『私』という十四年間の物語は、小説の一冊にも満たない言葉数で終わりを迎えた。
あの日、命の残り時間を宣告された衝撃も、本棚で貴方に出逢った時の感動も、言葉を紡いでいく瞬間の息遣いも、動かなくなっていく身体への悔しさも、全て。
全て、言葉できる時間が欲しかった。
それでも私は、この十四年の中の一年間を貴方と生きられて幸せだった。
—夏宮 蒼夜
たったひとり、私が初めて恋を知った人。
私の全人生を通して考えるとほんの少しの時間だったけれど、その時間、貴方に恋をしていた時間、私はきっとこの世界の誰よりも幸せだったと思えるから。
朝、起き上がることがいつもより難しかった。
私はどちらかと言うと朝に強い方で、いつもなら太陽が昇ると同時に目が覚める。
極端に夜更かしをしたわけでもない。それなのに身体が誰かに押さえつけられているような感覚で、それと同時に頭の奥へ響くような頭痛が襲う。
受診するほど大袈裟なことではないと直感で判断して、無理矢理起こした身体を動かし制服の袖に腕を通す、階段を降りてリビングへ。
「おはよう花耶、珍しく起きるのが遅かったけど何かあった?」
「……そうそう、ちょっと目覚ましかけ忘れちゃって。だからちょっと寝坊しちゃった」
「ならいいけど、テーブルの上に朝ごはん置いてあるから食べていってね。お母さん先に出るから鍵、忘れずに掛けていってよ」
「わかった、ありがと。いってらっしゃい、気をつけてね」
綺麗に焼かれたトーストの上に私の好きなチョコレートクリームが塗られていて、その横には苺、キウイ、バナナが皿の上に切り揃えられている。
椅子に座ってパンを口に運ぶと、身体が食べ物を拒んでいるような気がして手が止まってしまった。
それでもそのまま残していくことは母に申し訳ないような気がして口へ押し込む。結局、飲み込むことはできなかった。
「……行ってきます」
バレないように朝食を片付けた後、誰もいない空間へ呟いて扉を開けて鍵を閉めた。
視界が歪んで傾いているようにみえて、脚は引き摺ってしまうほど重い。
二週間前あたりから頭の痛みを感じることはあったけれど、それはいつも少しの時間我慢すればすぐに治る程度だった。
それに私は風邪をひいたり体調を崩しやすい体質ではない。きっと春から始まった中学校生活に身体が馴染もうと頑張っているのだと思う。
私は、そう思い込むことにする。
「おはよう花耶」
「おはよう、美波」
進級して三ヶ月、私は斜め前の席の彼女と大半の時間を過ごしていると思う。
垢抜けた容姿と、落ち着いた雰囲気。仲の良かった友達と学校が離れ、それに加え人と話をするのが苦手な私は、知らぬ間に気さくな彼女に心を開いていた。
「美波、今日いつもより学校着くのはやくない?」
「体育館で朝会があるから準備を手伝うためにちょっとだけはやく来たんだよね。そろそろ朝会始めるだろうし、一緒に行かない?」
「そっか……朝会あるの忘れてた、そうだね行こうか」
椅子から立とうと腰を上げた瞬間、目の前が眩んだ。
彼女の声が、姿が、遠くなっていく。そして私の名前を呼ぶ無数の声に包まれる。
返事をしようとしても声が出なくて、身体に力が入らない、私がどんな態勢で止まっているかすらわからない。
— 私、死んじゃうんだ。
一瞬で、私はそう悟った。
*
異様に白い空間で目が覚めた。
規則的に響く機械音と、忙しく動く大人達の姿。
視線を移した先の私の腕には、数本の管が繋がれていて身動きを取ることができない。
「……花耶」
そう語りかける母の目は、霞んでいる私の目でみてもわかるほど潤んでいて、私の額を撫でる手は震えている。
何か、言葉を返したい。
今いる場所はどこなのか、何故私はわからない場所で横になっているのか、私の身体に何が起こっているのか、とにかく全てがわからない。
「お母さん……」
「お父さんも今来るから、お姉ちゃんも帰ってくるって」
毎日早朝に家を出て深夜に帰ってくる父と、車で数時間ほど掛かる場所で暮らしている姉が帰ってくる。
そして何より冷静な母が取り乱している。
私は本当に、このまま死んでしまうのかもしれない。
「時雨花耶さんのお母様、旦那様と娘様がご到着なさいました」
「わかりました……何処へ迎えに行けばいいですか」
「緊急外来ロビーへいらっしゃいます、外のスタッフが案内しますのでこちらへ」
初めてみる女性が、母へ声を掛ける。
母は私と女性を何度も見返し、最終的に私の目をみた後に手を強く握った。
「花耶、少し待っててね。お父さんとお姉ちゃんのところに行ってくるだけだからね」
手を離した母と入れ替わるように、その女性が私の手を握る。
その手は少し冷たかった、それとは対照的な言い表せないほど強い眼差しが私へ向かられている。
「花耶ちゃん、今みんな来るからね。だから絶対に諦めちゃダメだからね」
瞼の重さにすら耐えられなくなり、微かに開けていた目が閉じてしまう。
それでも聞こえてくる声に頷く。
思うように頷けているかはわからないけれど、あるだけの力を使って首を動かす。
*
もう一度、今度はまた違う白い部屋で目が覚めた。
さっきよりも視界が鮮明で、父、母、姉の姿がはっきりみえる。
祈るように手を合わせて椅子に腰掛け俯く母、落ち着かない様子で歩く父、顔を伏せ私の手を握っている姉。
目が覚めたことを、私が生きていることを伝えたい。
それでも身体はまだ重く、喉の辺りがつっかえて上手く声が出せない。
最大限の合図として姉に握られている手を握り返す、通じ合ったように姉と目があった。
「花耶……お父さん、お母さん、花耶が起きた……花耶が起きた」
「花耶、わかる?お父さんとお姉ちゃんと私、わかる?」
「花耶、花耶……よかった、本当によかった」
その声に少しずつ靄のかかった意識が晴れていく。
母の息が上がっていることも、父がみたこともないほどに泣いていることも、姉の肩が震えていることも、わかるほどに。
「お母さん、お父さん、お姉ちゃん……わかるよ。私、大丈夫だよ、ちゃんと、わかるよ」
少しずつ、はっきり目が開いていく。
力はまだ入りづらいけれど、確かに私の意思で身体を動かす準備が始まっている感覚がする。
そして扉が開く音がして、穏やかな足音と共に背の高い男性が私へ近づいてくる。
「初めまして、お名前言えるかな」
「時雨……花耶、です」
「よかった、意識も大丈夫そうだね。改めまして、主治医の大崎です」
「大崎先生……」
「きっと今どうしてここにいるかも、目が覚めるまでになにがあったかもわからないよね」
「……わからないです」
「今、目が覚めたばっかりでちょっと大変だと思うんだけど、もう少ししたら花耶さんとご家族に向けて僕からお話したいことがあるんだ」
「話……」
「すごく大切なお話だから、花耶さんにしっかり聴いてほしいの。だから、看護師さんに手伝ってもらってこの車椅子に乗って僕のいる部屋まで来てもらいたいんだけど、頑張ってくれるかな」
「わかりました……丁寧に、ありがとうございます」
「こちらこそ、無理に身体に力を入れなくていいからゆっくりでいいからね。ご家族の皆様も貴重品など防犯の面でお持ちいただいて、看護師の案内についてきていただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします」
そう言い残し、主治医の彼は一礼し病室を出た。
不安そうな表情の三人と、明るさを保とうとする看護師。目が覚めたばかりの私でもわかるほど室内が異様な空気で満たされている。
身体に纏わり付いた管が解かれ、掛けられていた布団が剥がされる。
そのまま抱えられ、私は生まれて初めて車椅子へ乗せられた。
「ご家族の皆様、貴重品など病室へお忘れものはないでしょうか」
「はい、大丈夫です」
「わかりました、それでは向かいますね。花耶ちゃん、車椅子動かすね」
病室を出て、車椅子で押されながら廊下を走る。
窓の外が明るいことに気づいた。
廊下の柱に吊るされている時計は午前八時を示している、私は何時間眠っていたのだろう。
そんな疑問を閉じ込めたまま、静かな廊下を進む。
母のため息が聞こえた、それを宥める父の声。私はただ車椅子に揺られることしかできなかった。
『面談室』と書かれた扉が開き、そのまま中へ入っていく。会釈ができるまで意識と身体が噛み合っている。
「お集まりいただきありがとうございます。私からお話することは『花耶さんの身体について』です」
その言葉を聴いて、胸の辺りが騒がしくなるのを感じた。
直感で『知りたくない』と思ってしまった、そして不思議なほどに都合よく言葉が聞き取れなくなった。
話す声は聞こえているけれど、何を話しているのか全く理解ができない。ずっと耳元で雑音が鳴らされているような感覚。
そして背後で、私の大切な人達が啜り泣く音が聞こえる。
それを聞いて、騒がしいだけだった胸が痛くなった。
ただ一点をみつめていたけれど、きっと一番重要であろう言葉だけは残酷なほどに聞き取れてしまった。
『花耶さんが五年後に生きている確率は、十パーセント未満です』
これがきっと、世で言う『余命宣告』というものなのだと思う。
そこから先の話は、不思議なくらいに鮮明に理解できてしまった。
眠っている間に複数の検査をしたけれど原因や明確な病名を定めることが困難であるとわかったこと、確実な治療法がみつけられていないこと、治療のためには入院が必要で退院日がわからないこと。
それは、私が思っている以上に、私の身体には時間の猶予がないということ。
それでも数時間前『このまま死んでしまう』という危機感に触れた私にとって、五年という歳月は少し余裕のあるように感じた。
「僕からの話は以上になります。突然のお話になってしまいましたが、聴いていただきありがとうございました」
「いえ、こちらこそ……これから、娘をよろしくお願いします。私達家族にできることは何でもしますから」
「お母様、まずは難しいと思いますがご自身の気持ちも大切にしてください。お父様もお姉様も、どうか自分自身を労ることを忘れないでいただきたいです」
彼の言葉に深く頭を下げた後、三人は部屋を出た。
私と顔を合わせずに、俯いたまま、口元に手を当てながら、何かを抑えるように。
そして看護師の女性と主治医の彼、私だけが取り残された無言の空間が拡がっていく。
「花耶さん、少し僕とお話できないかな」
まっすぐ私の目をみつめながら、彼は私へ手招きをする。
命の残り時間を告げられた私は、また何か重大なことを受け入れなければいけないのだろうか。
戸惑いながらも頷き、彼の目をみつめ返した。
「花耶さんは十三歳だよね」
「そうです」
「花耶さんは今日から病気との闘いが終わるまで、この病院で生活することになるんだ」
「さっきのお話でも教えてくださいましたよね」
「そうだね、ちゃんと聴いていてくれてありがとう。そして僕は花耶さんの主治医になる、改めてよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
「僕が受け持つ患者さんには、必ず入院初日にあるものを渡しているんだ。それを花耶さんにも渡そうと思ってね」
そう言って彼は、机の引き出しから厚く、真っ白い表紙の一冊の何かを取り出した。
それを微笑みながら、丁寧に両手で私へ差し出す。
「これ……」
「これは、僕が担当する患者さんに必ず渡しているノートだよ」
「治療の記録を書き留めるためのノートですか?」
「これは、花耶さんの好きなことを書いてほしいノート。使い方は花耶さんの自由だよ」
「私の自由……」
「例を挙げるなら……このノートを使って恋人と交換日記をしていた人もいたよ、漫画を描き続けた少年もいた。使い方に制限も決まりもない、花耶さんだけのノートにしてほしいんだ」
「私だけのノート、ですか」
「これを一冊書き切ると、ちょうど小説一冊分くらいの文量を書いたことになるんだよ」
「小説一冊分……私にそんなたくさん書けますかね」
「ゆっくり、ゆっくり、その瞬間に書きたいことを書けばいいんだよ。そうしたらきっと、この病院を退院した後に頑張って生きる糧になるだろうから」
そう言って、彼はそのノートから手を離した。
私は太腿の上にそのノートを置き、数秒みつめて何を書くか考えてみたけれど何一つ、候補すら思い浮かばなかった。
彼に礼を言い彼からの『こちらこそ』と言う優しさを受け取った後、車椅子を動かしてもらい病室へ戻る。
扉を開けた先の病室には、椅子に腰掛け窓の外をみつめる姉の姿だけがあった。
「……お姉ちゃん?」
「花耶、おかえり。急にたくさん話して疲れちゃったんじゃない?」
「大丈夫だよ、ありがとう。お母さんとお父さんは……」
「花耶の着替えとかその他の荷物を取りに一回家に戻ったよ、私はここでお留守番」
「それなら……お母さん達が戻ってきたら、お姉ちゃんはお姉ちゃんの家に戻るの?」
「私は……こっちに荷物を着払いで送ってもらう、そして実家でお父さんとお母さんと暮らすよ」
「え……」
「お父さんは仕事忙しいから長い時間お母さんを一人にするのが不安でね。花耶にもすぐ会えた方がいいし」
「ごめんね、お姉ちゃんにだってお姉ちゃんの暮らしがあったのに。それを私が崩しちゃった」
「そんなこと気にしなくていいの!花耶は私にとってたった一人の妹なんだから、近くにいたいって思うのは自然なことでしょ」
そう言って笑った姉の奥底には、悲しみが埋まっているような気がした。
そしてそれに気づかないふりをすることが、今の私がするべきことなのだと察した。
「そのノート、どうしたの?」
「大崎先生に渡されたの、大崎先生が受け持つ患者さんに絶対渡してるんだって」
「治療の記録ノートとか?」
「私もそう思って訊いてみたら『花耶さんのすきなことを自由に書いていい』って言われたんだ」
「そっか……花耶はそのノートに何を書くの?」
「特に書きたいことがないんだよね……ベタだけど『死ぬまでにやりたいことリスト』とか?」
「死ぬなんて口にしないの。まだ、生きる可能性はちゃんとあるんだから」
「原因不明で治療法もないんだよ、可能性なんてあってないようなものだって私は思っちゃう」
「私が悲しくなる、唯一の妹が八歳も年上の私より早く死ぬなんて寂しいよ」
「私もお姉ちゃんと会えなくなるのは寂しい、私だって嫌だよ」
「花耶……」
「だから『死ぬまでにやりたいことリスト』は書かない。書いてる時間があるならみんなと話したいし、それにもし達成できないまま死んじゃったら絶対後悔しちゃうから」
サイドテーブルにノートを置いて、姉の隣へ向かって車椅子を動かす。
半分開いた窓の外をみつめたまま、姉は顔を動かさない。時々吹く風に、姉の肩あたりまで伸びた髪が靡く。その靡いた髪の隙間からみえた頬には透明な何かが伝っていた。
私は何も言わずに、姉の左手を握った。
姉の手の震えから、改めて私の命の短さを知らされた。
*
八月になった、ノートは白紙のままだった。
数週間経った入院生活の大半は検査とカウンセリング。少しずつ看護師さんや院内のスタッフの顔と名前が一致するようになった。車椅子を使わずに移動ができるようになって、最近は検査終わり、病室へ向かう途中の廊下で小児病棟に入院する小さな子供たちと話をすることが私の生活の楽しみになっている。
母は二日に一回、三時間ほど私の病室に話をしに来てくれている。生活は想像もしていないくらい変わってしまったけれど私は変わらず、楽しさを忘れずに生きている。
「はい、これで花耶ちゃんの今日の検査は終わり!長時間お疲れ様」
「ありがとうございます、あとは……病室に戻って大丈夫ですか?」
「そうね。今日の検査はいつもより少し長丁場だったから、ゆっくり身体も心も休ませてあげてほしい」
検査室から出て、いつも通る廊下を歩く。
聞こえてくるはずの声がしない、溢れてくる照明の明るさも感じられない。角を曲がって、目的の場所を除く。
感じた違和感の通り、賑わっているはずのホールにいつもの子達の姿がない。少し寂しかった。
誰もいない静かなホールをみつめていると、端の方に置かれた背の低い本棚と目があった。
「小説一冊分って、どれくらいだっけ……」
不意に、白紙のままのノートの存在が頭を過った。思い返してみれば、私が最後に小説を読んだのは、中学一年生の夏休みに読書感想文を書いた時。
その本棚には子供向けの絵本が多く、それもページの境目が破けていたり、色褪せているものが大半。ここで暮らした子供達が生きて、笑った痕跡がその本棚に並べられている。
その中に一冊、背が低くて真新しい、いかにも小さな子供が読む本とは思えない小説がある。
「花耶ちゃん、小説好きなの?」
しゃがんでいた背後から、看護師さんの声がした。いつも子供達と話をする時、手を振ってくれる小児病棟の看護師さん。
「あんまり小説は読まないんですよね。検査が終わってみんないるかなって思って来てみたんですけど、誰もいなくて。そうしたら丁度この本棚をみつけて気になって……」
「小さい子達の検査と面会が被っちゃってね、誰もいないホールって寂しいよね」
「はい、いつもの賑やかな雰囲気が私は好きなので」
「私も花耶ちゃんと一緒だよ。でもこの本棚、小さい子が好むような絵本しか置いてないんじゃない?」
「そうなんですけど……一冊だけ、小説が混じってて」
「小説……小説なんてこの本棚にあったっけ」
「これです、本棚の一番端にあって」
「これは……確かに中高生向けの小説ね、なんでここにあるんだろう」
「不思議ですよね」
「花耶ちゃん、この小説気になる?」
「小説はあんまり好きじゃないんですけど、この本をみつけて久しぶりに小説読みたいなって思って……それと、タイトルに惹かれちゃって」
「タイトル……本当だ、確かに綺麗なタイトルだね」
— 『透明な浜辺に、君の透明な鼓動を感じて』
数年間書店に立ち寄ったことすらない私は、この一冊の小説に一瞬で心を呑み込まれた。
ただ一冊本棚の端に立てられていたその本を、読みたくて仕方がない。
その中に紡がれる言葉を知りたくて仕方がない。
「この本、今日の夜まで借りてもいいですか」
「いいけど……花耶ちゃん、検査で疲れちゃってない?」
「大丈夫です、今はこの小説が読みたくて仕方がないんです」
夜の九時までに本棚へ返却することを看護師さんと約束し、私は掌に収まるほどの小さな小説を両手で抱えて病室へ戻った。そしてすぐに、1ページ目を開く。
「こんな言葉、出逢ったことないよ……」
二年前の夏休み、二週間掛けて嫌々読んでいたはずの『小説』を捲る手が止まらない。
追うたびに脳を突き刺すほどの感情に溢れた情景深い言葉に、全神経が奪われていく。
会ったこともない、みたこともない架空の登場人物達に感情が蝕まれていく。
高校生二人の恋愛が描かれた小説。
私は人生で一度も恋なんてしたことがないけれど、何故か主人公の少女に生々しく、そして痛々しく共感してしまった。
気づいたら鼓動が早くなっていて、ページを押さえている指の先が震えていて、身体の奥底が熱くて、伝える相手すらいないのに誰かに今すぐ『好き』と愛を伝えたくなってしまうような感覚。
『泣いてしまいそう』という予兆すらないまま、私の頬は濡れていた。
そして小説のあとがきまで読み終えてしまった。たったの数時間で。
「……」
一人の人生の一部を擬似体験したような、読み終えた私の身体から何かが抜けたような感覚に陥る小説。
私が置いたままにしているノートには、この小説とほぼ同じ文章量を書き起こすことができる。
言葉を読んでこなかった人間が、人の心を奪えるような言葉なんて書けるはずがないけれど、私は唐突に残された数年間を費やすべき行為を与えられた気がする。
— 夏宮 蒼夜
この言葉を生み出した人の名前。
私は、この人のような言葉を紡ぎたい。
小説を机の上へ置き、サイドテーブル上の真っ白なノートを手に取った。
私は残された数年を、小説へ捧げる。
数秒前私の脳へ注がれた言葉達に、私は生き方を示されたような気がした。
そしてみたことすらない『夏宮 蒼夜』の背を追わなければいけないと、私の心が背を押した。
*
これが、私が彼に出逢った最初の瞬間。
この時の私はまだ気づいていないけれど、私の人生最後の恋は、この一冊の小説から始まった。
まだ四分の一にも満たないけれど、白紙のノートが少しずつ埋まってきた。
最初の数ページには、彼の言葉を書き写した。
主人公の口から溢れる美しすぎる言葉の欠片を掬いとるように、色彩まで生々しく綴られる景色を描くように並べられる彼の言葉を私の文字で書き綴っていく。
そしてその後の数ページには、一ページにも満たない短編を何作か書いた。
私が思いつくままに景色を描いて、そして動くままに人物を動かす。
心が呟くままに誰かに恋をして、友達と放課後に机を合わせてくだらない話をして、その話の中には恋話も愚痴もちゃんとあって。
私の中学一年生の夏は、恋と青春に駆ける高校生を描くことで溶けていきそう。
治療の影響で大好きな氷菓子の涼しさを感じられない私が、架空の高校生の爽やかさで夏を感じている。
きっと高校を卒業できない身体の私が、理想の高校生の青春を描いている。寂しさなんてない、私はこの時間に紛れもない幸せを感じているのだから。
「花耶起きてる?頼まれてた本、買ってきたよ」
「起きてる起きてる!お姉ちゃんいつもありがとう」
「いいの、それよりまた何か書いてるの?」
「そうだよ、今日は昨日の夜の続きから書いててもう少しで完成しそう」
「そっか、最近は検査の頻度も落ち着いてきたし花耶が楽しいって思えることに出逢えてよかったね」
彼の小説に出逢って四ヶ月、入院生活はもう少しで半年が経とうとしている。
薬が身体に馴染んできて最近は調子のいい日が多く、姉と病院の中庭を歩くことも楽しみの一つになっている。
「その先生の小説ずっと読んでるよね、花耶が小説を好んで読むようになるなんて想像もしてなかった」
「それも夏宮先生のおかげかな……先生の存在がなかったら私の人生の中で小説を読むことも書くこともしなかったと思う」
「私も実はちょっと読んでみたんだよね、本当に序章までだけど」
「どうだった?」
「なんだろう……高校生活を追体験してる感じ。私が数年前の教室の風景すらはっきり思い出せるほど鮮明に『高校生活』が描かれてて『夏宮蒼夜』っていう人間が創り出す世界観に惹き込めれる感覚」
「だよね、この人本当にすごいんだよ」
「花耶は小説家になるの?」
「え……」
「だって、一生懸命書いてるし。それに憧れの人がいるって環境的には最高だと思って」
「小説家なんて、私がなれるわけないじゃん。今まで本なんて読んでこなかったし、天才的な文章力だって持ってないのに」
「それはわかんないよ、だってこの先生あんまり小説を読んでこずにデビューしたらしいし」
「そうなの?」
「このインタビュー記事読んでみたら先生のことちょっとは知れるんじゃない?」
差し出された雑誌の付箋の貼られたページをみる。
一面に渡って綴られるインタビュアの質問とそれに答える彼の言葉達『売れっ子作家 夏宮 蒼夜の世界観』と大きく書かれた見出しと、その横に添付された彼のデビュー作の表紙。顔は映されていないけれど、記事には首から下が映った写真も添えられていて『彼が同じ世界で生きている』という当たり前過ぎる事実に感動した。
「ちょうど読んでた雑誌に載っててさ、もしかしたら花耶が読むかなって思って持ってきてみたんだけど……どうかな」
「ありがとう、本当に嬉しい。先生のこと、私たぶんまだ何も知らないから」
羽織っている淡い青色のシャツの隙間からみえる腕は華奢で、それでも映された後ろ姿には大人の魅力が詰め込まれているような気がした。『かっこいい』とも『美しい』とも違う、私の拙い言葉では言い表せない何かを彼の姿が映された写真から感じる。
「この人が、こんな素敵な言葉を紡いでるんだね」
「もしかして花耶、こういう人がタイプ?」
「タイプとかよくわかんないよ、好きな人って言ったら可笑しいって思われる……だって、この人私より九歳も上だよ?」
「九歳上ってことは……二十二歳か。ねぇ、もしお姉ちゃんがその先生といい感じの関係になれたら花耶はどうする?」
「それは……嫌、なんとなく嫌だ」
「それってもう好きってことじゃない?このままだと何も起きないままだよ、中学校生活最初の夏……」
「だって、近づく方法とかわかんないし。私は数千人といる一人の読者にすぎない」
「手紙、送ってみたら?」
「手紙……どうやって?」
「ここ、よくみて。ファンレター送れる宛先が書いてある、書いてみて損はないと思うよ」
そう言って、姉は何かを企んだような表情で鞄の中に手を入れて何かを探している。
ビニールの擦れる音の後に出てきたのは、可愛らしい便箋と封筒。
こういう時、姉は妙に手際がいい。そしてその手際の良さは優しさからくるものだと、私はよく知っている。
だって、便箋と封筒を私へみせている姉の顔には心の底にある無邪気な楽しさが滲み出ているのだから。
「これもお姉ちゃんが買ってきてくれたの?」
「そうだよ、花耶、自分からじゃ絶対手紙なんて書かないと思ってね」
「……ありがとう」
「使ってくれる……?」
「手紙書いたら、ポストに出すのお願いしてもいい?私一人で出しに行くのは、きっと緊張しちゃうから」
「そんなこと当たり前でしょ、お姉ちゃんにまかせなさい!」
便箋と封筒を受け取る。
もう一度彼のインタビュー記事に目線を移す。
彼の口から出た言葉が文字として映し出されているその空間と、みえるはずもなかった彼の姿を脳裏へ刻む。
「集中できるように、今日はお姉ちゃんもう帰るね」
「来てくれて、大事なこと教えてくれてありがとう……この雑誌、お姉ちゃんのでしょ?いつ返せば……」
「いいのいいの!それ、本当はそのインタビュー記事目当てで買ったから。だから今、この瞬間からその雑誌は花耶のもの!大事にしてよね」
そう言って、軽く手を振り姉は私が返答する隙すら与えずに病室を出た。
扉の閉まる音がした後は、私だけの空間に戻った。
インタビュー記事の彼をみて、自然とペンを握る。
— 初めまして、夏宮先生の書く小説が好きな時雨 花耶です。
誰かに手紙を書くということにも無頓着だった私は、書き始めに相応しい言葉すらわからなかった。
きっと彼は私の名前に欠片も興味なんてないし、私は数千と存在する読者の一部、それも最近彼の作品を知った新参者。
そんな私が手紙を送るという行為は失礼になってしまうかもしれないけれど、それでも私は伝えたかった。
彼に言葉を届けたかった。まだ彼のことを知らない私が感じた彼への感情を言葉にしたかった。
三行ほどで手が止まってしまうと思っていた手紙が、三枚目に差し掛かろうとしている。
不思議なほどに言葉が溢れてくる。
頭ではなく、心の奥底から。
『僕が小説を書く時は特に意識していることはないです、自然と言葉が溢れてきてそれを人物に背負わせていく感覚ですかね』
インタビュー記事の一部に書かれていた彼の回答と重なる。
彼は、こういう感覚で小説を書いているのだろうか。
誰かを想うように、誰かへ届くように、語りかけるように言葉を吐いていく。
— 『夏宮蒼夜』という人が、私の人生に現れてくれて本当に幸せです。
彼の小説をきっかけに私自身も小説を書き始めたこと、その日々が楽しくて仕方がないこと、それでも私は長く生きられないこと、病室の中で手紙を書いている現状を書いた後、手紙の締めにこの言葉を添えた。
私の二十年もない人生の中で、大人になれない人生の中で、これほどまでに惹かれてしまう存在に出逢えたこと。
これはきっと、仮に二十年生きられていた私の人生よりも価値の高いものだと思った。
十三年しか生きていない未熟な私の感性に、光と刺激を与えた彼の小説に、彼という人間に出逢えてよかった。
きっと、今死んでも、私はあの世で悔やまない。
*
あの日手紙を書いて、何事もないまま年が明けた。
初めて病院で年を越した。夜間の面会は許されていないため私は人生で初めて、一人で歌番組を観ながら新年への時間を過ごした。
年末年始は面会の許可が降りず、いつもどこか寂しくて何度も彼の言葉を読んでは、感化されて私の小説を書いた。
それでも相変わらず彼のような言葉は書けなくて、幼い表現ばかりが並んでいく。
そして結末はいつもありきたりでつまらない。このまま生きていたら私の人生も私が書く小説のように終わってしまいそうで、胸が痛くなる。
ただ決められた余命通りに病によって幕を降ろされる人生。
入院して初めて、病室の窓からの変わり映えしない景色に嫌気がさした。
きっと一人になると、私は余計なことを考えてしまう。そんな時間の隙なんてないはずなのに。
「いっそ、明日くらいに死んじゃえば考えなくて済むのに」
直感でそう思った。
手を施さずとも消えていける身体で、楽しみは姉との散歩と彼の言葉。
誰かに頼りながら、何かに縋りながら、一人になった時に私は何もできないまま。
命の制限時間が示されても、私は時間を無駄にしてしまう。
それなら私は……。
「花耶!」
「……お姉ちゃん?」
「夏宮先生から……手紙来てるよ、花耶宛に」
「え……嘘、それ、本当?」
「これ、夏宮 蒼夜って……あの人しかいないじゃん!」
受け取った真っ白な封筒には確かに彼の名前と、インタビュー記事に書かれていたサインが書かれていた。
震える指先を落ち着かせながら、閉じられている封を開ける。
当たり前のことだけれど、開いた手紙は彼の言葉で溢れていた。
それでも小説とは違う、彼の字で、ところどころ不格好な字で、私の名前が書かれ、そして私への言葉が綴られている。
愛おしい。
ーーー
花耶ちゃんも小説を書いているんだね、十三歳で言葉に深く触れている人生はすごく素敵なものだと思う。
僕が小説を書き始めたのもきっとそれくらいの時期だと思う。
小説好きの両親に育てられたから、なんとなく書いてみたくなったんだ。
手紙の言葉も、本当に真っ直ぐで、文字なのに声が聞こえてくるような感覚になる。きっと花耶ちゃんは、すごく心が綺麗な子なんだね。
もしよかったら、今度一緒にお話ししない?
花耶ちゃんが大丈夫な日、この連絡先に電話してくれたら嬉しいな。
ーーー
二枚半の手紙の最後に、彼からの光が添えられていた。
彼の声を聴ける。
目で彼の言葉を読んで、脳にその言葉を刻み込んで、声を記憶できる。
「お姉ちゃん」
「ん?何かいいこと書いてあった?」
「私、やっぱりもうちょっと生きたいって思う」
「急にどうしたの、花耶は有無を言わさずずっと生きててもらうよ」
茶化したように、それでもどこか寂しそうな表情をして姉が言う。
彼からの手紙を私のノートに挟んだ。
また私の人生をつまらないと感じてしまった時、彼の存在を頼りに生きられるように。
四月、手紙の返事を受け取って三ヶ月が経った。
そして今日、初めて彼の声を聴く。
「初めまして、時雨 花耶です」
「花耶ちゃん、電話してくれてありがとう。改めて、夏宮 蒼夜です」
「夏宮先生……すみません、ちょと緊張してて上手に話せないかもしれないです」
「そうだよね、緊張しちゃうよね。少しずつ慣れていけたらいいからさ、大丈夫だよ」
耳元に当てたスマートフォンから、彼の声が聴こえる。
人間は目を瞑ると、それ以外の感覚が研ぎ澄まされて過敏になるらしい。そんなどこかで聞いた噂を信じて、目を閉じながら彼の声に溺れている。
優しくて、何か柔らかい透明な布を纏っているような声だった。
端的に言うと、私が好きな声だった。
「夏宮先生の小説が好きで、言葉が好きで、今話せていることが本当に嬉しくて、本当のことって信じられないです」
「素直だね、そう言ってもらえて嬉しいよ。今日身体の調子はどう?」
「夜もしっかり眠れて、大丈夫です。手紙にあんなこと書いちゃったら心配掛けちゃいますよね」
「それもそうなんだけど……僕が手紙を返してから三ヶ月くらい音沙汰がなかったから、もしかしたら病状が悪くなっちゃったのかなって思って」
「それは……ちょっと、準備してたんです。先生とお話しする前に」
「準備っていうのは、心の準備?」
「それもそうなんですけど、小説を一作書き上げてから先生と話をしようと思って」
「それはすごく頑張ったね、花耶ちゃんはどんな小説を書いてるの?」
「高校生の恋愛とか青春をテーマにした小説を書いてます」
「えっと……まだ十三歳だから、中学生だよね?」
「そうです、なので全部想像で書いてます。きっと現実の高校生活とは違うところもたくさんあるけど、私の思う高校生活を書いてるんです」
「それは僕も読んでみたいな……将来の夢が小説家だったりするの?」
「いえ、まだそこまでちゃんと将来のことを考えたことがなくて……」
「そっか……中学生はいろいろ考えることもあるもんね。もし、花耶ちゃんが『小説家になりたい』って夢を持ったら絶対に叶うと思うよ。それに僕は全力で応援する」
「夢……今まで一度も『将来の夢』を持ったことがないんです。でも今は少しだけ、小説家になれたら幸せだろうなって思えるようになってきてます」
「一作書き上げたんだよね」
「はい、まだまだ大した文章は書けないですけど」
「どれくらいの期間で書けたの?」
「先生から手紙をいただいたのが一月で、そこからしばらく小説を読むだけの期間があったので……一ヶ月くらいで、一作書き上げました」
「一ヶ月か……それなら間に合うかもね」
「間に合うって……何にですか?」
「実はね、七月の初め頃に僕の新作が発売されるんだ」
「え……読みたいです、すごく楽しみです」
「そう言ってくれてありがとう、励みになるよ」
「それで『間に合う』ってなんですか?」
「もし花耶ちゃんがよかったらの話だけど……僕の書く小説の恋人目線の小説を書いてみない?」
「……え、私が、ですか」
「そう、花耶ちゃんが」
「恋人目線の小説っていうのは、どういう……」
「そうだよね、詳しい話をすると……」
彼が七月の初めの頃に発売する小説は、どうやら高校生二人の青春恋愛小説らしい。
彼が書くストーリーは男子高校生目線で進められていき、ヒロインとして女子高生が描かれていく構成。
その女子高生目線の小説を私に書いてみないかという誘いだった。
「そんな大切な小説を、なんの実績もない私なんかが書いてしまっていいんですか」
「どこかに公開する目的でも、販売する目的でもなくて、ここで繋がった縁として経験してみない?っていう意味だからそんなに身構えなくて大丈夫だよ」
「なるほど……」
「もちろん全ては言えないけど大まかな設定とか名前は事前に教えるから、あとは僕の書く小説と同じ結末にたどり着くように、僕の小説と辻褄が合うように書いてほしいんだけど……どうかな」
「書きたいです、書かせてください」
「引き受けてくれてありがとう、誰かと一緒に書く小説なんて人生で初めてだよ。すごく嬉しい、ありがとう」
「こちらこそ、奇跡のような誘いを本当にありがとうございます」
「それじゃあ……もう少し話したいんだけど花耶ちゃんが通話許可の降りてる時間も迫ってきたから最後に小説の設定を送ってもいい?」
「わかりました、受け取らせていただきますね」
「じゃあ、また話をしようね。小説、お互い頑張ろう」
その言葉を最後に切れた電話の後、数回スマートフォンから通知が鳴った。
開いた先には数枚の画像に記されたプロットと人物の設定、込められたメッセージや張り巡らされた伏線の解説。
描写と感情の込められたセリフ、執筆の骨組みとなるような情景のイメージ。
夏宮 蒼夜の裏側が、そこにはあった。
主人公の親友まで、過去まで、全てが記されていてそこには温度と愛がある。
私が彼の小説に心惹かれた理由がわかった気がした。
感動した、画面越しに映った彼の小説の内側を目にして鼓動が早くなるのを感じる。
「余命宣告された女子高生が最後に恋人と過ごす夏の切なさを描いてほしい……か」
送られてきた画像の一番最後に送られたメッセージ。
余命宣告された女子高生の心情は、皮肉にもきっと誰よりも私が知っている。当事者だからこそ、知っている苦痛も苦悩も絶望も孤独もある。
そして私に恋人はいないけれど、それでも誰かを好きになってしまう無意識の中での感情は痛いほど感じている。
「先生のこと、恋人って思って書いていいかな」
一人、そんなことを呟く。
数分間言葉を交わして、私は心から彼に惹かれてしまった。
九歳も離れた、絶対に手の届かない彼に想いを寄せてしまっている。
あの優しい声と、命の短い私に夢を与えてくれる光のような心と、一度知ってしまったら抜け出せないような世界観を構築する言葉と。
その全てを注がれた後、私は初めて、人を好きになる感情を知った。
*
彼との小説を書いている。
私なりに、私の夏を描いている。
いずれ去ってしまう、消えてしまう中で抱いてしまった恋心を映し出すように書いていく。
私自身の死に怯えてしまいそうになったら、彼に連絡をして文字で会話をする。それを朝と夜に読み返して『今』を生きていることを死んでしまいたくなるくらい感じる。
「私、結局いつまで生きていられるんだろう」
それでも何故か、最近の私は命の終わり際を生々しく感じるようになった。
体調に異常があるわけでも、検査で怪しい兆候がみられたわけでもないのに、何故か『終わってしまう』という感覚が以前とは違う感覚が襲うようになった。
焦燥に駆られるように手を動かす、全てを超えて、彼と一つの小説を創るために。
それまで私は、死んではいけないと思うから。
私の身体が、完全に私以外の得体の知らない何かに乗っ取られた。
ベッドに内蔵されている機能に頼って身体を起こし、咀嚼すらままならなくなり栄養は点滴から与えられるものが主になった。
力入れようとしても入らず、誰かと話をする時にも声が掠れてしまう。
あの時の『死んでしまう』という焦燥感が形になってしまったように、私の身体は死へ近づいた。
五年後に生きている可能性を告げていた医師からは、明日生きている可能性を家族へ告げられるようになってしまった。
原因不明というものは本当に恐ろしい、病に対抗する薬も方法もみつからないのだから。
「花耶、お姉ちゃんだよ。わかる?」
姉が、今にも死んでしまいそうな私をみながら手を握っている。
七月、丁度去年の七月の光景と重なる。
余命を告げられる前の私と、身体が死の近さを叫んでいる私は、同じ光景をみている。
「お姉ちゃん……ごめん、ちゃんと喋れないけど、ちゃんと……ちゃんと、聞こえてる」
「無理に返事しなくていいから、もしできるなら頷くだけでいい」
きっとこの病室の扉を開けた先では、父と母が医師と看護師と話をしている。
あの日と同じ、母の啜り泣く声が聞こえる。
姉の声が止まる、ただ静かに、祈るように私の手を握っている。
静かになった空間で、私はここにきてからの人生を顧みたくなった。
*
想像もしていなかった何かが私の身体を蝕んでいて、知るはずもなかった命の残量が提示された。
そして一冊のノートを渡されて、その漠然とした白さに困惑して。
誰もいなくなったホールの片隅に置かれた本棚で彼に出逢って、小説に触れて、ノートの一ページ目が埋まった。
きっと、私の人生の本当の始まりはここだった。
そこから言葉に触れて、ただ一人を追いかけて、声を聴いて、恋を知って、生きたいと願ってしまって。
*
「……お姉ちゃん」
「どうしたの?」
「その、白い、ノート。取って……ほしい」
「これ?」
「そう、それ……何も書いてないページに、なるまで、開いて」
「うん……中身はなるべくみないようにするからね」
「ありがと……開いたら、さ。どれくらい、書いてるページがあるか、私に、みせて……」
辿々しい要望を聞き取り、姉は私が何かを書いた分のページをみせた。
半分すら行かない、三分の一ほどしか埋まっていないノート。
私の感情はこのノートの一冊に収まるはずがないのに、それなのに私は言葉を紡げなかった。
きっとこれが、この一年間での最初で最後の後悔。
私の人生での最期の後悔になる。
「お姉……ちゃん」
「ん?」
「その、ノートの最後、最後の十ページ」
「最後の十ページをどうすればいい?」
「夏宮先生に、送ってほしい」
「え」
「それに、私が死んだって……手紙、短くていいから、添えて。送ってほしい……」
「まだ死ぬなんて早いから、絶対、絶対目閉じちゃダメだからね」
「今日、何日だっけ……」
「七月四日だよ」
「……お姉ちゃん」
「なに」
「私、たぶん、終わるなら……終わるなら、今日だと思う。ごめんね」
七月四日、今日は彼の新作の発売日。
そして事実上、私と彼の言葉が繋がって一つになる日。
私が描いていた小説上のヒロインは余命宣告を受けていても二年近く余命より長く生きた。
そして最後の最後まで恋人に流暢に愛を伝えて、そして綺麗に消えていった。
私もきっとそうなると思っていた。それなりに恋をして、余命より少しは長く生きられると思っていた。
私は現実を生きている、最後に愛なんて伝えられないし、姉が手紙を添えてくれなければ私が死んだことすら彼は知れないまま。
そんな残酷の淵にいるけれど、それでも私の言葉は消えることなく彼の中で生き続ける。
寿命通りに生きられなかったけれど、私はきっと私を生きられた。
「でも……」
一年前、余裕があると思っていた私の命の短さを今になって痛感している。
私にはまだ、知りたいことがたくさんあるから。
「先生……」
先生、先生の本当の名前、私まだ聴いてないよ。
先生、先生の顔まだみてないよ。
先生、私まだ先生に好きって言えてないよ。
先生、私って本当に片想いですか。
先生、私まだ先生の本当の想い知らないよ。
溢れてくる願い事と未練を、声に出せないまま放っていく。
ひとつ放つ度に、だんだんと意識が遠のいていって、姉に握られているはずの手の感覚がなくなっていく。
駆けてきた父と母の声が微かに聞こえるけれど、何を言っているのかはわからなかった。
最後に、最後に一つだけ、私が私の声でこの世に言葉を残せるのなら。
それは私が書いた小説のように未完成な何かがいい、そしてそれは『愛する人への言葉』がいい。
十三年間の人生でただ一つ選んだ最期の言葉。
息を吸い、唇を動かすと同時に私は目を瞑る。
私の最期は、ここがいい。
『先生……私、先生の描く夏を、この心で感じたかった……』
サヨナラ、私。
サヨナラ、私に言葉と愛を教えてくれた人。
これが、私の最期の願い事。