四月、手紙の返事を受け取って三ヶ月が経った。
そして今日、初めて彼の声を聴く。

「初めまして、時雨 花耶です」

「花耶ちゃん、電話してくれてありがとう。改めて、夏宮 蒼夜です」

「夏宮先生……すみません、ちょと緊張してて上手に話せないかもしれないです」

「そうだよね、緊張しちゃうよね。少しずつ慣れていけたらいいからさ、大丈夫だよ」

 耳元に当てたスマートフォンから、彼の声が聴こえる。
人間は目を瞑ると、それ以外の感覚が研ぎ澄まされて過敏になるらしい。そんなどこかで聞いた噂を信じて、目を閉じながら彼の声に溺れている。
優しくて、何か柔らかい透明な布を纏っているような声だった。
端的に言うと、私が好きな声だった。

「夏宮先生の小説が好きで、言葉が好きで、今話せていることが本当に嬉しくて、本当のことって信じられないです」

「素直だね、そう言ってもらえて嬉しいよ。今日身体の調子はどう?」

「夜もしっかり眠れて、大丈夫です。手紙にあんなこと書いちゃったら心配掛けちゃいますよね」

「それもそうなんだけど……僕が手紙を返してから三ヶ月くらい音沙汰がなかったから、もしかしたら病状が悪くなっちゃったのかなって思って」

「それは……ちょっと、準備してたんです。先生とお話しする前に」

「準備っていうのは、心の準備?」

「それもそうなんですけど、小説を一作書き上げてから先生と話をしようと思って」

「それはすごく頑張ったね、花耶ちゃんはどんな小説を書いてるの?」

「高校生の恋愛とか青春をテーマにした小説を書いてます」

「えっと……まだ十三歳だから、中学生だよね?」

「そうです、なので全部想像で書いてます。きっと現実の高校生活とは違うところもたくさんあるけど、私の思う高校生活を書いてるんです」

「それは僕も読んでみたいな……将来の夢が小説家だったりするの?」

「いえ、まだそこまでちゃんと将来のことを考えたことがなくて……」

「そっか……中学生はいろいろ考えることもあるもんね。もし、花耶ちゃんが『小説家になりたい』って夢を持ったら絶対に叶うと思うよ。それに僕は全力で応援する」

「夢……今まで一度も『将来の夢』を持ったことがないんです。でも今は少しだけ、小説家になれたら幸せだろうなって思えるようになってきてます」

「一作書き上げたんだよね」

「はい、まだまだ大した文章は書けないですけど」

「どれくらいの期間で書けたの?」

「先生から手紙をいただいたのが一月で、そこからしばらく小説を読むだけの期間があったので……一ヶ月くらいで、一作書き上げました」

「一ヶ月か……それなら間に合うかもね」

「間に合うって……何にですか?」

「実はね、七月の初め頃に僕の新作が発売されるんだ」

「え……読みたいです、すごく楽しみです」

「そう言ってくれてありがとう、励みになるよ」

「それで『間に合う』ってなんですか?」

「もし花耶ちゃんがよかったらの話だけど……僕の書く小説の恋人目線の小説を書いてみない?」

「……え、私が、ですか」

「そう、花耶ちゃんが」

「恋人目線の小説っていうのは、どういう……」

「そうだよね、詳しい話をすると……」

 彼が七月の初めの頃に発売する小説は、どうやら高校生二人の青春恋愛小説らしい。
彼が書くストーリーは男子高校生目線で進められていき、ヒロインとして女子高生が描かれていく構成。
その女子高生目線の小説を私に書いてみないかという誘いだった。

「そんな大切な小説を、なんの実績もない私なんかが書いてしまっていいんですか」

「どこかに公開する目的でも、販売する目的でもなくて、ここで繋がった縁として経験してみない?っていう意味だからそんなに身構えなくて大丈夫だよ」

「なるほど……」

「もちろん全ては言えないけど大まかな設定とか名前は事前に教えるから、あとは僕の書く小説と同じ結末にたどり着くように、僕の小説と辻褄が合うように書いてほしいんだけど……どうかな」

「書きたいです、書かせてください」

「引き受けてくれてありがとう、誰かと一緒に書く小説なんて人生で初めてだよ。すごく嬉しい、ありがとう」

「こちらこそ、奇跡のような誘いを本当にありがとうございます」

「それじゃあ……もう少し話したいんだけど花耶ちゃんが通話許可の降りてる時間も迫ってきたから最後に小説の設定を送ってもいい?」

「わかりました、受け取らせていただきますね」

「じゃあ、また話をしようね。小説、お互い頑張ろう」

 その言葉を最後に切れた電話の後、数回スマートフォンから通知が鳴った。
開いた先には数枚の画像に記されたプロットと人物の設定、込められたメッセージや張り巡らされた伏線の解説。
描写と感情の込められたセリフ、執筆の骨組みとなるような情景のイメージ。
夏宮 蒼夜の裏側が、そこにはあった。
主人公の親友まで、過去まで、全てが記されていてそこには温度と愛がある。
私が彼の小説に心惹かれた理由がわかった気がした。
感動した、画面越しに映った彼の小説の内側を目にして鼓動が早くなるのを感じる。

「余命宣告された女子高生が最後に恋人と過ごす夏の切なさを描いてほしい……か」

 送られてきた画像の一番最後に送られたメッセージ。
余命宣告された女子高生の心情は、皮肉にもきっと誰よりも私が知っている。当事者だからこそ、知っている苦痛も苦悩も絶望も孤独もある。
そして私に恋人はいないけれど、それでも誰かを好きになってしまう無意識の中での感情は痛いほど感じている。

「先生のこと、恋人って思って書いていいかな」

 一人、そんなことを呟く。
数分間言葉を交わして、私は心から彼に惹かれてしまった。
九歳も離れた、絶対に手の届かない彼に想いを寄せてしまっている。
あの優しい声と、命の短い私に夢を与えてくれる光のような心と、一度知ってしまったら抜け出せないような世界観を構築する言葉と。
その全てを注がれた後、私は初めて、人を好きになる感情を知った。



 彼との小説を書いている。
私なりに、私の夏を描いている。
いずれ去ってしまう、消えてしまう中で抱いてしまった恋心を映し出すように書いていく。
私自身の死に怯えてしまいそうになったら、彼に連絡をして文字で会話をする。それを朝と夜に読み返して『今』を生きていることを死んでしまいたくなるくらい感じる。

「私、結局いつまで生きていられるんだろう」

 それでも何故か、最近の私は命の終わり際を生々しく感じるようになった。
体調に異常があるわけでも、検査で怪しい兆候がみられたわけでもないのに、何故か『終わってしまう』という感覚が以前とは違う感覚が襲うようになった。
焦燥に駆られるように手を動かす、全てを超えて、彼と一つの小説を創るために。
それまで私は、死んではいけないと思うから。