「……僕は前生徒会長である姫野椛先輩のことを愛しています。僕だけの椛先輩になってもらえませんか? ……以上をもって送辞とさせていただきます。在校生代表、一条歩」
卒業生、在校生、教職員、保護者、来賓合わせて千人は優に超える人間がぎゅうぎゅうに詰め込まれた体育館が静寂からしばしの間を置いて喧騒へと変わる。
驚きを隠せない教職員、あいつやりやがったという表情の男子生徒、色恋沙汰に興奮する女子生徒、体育館の後ろの方に座っている在校生や保護者の表情はここからでは見えないがざわついているのは分かる。
さあ、椛先輩。次はあなたの番ですよ。
そう心の中で呟いて僕はステージから降りた。
答辞を読む代表生徒として椛先輩の名前が呼ばれる。無理して大声を出しているわけでもないのに良く通り、聞き取りやすい椛先輩の声。その声を何度も聞いている僕には分かる。椛先輩は驚いていて、ほんの少しだけれど動揺している。
いつもの堂々とした歩き方をなんとか保って椛先輩はステージに上がり、一礼の後、答辞の原稿を広げた。その場の多くの者が彼女の答えを期待している。
僕は小学生の頃から式典というものが嫌いだった。
確かに色々な節目に厳粛な式を執り行い、お祝いやお別れをして気持ちを切り替えるというのはおかしなことではないと思う。だが内容やそれに至るまでが嫌いだった。
知らないおじさん達の訳の分からない綺麗事を延々と聞かされて眠くなるし、立ったまま聞かされていたときは倒れる人もいた。
そして歩き方や座り方、礼の仕方、返事の仕方を授業を潰して何時間も繰り返し練習させられる。確かにそれは大事なことなのかもしれないが、数人が立つタイミングが遅れたり礼の角度が浅かったりしただけで何百人の生徒がやり直しさせられたり、気弱で声が小さい人でも無理やり大声を出すことを強要されたり、そこまでやることかと思わずにはいられなかった。
本番で同じようなミスをしても、終わったあとには必ず素晴らしい式だったとか言うくせに。
でもそれは中学校までの話で、高校に入学して最初に行われた入学式によってその価値観は覆された。
僕が入学した高校は県内屈指の進学校であり、とにかく自由な校風で有名だった。校則なんて【学校生活においては原則として制服を着用すること】というものと【社会の一員であることを自覚し、法律や条例を遵守、社会常識に則り自ら考えて行動すること】というものくらいしかない。
要するに制服を着る以外は学校に通っていない人と同じようなルールの中で生きていけるのだ。
そんな高校でも入学式というものは退屈なことに変わりはなく、ありきたりなおじさん達のありきたりな話を聞かされて僕は夢の世界へと入りかけていた。
そんなときだった。
在校生代表の挨拶のために当時の生徒会長が体育館のステージに上がると、どこからともなく現れた在校生たちがスクリーンやらプロジェクターやらの設置を始め、あっという間に何かの上映会の準備が完了した。
準備をしていた在校生の一人がプロジェクターに繋いだノートパソコンを操作するとスクリーンに動画が映し出される。
校舎内を歩きながら撮影したと思われる学校の紹介映像は真新しいものではなかったが、眠気がまぎれるくらいには興味を惹かれるものだった。たまに映像に出てくる人がしゃべるくらいでBGMも字幕もないその動画に生徒会長が生でナレーションを入れていく。
部活や学校の施設を紹介し終えると映像が切り替わり、プレゼンテーションソフトで作成されたスライドショーが始まる。
内容は校内イケメン教員ランキング。
これまでいきなり上映会が始まったことに驚きはしていたものの真面目な内容であったため大きな反応を示さなかった新入生たちがどよめき立つ。
僕の眠気も完全に吹き飛んでしまった。
「三位は山岸先生。昨年結婚してしまいましたが人気は衰えません。毎日のお昼は奥さん手作りの愛妻弁当を食べています」
職員室で撮ったと思われる先生の写真が映し出される。確かにイケメンだ。でも三位ということはもっとイケメンが二人もいるのか。
在校生は大盛り上がり。新入生は山岸先生を知らないので微妙な反応だ。
「二位は山岸先生。好きな食べ物は唐揚げで嫌いな食べ物はピーマンでした。奥さんがあの手この手でピーマンを食べさせようとお弁当に仕込んでいたそうです。山岸先生は奥さんの思いをくみ取り、毎日頑張って残さず食べました」
今度はお弁当の写真が映し出される。卵焼きの中に緑色の小さなかけらが入っているのが見えるのでそれだろう。在校生はさらに盛り上がり、新入生もノリが分かってきて笑顔が増える。
「栄えある一位は山岸先生。ピーマンを毎日食べさせられた結果、奥さん手作りのピーマンの肉詰めと青椒肉絲《チンジャオロース》が大好物になりました」
映し出されたのは夕食と思われる食卓の写真。ピーマンの肉詰めを美味しそうに頬張る山岸先生がいた。嫌いな食べ物を愛の力で克服したことに保護者も交えて会場中から拍手が湧き起こる。
教員席では一人の先生が立ち上がって深々と頭を下げている。生、山岸先生だ。本物もイケメン。
初めて式典を楽しいと思った。内容もそれなりに面白かったが入学式という厳粛な場でこういったノリが許されるこの高校を一瞬で好きになった。
その後も生徒会長の話は三十分ほど続き、生徒会役員による購買部のパンの食リポ映像、バドミントン部の部長とテニス部の部長によるそれぞれのラケットを用いた卓球対決のダイジェスト映像、新入生生き残り三択クイズなどやりたい放題であった。
それでも新入生も保護者も教職員も皆が笑顔で、これが入学式であることを忘れてしまうくらいに楽しく現実離れした時間だった。
なお、式典での生徒会長のやりたい放題はこの高校の伝統かつ名物であり、当時の生徒会長が勝手に暴走したわけではないらしい。始業式でも終業式でも式という名前がつけば必ず生徒会長の挨拶の時間があり、ネタを披露することになっている。
僕が入学前に情報を入れていなかっただけで結構有名な話だったそうだ。
昨年の卒業式では新しく生徒会長になった椛先輩がごくごく普通の送辞を述べている中、突然前生徒会長がギターを二つ持って乱入し、一つを椛先輩に渡して一緒に弾き語りで卒業ソングを披露し始めた。
前生徒会長は歌はともかくギターは触ったことすらなかったらしく、二学期の終業式の後から卒業式の日まで、軽音楽部でギターを担当している椛先輩に平日二、三時間は付きっ切りで教えてもらっていたらしい。
大学入試が控えているというのに狂っている。
ちなみに彼女は日本最難関の国立大学に現役合格した。狂っている。
僕はあの入学式の映像の中でパンを大量に食べて食リポをしていた当時二年生で生徒会副会長だった椛先輩に一目惚れして生徒会に入った。
椛先輩は明るく誰とでも気さくに接する性格と、可愛らしい見た目とギターを弾いているときのカッコ良さのギャップで男女問わず人気者だった。
幸いにも彼氏はいなかったが気持ちを伝える勇気は出ず、僕は普通に会話できるしそれなりに信頼されている後輩のポジションに収まった。
そして今日は椛先輩が卒業する日。生徒会長となった僕が送辞を述べる。
名前を呼ばれて体育館のステージに上がると大勢の生徒の顔が見える。九月の文化祭後に生徒会長に就任してからもう何度も見た光景だ。今日は保護者や来賓もいるからいつもより人が多いが特に緊張はしない。やるべきことははっきりしていて、覚悟は決めてきた。
「卒業生の皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。在校生一同、心よりお祝い申し上げます」
まずは定番の挨拶から。ステージ上から見て一番左端の列の真ん中あたりに座っている椛先輩は僕を真剣に見つめている。
「皆さんと過ごした日々は楽しく、喜びや活力に満ち溢れているものでした。こうして目を閉じるとその思い出が蘇ります。私は生徒会役員として様々な行事の最前線に立たせていただくことが多く、その思い出も人一倍深く心に刻み込まれております」
卒業生は期待の目で僕を見ている。何をやらかしてくれるのか、と。
そう慌てなさんな、と僕は一呼吸置いてから話を再開する。
「一昨年の九月、文化祭が終了し卒業生の皆さんが学校の中心となり最初の行事は伝統の十キロマラソン大会でした。皆、嫌だ嫌だと言いながらも好き勝手なペースで楽しく走ったり歩いたりしてなんだかんだ楽しそうでしたね。私は生徒会役員として運営に回っていたため走ることはなく、高みの見物を決めるつもりでした。しかし、前生徒会長のミスの尻拭いのために給水ポイントや休憩地点を行ったり来たりする羽目になり、終了後にスマホで確認すると十五キロも移動していました。移動用に自転車が用意されていたとはいえあまりの仕打ちではないかと前生徒会長に文句を言うと『お疲れ様』と労いの言葉をいただくことができました。あのときの悪気のない優しい笑顔は忘れません」
至るところでくすくすと笑いが漏れる。何人かの三年生が椛先輩をちらちら見ていて椛先輩は少し照れているようだ。
「次の行事は当時二年生だった皆さんの修学旅行。生徒会でアルバムを作成するため私も写真を拝見させていただきましたが、普段の勉強に疲れた表情とは違い生き生きとしていて、心の底から楽しんでいる皆さんの良い表情を見ることができました。前生徒会長は私にお土産として木刀を買ってきてくれました。ちなみに昨年十月に私たち現二年生が修学旅行に行く際に、前生徒会長は私に買ってきて欲しいものがあると一万円をくれました。なんとお釣りは私にくれるという太っ腹ぶりです。現地に着いてから送られてきた欲しいものリストの合計金額は約二万円でした。お世話になった前生徒会長へのお土産代と考えれば差額の一万円くらいどうってことありません。『ありがとう』と言いながら私が買ってきたご当地ゆるキャラのぬいぐるみを抱きしめるときの無邪気な笑顔は忘れません」
卒業生たちの視線は、僕と椛先輩の顔を行ったり来たりしている。椛先輩は目を閉じて寝たふりをしているようだ。
「二学期の終業式で私は前生徒会長とコンビを組んで漫才をしましたね。映像は残っているので見たい方は生徒会室へどうぞ。ネタは全部私が書きました。二十回は書き直させられたと思います。それなのに一番ウケたのは前生徒会長が嚙んだところでした。あれはネタではありません。ただのミスです。あのときの照れ隠しの笑顔は忘れません」
笑顔の卒業生が増えてきた。あのとき面白かったよな、なんて懐かしんでくれている人もいる。椛先輩はまだ寝たふりを続けているが眉や口がぴくぴく動いているのが視力が良い僕には見える。
「一月には共通テストに臨む三年生への激励式が行われました。前生徒会長は『ここはマジで大事だから』と言って特に変わったことをしませんでした。ですから私も今年の一月の激励式でそれを真似て何もしなかったところ、理不尽にも『つまんない』と文句を言われ、その後も罵られました。私を罵っているときの笑顔は忘れません」
椛先輩は顔を真っ赤にしながら未だに寝たふりを続けている。後ろの女子生徒が椛先輩のほっぺをいじくっても頑張って耐えているようだ。
「二月は生徒会と料理研究部が共同で大量のチョコレートを作り、部活や委員会等での義理チョコを除き、一つもチョコをもらっていない男子に配布しました。もらわないことがステータスとなるこのチョコ達を無事にすべて配り終えることができて良かったです。前生徒会長は『私専用に一つ気合い入れて作ってよ』と私に要求してきました。本校の全男子生徒の三分の二くらいの個数のチョコを用意しなければならず、くそ忙しかったのですがなんとか良い物を作ってあげると『おいしー』と言いながらバクバク食べていました。あのときの幸せそうな笑顔は忘れません」
チョコの配布を終えたあとに椛先輩が「義理だよ」と言いながら別に買っておいたチョコを僕にくれたのは言わないでおく。
三月の卒業式でのエピソードを披露して卒業生が三年生になった四月からの話に入る。
「入学式では生徒会役員で新入生歓迎のダンスをする予定でしたが前生徒会長が季節外れのインフルエンザにかかってしまい、前生徒会長がいないと成り立たないダンスでしたのでお蔵入りになり、平和な入学式となりました。私はとても心配で夜も眠れませんでしたが、式の前にビデオ通話をしたときに私を心配させまいと見せた健気な笑顔は忘れません」
何故か椛先輩は嬉しそうににやにやしている。別に褒めてはいないのだけれど。
「一学期の始業式でダンスのリベンジを果たした前生徒会長は、生徒会の皆に『せっかく練習してたのに入学式休んじゃってごめん』と謝る一方で『五日練習してない病み上がりなのに完璧だったのすごくない? 』と私にドヤ顔で言ってきました。私が『すごいです』と素直に褒めたときの元気はつらつとした笑顔は忘れません」
椛先輩は僕にあのときと同じようなドヤ顔を見せつけている。もう照れるのは辞めたようだ。
「五月には体育祭がありました。卒業生の皆さんを始めほとんどの生徒が自分のクラスの勝利のために競技や応援に励む中、私は自分の競技のとき以外は運営本部に籠り試合結果の打ち込みや点数計算に勤しんでいました。部活動対抗リレーの際には予定になかったにも拘わらず前生徒会長の思い付きで運動部に交じって生徒会チームで出ることになり、当然のように最下位でした。前生徒会長は、結果は分かっていたとはいえ断トツの最下位でゴールして落ち込んでいた私の頭を撫でながら『頑張ったね』と言ってくれました。あのときの慈愛に満ちた笑顔は忘れません」
椛先輩はあのときと同じような笑顔を僕に向けている。照れるのをやめたどころか僕の話の流れや周りの雰囲気に乗ることにしたようだ。
「六月はインターハイの県大会に臨む部活動への壮行会がありました。わが校伝統の応援団が主体となって行うもので、生徒会はサポートだけのはずだったのですが前生徒会長の突然の無茶ぶりにより県大会に出場する部活動のPVを作成することになりました。指令を受けたのが壮行会の二週間前、県大会に出る部活動は十個ありました。私はその二週間の間まともに睡眠をとることができませんでした。さすがの前生徒会長も申し訳なさを感じたのか一週間前からは素材集めや編集を手伝ってくれましたが『一緒に頑張ろうね』と言いながら夜にはうとうとしていました。私が寝ているのを指摘したときの焦ったような笑顔は忘れません」
卒業生や在校生から拍手が巻き起こる。あのときのPVは割と評判が良かったので労ってくれているのだろう。
椛先輩は素知らぬ顔で拍手をしている。誰のせいで苦労したと思っているんだ。
「七月の一学期終業式では夏休みに読みたい本の紹介として前生徒会長が五冊の本のレビューを読み、面白さをプレゼンしました。『あの本面白かった』とか『プレゼンのおかげで久しぶりに本を読んだ』などの反応をいただき、大変好評だったようで何よりです。ちなみに五冊のうち前生徒会長が読んでレビューを作成したのは一冊で、残りの四冊は私です。七月になって突然命令を受けました。『本をたくさん読むと頭が良くなるんだよ』と言いつつ、前生徒会長は私が四冊読む間に一冊しか読みませんでした。ハッピーエンドとなる感動物の本を読み終えたときの涙を流しながらの笑顔は忘れません」
椛先輩は涙なんか流していないくせにハンカチで目を拭って噓泣きをしている。
「夏休みに入ると文化祭の準備が始まりました。生徒会は各クラスや部活の企画の審査やスペースや時間の調整などの運営の仕事に加え、毎年一つ企画を行います。企画会議の際に前生徒会長が唐突に『バベルの塔を作りたい』と言い出したのでそれに決まりました。何をもって完成とするのか分からなかったのでよく絵画などで描かれている形を真似て作りました。さすがにレンガ造りは無理なので木製ですし、大きさも私の背丈くらいのとても塔とは呼べない代物でしたがなかなか精密に作ることができたのではないかと自負しております。同じ言語で意思疎通もできているので良かったです。ただ『君は家が近いんだからまだ残れるよね? 』と前生徒会長に言われ、私は学校が閉まる時間ぎりぎりまで作業をさせられていました。私が一人で作業をしている際にジュースやお菓子を差し入れしてくれるときの、もうすぐ生徒会も引退なんだという寂しさを感じさせる笑顔は忘れられません」
ああ、椛先輩が本当に泣き出してしまった。
あの頃は毎日のように遅くまで残って二人で作業をしていた。椛先輩がアイスを買ってきて半分こして食べたり、見回りに来た用務員さんに上手なのこぎりの使い方を教えてもらったり、花火大会の日に学校の屋上で花火を見たり、あの夏休みは僕にとっても一番大切な思い出だ。
「九月の文化祭本番。副会長だった私は前生徒会長と一緒に見回りという名目で様々な企画を見て回りました。その際になんとあの前生徒会長が『いつものお礼に全部奢ってあげる』と言い出したのです。天地がひっくり返ったわけではなかったので良かったです。ただ、前生徒会長は人望があったので飲食も体験型企画もほとんどの場所で無料でサービスをしてもらっていました。皆、本性を知らないんだなと私は思いました。並んで歩いているときの楽しそうな笑顔は忘れません」
あれは生徒会の見回りというよりただの文化祭デートだった。食べ物を分け合って食べて、お化け屋敷で抱き着かれて、テレビゲームで対戦して、謎解きに一緒にチャレンジして、午後の軽音楽部のライブが始まるまで、まるでカップルのような時間を過ごした。
美味しそうな顔、怖がっている顔、悔しがっている顔、喜んでいる顔、悩んでいる顔、ひらめいた顔、全て覚えている。
「午後の軽音楽部のライブを私はステージの真横から見守りました。ギターボーカルを務める前生徒会長はいつもと違って凛々しくて、カッコ良かったです。楽しそうに演奏し、歌っているときのはじける笑顔は忘れません」
文化祭のライブは引退ライブでもあった。演奏が終わってステージ横に戻ってきた椛先輩はこれまでの軽音楽部での思い出が蘇り、感情が溢れて止まらなくなったのか人目をはばかることもなく僕の胸の中で泣いた。
あのときの僕は、椛先輩を抱きしめる勇気がなかった。
「文化祭の閉会式での生徒会長としての最後の挨拶で、前生徒会長は一時間くらいかけて自分が生徒会長になってからの思い出を語り始めましたね。ちょうど今の私のように。卒業生の皆さんの中には涙を流している方もいらっしゃったことを覚えています」
今も何故か椛先輩以外にも泣いている卒業生がいる。僕の思い出の中に自分の思い出も見出したのだろうか。
「その後、私が新たな生徒会長になった後も前生徒会長はちょくちょく生徒会室や私たちが活動している場所に顔を出してくれました。いつも私にちょっかいをかけて、手伝いに来たんだか邪魔しに来たんだか分かりませんでした。前生徒会長はよく私の肩を叩き、振り返った私の頬に人差し指を突き刺してきました。あのときのいたずらっぽい笑顔は忘れません」
椛先輩に憧れて生徒会に入って、もっと近づくために副会長になって、並び立つために会長になった。僕の高校生活は椛先輩が全てだった。
「私の高校生活は前生徒会長によってめちゃくちゃになりました。お金も時間も労力もどれだけ余計に消費したか分かりませんし、それに見合った対価を得られたかというと物的には全く得られていません」
椛先輩は申し訳なさそうな顔をしている。あんな顔、僕と二人きりのときには見せたことはない。
「しかし、私は生徒会に入ったことを後悔していません。先ほど苦労の対価は物的には得られていないと申し上げましたが、かけがいのない思い出としてその対価は受け取っていました。これまでの生徒会の活動を振り返ると、思い出すのは前生徒会長の笑顔ばかりです。前生徒会長と過ごした日々は私にとって宝物のような日々でした。傍若無人な振る舞いも、唐突な無茶ぶりも、調子が良くて気分屋なところも、苦労はさせられましたが嫌ではありませんでした。むしろ普段はしっかり者で人望がある前生徒会長が、私にだけはそういうところを見せてくれることが嬉しかったのです」
ざわざわとしていた体育館がしん、と静まり返った。僕の長い話の終わり、クライマックスを予感して皆聞き入ってくれている。
「前生徒会長をはじめとした卒業生の皆さん。私たち在校生が楽しい学校生活を送ることができたのは皆さんのおかげです。在校生を代表してお礼を申し上げることができるのは、勝るものがないほど栄誉あることだと思います。本当にありがとうございました」
これで最後だ。さすがに緊張しているのが自分でも分かる。一旦間をおいて、呼吸を整えた。
「この学校の式典では生徒会長が好き勝手しても許される。この伝統を知ってから、私は今日この場でこの言葉を言うために生徒会長になることを決意しました。伝統と決意の証として今日この場にいる皆さんにも聞いて欲しいと思います」
もう一度息を吸って椛先輩の方を見る。椛先輩はまっすぐに僕を見つめている。
目が合うと、にこりと笑ってくれた。思い出の中と同じ、素敵な笑顔だ。
「……僕は前生徒会長である姫野椛先輩のことを愛しています。僕だけの椛先輩になってもらえませんか? ……以上をもって送辞とさせていただきます。在校生代表、一条歩」
卒業生、在校生、教職員、保護者、来賓合わせて千人は優に超える人間がぎゅうぎゅうに詰め込まれた体育館が静寂からしばしの間を置いて喧騒へと変わる。
驚きを隠せない教職員、あいつやりやがったという表情の男子生徒、色恋沙汰に興奮する女子生徒、体育館の後ろの方に座っている在校生や保護者の表情はここからでは見えないがざわついているのは分かる。
さあ、椛先輩、次はあなたの番ですよ。
そう心の中で呟いて僕はステージから降りた。
答辞を読む代表生徒として椛先輩の名前が呼ばれる。無理して大声を出しているわけでもないのに良く通り、聞き取りやすい椛先輩の声。その声を何度も聞いている僕には分かる。椛先輩は驚いていて、ほんの少しだけれど動揺している。
いつもの堂々とした歩き方をなんとか保って椛先輩はステージに上がり、一礼の後、答辞の原稿を広げた。その場の多くの者が彼女の答えを期待している。
椛先輩の答辞が終わりそうだ。
「……私たちを見守ってくれた保護者の皆さん、本当にありがとうございました。最後に……」
椛先輩は原稿を閉じた。ここからはアドリブだ。これまで特に変わったことをしていない椛先輩の動向に注目が集まる。
椛先輩はステージに近い教職員席の隣に座る僕のことをまっすぐに見つめた。
「私は歩君だけの椛先輩にはなれません。以上卒業生代表、姫野椛」
その言葉は何を意味しているのか。それが分からない僕以外の人間がざわざわとし始めた。僕を憐れむ声もする。
でも僕だけはその意味を知っている。
ステージを降りた椛先輩、いや椛さんは、自分の椅子に座る前に僕と目を合わせて、今までで一番の笑顔をくれたから。
卒業生、在校生、教職員、保護者、来賓合わせて千人は優に超える人間がぎゅうぎゅうに詰め込まれた体育館が静寂からしばしの間を置いて喧騒へと変わる。
驚きを隠せない教職員、あいつやりやがったという表情の男子生徒、色恋沙汰に興奮する女子生徒、体育館の後ろの方に座っている在校生や保護者の表情はここからでは見えないがざわついているのは分かる。
さあ、椛先輩。次はあなたの番ですよ。
そう心の中で呟いて僕はステージから降りた。
答辞を読む代表生徒として椛先輩の名前が呼ばれる。無理して大声を出しているわけでもないのに良く通り、聞き取りやすい椛先輩の声。その声を何度も聞いている僕には分かる。椛先輩は驚いていて、ほんの少しだけれど動揺している。
いつもの堂々とした歩き方をなんとか保って椛先輩はステージに上がり、一礼の後、答辞の原稿を広げた。その場の多くの者が彼女の答えを期待している。
僕は小学生の頃から式典というものが嫌いだった。
確かに色々な節目に厳粛な式を執り行い、お祝いやお別れをして気持ちを切り替えるというのはおかしなことではないと思う。だが内容やそれに至るまでが嫌いだった。
知らないおじさん達の訳の分からない綺麗事を延々と聞かされて眠くなるし、立ったまま聞かされていたときは倒れる人もいた。
そして歩き方や座り方、礼の仕方、返事の仕方を授業を潰して何時間も繰り返し練習させられる。確かにそれは大事なことなのかもしれないが、数人が立つタイミングが遅れたり礼の角度が浅かったりしただけで何百人の生徒がやり直しさせられたり、気弱で声が小さい人でも無理やり大声を出すことを強要されたり、そこまでやることかと思わずにはいられなかった。
本番で同じようなミスをしても、終わったあとには必ず素晴らしい式だったとか言うくせに。
でもそれは中学校までの話で、高校に入学して最初に行われた入学式によってその価値観は覆された。
僕が入学した高校は県内屈指の進学校であり、とにかく自由な校風で有名だった。校則なんて【学校生活においては原則として制服を着用すること】というものと【社会の一員であることを自覚し、法律や条例を遵守、社会常識に則り自ら考えて行動すること】というものくらいしかない。
要するに制服を着る以外は学校に通っていない人と同じようなルールの中で生きていけるのだ。
そんな高校でも入学式というものは退屈なことに変わりはなく、ありきたりなおじさん達のありきたりな話を聞かされて僕は夢の世界へと入りかけていた。
そんなときだった。
在校生代表の挨拶のために当時の生徒会長が体育館のステージに上がると、どこからともなく現れた在校生たちがスクリーンやらプロジェクターやらの設置を始め、あっという間に何かの上映会の準備が完了した。
準備をしていた在校生の一人がプロジェクターに繋いだノートパソコンを操作するとスクリーンに動画が映し出される。
校舎内を歩きながら撮影したと思われる学校の紹介映像は真新しいものではなかったが、眠気がまぎれるくらいには興味を惹かれるものだった。たまに映像に出てくる人がしゃべるくらいでBGMも字幕もないその動画に生徒会長が生でナレーションを入れていく。
部活や学校の施設を紹介し終えると映像が切り替わり、プレゼンテーションソフトで作成されたスライドショーが始まる。
内容は校内イケメン教員ランキング。
これまでいきなり上映会が始まったことに驚きはしていたものの真面目な内容であったため大きな反応を示さなかった新入生たちがどよめき立つ。
僕の眠気も完全に吹き飛んでしまった。
「三位は山岸先生。昨年結婚してしまいましたが人気は衰えません。毎日のお昼は奥さん手作りの愛妻弁当を食べています」
職員室で撮ったと思われる先生の写真が映し出される。確かにイケメンだ。でも三位ということはもっとイケメンが二人もいるのか。
在校生は大盛り上がり。新入生は山岸先生を知らないので微妙な反応だ。
「二位は山岸先生。好きな食べ物は唐揚げで嫌いな食べ物はピーマンでした。奥さんがあの手この手でピーマンを食べさせようとお弁当に仕込んでいたそうです。山岸先生は奥さんの思いをくみ取り、毎日頑張って残さず食べました」
今度はお弁当の写真が映し出される。卵焼きの中に緑色の小さなかけらが入っているのが見えるのでそれだろう。在校生はさらに盛り上がり、新入生もノリが分かってきて笑顔が増える。
「栄えある一位は山岸先生。ピーマンを毎日食べさせられた結果、奥さん手作りのピーマンの肉詰めと青椒肉絲《チンジャオロース》が大好物になりました」
映し出されたのは夕食と思われる食卓の写真。ピーマンの肉詰めを美味しそうに頬張る山岸先生がいた。嫌いな食べ物を愛の力で克服したことに保護者も交えて会場中から拍手が湧き起こる。
教員席では一人の先生が立ち上がって深々と頭を下げている。生、山岸先生だ。本物もイケメン。
初めて式典を楽しいと思った。内容もそれなりに面白かったが入学式という厳粛な場でこういったノリが許されるこの高校を一瞬で好きになった。
その後も生徒会長の話は三十分ほど続き、生徒会役員による購買部のパンの食リポ映像、バドミントン部の部長とテニス部の部長によるそれぞれのラケットを用いた卓球対決のダイジェスト映像、新入生生き残り三択クイズなどやりたい放題であった。
それでも新入生も保護者も教職員も皆が笑顔で、これが入学式であることを忘れてしまうくらいに楽しく現実離れした時間だった。
なお、式典での生徒会長のやりたい放題はこの高校の伝統かつ名物であり、当時の生徒会長が勝手に暴走したわけではないらしい。始業式でも終業式でも式という名前がつけば必ず生徒会長の挨拶の時間があり、ネタを披露することになっている。
僕が入学前に情報を入れていなかっただけで結構有名な話だったそうだ。
昨年の卒業式では新しく生徒会長になった椛先輩がごくごく普通の送辞を述べている中、突然前生徒会長がギターを二つ持って乱入し、一つを椛先輩に渡して一緒に弾き語りで卒業ソングを披露し始めた。
前生徒会長は歌はともかくギターは触ったことすらなかったらしく、二学期の終業式の後から卒業式の日まで、軽音楽部でギターを担当している椛先輩に平日二、三時間は付きっ切りで教えてもらっていたらしい。
大学入試が控えているというのに狂っている。
ちなみに彼女は日本最難関の国立大学に現役合格した。狂っている。
僕はあの入学式の映像の中でパンを大量に食べて食リポをしていた当時二年生で生徒会副会長だった椛先輩に一目惚れして生徒会に入った。
椛先輩は明るく誰とでも気さくに接する性格と、可愛らしい見た目とギターを弾いているときのカッコ良さのギャップで男女問わず人気者だった。
幸いにも彼氏はいなかったが気持ちを伝える勇気は出ず、僕は普通に会話できるしそれなりに信頼されている後輩のポジションに収まった。
そして今日は椛先輩が卒業する日。生徒会長となった僕が送辞を述べる。
名前を呼ばれて体育館のステージに上がると大勢の生徒の顔が見える。九月の文化祭後に生徒会長に就任してからもう何度も見た光景だ。今日は保護者や来賓もいるからいつもより人が多いが特に緊張はしない。やるべきことははっきりしていて、覚悟は決めてきた。
「卒業生の皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。在校生一同、心よりお祝い申し上げます」
まずは定番の挨拶から。ステージ上から見て一番左端の列の真ん中あたりに座っている椛先輩は僕を真剣に見つめている。
「皆さんと過ごした日々は楽しく、喜びや活力に満ち溢れているものでした。こうして目を閉じるとその思い出が蘇ります。私は生徒会役員として様々な行事の最前線に立たせていただくことが多く、その思い出も人一倍深く心に刻み込まれております」
卒業生は期待の目で僕を見ている。何をやらかしてくれるのか、と。
そう慌てなさんな、と僕は一呼吸置いてから話を再開する。
「一昨年の九月、文化祭が終了し卒業生の皆さんが学校の中心となり最初の行事は伝統の十キロマラソン大会でした。皆、嫌だ嫌だと言いながらも好き勝手なペースで楽しく走ったり歩いたりしてなんだかんだ楽しそうでしたね。私は生徒会役員として運営に回っていたため走ることはなく、高みの見物を決めるつもりでした。しかし、前生徒会長のミスの尻拭いのために給水ポイントや休憩地点を行ったり来たりする羽目になり、終了後にスマホで確認すると十五キロも移動していました。移動用に自転車が用意されていたとはいえあまりの仕打ちではないかと前生徒会長に文句を言うと『お疲れ様』と労いの言葉をいただくことができました。あのときの悪気のない優しい笑顔は忘れません」
至るところでくすくすと笑いが漏れる。何人かの三年生が椛先輩をちらちら見ていて椛先輩は少し照れているようだ。
「次の行事は当時二年生だった皆さんの修学旅行。生徒会でアルバムを作成するため私も写真を拝見させていただきましたが、普段の勉強に疲れた表情とは違い生き生きとしていて、心の底から楽しんでいる皆さんの良い表情を見ることができました。前生徒会長は私にお土産として木刀を買ってきてくれました。ちなみに昨年十月に私たち現二年生が修学旅行に行く際に、前生徒会長は私に買ってきて欲しいものがあると一万円をくれました。なんとお釣りは私にくれるという太っ腹ぶりです。現地に着いてから送られてきた欲しいものリストの合計金額は約二万円でした。お世話になった前生徒会長へのお土産代と考えれば差額の一万円くらいどうってことありません。『ありがとう』と言いながら私が買ってきたご当地ゆるキャラのぬいぐるみを抱きしめるときの無邪気な笑顔は忘れません」
卒業生たちの視線は、僕と椛先輩の顔を行ったり来たりしている。椛先輩は目を閉じて寝たふりをしているようだ。
「二学期の終業式で私は前生徒会長とコンビを組んで漫才をしましたね。映像は残っているので見たい方は生徒会室へどうぞ。ネタは全部私が書きました。二十回は書き直させられたと思います。それなのに一番ウケたのは前生徒会長が嚙んだところでした。あれはネタではありません。ただのミスです。あのときの照れ隠しの笑顔は忘れません」
笑顔の卒業生が増えてきた。あのとき面白かったよな、なんて懐かしんでくれている人もいる。椛先輩はまだ寝たふりを続けているが眉や口がぴくぴく動いているのが視力が良い僕には見える。
「一月には共通テストに臨む三年生への激励式が行われました。前生徒会長は『ここはマジで大事だから』と言って特に変わったことをしませんでした。ですから私も今年の一月の激励式でそれを真似て何もしなかったところ、理不尽にも『つまんない』と文句を言われ、その後も罵られました。私を罵っているときの笑顔は忘れません」
椛先輩は顔を真っ赤にしながら未だに寝たふりを続けている。後ろの女子生徒が椛先輩のほっぺをいじくっても頑張って耐えているようだ。
「二月は生徒会と料理研究部が共同で大量のチョコレートを作り、部活や委員会等での義理チョコを除き、一つもチョコをもらっていない男子に配布しました。もらわないことがステータスとなるこのチョコ達を無事にすべて配り終えることができて良かったです。前生徒会長は『私専用に一つ気合い入れて作ってよ』と私に要求してきました。本校の全男子生徒の三分の二くらいの個数のチョコを用意しなければならず、くそ忙しかったのですがなんとか良い物を作ってあげると『おいしー』と言いながらバクバク食べていました。あのときの幸せそうな笑顔は忘れません」
チョコの配布を終えたあとに椛先輩が「義理だよ」と言いながら別に買っておいたチョコを僕にくれたのは言わないでおく。
三月の卒業式でのエピソードを披露して卒業生が三年生になった四月からの話に入る。
「入学式では生徒会役員で新入生歓迎のダンスをする予定でしたが前生徒会長が季節外れのインフルエンザにかかってしまい、前生徒会長がいないと成り立たないダンスでしたのでお蔵入りになり、平和な入学式となりました。私はとても心配で夜も眠れませんでしたが、式の前にビデオ通話をしたときに私を心配させまいと見せた健気な笑顔は忘れません」
何故か椛先輩は嬉しそうににやにやしている。別に褒めてはいないのだけれど。
「一学期の始業式でダンスのリベンジを果たした前生徒会長は、生徒会の皆に『せっかく練習してたのに入学式休んじゃってごめん』と謝る一方で『五日練習してない病み上がりなのに完璧だったのすごくない? 』と私にドヤ顔で言ってきました。私が『すごいです』と素直に褒めたときの元気はつらつとした笑顔は忘れません」
椛先輩は僕にあのときと同じようなドヤ顔を見せつけている。もう照れるのは辞めたようだ。
「五月には体育祭がありました。卒業生の皆さんを始めほとんどの生徒が自分のクラスの勝利のために競技や応援に励む中、私は自分の競技のとき以外は運営本部に籠り試合結果の打ち込みや点数計算に勤しんでいました。部活動対抗リレーの際には予定になかったにも拘わらず前生徒会長の思い付きで運動部に交じって生徒会チームで出ることになり、当然のように最下位でした。前生徒会長は、結果は分かっていたとはいえ断トツの最下位でゴールして落ち込んでいた私の頭を撫でながら『頑張ったね』と言ってくれました。あのときの慈愛に満ちた笑顔は忘れません」
椛先輩はあのときと同じような笑顔を僕に向けている。照れるのをやめたどころか僕の話の流れや周りの雰囲気に乗ることにしたようだ。
「六月はインターハイの県大会に臨む部活動への壮行会がありました。わが校伝統の応援団が主体となって行うもので、生徒会はサポートだけのはずだったのですが前生徒会長の突然の無茶ぶりにより県大会に出場する部活動のPVを作成することになりました。指令を受けたのが壮行会の二週間前、県大会に出る部活動は十個ありました。私はその二週間の間まともに睡眠をとることができませんでした。さすがの前生徒会長も申し訳なさを感じたのか一週間前からは素材集めや編集を手伝ってくれましたが『一緒に頑張ろうね』と言いながら夜にはうとうとしていました。私が寝ているのを指摘したときの焦ったような笑顔は忘れません」
卒業生や在校生から拍手が巻き起こる。あのときのPVは割と評判が良かったので労ってくれているのだろう。
椛先輩は素知らぬ顔で拍手をしている。誰のせいで苦労したと思っているんだ。
「七月の一学期終業式では夏休みに読みたい本の紹介として前生徒会長が五冊の本のレビューを読み、面白さをプレゼンしました。『あの本面白かった』とか『プレゼンのおかげで久しぶりに本を読んだ』などの反応をいただき、大変好評だったようで何よりです。ちなみに五冊のうち前生徒会長が読んでレビューを作成したのは一冊で、残りの四冊は私です。七月になって突然命令を受けました。『本をたくさん読むと頭が良くなるんだよ』と言いつつ、前生徒会長は私が四冊読む間に一冊しか読みませんでした。ハッピーエンドとなる感動物の本を読み終えたときの涙を流しながらの笑顔は忘れません」
椛先輩は涙なんか流していないくせにハンカチで目を拭って噓泣きをしている。
「夏休みに入ると文化祭の準備が始まりました。生徒会は各クラスや部活の企画の審査やスペースや時間の調整などの運営の仕事に加え、毎年一つ企画を行います。企画会議の際に前生徒会長が唐突に『バベルの塔を作りたい』と言い出したのでそれに決まりました。何をもって完成とするのか分からなかったのでよく絵画などで描かれている形を真似て作りました。さすがにレンガ造りは無理なので木製ですし、大きさも私の背丈くらいのとても塔とは呼べない代物でしたがなかなか精密に作ることができたのではないかと自負しております。同じ言語で意思疎通もできているので良かったです。ただ『君は家が近いんだからまだ残れるよね? 』と前生徒会長に言われ、私は学校が閉まる時間ぎりぎりまで作業をさせられていました。私が一人で作業をしている際にジュースやお菓子を差し入れしてくれるときの、もうすぐ生徒会も引退なんだという寂しさを感じさせる笑顔は忘れられません」
ああ、椛先輩が本当に泣き出してしまった。
あの頃は毎日のように遅くまで残って二人で作業をしていた。椛先輩がアイスを買ってきて半分こして食べたり、見回りに来た用務員さんに上手なのこぎりの使い方を教えてもらったり、花火大会の日に学校の屋上で花火を見たり、あの夏休みは僕にとっても一番大切な思い出だ。
「九月の文化祭本番。副会長だった私は前生徒会長と一緒に見回りという名目で様々な企画を見て回りました。その際になんとあの前生徒会長が『いつものお礼に全部奢ってあげる』と言い出したのです。天地がひっくり返ったわけではなかったので良かったです。ただ、前生徒会長は人望があったので飲食も体験型企画もほとんどの場所で無料でサービスをしてもらっていました。皆、本性を知らないんだなと私は思いました。並んで歩いているときの楽しそうな笑顔は忘れません」
あれは生徒会の見回りというよりただの文化祭デートだった。食べ物を分け合って食べて、お化け屋敷で抱き着かれて、テレビゲームで対戦して、謎解きに一緒にチャレンジして、午後の軽音楽部のライブが始まるまで、まるでカップルのような時間を過ごした。
美味しそうな顔、怖がっている顔、悔しがっている顔、喜んでいる顔、悩んでいる顔、ひらめいた顔、全て覚えている。
「午後の軽音楽部のライブを私はステージの真横から見守りました。ギターボーカルを務める前生徒会長はいつもと違って凛々しくて、カッコ良かったです。楽しそうに演奏し、歌っているときのはじける笑顔は忘れません」
文化祭のライブは引退ライブでもあった。演奏が終わってステージ横に戻ってきた椛先輩はこれまでの軽音楽部での思い出が蘇り、感情が溢れて止まらなくなったのか人目をはばかることもなく僕の胸の中で泣いた。
あのときの僕は、椛先輩を抱きしめる勇気がなかった。
「文化祭の閉会式での生徒会長としての最後の挨拶で、前生徒会長は一時間くらいかけて自分が生徒会長になってからの思い出を語り始めましたね。ちょうど今の私のように。卒業生の皆さんの中には涙を流している方もいらっしゃったことを覚えています」
今も何故か椛先輩以外にも泣いている卒業生がいる。僕の思い出の中に自分の思い出も見出したのだろうか。
「その後、私が新たな生徒会長になった後も前生徒会長はちょくちょく生徒会室や私たちが活動している場所に顔を出してくれました。いつも私にちょっかいをかけて、手伝いに来たんだか邪魔しに来たんだか分かりませんでした。前生徒会長はよく私の肩を叩き、振り返った私の頬に人差し指を突き刺してきました。あのときのいたずらっぽい笑顔は忘れません」
椛先輩に憧れて生徒会に入って、もっと近づくために副会長になって、並び立つために会長になった。僕の高校生活は椛先輩が全てだった。
「私の高校生活は前生徒会長によってめちゃくちゃになりました。お金も時間も労力もどれだけ余計に消費したか分かりませんし、それに見合った対価を得られたかというと物的には全く得られていません」
椛先輩は申し訳なさそうな顔をしている。あんな顔、僕と二人きりのときには見せたことはない。
「しかし、私は生徒会に入ったことを後悔していません。先ほど苦労の対価は物的には得られていないと申し上げましたが、かけがいのない思い出としてその対価は受け取っていました。これまでの生徒会の活動を振り返ると、思い出すのは前生徒会長の笑顔ばかりです。前生徒会長と過ごした日々は私にとって宝物のような日々でした。傍若無人な振る舞いも、唐突な無茶ぶりも、調子が良くて気分屋なところも、苦労はさせられましたが嫌ではありませんでした。むしろ普段はしっかり者で人望がある前生徒会長が、私にだけはそういうところを見せてくれることが嬉しかったのです」
ざわざわとしていた体育館がしん、と静まり返った。僕の長い話の終わり、クライマックスを予感して皆聞き入ってくれている。
「前生徒会長をはじめとした卒業生の皆さん。私たち在校生が楽しい学校生活を送ることができたのは皆さんのおかげです。在校生を代表してお礼を申し上げることができるのは、勝るものがないほど栄誉あることだと思います。本当にありがとうございました」
これで最後だ。さすがに緊張しているのが自分でも分かる。一旦間をおいて、呼吸を整えた。
「この学校の式典では生徒会長が好き勝手しても許される。この伝統を知ってから、私は今日この場でこの言葉を言うために生徒会長になることを決意しました。伝統と決意の証として今日この場にいる皆さんにも聞いて欲しいと思います」
もう一度息を吸って椛先輩の方を見る。椛先輩はまっすぐに僕を見つめている。
目が合うと、にこりと笑ってくれた。思い出の中と同じ、素敵な笑顔だ。
「……僕は前生徒会長である姫野椛先輩のことを愛しています。僕だけの椛先輩になってもらえませんか? ……以上をもって送辞とさせていただきます。在校生代表、一条歩」
卒業生、在校生、教職員、保護者、来賓合わせて千人は優に超える人間がぎゅうぎゅうに詰め込まれた体育館が静寂からしばしの間を置いて喧騒へと変わる。
驚きを隠せない教職員、あいつやりやがったという表情の男子生徒、色恋沙汰に興奮する女子生徒、体育館の後ろの方に座っている在校生や保護者の表情はここからでは見えないがざわついているのは分かる。
さあ、椛先輩、次はあなたの番ですよ。
そう心の中で呟いて僕はステージから降りた。
答辞を読む代表生徒として椛先輩の名前が呼ばれる。無理して大声を出しているわけでもないのに良く通り、聞き取りやすい椛先輩の声。その声を何度も聞いている僕には分かる。椛先輩は驚いていて、ほんの少しだけれど動揺している。
いつもの堂々とした歩き方をなんとか保って椛先輩はステージに上がり、一礼の後、答辞の原稿を広げた。その場の多くの者が彼女の答えを期待している。
椛先輩の答辞が終わりそうだ。
「……私たちを見守ってくれた保護者の皆さん、本当にありがとうございました。最後に……」
椛先輩は原稿を閉じた。ここからはアドリブだ。これまで特に変わったことをしていない椛先輩の動向に注目が集まる。
椛先輩はステージに近い教職員席の隣に座る僕のことをまっすぐに見つめた。
「私は歩君だけの椛先輩にはなれません。以上卒業生代表、姫野椛」
その言葉は何を意味しているのか。それが分からない僕以外の人間がざわざわとし始めた。僕を憐れむ声もする。
でも僕だけはその意味を知っている。
ステージを降りた椛先輩、いや椛さんは、自分の椅子に座る前に僕と目を合わせて、今までで一番の笑顔をくれたから。