まだ四分の一にも満たないけれど、白紙のノートが少しずつ埋まってきた。
最初の数ページには、彼の言葉を書き写した。
主人公の口から溢れる美しすぎる言葉の欠片を(すく)いとるように、色彩まで生々しく綴られる景色を(えが)くように並べられる彼の言葉を私の文字で書き綴っていく。
そしてその後の数ページには、一ページにも満たない短編を何作か書いた。
私が思いつくままに景色を描いて、そして動くままに人物を動かす。
心が呟くままに誰かに恋をして、友達と放課後に机を合わせてくだらない話をして、その話の中には恋話(コイバナ)も愚痴もちゃんとあって。
私の中学一年生の夏は、恋と青春に駆ける高校生を描くことで溶けていきそう。
治療の影響で大好きな氷菓子(アイス)の涼しさを感じられない私が、架空の高校生の爽やかさで夏を感じている。
きっと高校を卒業できない身体の私が、理想の高校生の青春を描いている。寂しさなんてない、私はこの時間に紛れもない幸せを感じているのだから。

「花耶起きてる?頼まれてた本、買ってきたよ」

「起きてる起きてる!お姉ちゃんいつもありがとう」

「いいの、それよりまた何か書いてるの?」

「そうだよ、今日は昨日の夜の続きから書いててもう少しで完成しそう」

「そっか、最近は検査の頻度も落ち着いてきたし花耶が楽しいって思えることに出逢えてよかったね」

 彼の小説に出逢って四ヶ月、入院生活はもう少しで半年が経とうとしている。
薬が身体に馴染んできて最近は調子のいい日が多く、姉と病院の中庭を歩くことも楽しみの一つになっている。

「その先生の小説ずっと読んでるよね、花耶が小説を好んで読むようになるなんて想像もしてなかった」

「それも夏宮先生のおかげかな……先生の存在がなかったら私の人生の中で小説を読むことも書くこともしなかったと思う」

「私も実はちょっと読んでみたんだよね、本当に序章までだけど」

「どうだった?」

「なんだろう……高校生活を追体験してる感じ。私が数年前の教室の風景すらはっきり思い出せるほど鮮明に『高校生活』が描かれてて『夏宮蒼夜』っていう人間が創り出す世界観に惹き込めれる感覚」

「だよね、この人本当にすごいんだよ」

「花耶は小説家になるの?」

「え……」

「だって、一生懸命書いてるし。それに憧れの人がいるって環境的には最高だと思って」

「小説家なんて、私がなれるわけないじゃん。今まで本なんて読んでこなかったし、天才的な文章力だって持ってないのに」

「それはわかんないよ、だってこの先生あんまり小説を読んでこずにデビューしたらしいし」

「そうなの?」

「このインタビュー記事読んでみたら先生のことちょっとは知れるんじゃない?」

 差し出された雑誌の付箋の貼られたページをみる。
一面に渡って綴られるインタビュアの質問とそれに答える彼の言葉達『売れっ子作家 夏宮 蒼夜の世界観』と大きく書かれた見出しと、その横に添付された彼のデビュー作の表紙。顔は映されていないけれど、記事には首から下が映った写真も添えられていて『彼が同じ世界で生きている』という当たり前過ぎる事実に感動した。

「ちょうど読んでた雑誌に載っててさ、もしかしたら花耶が読むかなって思って持ってきてみたんだけど……どうかな」

「ありがとう、本当に嬉しい。先生のこと、私たぶんまだ何も知らないから」

 羽織っている淡い青色のシャツの隙間からみえる腕は華奢で、それでも映された後ろ姿には大人の魅力が詰め込まれているような気がした。『かっこいい』とも『美しい』とも違う、私の拙い言葉では言い表せない何かを彼の姿が映された写真から感じる。

「この人が、こんな素敵な言葉を紡いでるんだね」

「もしかして花耶、こういう人がタイプ?」

「タイプとかよくわかんないよ、好きな人って言ったら可笑しいって思われる……だって、この人私より九歳も上だよ?」

「九歳上ってことは……二十二歳か。ねぇ、もしお姉ちゃんがその先生といい感じの関係になれたら花耶はどうする?」

「それは……嫌、なんとなく嫌だ」

「それってもう好きってことじゃない?このままだと何も起きないままだよ、中学校生活最初の夏……」

「だって、近づく方法とかわかんないし。私は数千人といる一人の読者にすぎない」

「手紙、送ってみたら?」

「手紙……どうやって?」

「ここ、よくみて。ファンレター送れる宛先が書いてある、書いてみて損はないと思うよ」

 そう言って、姉は何かを企んだような表情で(カバン)の中に手を入れて何かを探している。
ビニールの擦れる音の後に出てきたのは、可愛らしい便箋と封筒。
こういう時、姉は妙に手際がいい。そしてその手際の良さは優しさからくるものだと、私はよく知っている。
だって、便箋と封筒を私へみせている姉の顔には心の底にある無邪気な楽しさが滲み出ているのだから。

「これもお姉ちゃんが買ってきてくれたの?」

「そうだよ、花耶、自分からじゃ絶対手紙なんて書かないと思ってね」

「……ありがとう」

「使ってくれる……?」

「手紙書いたら、ポストに出すのお願いしてもいい?私一人で出しに行くのは、きっと緊張しちゃうから」

「そんなこと当たり前でしょ、お姉ちゃんにまかせなさい!」

 便箋と封筒を受け取る。
もう一度彼のインタビュー記事に目線を移す。
彼の口から出た言葉が文字として映し出されているその空間と、みえるはずもなかった彼の姿を脳裏へ刻む。

「集中できるように、今日はお姉ちゃんもう帰るね」

「来てくれて、大事なこと教えてくれてありがとう……この雑誌、お姉ちゃんのでしょ?いつ返せば……」

「いいのいいの!それ、本当はそのインタビュー記事目当てで買ったから。だから今、この瞬間からその雑誌は花耶のもの!大事にしてよね」

 そう言って、軽く手を振り姉は私が返答する隙すら与えずに病室を出た。
扉の閉まる音がした後は、私だけの空間に戻った。
インタビュー記事の彼をみて、自然とペンを握る。


— 初めまして、夏宮先生の書く小説が好きな時雨 花耶です。


 誰かに手紙を書くということにも無頓着だった私は、書き始めに相応しい言葉すらわからなかった。
きっと彼は私の名前に欠片も興味なんてないし、私は数千と存在する読者の一部、それも最近彼の作品を知った新参者。
そんな私が手紙を送るという行為は失礼になってしまうかもしれないけれど、それでも私は伝えたかった。
彼に言葉を届けたかった。まだ彼のことを知らない私が感じた彼への感情を言葉にしたかった。
三行ほどで手が止まってしまうと思っていた手紙が、三枚目に差し掛かろうとしている。
不思議なほどに言葉が溢れてくる。
頭ではなく、心の奥底から。


『僕が小説を書く時は特に意識していることはないです、自然と言葉が溢れてきてそれを人物に背負わせていく感覚ですかね』


 インタビュー記事の一部に書かれていた彼の回答と重なる。
彼は、こういう感覚で小説を書いているのだろうか。
誰かを想うように、誰かへ届くように、語りかけるように言葉を吐いていく。


— 『夏宮蒼夜』という人が、私の人生に現れてくれて本当に幸せです。


 彼の小説をきっかけに私自身も小説を書き始めたこと、その日々が楽しくて仕方がないこと、それでも私は長く生きられないこと、病室の中で手紙を書いている現状を書いた後、手紙の締めにこの言葉を添えた。
私の二十年もない人生の中で、大人になれない人生の中で、これほどまでに惹かれてしまう存在に出逢えたこと。
これはきっと、仮に二十年生きられていた私の人生よりも価値の高いものだと思った。
十三年しか生きていない未熟な私の感性に、光と刺激を与えた彼の小説に、彼という人間に出逢えてよかった。
きっと、今死んでも、私はあの世で悔やまない。



 あの日手紙を書いて、何事もないまま年が明けた。
初めて病院で年を越した。夜間の面会は許されていないため私は人生で初めて、一人で歌番組を観ながら新年への時間を過ごした。
年末年始は面会の許可が降りず、いつもどこか寂しくて何度も彼の言葉を読んでは、感化されて私の小説を書いた。
それでも相変わらず彼のような言葉は書けなくて、幼い表現ばかりが並んでいく。
そして結末はいつもありきたりでつまらない。このまま生きていたら私の人生も私が書く小説のように終わってしまいそうで、胸が痛くなる。
ただ決められた余命通りに病によって幕を降ろされる人生。
入院して初めて、病室の窓からの変わり映えしない景色に嫌気がさした。
きっと一人になると、私は余計なことを考えてしまう。そんな時間の隙なんてないはずなのに。

「いっそ、明日くらいに死んじゃえば考えなくて済むのに」

 直感でそう思った。
手を施さずとも消えていける身体で、楽しみは姉との散歩と彼の言葉。
誰かに頼りながら、何かに縋りながら、一人になった時に私は何もできないまま。
命の制限時間が示されても、私は時間を無駄にしてしまう。
それなら私は……。

「花耶!」

「……お姉ちゃん?」

「夏宮先生から……手紙来てるよ、花耶宛に」

「え……嘘、それ、本当?」

「これ、夏宮 蒼夜って……あの人しかいないじゃん!」

 受け取った真っ白な封筒には確かに彼の名前と、インタビュー記事に書かれていたサインが書かれていた。
震える指先を落ち着かせながら、閉じられている封を開ける。
当たり前のことだけれど、開いた手紙は彼の言葉で溢れていた。
それでも小説とは違う、彼の字で、ところどころ不格好な字で、私の名前が書かれ、そして私への言葉が綴られている。
愛おしい。

ーーー

 花耶ちゃんも小説を書いているんだね、十三歳で言葉に深く触れている人生はすごく素敵なものだと思う。
僕が小説を書き始めたのもきっとそれくらいの時期だと思う。
小説好きの両親に育てられたから、なんとなく書いてみたくなったんだ。
手紙の言葉も、本当に真っ直ぐで、文字なのに声が聞こえてくるような感覚になる。きっと花耶ちゃんは、すごく心が綺麗な子なんだね。
もしよかったら、今度一緒にお話ししない?
花耶ちゃんが大丈夫な日、この連絡先に電話してくれたら嬉しいな。

ーーー

 二枚半の手紙の最後に、彼からの光が添えられていた。
彼の声を聴ける。
目で彼の言葉を読んで、脳にその言葉を刻み込んで、声を記憶できる。

「お姉ちゃん」

「ん?何かいいこと書いてあった?」

「私、やっぱりもうちょっと生きたいって思う」

「急にどうしたの、花耶は有無を言わさずずっと生きててもらうよ」

 茶化したように、それでもどこか寂しそうな表情をして姉が言う。
彼からの手紙を私のノートに挟んだ。
また私の人生をつまらないと感じてしまった時、彼の存在を頼りに生きられるように。