言語を使うということは目の前の状況をひとつひとつ区分していくことなのだ。 
 それは便利であると同時に世界のありのままを映し出すのは不可能。

 今も私は、思考をしながらこの文章を綴っているが、これらの体験の全てをあるがままに見れているわけではないと思う。

 相談相手へ悩みを口から言葉にして整理する。
 すると、すらすらと感情が整理されていき、自分がそんな出来事に対し、悔しかったり、泣きたくなったりしていたことが恥ずかしくなってしまう。

 「苦しかった。」

 「痛かった。」

 「逃げ出したかった。」

 たった数秒で吐き出せる言葉はあまりに容易で、軽く感じられてしまう。

 言葉が表現する感情と心の奥深くで感じる感情のギャップの違い。
 それらに私はもどかしさを感じさせるが得ないのだ。

 でも、それでも。
 今、この場で吐き出す事が出来たから、過去に一つ区切りを付けて、また一歩前進出来た気がする。

 「もしも」、中学受験をしなければ、私は一生涯において宝物のこんなにも素晴らしい親友たちとは出会えなかった。
 「もしも」、あのまま中学校で耐え抜いても、別の場所でまたつまづいてしまうという未来が見えた。

 怒涛の日々で壊した身体のリハビリの中、与えられた、1年間もの「自由」。

 その余暇で、自分についての今まで知りえなかった弱さ、そして強さを知った。
 これから私が、自分の短所にどう向き合っていけば良いのか考える時間を持てた。

 決して、後悔はしていない。

 何よりの真実は、私は確実に未来へ向かって歩き始めていることが証明している。