暗闇の道中、得体の知れない黒い何かが、私たちに近づいてきた。互いを庇うように歩きながら、秋さんがくれたお守りを翳すと、それは弾かれ消えていった。
耳元で聞こえる「おいで」の声は、彗にぃと私が互いを呼ぶ声で掻き消した。
そうしたことを繰り返し、繰り返し。歩くこと、数分。目の前に、大きな赤い鳥居が見えた。
「走ろう」
彗にぃの声と共に、私は駆けた。そして鳥居を、くぐる。
*** ***
「はぁ……はぁ……」
久々に全力で走った私は、肩で大きく息をしていた。そもそも心臓が悪かったから、久々というよりまともに走ったことがない。
「私、大丈夫なのかな、走っちゃったけど……」
「それは大丈夫。今、千晴の本体はここにはないから。息があがっているのも、肉体の記憶を魂が再現しているだけなんだ。その証拠に、ほら、俺はもうその記憶が薄れているから、同じように走っても息があがっていない」
「便利な体……って言えばいいの……?」
「どうだろう」
私の言葉に、彗にぃが少し困ったように笑った。それから気を取り直したように、彼は視線を私から、鳥居の更に先へと向ける。
「千晴、見て。ついたよ」
そこには長い階段があった。下方へと続く、石畳の階段。
「ここを降りれば、秋さんの言う、出口だ」
私は同じようにそこを見下ろす。果ては、暗闇に呑まれて見えなかった。
「振り返らず、真っ直ぐ、前だけを見て降りるんだ」
「……分かった」
私は膝についていた手を離し、真っ直ぐに立つ。そうして彗にぃと向かいあった。彗にぃも私を真っ直ぐに見つめ返す。私より先に、彗にぃが口を開いた。
「最後にさ、一つ、謝りたいことがあったんだ」
「何?」
「約束、守れなくてごめん」
彗にぃの言った“約束”。それは、紛れもなく、「夏祭りに行こう」とあの日、二人で交わした約束のことだろう。
その時、ドォンと、地面をも震わす大きな音が聞こえてきた。二人して音のした場所、頭上を見上げる。そこには、大輪の花が咲いていた。
それは、夜空に打ち上げられた、花火。
「……守れたね、約束」
「え……?」
「ほら」
私は指で、次々と打ち上げられる花火を指差した。
「夏祭り、やっと来れたね」
静かな夜を、花火が照らす。心を揺らす、音が響く。眩いばかりの、光が輝く。
「ねぇ、一つだけ、お願い聞いて?」
「何?」
「お面、外して」
「……分かった」
彗にぃは頷き、そっと狐の面に手をかけた。紐がするりと解かれて、現れたのは懐かしい、面影。安西彗杜、その人だった。
「これはさ、ここの住人が、此岸への思いを断ち切るためにつける面なんだ。互いの顔を、人間の顔を見ないように。これを外したの、一年ぶりくらいかな」
私も兎の面に手をかける。紐をそっと、優しく解いた。
「彗にぃ」
「それ、その面はもう千晴には必要ない。俺が預かるよ」
「うん」
「また会えたね」
「うん」
「本当はずっと、会いたかった」
彗にぃの目から、止まったはずの涙が再び溢れる。静かに頬を伝う透明なそれを、今度はちゃんと見ることができた。
「私だって……。ずっと、ずっと、会いたかった」
私も同じ。今日は泣いてばかりだ。
本当は、今すぐ彗にぃの涙をこの手で拭いたかった。抱きしめたかった。けれど、それは叶わない。触れては、いけないのだ。だから、代わりに、ありったけの言葉で。
「彗にぃ」
「何?」
「本当は沢山あったありがとうも、喧嘩した後のごめんなさいも、あの頃の私は言いたかったこと、素直に口にできなかった。ずっと後悔してたんだ。……だから今度は、ちゃんと言うよ」
「うん」
「彗にぃ、聞いて」
「うん、聞いてる。ちゃんと聞いてるよ」
彼の言葉に、私は安心して。
「大好き」
そう言って、めい一杯、笑った。上手く笑えたかは分からないけれど、それでも。それが、今の私にできる、唯一のこと。彗にぃが僅かに目を見開く。その瞳から、涙の最後の一粒が溢れて。
くしゃり、と、彼も笑った。
「俺も大好きだよ」
*** ***
涙がおさまると、雰囲気に任せて「大好き」なんて言ったことが、なんだか急に恥ずかしくなってきた。それは彗にぃも同じようで、なんだか二人、妙な空気になってしまう。
「……じゃあ、私、そろそろ行くね?」
「あ、うん。じゃあ、また」
「いや、また会ったらまずいでしょ」
「え? あ、そうか。だめだね。そうだった。俺、死んでるんだった」
「ちょっと言い方……」
そう言って、二人で目が合ってから、吹き出すまでがワンセット。やっぱり、私たちはこうでなければ。
「本当に、もう行きな」
気づけばもう、花火の音も消えていた。私たちが二人で過ごす、最初で最後の夏祭り。それが今、終わりを迎えようとしていた。
「さよならだね」
「うん。さよならだ」
「私、あの夏祭り、絶対行くから。二人で行こうって約束した、あの場所に」
「新しい約束?」
「うん。私たちの新しい約束」
そう言って、今度こそ私は彼に背を向けた。
「元気で」
彗にぃの声を後ろに聞きながら、私は目の前の階段へ、静かに足を踏み出した。
耳元で聞こえる「おいで」の声は、彗にぃと私が互いを呼ぶ声で掻き消した。
そうしたことを繰り返し、繰り返し。歩くこと、数分。目の前に、大きな赤い鳥居が見えた。
「走ろう」
彗にぃの声と共に、私は駆けた。そして鳥居を、くぐる。
*** ***
「はぁ……はぁ……」
久々に全力で走った私は、肩で大きく息をしていた。そもそも心臓が悪かったから、久々というよりまともに走ったことがない。
「私、大丈夫なのかな、走っちゃったけど……」
「それは大丈夫。今、千晴の本体はここにはないから。息があがっているのも、肉体の記憶を魂が再現しているだけなんだ。その証拠に、ほら、俺はもうその記憶が薄れているから、同じように走っても息があがっていない」
「便利な体……って言えばいいの……?」
「どうだろう」
私の言葉に、彗にぃが少し困ったように笑った。それから気を取り直したように、彼は視線を私から、鳥居の更に先へと向ける。
「千晴、見て。ついたよ」
そこには長い階段があった。下方へと続く、石畳の階段。
「ここを降りれば、秋さんの言う、出口だ」
私は同じようにそこを見下ろす。果ては、暗闇に呑まれて見えなかった。
「振り返らず、真っ直ぐ、前だけを見て降りるんだ」
「……分かった」
私は膝についていた手を離し、真っ直ぐに立つ。そうして彗にぃと向かいあった。彗にぃも私を真っ直ぐに見つめ返す。私より先に、彗にぃが口を開いた。
「最後にさ、一つ、謝りたいことがあったんだ」
「何?」
「約束、守れなくてごめん」
彗にぃの言った“約束”。それは、紛れもなく、「夏祭りに行こう」とあの日、二人で交わした約束のことだろう。
その時、ドォンと、地面をも震わす大きな音が聞こえてきた。二人して音のした場所、頭上を見上げる。そこには、大輪の花が咲いていた。
それは、夜空に打ち上げられた、花火。
「……守れたね、約束」
「え……?」
「ほら」
私は指で、次々と打ち上げられる花火を指差した。
「夏祭り、やっと来れたね」
静かな夜を、花火が照らす。心を揺らす、音が響く。眩いばかりの、光が輝く。
「ねぇ、一つだけ、お願い聞いて?」
「何?」
「お面、外して」
「……分かった」
彗にぃは頷き、そっと狐の面に手をかけた。紐がするりと解かれて、現れたのは懐かしい、面影。安西彗杜、その人だった。
「これはさ、ここの住人が、此岸への思いを断ち切るためにつける面なんだ。互いの顔を、人間の顔を見ないように。これを外したの、一年ぶりくらいかな」
私も兎の面に手をかける。紐をそっと、優しく解いた。
「彗にぃ」
「それ、その面はもう千晴には必要ない。俺が預かるよ」
「うん」
「また会えたね」
「うん」
「本当はずっと、会いたかった」
彗にぃの目から、止まったはずの涙が再び溢れる。静かに頬を伝う透明なそれを、今度はちゃんと見ることができた。
「私だって……。ずっと、ずっと、会いたかった」
私も同じ。今日は泣いてばかりだ。
本当は、今すぐ彗にぃの涙をこの手で拭いたかった。抱きしめたかった。けれど、それは叶わない。触れては、いけないのだ。だから、代わりに、ありったけの言葉で。
「彗にぃ」
「何?」
「本当は沢山あったありがとうも、喧嘩した後のごめんなさいも、あの頃の私は言いたかったこと、素直に口にできなかった。ずっと後悔してたんだ。……だから今度は、ちゃんと言うよ」
「うん」
「彗にぃ、聞いて」
「うん、聞いてる。ちゃんと聞いてるよ」
彼の言葉に、私は安心して。
「大好き」
そう言って、めい一杯、笑った。上手く笑えたかは分からないけれど、それでも。それが、今の私にできる、唯一のこと。彗にぃが僅かに目を見開く。その瞳から、涙の最後の一粒が溢れて。
くしゃり、と、彼も笑った。
「俺も大好きだよ」
*** ***
涙がおさまると、雰囲気に任せて「大好き」なんて言ったことが、なんだか急に恥ずかしくなってきた。それは彗にぃも同じようで、なんだか二人、妙な空気になってしまう。
「……じゃあ、私、そろそろ行くね?」
「あ、うん。じゃあ、また」
「いや、また会ったらまずいでしょ」
「え? あ、そうか。だめだね。そうだった。俺、死んでるんだった」
「ちょっと言い方……」
そう言って、二人で目が合ってから、吹き出すまでがワンセット。やっぱり、私たちはこうでなければ。
「本当に、もう行きな」
気づけばもう、花火の音も消えていた。私たちが二人で過ごす、最初で最後の夏祭り。それが今、終わりを迎えようとしていた。
「さよならだね」
「うん。さよならだ」
「私、あの夏祭り、絶対行くから。二人で行こうって約束した、あの場所に」
「新しい約束?」
「うん。私たちの新しい約束」
そう言って、今度こそ私は彼に背を向けた。
「元気で」
彗にぃの声を後ろに聞きながら、私は目の前の階段へ、静かに足を踏み出した。