背中に感じる重みが、確かにこの子の存在を伝えてくる。おぶった背に揺られ、今にも夢の中に旅立ってしまいそうな、この幼い子どもの。

それなのに、子どもらしい温かさはもう、彼の体からは感じられない。そして、それは俺も同じ。分け与えることも、分け与えられることも二度と叶わない、人肌の、ぬくもり。

秋さんの社務所兼自宅の一室。目的の部屋に辿りつき、その襖を開ける。もともと客用の貸し部屋として使っていたこの部屋は、数日前からこの子の、雪の部屋になっていた。

文机と本棚くらいしかなかった無機質な部屋に、絵本やらぬいぐるみやらをかき集めて。それは、ありあわせの子ども部屋。

部屋の中央に、乱れた布団がぽつんと置き去りにされていた。少し前まで、雪が眠っていた場所。祭りの音に釣られて目を覚まし、秋さんが目を離した隙に起き出して、あの祭り会場に辿り着いたのだろうと思われた。

そこへそっと雪を横たえさせ、掛け布団をかけてやる。少しでも、あたたかくなるように。こんなに暑い夏の夜に、温もりが恋しくなる日が来るなんて、思ってもみなかった。

「雪、おやすみ」

ゆっくりと彼の瞼がおりる。溜まったままになっていた涙の雫が、彼の頬を伝って音もなく消えた。あとにはただ、すぅ、すぅと規則正しい呼吸音が、静かな部屋に満ちていくばかり。

布団の横に置かれた面を、指先でそっとなぞる。犬をモチーフに作られた、子ども用の小さなお面。

それは雪のために与えられた、この世界の住人の証。もう二度と戻れないという現実を、俺たちに突きつける、それは、まるで呪いのような。

俺は雪の隣で横になり、心地よい眠気に自身も微睡みながら、数刻前の時に思いを馳せていた。



*** ***



 俺は社務所の縁側に腰掛け、ぼぅっと夜空を眺めていた。

「彗」

呼ばれて振り向く。「スイ」の名で呼ばれることにももう慣れた。そこに立っていたのは、この神社の神主、秋さんだった。

こちらの世界に来たばかりの時、戸惑う俺を見つけ、最初に手を差し伸べてくれた人。

それからずっと、この人は俺のことを付かず離れずの距離で見守ってくれている。大切な恩人だ。

「秋さん」

「夜涼みかい?」

「はい。夜風が気持ちよくて」

「祭りには行かないの?」

今日は年に一度だけこの世界で開催される、夏祭りの日だった。俺がこの日を迎えるのは今年で二回目。昨年は秋さんに案内される形で一通り店をまわった。しかし、その時は楽しむ気分になれなかったから。“まわった”と言うよりも、“ただこの世界を知るための一環としてその場に赴いた”と言った方が、言葉としては正しいかもしれない。

「秋さんもここにいるじゃないですか」

「あはは。人混みは少し苦手でね。でも、ちょっと顔を出さないといけなくなった」

「何かあったんですか?」

「一人、迷い込んだみたいでね」

「……」

「この神社の祭りだからね。神主として、放っておく訳にもいかない」

「帰してあげるんですか?」

「いや、僕は干渉しないよ。どうするか、その道行を選ぶのは迷い人自身だ。僕はただ、それを見届ける。それだけ」

「自力で帰るのは、難しいんですよね?」

「酷いと思うかい?」

「……いえ、そういう訳じゃ」

「酷いと思っていいんだよ。実際そうなんだ」

秋さんが少し俯き、自嘲気味に笑った。その笑みはどこか痛々しくて、なぜだか見ているこちらの胸が締め付けられた。

「干渉できるのに、それをしない。それはきっと、迷い込んだ人からしたら酷い話だよ。文字通り“人生の瀬戸際”なのにね。それでも、僕はこれまでずっとそうしてきた。同じことがあった時には。そしてそれは多分、これからも変わらないんだと思う」

秋さんがここに来るまでのこと、いつからここにいて、なぜ留まり続けるのか。どうして神主として今の役回りを務めているのか。そうした一切のことを、俺は知らない。話の流れで何度か聞いてみたことはあるが、いつもはぐらかされてしまっていた。

きっと、秋さんには秋さんなりの思いがあるのだろう。ここにいる人はみんなそう。その心を知らずして、彼の行いを『酷い』の一言で表するのは、 躊躇(ためら)われた。

「……」

「彗も気になったら出ておいて。夜は長い」

袴の裾を翻し、そう言い残して秋さんは縁側を後にした。



*** ***



それから。

迷った末、俺も腰を上げ、祭りの喧騒の中へと足を向けることとなる。

まさか、そこで“彼女”の姿を見つけることになるなんて。

この時の俺は、予想だにしていなかった。