「そんな顔をしないで」

被った兎の面の奥、私はどんな顔をしているのだろう。自分の顔なのに、今はそれが分からない。まるで、面に乗っ取られてしまったみたいだ。あれ、でも、どうして秋さんは私の表情が分かるのだろう。

「私が今どんな顔をしているのか、分かるんですか?」

「分かるよ。見えないけれどね。きっと今にも泣きそうな顔をしている。それくらい、分かる」

秋さんの優しい声が、胸に痛い。痛くて痛くて、堪らなかった。突きつけられた、どうすることもできない、現実。

家族を思い、泣いたあの少年が。私に手を差し伸べてくれた狐面の青年が。そして今、ここで確かに私と言葉を交わしている彼が。もう此岸の住人ではないという、事実。

泣きたいのは彼らの方だろう。私はそっと瞼を伏せ、そして込み上げる思いをぐっと胸に押し込んだ。

「秋さん」

「うん」

「話してくれて、ありがとうございました」

彼に向かって、私はゆっくりと頭を下げた。

「僕はそんな畏まって礼を言われるような、良い人じゃないよ」

「でも秋さんは、私の怪我の手当をして、この世界のことを教えてくれました」

「いつもなら、千晴さんみたいな迷い人に干渉はしないんだ。ただ、僕はこの神社の神主だ。そこに迷い人が紛れ込んたなら一応様子だけは見に行かないといけなかったからね」

どこか諦めたような声で、秋さんは言う。

「最初は君の 顛末(てんまつ)を見届けるだけのつもりだった。自力で此岸に帰るのか、もしくは帰れず彼岸の住人になるのか。どちらに転ぼうと、僕の知ったことではないからね」

「それなら、どうして」

私が尋ねると、秋さんはふっと息をつき、困ったように小さく笑った。そしてこれは多分だけれど、面の奥に隠された彼の瞳が、目の前の私ではなく、どこか遠くの景色を映した。

「彗をね、見たからかな。君と一緒にいる彗を見て、昔の自分を思い出した」

「昔? そういえば、この世界の人はある程度の時間をここで過ごしたら、成仏するって言っていましたよね?」

「うん? うん。皆、各々、区切りがついたら自然とここからいなくなる。そして彼岸に旅立った後、また輪廻の輪に戻るんだ」

「秋さんは、いつからここにいるんですか?」

「……さあね。もう忘れてしまった」

ポツリと落とされたその一言。その時、私はなぜだか、彼が泣き出す寸前の表情を浮かべている気がしてならなかった。泣きたい時には泣けばいい。けれど、一人ぼっちで誰にも気づかれない涙を流すのは、悲しい。

きっと面を取ったって、そこに涙はないのだろう。それでも、心が泣いている。その涙を拭いたかった。気づけば、私は秋さんの面に向かって、手を伸ばしていた。

「だめだよ」

凛としたその声で、ハッと我に返る。

「僕たちに触れてはいけないと言っただろう? 穢れてしまうから。穢れは人の心に棲まうもの。僕たちは生きていた時の心の念、魂が形となってここに残存している存在だからね。不浄をこの身に纏っているんだ」

「でも……。さっきの言葉、そのままお返しします。秋さんはきっと、今にも泣きそうな顔をしています」

「君は優しいね」

「そんなんじゃありません」

「他人のために涙を流せる人は、優しい人だよ」

秋さんが、穏やかな声でそう告げる。その言葉で、私は初めて、自分が涙を流していることに気がついた。さっき、抑え込んだはずなのに。今は少し塩っぱいそれが、面の下から顎を伝ってぽろぽろと落ち、畳に染みを作っていた。

「ごめんなさい」

「どうして謝るんだい?」

「私が泣いたら、あなたが泣けない」

「僕の代わりに君が泣いてくれた。それで充分だよ」

「……まだ、秋さんはここにいるんですか?」

「そうだね。僕はきっとまだ、ここから出られない」

「……」

「それでも今日、千晴さんに会って、僕はほんの少し救われた。だから、今はこれでいいんだ。ありがとう」

私は無言で、ただ首を横に振ることしかできなかった。

彼は生前何に笑い、何に泣き、どんな人と出会い、別れ、今ここにいるのだろう。

そうして辿りついたこの世界で、どれ程の月日を重ね、また今日、この夜を一人越えようとしているのか。

私は何も知らない。知ることはできなかった。けれど。

秋さんはきっと、強くて優しい人だ。

それだけは、分かった。





「そろそろ時間みたいだね」

黙って私を見守っていた秋さんが突然、何かに気づいたように背後を見やる。その時、部屋の襖が開いた。