「 彗さん、ううん、 彗にぃ。久しぶりだね」
目の前の青年が、私の言葉にぐっと息を呑むのが分かった。どうして、今まで忘れていたんだろう。この世界に来てから、ずっと靄がかかったように、思い出すことができなかった私の記憶。
目の前に立つ青年の顔に貼り付いた面の下。そこを最初に覗いた時、“何か”が目に留まった。その時からずっと、頭の隅で、どこか引っ掛かりを感じていた。でもその正体が何なのか、最初は分からなくて。
秋さんからこの世界の真相を聞いて。多分、それがきっかけで、私の記憶の蓋は開いた。それからここまでの道中、少しずつ、少しずつ、それは溢れて。
今はもう、確信していた。
私は目の前の青年の声を、そして、顎と左耳の丁度真ん中あたり、そのラインに鎮座する一つの“黒子”を、知っている。
*** ***
本ばかり読んでいた。他にすることがなかったから。清潔すぎるくらいの白と、消毒液の匂い。私のものを含めて、ベッドが四つ。もう長いこと、その約二十八平方メートルの空間が、私の世界の全てだった。
心臓に持病を抱えた私は、幼い頃から何度も何度も入退院を繰り返していた。十四歳を迎えた春に「これが最後の入院だよ」なんて言われてまた病室に舞い戻って、それからもう一年が経とうとしていた。そんな時だった。“彼”がこの部屋にやって来たのは。
新しく向かいのベッドの住人になった彼は、 安西彗杜と名乗った。色白で、顎と左耳の間に一つの黒子。笑うと普段は涼やかな目元が柔らかく弧を描き、少しだけ幼く見える。私より二つ歳上、十六歳の青年だった。
ここ一年の間、この部屋には私より後に何人かがやって来て、そして皆、私より先に退院していった。だから彼が来た時、この部屋に暮らす住民は、私以外いなかった。
どうせ彼もすぐに出て行く。そう思って、はじめ、私は特に同室であっても彼と積極的に交流を持とうとは思えなかった。
部屋の扉横に貼られたプレートで知った名前以外、お互い何も知らないまま一週間が経とうとしてした。それは、四月の初旬の、ある日のこと。暖かな日差しが、窓から差し込む昼下がり。引かれたカーテンが、春風にふわりと舞った。
「あのぉ……」
手にした本を閉じ、ぼぅっと窓の外を眺めていた私は、突然近くで聞こえた声にびくりと体を揺らした。
「えっ」
「あっ、ごめん。驚かせたかな」
声のした方を見ると、ベッドの正面側に、件の青年が立っていた。目が合って、二人して固まる。
「……」
「……」
何も言わない私に、彼は困り顔で頬を掻いた。暫く逡巡するような素振りを見せた彼は、視線で自分の手元をチラリと見やる。私も釣られてその視線を追った。青年は、白いビニール袋を手に下げていた。何やらパンパンに詰まったそれを持ち上げたと思うと、ようやく次の言葉が紡がれる。
「あの、良かったらこれ、一緒に食べない? さすがに買い過ぎちゃって」
名前以外、何も知らなかった私たちの関係は、この日、彼のそんな一言から変わっていく。
*** ***
特に断る理由もなくて、なんとなく、私は彼の言葉に無言で頷いていた。すると彼はどこかほっとしたような笑みを浮かべた。このまま私が無言を貫いたらどうしようと、内心焦っていたのではないだろうか。さすがに私、そこまで無礼なことはしないのだけれど。
「机と、あと椅子、借りていいかな?」
「うん」
私の返事を聞くと、彼は持っていた袋を私のベッドに設置された机に置いた。すらりとした指が袋の中から次々と食べ物を掴み、取り出していく。
出てきたのは飴やら、マカロンやら。あれはチューイングキャンディだろうか。透明なカップに入ったケーキらしきものもある。そうした見ただけで甘そうな食べ物が、次から次へと目の前に並べられていく。これは確かに買い過ぎだ。
私は、手持ち無沙汰にその幾つかを手にしては、また机に戻して。それを何度か繰り返したところで、とうとう我慢できなくなって口を開いた。
「ねぇ、これ、さ」
青年が、袋から食べ物を取り出す手を止めてこちらを見る。
「うん?」
「全部、林檎なんだけど」
「うん」
「え?」
「え?」
私がおかしかったのだろうか。あまりにも「だから何?」みたいな顔で彼がこちらを見るから、私は二の句が告げなくなった。ぽかんと口を開けた私を見て、数秒、青年はハッとしたような顔をした。それから少し、恥ずかしそうに視線を逸らす。
「ええっと、あの……林檎、美味しいよ?」
「いや、そりゃ、林檎は美味しいけどさ。え、いや、そうじゃないでしょ……」
「あ、いや、分かるよ。言いたいことは……」
さっきまで、というより、今日までずっとまともに話すこともなかった青年相手だというのに、私はその時、もうツッコミを入れずにはいられなかった。
「林檎ばっか買いすぎ」
「そうだよね……」
逸らされていた視線が、そろりそろりと再び戻る。
目が合って、
そうして私たちは二人、吹き出した。
目の前の青年が、私の言葉にぐっと息を呑むのが分かった。どうして、今まで忘れていたんだろう。この世界に来てから、ずっと靄がかかったように、思い出すことができなかった私の記憶。
目の前に立つ青年の顔に貼り付いた面の下。そこを最初に覗いた時、“何か”が目に留まった。その時からずっと、頭の隅で、どこか引っ掛かりを感じていた。でもその正体が何なのか、最初は分からなくて。
秋さんからこの世界の真相を聞いて。多分、それがきっかけで、私の記憶の蓋は開いた。それからここまでの道中、少しずつ、少しずつ、それは溢れて。
今はもう、確信していた。
私は目の前の青年の声を、そして、顎と左耳の丁度真ん中あたり、そのラインに鎮座する一つの“黒子”を、知っている。
*** ***
本ばかり読んでいた。他にすることがなかったから。清潔すぎるくらいの白と、消毒液の匂い。私のものを含めて、ベッドが四つ。もう長いこと、その約二十八平方メートルの空間が、私の世界の全てだった。
心臓に持病を抱えた私は、幼い頃から何度も何度も入退院を繰り返していた。十四歳を迎えた春に「これが最後の入院だよ」なんて言われてまた病室に舞い戻って、それからもう一年が経とうとしていた。そんな時だった。“彼”がこの部屋にやって来たのは。
新しく向かいのベッドの住人になった彼は、 安西彗杜と名乗った。色白で、顎と左耳の間に一つの黒子。笑うと普段は涼やかな目元が柔らかく弧を描き、少しだけ幼く見える。私より二つ歳上、十六歳の青年だった。
ここ一年の間、この部屋には私より後に何人かがやって来て、そして皆、私より先に退院していった。だから彼が来た時、この部屋に暮らす住民は、私以外いなかった。
どうせ彼もすぐに出て行く。そう思って、はじめ、私は特に同室であっても彼と積極的に交流を持とうとは思えなかった。
部屋の扉横に貼られたプレートで知った名前以外、お互い何も知らないまま一週間が経とうとしてした。それは、四月の初旬の、ある日のこと。暖かな日差しが、窓から差し込む昼下がり。引かれたカーテンが、春風にふわりと舞った。
「あのぉ……」
手にした本を閉じ、ぼぅっと窓の外を眺めていた私は、突然近くで聞こえた声にびくりと体を揺らした。
「えっ」
「あっ、ごめん。驚かせたかな」
声のした方を見ると、ベッドの正面側に、件の青年が立っていた。目が合って、二人して固まる。
「……」
「……」
何も言わない私に、彼は困り顔で頬を掻いた。暫く逡巡するような素振りを見せた彼は、視線で自分の手元をチラリと見やる。私も釣られてその視線を追った。青年は、白いビニール袋を手に下げていた。何やらパンパンに詰まったそれを持ち上げたと思うと、ようやく次の言葉が紡がれる。
「あの、良かったらこれ、一緒に食べない? さすがに買い過ぎちゃって」
名前以外、何も知らなかった私たちの関係は、この日、彼のそんな一言から変わっていく。
*** ***
特に断る理由もなくて、なんとなく、私は彼の言葉に無言で頷いていた。すると彼はどこかほっとしたような笑みを浮かべた。このまま私が無言を貫いたらどうしようと、内心焦っていたのではないだろうか。さすがに私、そこまで無礼なことはしないのだけれど。
「机と、あと椅子、借りていいかな?」
「うん」
私の返事を聞くと、彼は持っていた袋を私のベッドに設置された机に置いた。すらりとした指が袋の中から次々と食べ物を掴み、取り出していく。
出てきたのは飴やら、マカロンやら。あれはチューイングキャンディだろうか。透明なカップに入ったケーキらしきものもある。そうした見ただけで甘そうな食べ物が、次から次へと目の前に並べられていく。これは確かに買い過ぎだ。
私は、手持ち無沙汰にその幾つかを手にしては、また机に戻して。それを何度か繰り返したところで、とうとう我慢できなくなって口を開いた。
「ねぇ、これ、さ」
青年が、袋から食べ物を取り出す手を止めてこちらを見る。
「うん?」
「全部、林檎なんだけど」
「うん」
「え?」
「え?」
私がおかしかったのだろうか。あまりにも「だから何?」みたいな顔で彼がこちらを見るから、私は二の句が告げなくなった。ぽかんと口を開けた私を見て、数秒、青年はハッとしたような顔をした。それから少し、恥ずかしそうに視線を逸らす。
「ええっと、あの……林檎、美味しいよ?」
「いや、そりゃ、林檎は美味しいけどさ。え、いや、そうじゃないでしょ……」
「あ、いや、分かるよ。言いたいことは……」
さっきまで、というより、今日までずっとまともに話すこともなかった青年相手だというのに、私はその時、もうツッコミを入れずにはいられなかった。
「林檎ばっか買いすぎ」
「そうだよね……」
逸らされていた視線が、そろりそろりと再び戻る。
目が合って、
そうして私たちは二人、吹き出した。