「え……?」
鳥居の先へ一歩、入った途端に景色が一変した。オレンジ色の灯り。四方に充満している美味しそうな匂い。誰かの楽しそうな笑い声。
そこはどう見ても、夏祭りの会場だった。私の前方に、ずらっと真っ直ぐ屋台がたち並んでいる。
「わっ」
突然、何かとぶつかった。 咄嗟に対応できなかった私は、ただただ反射で固く目を瞑ることしかできなかった。倒れる! と思い、数秒後に来るであろう衝撃と痛みを覚悟する。しかし、いつまで経ってもそれらが私を襲ってくることはなかった。恐る恐る瞼を持ち上げると、心配そうにこちらを覗き込む瞳と目が合った。
「大丈夫?」
いや、正確には、“心配そうな声音でこちらに話しかける狐面の瞳と”、目が合った。暫くの間、状況が理解できずにそのまま固まっていた私は、その人が次に発した
「怪我をしなくてよかった」
という言葉でハッと我に返った。どうやら、目の前の狐面の人が私を支えてくれたおかげで、こけずに済んだようだ。
少し落ち着くと状況が分かってくる。私が、“目の前のその人に縋りついたままだ”ということも。
「俺に触れるのはあまりよくない。離れて」
「えっ、あっ、ごめんなさい」
私は、弾かれるようにその人から一歩、距離を取る。私の慌てようを見て、その人はくすくすと笑った。なんだかとても恥ずかしくなって二の句が告げないでいると、今度は別の所から声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
声は、私の視界のずっと下から聞こえてきた。目を向けると、そこには桜色の浴衣を着た小さな女の子が立っていた。彼女も、何やら猫のような面を顔に付けている。
「あぁ、その子がさっき、君にぶつかったんだよ」
狐面の、こちらは青年だ。正確な年齢は分からないけれど、十六歳の私よりは、少し歳上なんじゃないかと思う。その彼が、女の子をチラリと見て説明してくれた。
「そっか」
「お姉ちゃん、痛くない?」
「痛くないよ」
「大丈夫?」
「うん。大丈夫」
不安そうな女の子に、私はしゃがんで視線の高さを合わせると、努めて柔らかく笑いかけた。すると猫の面の奥、女の子がパッと笑ったのが気配で分かる。両サイドに結われた柔らかそうな黒髪が、ぴょこんと揺れた。
「よかった! ねぇ、ねぇ、お姉ちゃんもお祭りに来たの?」
「え? えっと、いや、私は……違うの」
「でもお姉ちゃん、浴衣着てる」
「浴衣……? あれ? 嘘……」
女の子の言葉で、私は自身の体に目をやった。彼女は嘘などついていなかった。私は彼女の言葉通り、その身に浴衣を 纏っていた。透き通るような淡い水色の、とても、とても綺麗な浴衣。生地の上、濃度の違う様々な青が、湖面を揺らす波紋のような模様を一面に広げている。
こんな浴衣、私は持っていない。私のものではない。でも、それなのに。身につけたこれは、どこまでも私の好みに合っていた。
「なんで……」
「やっぱりお祭りに来たんだね。お祭り楽しいから好きだよ! 美味しいものもいっぱいあるんだぁ」
私の困惑を他所に、女の子は楽しそうに話を続ける。
「さっきね、これ買ったの! お姉ちゃんにも一口あげる」
女の子がそう言って、右手に持っているものを差し出してきた。艶々と輝く飴にコーティングされた、それは林檎飴だった。
「あ……」
私は咄嗟に後ずさる。気づけばゆらりと持ち上がった両の手が、そのまま女の子を拒絶するかのように、顔の前に翳されていた。
「どうしたの?」
「ご、ごめんね。私はいいかな」
私は、林檎が苦手なのだろうか。けれど思い出される林檎の味は、決して嫌なものではなかった。それなのに。私の心が「食べたくない。食べてはいけない」と警鐘を鳴らす。なぜ。どうして。
「なんで、なんで? 甘くて美味しいよ?」
無邪気な厚意は、時に残酷だ。その甘い香りが、艶々としたその赤が、私に追い打ちをかける。まだ整理できていない記憶に、得体の知れない仄暗い何かが見え隠れする。その黒に、呑まれそうになる。
「お嬢ちゃん」
その時、頭上から穏やかな声が聞こえて、私の意識は暗闇の中から引っ張り上げられた。
「お姉さんはね、今はお腹が空いていないみたいなんだ。だからそれは、君が食べて」
「そうなの? お腹いっぱいなの? ならしょうがないね」
にこやかに女の子に語りかけているのは、狐面の青年。
「じゃあもう行くね。ばいばい、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
「ばいばい」
青年が小さく手を振っている。私は何も言えないまま、ただ黙って女の子が駆けていく後ろ姿を見送った。
「立てる?」
不意に、彼がこちらを見下ろした。情けないやら恥ずかしいやら、様々な感情が私の中でぐるぐると渦巻き、今にも溢れ出しそうだ。
「……はい」
脚にぐっと力を入れて、自分の力でなんとか立ち上がる。
「……ありがとうございました」
「うん?」
「助けてくれましたよね」
「二人がぶつかる瞬間を見てね。咄嗟に支えただけだよ」
「あ、そうじゃなくて。いや、それもなんですけど……。あの……さっき、林檎飴」
「……あぁ、そっち。いやぁ、あれ、食べなくて正解だよ」
「え?」
「ここだけの話、この祭りに出店している飲食系の屋台は全部、他所の祭りで出禁になった店なんだ」
「出禁?」
「そう。理由はなんだと思う?」
「……分かりません」
「不味すぎるからなんだって。嘘みたいな話だろう?」
「えっ……。あの、本当なんですか?」
「……さぁ、本当かもしれないし、嘘かもしれない。君はどう思う?」
「揶揄ってます?」
「……ふふっ」
「揶揄ってますよね! ほら、笑ってる!」
「ふふっ……ごめん、ごめん。いや、ちょっと調子に乗った。嘘だよ、今のは作り話」
堪えようとして、しかし堪えきれていない笑いが目の前の青年から漏れる。くすくすと、とても楽しそうに笑う様は、先までのどこか大人びた様子から一転、なんだか少し、幼く見えた。
鳥居の先へ一歩、入った途端に景色が一変した。オレンジ色の灯り。四方に充満している美味しそうな匂い。誰かの楽しそうな笑い声。
そこはどう見ても、夏祭りの会場だった。私の前方に、ずらっと真っ直ぐ屋台がたち並んでいる。
「わっ」
突然、何かとぶつかった。 咄嗟に対応できなかった私は、ただただ反射で固く目を瞑ることしかできなかった。倒れる! と思い、数秒後に来るであろう衝撃と痛みを覚悟する。しかし、いつまで経ってもそれらが私を襲ってくることはなかった。恐る恐る瞼を持ち上げると、心配そうにこちらを覗き込む瞳と目が合った。
「大丈夫?」
いや、正確には、“心配そうな声音でこちらに話しかける狐面の瞳と”、目が合った。暫くの間、状況が理解できずにそのまま固まっていた私は、その人が次に発した
「怪我をしなくてよかった」
という言葉でハッと我に返った。どうやら、目の前の狐面の人が私を支えてくれたおかげで、こけずに済んだようだ。
少し落ち着くと状況が分かってくる。私が、“目の前のその人に縋りついたままだ”ということも。
「俺に触れるのはあまりよくない。離れて」
「えっ、あっ、ごめんなさい」
私は、弾かれるようにその人から一歩、距離を取る。私の慌てようを見て、その人はくすくすと笑った。なんだかとても恥ずかしくなって二の句が告げないでいると、今度は別の所から声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
声は、私の視界のずっと下から聞こえてきた。目を向けると、そこには桜色の浴衣を着た小さな女の子が立っていた。彼女も、何やら猫のような面を顔に付けている。
「あぁ、その子がさっき、君にぶつかったんだよ」
狐面の、こちらは青年だ。正確な年齢は分からないけれど、十六歳の私よりは、少し歳上なんじゃないかと思う。その彼が、女の子をチラリと見て説明してくれた。
「そっか」
「お姉ちゃん、痛くない?」
「痛くないよ」
「大丈夫?」
「うん。大丈夫」
不安そうな女の子に、私はしゃがんで視線の高さを合わせると、努めて柔らかく笑いかけた。すると猫の面の奥、女の子がパッと笑ったのが気配で分かる。両サイドに結われた柔らかそうな黒髪が、ぴょこんと揺れた。
「よかった! ねぇ、ねぇ、お姉ちゃんもお祭りに来たの?」
「え? えっと、いや、私は……違うの」
「でもお姉ちゃん、浴衣着てる」
「浴衣……? あれ? 嘘……」
女の子の言葉で、私は自身の体に目をやった。彼女は嘘などついていなかった。私は彼女の言葉通り、その身に浴衣を 纏っていた。透き通るような淡い水色の、とても、とても綺麗な浴衣。生地の上、濃度の違う様々な青が、湖面を揺らす波紋のような模様を一面に広げている。
こんな浴衣、私は持っていない。私のものではない。でも、それなのに。身につけたこれは、どこまでも私の好みに合っていた。
「なんで……」
「やっぱりお祭りに来たんだね。お祭り楽しいから好きだよ! 美味しいものもいっぱいあるんだぁ」
私の困惑を他所に、女の子は楽しそうに話を続ける。
「さっきね、これ買ったの! お姉ちゃんにも一口あげる」
女の子がそう言って、右手に持っているものを差し出してきた。艶々と輝く飴にコーティングされた、それは林檎飴だった。
「あ……」
私は咄嗟に後ずさる。気づけばゆらりと持ち上がった両の手が、そのまま女の子を拒絶するかのように、顔の前に翳されていた。
「どうしたの?」
「ご、ごめんね。私はいいかな」
私は、林檎が苦手なのだろうか。けれど思い出される林檎の味は、決して嫌なものではなかった。それなのに。私の心が「食べたくない。食べてはいけない」と警鐘を鳴らす。なぜ。どうして。
「なんで、なんで? 甘くて美味しいよ?」
無邪気な厚意は、時に残酷だ。その甘い香りが、艶々としたその赤が、私に追い打ちをかける。まだ整理できていない記憶に、得体の知れない仄暗い何かが見え隠れする。その黒に、呑まれそうになる。
「お嬢ちゃん」
その時、頭上から穏やかな声が聞こえて、私の意識は暗闇の中から引っ張り上げられた。
「お姉さんはね、今はお腹が空いていないみたいなんだ。だからそれは、君が食べて」
「そうなの? お腹いっぱいなの? ならしょうがないね」
にこやかに女の子に語りかけているのは、狐面の青年。
「じゃあもう行くね。ばいばい、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
「ばいばい」
青年が小さく手を振っている。私は何も言えないまま、ただ黙って女の子が駆けていく後ろ姿を見送った。
「立てる?」
不意に、彼がこちらを見下ろした。情けないやら恥ずかしいやら、様々な感情が私の中でぐるぐると渦巻き、今にも溢れ出しそうだ。
「……はい」
脚にぐっと力を入れて、自分の力でなんとか立ち上がる。
「……ありがとうございました」
「うん?」
「助けてくれましたよね」
「二人がぶつかる瞬間を見てね。咄嗟に支えただけだよ」
「あ、そうじゃなくて。いや、それもなんですけど……。あの……さっき、林檎飴」
「……あぁ、そっち。いやぁ、あれ、食べなくて正解だよ」
「え?」
「ここだけの話、この祭りに出店している飲食系の屋台は全部、他所の祭りで出禁になった店なんだ」
「出禁?」
「そう。理由はなんだと思う?」
「……分かりません」
「不味すぎるからなんだって。嘘みたいな話だろう?」
「えっ……。あの、本当なんですか?」
「……さぁ、本当かもしれないし、嘘かもしれない。君はどう思う?」
「揶揄ってます?」
「……ふふっ」
「揶揄ってますよね! ほら、笑ってる!」
「ふふっ……ごめん、ごめん。いや、ちょっと調子に乗った。嘘だよ、今のは作り話」
堪えようとして、しかし堪えきれていない笑いが目の前の青年から漏れる。くすくすと、とても楽しそうに笑う様は、先までのどこか大人びた様子から一転、なんだか少し、幼く見えた。