「お待たせ」

しばらくして、秋さんは救急箱と、何やら水の入った小さな樽と、同じく水の入った陶製の湯呑みを手に部屋へと戻ってきた。彼は私の前に膝つき、救急箱と樽を床へ、そして湯呑みを机へと順に置いた。

「お気遣いありがとうございます」

「いいえ。お水なら飲んで大丈夫だよ。ここの神社でお清めに使う湧き水だ。“穢れ”はついていない」

「穢れ」

「そう。手を見せて」

言われてそっと手を差し出す。狐さんの爪に引っ掻かれた方の手だ。

「少し血が出た痕があるね。もう塞がってはいるけれど」

「これくらいなら平気です」

「本来なら僕たちが君に触れることも避けた方がいいんだ。傷自体は大したことないけれど、念のために水で清めておこう。絆創膏は自分で貼れるね?」

「はい」

「この樽に手を浸して」

言われた通り樽の水で手を清め、私は渡された絆創膏を傷の上に貼り付けた。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

「あの……」

「うん」

「穢れって……。あなたたちは、この世界は一体何なんですか?」

「そうだね。彗がまだ話していないようだから。順に説明しよう」

「彗って、あの、狐さんのことですか?」

私の言葉に、秋さんは少し面食らったようだった。しばらく考えるように小首を傾げ、それからぷっと吹き出してこう言った。

「そこから?」

「……そこから、です」

「ふふっ。狐さんって呼んでたね、あいつのこと。あいつがそう名乗ったの?」

「正確には、ちょっと違います。彼は自分のことを化け狐だと言いました。化け狐に名前はない、だから好きに呼んでと、そう言われて」

「それで狐さん」

「咄嗟に思い付かなくて。結局そのまま」

「なるほどね。名前も名乗らないとは、何を考えているのやら。まぁ、呼ばれたくない理由が思い当たらない訳でもないが」

「理由?」

「そこは僕の憶測になるからね。一旦置いておいて、話を戻そう。気になるなら本人に直接聞くといい」

「分かりました」

「まずこの世界について。蓮山さんは、検討がついているかな?」

「いえ、まだ、はっきりとは。ただ、私は本来なら“ここにいてはいけない人”なんですよね?」

これまでの狐さんの、そして面を売ってくれた女性の言葉。それから、この世界に来てからずっと感じている、言いようのない疎外感。理性と本能、そのどちらもが、ここは私が“元いた世界ではない”と告げてくる。

「うん。なら、さっき雪に君が手を差し伸べようとした時、彗が駄目だと突っぱねた理由、そこからちょっと考えてみようか」

「見ていたんですね」

「全部ではないんだけど。雪を探して歩いていたら、君たちの姿が遠くに見えて。近づいて行くと、少しずつ話し声が聞こえてね。彗が蓮山さんを叩く前に止められたらよかったんだけど、間に合わなかった。ごめんね」

「あ、いえ。それは秋さんが謝ることじゃありません」

「ありがとう」

「狐さん……じゃなくて、彗さんが怒った理由……」

「怒っていた訳ではないと思うけどね。雪はどうして泣いていたの?」

「家族とはぐれたみたいで」

「家族を探していたんだね? それで、君は雪に何をしようとしていたの?」

「一緒に、あの子の家族を探そうと」

「そう……」

私の言葉を聞いた秋さんの顔に、仄暗い影が落ちた。少しの間俯いて、また顔を上げて。そうして私を再び自身の瞳に捉えた彼は、どこか痛みを堪えるような表情で、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「蓮山さん、それはね、“できない”んだ」

もしかしたら、いや、もしかしなくても、もうこの時既に、私は彼のこの言葉を予感すらしていたかもしれない。頭をよぎって、しかし、そうだとは肯定したくなくて、無意識に拒んでいた、事実。

「彼が家族のあたたかな腕に迎えられることは、もう二度とない」

「……」

「叶わない希望を与えることほど残酷なことはない。だから、彗は君を止めたんだ」

「それって……」

「本当は、もう君は察しがついているんじゃないかな? この世界のこと」