それは、幸せの味
*
「おいしい。……幸せの味だあ」
大きな瞳を細めて、目尻を下げて、百合は心底幸せそうに笑った。
その屈託のない笑顔に、こちらまで頬が緩む。
かき氷くらいでこんなに喜んでくれるのならば、いくらでも食べさせてやりたいと思う。
甘味処を出たあと、すぐに別れるのが名残惜しくて、少し散歩でもしようと声をかけた。
目的もなく、あたりをぶらぶらと歩く。
彼女が荷馬車に驚いてよろけたので思わず手首をつかみ、それを良いことに「危ないから」と口から出任せの理由をつけて、手をつないだまま歩き出した。
百合は少し照れたように頬を赤らめ、それでもしっかりと手を握り返してくれた。
それがどんなに嬉しかったか、彼女は知らないだろう。
離すのが惜しかった。
離れたくなかった。
この時間が永遠に続けばいいのに――。
つないだ手から伝わってくる温もりと、胸の奥から湧き上がる愛おしさが、そんな夢のようなことを俺に考えさせたのだろう。
彼女の存在が俺の中でこんなにも大きくなったのは、いつからだろう。
最初の印象は、なんだか不思議な子だな、というものだった。
見慣れない服装をしていたし、話し方も少し変わっていた。
誰もが知っているようなことを全く知らないこともあって、まるで異国から来た娘のように思えた。
次の印象は、なんて真っ直ぐな子だろう、というものだった。
普通なら権力や世間の目を怖れて口をつぐんでしまうようなことを、臆することなくはっきりと言葉にする。
自分の素直な気持ちを隠さず面に出す。
悲しいときは泣き、腹が立ったら怒り、嬉しいときは笑う。
いちばん驚いたのは、百合が小さな男の子を守るために警官と対峙したときだった。
壮年の大男を前にしても彼女は少しも怯まず、真正面から睨み合っていた。
たまたま通りかかり、慌てて仲裁に入った俺が警棒で誤って打たれたとき、目を上げるとそこには彼女の小さな身体が、俺をかばうように警官の前に立ちはだかっていた。
その背中には恐怖も怯えもなく、ただただ目の前の理不尽に対する怒りに燃えていた。
その華奢な身体のどこにそんな力が秘められていたのかと驚くほどの、大きな怒りだった。
百合の双眸はいつも光が宿っているようだった。
瞳の奥にはいつも燃え盛る炎が揺れ、そこから溢れ出る涙は透き通って輝いていた。
惹かれずにはいられなかった。
気がついたときには、どうしようもないほど愛しい存在になっていた。
白く清らかな花の名をもつ少女は、まさに百合の花そのものの純粋で高潔な魂をその身に宿していた。
それを、俺は愛した。
でも、他人のために純粋な怒りに燃え、それを隠すことを知らない彼女の人生には、きっと多くの困難が待ち受けているのだろう。
危険な目に遭うこともあるかもしれない。
心配だ。ずっと側にいて、守ってやりたい。
当たり前のように、そう思った。
次の瞬間、無理だと気づく。
だって俺は、あと何日とも知れない命だ。
もしかしたら明日の今頃にはすでに死んでいるかもしれないのだ。
時間が永遠に続くことなどない。
むしろ一瞬だ。
この幸せなひとときは、たった一瞬、人生の終わりに神様が俺を憐れんで見せてくれた、儚い夢幻のようなものだ。
老夫婦とすれ違った。
目尻の皺を深くしながら、互いを慈しむように見つめ合っている。
羨ましかった。
でも、俺にはあんな未来は決して訪れないのだ。
百合と永い時間を共に過ごすことも、年老いるまで側にいることも、俺にはできない。
そんなことは考えないようにしようと必死に自分に言い聞かせているのに、どうしようもなく、悔しいなあ、と思った。
悔しいなあ……。
一緒にいられないのが、守ってやれないのが、こんな時代に生まれてしまったのが、悔しい。
本当に悔しい。
でも、それはどうしようもないことだ。
受け入れるしかないのだ。
大切な人たちの日々の暮らしを、命を、未来を守るために命を懸けることが俺の運命で、俺の使命だから。
たとえ無駄死にになるかもしれなくとも、万にひとつの可能性に賭けて、俺は征くのだ。
死んだらどうなるのだろう。
肉体が死んだらこの魂はどこへ行くのだろう。
輪廻転生というのは本当にあるのだろうか。
もしも本当に生まれ変わることができたら、
俺はまた百合を見つけて、今度こそずっと側にいたい。
永い時を共に過ごしたい。
どうか叶いますように――。
つないだ手に力を込めながら、俺はそう願った。
SIDE:彰 fin.
君は絶対に幸せになる
*
真夜中にふと目が覚めた。
兵舎の狭い窓から見上げた月はまだ若く、頼りない姿をしていた。兎の一羽も住めないような、糸のように細い三日月だ。
十五夜お月さん……と心の中で歌ってみる。 歌いながら、俺は次の満月を見ることはないんだなあ、と思う。
出立は明日の昼。あと半日の命だ。
俺の人生、これで終わりか。
二十一年。
じゅうぶん長かった気もするし、ずいぶん短かった気もする。
しかしまあ、なかなかに好い人生だったんじゃないか。
親に恵まれ、友に恵まれ、仲間に恵まれ――うん、好かった。楽しかった。
頭も器量もたいしてよくない平々凡々な男の生涯にしては、これ以上ないくらいに幸せだった。
とはいえ、おふくろはひどく泣くだろうなあ。
おやじだって、見栄っ張りだから人前ではこらえるだろうが、隠れて涙を流すに違いない。
仲間や友人たちも、何人かは泣いてくれるだろう。
疑いもなくそう思えるというのは、やはり俺が両親に愛されて育ち、好い友に囲まれて生きた幸せ者だったという紛れもない証なのだろう。
俺は幸せ者だ。実に楽しい人生だった。
この世に未練など何ひとつない。
そう言い切れるはずだったのに、どうにも振り払えない面影があった。
ついさっきまで見ていた夢。
眠りにつく間際に彼女のことを考えていたからだろうか。
夢の中で俺は、彼女と手をつないで、桜並木をのんびりと歩いていた。
もう二度と桜を見ることはないのに。
彼女と手をつなぐことなどないのに。
もっと生きたかった、死にたくない――そんなふうには思いたくないのに。
思ったら、せっかく決めた心が揺らいでしまう。
揺らぐのはどうしようもなく苦しいから、考えたくない。
それでも、俺を見上げる彼女の眼差しが脳裏に浮かんでくる。
俺の勘違いでなければ、彼女は俺のことを憎からず思ってくれていたのだろう。
俺だって好ましく思っていた。
ほんの短い間の付き合いだったが、彼女の心根の優しさと清らかさは、いやというほど伝わってきた。
家の手伝いや俺たち隊員の世話をひたむきに頑張る姿も、愛らしい笑顔も、可憐に笑う声も、なにもかも忘れがたく、思うほどに苦しくなる。
ついさっき、最後のお別れをしてきたところだった。
出撃の決まった夜に書いた『君に幸あれ』という手紙を、誰にも見られないようにこっそりと彼女に渡した。
本当はもっと書きたいことがあったが、そう書くだけで精一杯だった。
万年筆を握った手が震えてしまって、その五文字しか書けなかったのだ。
手紙には書けなかったが、彼女を目の前にしたら、不思議と力が湧いてきて、
『君は絶対に幸せになる。俺が保証する』
最後になんとかそれだけは自分の口で伝えられた。
道化のわりに照れ屋な俺にしては、まあ及第点なんじゃないか。
俺は夜空の月から目を戻し、身を起こして、枕元に置いていた小さな布人形を手に取った。
おさげ髪の愛らしい少女を、じっと見つめる。
戦地へ赴く兵士に贈られる『お守り人形』というやつだ。
彼女が自分の手で縫ってくれた、自身をかたどった人形。
別れ際に、渡してくれた。
大きな瞳に、今にも溢れそうなくらいに涙をいっぱいに浮かべて、それでも堪えて、微笑みながら。
その健気な表情を思い出しながら、お守り人形に目を落とす。
お世辞にも巧いとは言えないかもしれないが、いかにも健気で可愛らしくて、まさに彼女そのものだ。
「……君は絶対に幸せになる。俺が保証する」
俺は人形に向かって、もう一度そう囁きかけた。
同時に何かが込み上げてきて、口から飛び出しそうになってしまったので、唇を噛んで必死に抑え込む。
思わず人形を強く握りしめる。
すると、何かがかさりと音を立てた。
「……?」
少女の首に何か紐のようなものが掛かっていて、引き出してみると小さな巾着袋を首から下げているのだった。
それはお守り袋のような形をしていて、触れてみると、かさかさと音がして、中に紙切れが入っているようだ。
袋を開いて取り出してみる。小さく折りたたまれた紙だった。
開いてみると、手のひらほどの大きさの薄紙に、『祈御武運』と小さな字で書かれている。
ご武運を祈ります、か。彼女らしいなと思う。
そしてその下には、さらに小さな字で、控えめに、こう書かれていた。
『石丸さん
ありがとうございました。
貴方にお会いできて幸せでした。
いつの日かまた、必ず。
千代』
――ああ、待っていてくれるのだな。
そう直感した。
千代ちゃんは、俺のことを、待ってくれるのだ。
いつか会いにいく日を、また出会える日を、待っていてくれるのだ。
彼女が別れ際に見せた、美しい涙と微笑み。
堪えきれないような泣き顔、必死に浮かべた笑顔。
あんな顔をさせなければいけなかったのが、とても、とても心苦しい。
「君は絶対に幸せになる」
呪文のように、唱えてみる。
……いや、『呪文』は違うな。
こんな間違いをしたら、また佐久間に笑われてしまう。
最大限の願いを込めて唱える言葉……『祝詞』とでも言えばいいのか。なんだか違うな。
これは祈りと言うのだろうか。
ああ、もう、なんだっていい。
神様、仏様。どうか頼みますよ。
どうか、どうかあの子を、幸せにしてやってください。
頼りない月にそう願う。祈る。
それから少女人形の頭に手を当て、心の中で語りかける。
君は絶対に幸せになる。
俺が保証するから、安心してくれ。
俺の残りの寿命は、お世話になったツルさんに渡す約束をした。
だが、俺の幸せも、少なからず残っているはずだろう。
なんせまだ二十一年しか生きていないのだ。
ここで死ななかったなら得られるはずだった幸福が、まだまだたんまり残っているだろう。
それは千代ちゃんに丸ごとあげよう。
千代ちゃん、どうか幸せになってくれ。
君は絶対に幸せになる。
俺が幸せにしてやると、言ってあげられなくてごめんな。
でもきっとまた会えるさ。
たくさんの時が流れて、共に過ごしたこの場所から離れて、俺じゃない俺になっているだろうけど。君じゃない君になっているだろうけど。
それでもいいじゃないか。
今度こそは、素直な気持ちを伝えられる出会い方をしよう。
自分の想いに蓋をして、相手の想いにも気づかぬふりをして、互いに何もかも呑み込んで、
……そんな虚しいことをしなくてもいい世の中に、なっているといいなあ。
じゃあ、いつの日かまた、必ず。
SIDE:石丸 fin.
ずっと待っていたの
*
「千代さん、こんにちはー」
玄関でチャイムを鳴らし、声をかける。
返事はない。いつものことだ。
ここは私の祖父母宅の敷地内にある離れだ。
住んでいるのは、お祖父ちゃんの歳の離れた姉にあたる千代さん。
千代さんはもうかなりの高齢で、耳が遠くなり、チャイムを鳴らしても聞こえたり聞こえなかったりするようだ。
「お邪魔しまーす」
返事がなくても入っていいよと以前千代さん本人から許可をもらっているので、大声で挨拶をしながらサンダルを脱ぎ、たたきにあがった。
「千代さあん、千夏です、お邪魔しますねー」
いつもの場所かな、と思って向かうと、やはりそこにいた。
庭に面した縁側のロッキングチェア。
ゆったりと腰かけている小さな背中。
そよ風にふわふわ揺れる真っ白な髪。
しばらくその様子を見つめたあと私は、千代さん、と声をかける。今回も反応はない。
「こんにちは、千代さん」
お腹から声を出して呼ぶと、千代さんがゆっくりと振り向いた。
「あら、千夏ちゃん。こんにちは。呼び鈴、鳴ってたのかしら。気づかなくってごめんなさいね」
私は顔の前でひらひらと手を振る。
「全然、全然。勝手に上がらせてもらいました、ごめんね」
ふふっと千代さんは笑い、「いいのよ。こっちへおいで」と手招きしてくれた。
「これ、お土産のお花だよ」
私は胸に抱えていた花束を千代さんに見せる。
アルバイトで生活費を稼ぐ貧乏大学生に買える花束なんてたかが知れていて、百合の花一輪とかすみ草の小さな花束だけれど、千代さんは嬉しそうに笑ってくれた。
「あらあ、百合の花……綺麗ねえ。とっても好きなお花なのよ。ありがとうね」
もちろん、千代さんは百合の花がいちばん好きだと知っているからこそこの花を選んだのだけれど、私がそれを知っているということを、千代さんは忘れてしまったらしい。
千代さんは最近、物忘れが激しくなってきた。ここ数年の間に、耳が遠くなっただけでなく、だんだん忘れ物が増え、つじつまの合わない話をすることも増え、身体の動きもゆっくりになってきた。食べる量も減り、眠っている時間が長くなってきた。
九十歳という年齢を考えれば当たり前のことなのだろうけど、でも、少しずつ終わりに向かっているように思えて、生から離れていっているように思えて、そんな様子を見ると切なくなる。
私は小さいころから、千代さんのことが大好きだった。
優しくて、朗らかで、可愛らしくて、遊びに行くといつもおいしいごはんを作ってくれた。
「本当に綺麗ねえ……」
宝物みたいに丁寧なしぐさで花束を受け取る千代さんの、しわだらけの手も、嬉しそうに微笑むしわだらけの顔も、とてもとても優しい。
「花瓶に飾ってもいい?」
「もちろんよ。頼んでいいかしら、ありがとうね」
「いえいえ」
台所で花瓶に水を入れ、花を生ける。水音や、花を包むビニールの音が、やけに大きく響いた。
静かな家だなあと、来るたびに思う。
千代さんは一度も結婚していなくて、もうずっとこの家でひとりで暮らしているらしい。
子どももいなくて、そのぶん甥っ子や姪っ子、私からみたらおじさんやおばさんたちをとても可愛がっていたと聞いた。
近所のおばさんから引き継いだという、魚料理が名物の食堂をひとりで切り盛りしていたけれど、足が悪くなったため働けなくなり、五年前に泣く泣く閉業した。
それからだんだん身体が悪くなり、物忘れも進んで、今は一日のほとんどの時間を縁側で日向ぼっこをしながら過ごしているという。
お茶を淹れて、花瓶と一緒に縁側へ持っていく。
ふたりでお茶を飲みながら、百合の花の香りに包まれながら、なんということもない話をしていた流れで、
「千代さんはどうして結婚しなかったの?」
ふと気になって訊ねてみた。
「あら。気になる? ふふ、お相手がいなかったのよ」
千代さんは少し首をかしげて笑って答えた。
「でも、若いころ婚約したことがあったって、お祖父ちゃんから聞いたよ」
「ああ、そんなこともあったわねえ……」
千代さんが懐かしげに目を細める。
「でも、すぐにだめになっちゃったのよ。私が悪かったの」
「どうして……?」
こんなことを訊いてもいいかなと少し不安に思いつつ問うと、千代さんは少し目を伏せた。
横顔に、寂しげなかげが宿る。
その反応に、私はどきりとした。
悪いことを訊いてしまったかと不安になった。
ごめんなさい、無神経だった、この話はやめよう、と言いかけたとき、
千代さんがそっと口を開いた。
「――忘れられない人がいたのよ」
静かな、静かな声だった。
「『一生ひとりで生きていくつもりか、みんな心配してるんだぞ』って親戚から見合いをすすめられて、断りきれなくて、お会いしたの。とっても好い人で、あれよあれよと話が進んで、婚約までしたんだけれどね……」
千代さんが一瞬口をつぐみ、唇を震わせた。
「……それでも、どうしても、『あの人』のことが忘れられなくて、私がだめにしちゃったのよ」
風が吹き、花瓶に生けた真っ白な百合の花がかすかに揺れた。
「……どんな人だったの?」
問いかけた声は、自分でもびっくりするほど小さかった。きっと千代さんには聞こえなかったと思う。でも、千代さんは答えるように言葉を続けた。
「戦時中に出会った……昔この近くにあった陸軍の基地に配属された、特攻隊員の方だったの」
「特攻隊……」
日本史の授業で習ったことがある。頼りない記憶をなんとか呼び起こして、たずねた。
「その人は……死んじゃったの?」
千代さんは悲しそうに微笑んで、小さく、小さくうなずいた。
「出撃の前にお別れの挨拶にいらしてね、『君はきっと幸せになれる』って、言ってくれたの。それと、『君に幸あれ』って一言だけ書いた手紙を残して、南の空に……」
千代さんが胸元に手を入れて、巾着袋を引き出し、袋の中から何かを取り出した。
「彼がここで過ごしたのはほんの短い間だけだったから、私の手元にある思い出は、これだけ」
それは、一通の手紙と、一枚の写真。
手紙は、さっき千代さんが言っていた、『君に幸あれ』と書いてあるものだった。
そして、写真には、凛々しい顔つきに、明るい表情を浮かべた、私と変わらない年ごろの若い男の人が映っていた。
顔写真の下に、『石丸智志』という名前が書かれている。
「これはね、私が語り部をしていた特攻資料館で、掲示されている石丸さんのお写真を、カメラで撮らせていただいたものなの」
千代さんは、いとおしげな眼差しで写真を見つめ、やせた指先でその名前をそっと撫でる。
「ぼろぼろね……」
たしかにその写真と手紙は、古いものというのももちろんあるけれど、それ以上に、ずいぶんとすりきれていた。
「何十年も、巾着に入れて肌身離さず持っていたから……」
たった一枚の写真と手紙に、どれほどの想いが込められているのか、痛いほどに伝わってきて、私はもう何も言えなかった。
「ねえ、千夏ちゃん」
しばらく写真の中の男の人をじっと見つめていた千代さんが、ふいに口を開いた。
「お願いがあるの」
「うん……なあに?」
「私が死んだら、棺の中に、この手紙と写真を入れてちょうだい」
心臓を鷲掴みにされたような気がした。
「やめてよ、千代さん。死ぬなんて言わないで……」
震える声で訴えたけれど、千代さんは微笑んで緩く首を振った。
「私はもう充分生きたもの、いつ死んだっておかしくないわ。きっともうすぐだって気がするの。……それにね」
千代さんの視線が、庭の向こうに広がる空へと向けられる。
怖いくらい綺麗に晴れた空だ。
「死ぬときには、あの方が迎えに来てくれるような気がするの……」
千代さんは空を見つめて、なぜだか嬉しそうに笑った。
「早く会いたい。ずうっとずうっと待っていたの、また会える日を……」
まるで少女のような、屈託のない笑顔と口調。
「私、幸せだったわ。好きなものを食べて、好きなことをして、好きなように生きた。もう充分……」
かすかに震える唇。
「もう充分でしょう? 石丸さん。私、頑張ったでしょう? 幸せになったのよ、あなたのいない世界で……」
千代さんがもらした『幸せ』という言葉に、それでも私は、どうしようもない寂しさを感じた。
千代さんの頬に、透明な涙がぽろりと伝った。
*
翌朝、千代さんはベッドの上で冷たくなっているところを発見された。
とても、とても幸せそうな微笑みを浮かべて。
「……石丸さんが、来てくれたんだね」
私は千代さんの手に手を重ねて、額を押し当てながら、そう声をかけた。
「よかったね、千代さん。やっと、やっと会えて、よかったね……」
私は千代さんの願い通り、棺の中で眠る千代さんの、組んだ手の下に、胸に抱くような形で、石丸さんの写真と手紙を置いた。
石丸さんの手紙には、千代さんへの優しい愛情があふれていた。
きっと石丸さんも千代さんを特別に想っていたのだろう。
戦争がなければ、きっと千代さんは石丸さんと結婚して、ずっと一緒にいられたんだろう。どちらかが命を終えるまでは、ずっと一緒に生きることができたんだろう。戦争さえなければ。
私はそのとき初めて、戦争の恐ろしさと、平和の尊さを知った。
千代さんが語り部をしていたという特攻資料館に、今度行ってみよう、絶対に行こうと決意した。
SIDE:千代 fin.