「卒アルのアンケート、なんとか集まったね。皆協力的でよかった」
「そうだな。ほんとお疲れ」
「卒業まであと二週間しかないのにって感じだけどね」
映と二回目の打ち合わせで、なんとか方向性が決まった。
内容は、皆の印象アンケート、思い出TOP3など。かなり定番といった感じだが、結局これが一番求められているのではないかと思った。
全員を忘れてしまう、こんな状況だからこそ。
アンケートは映がささっと項目を立てて作成してくれたので、とても助かった。
「どうしてそんなにパソコン作業が得意なの?」
不思議に思い問いかけると、映は一瞬考えるそぶりを見せてから、「あー、編集作業とかよくしてるから」とぼそっと答えた。
編集作業……? それって動画とかの……?
「え! もしやユーチューバーとか?」
「いや……そうじゃない」
歯切れの悪そうな映の言葉の続きを、じっと待ってみる。
「作曲してるんだ。ボーカロイド使って」
「え、すごい……!」
「ただの趣味だよ。なにもすごくない」映の意外な一面を知り、ドキッとする。
そう言われてみれば、いつもヘッドフォンで音楽を聴いていたのも納得がいく。そうか、映は……音楽が好きなんだな。
どんな曲を作っているのか知りたいと思ったけれど、さすがにまだ関係値が浅いのに厚かましいかなと思い、我慢した。
「じゃ、さっそくアンケート集計するか」
「よし、頑張ろう」
あんまり作曲の話をしたくないのか、会話を切り替えた映がパソコンをいじって、データを抽出しはじめた。
ここからは地味な作業が続くので、だれないように気合いがいる。
「テレビでも観ながらやる?」
「え、テレビなんか……あった」
映の突然の提案に驚いていると、映が指さした先に小型テレビが置いてあった。
埃がかぶっているので観れるかどうか怪しく感じたが、チューナーは繋がったままだ。
「リモコン発見」
映が見つけ出したリモコンでスイッチを入れると、パッと画面がついた。
「え、普通に観れるのすごい」
「地上波久々に観るな。夕方だしニュースばっかりだろうけど」
チャンネルをころころと替えると、ちょうど集団記憶喪失事件のニュースが流れてきた。
「あ」と私が声を出したので、映はそこでチャンネルを止める。
最近は大きなニュースがないせいか、いまだに今回の記憶喪失事件はトップニュース扱いだ。
画面の中で市長が真剣な顔で怒りを滲ませながら、『早急に対応していく』等と近況を語っている。
「なんか、まだ記憶を失ってはいないんですけどって感じだよね。集団記憶喪失って言い方、キャッチーなんだろうけど」
「……そうだな、言っとく」
……言っとく?
映の反応に疑問を抱いたけれど、映があまりに険しい顔でニュースを見ているので、それ以上聞くことができない。
なんだっけ。この市長の名前。たしか、久我山……久我山?ぱっと顔を上げると同時に、映が「親父」と一言言い放った。
「え、そ、そうだったの……。まさかとは思ったけど」
今テレビに出ている人の息子だという事実に、驚きを隠せない。
しかし、映の反応は微妙で、あまり嬉しくなさそうだ。
「落として欲しいから、投票すんなよ」
「いやいやいや……」
「はは、選挙違反かこれ」
映が市長の息子だということを知ってる人は同じクラスにいるのだろうか。まったくの初耳だ。
もしかして映にとっては知られたくないことで、ずっと隠していたのかも知れない。
「十年分しか消えないから、家族の存在自体は、記憶消せないんだろうな」テレビを見ながらぽつりとつぶやく彼は、本気の顔をしていた。
その寂しげな瞳には、もう誰も映らないんじゃないかと思ってしまうほど、家族に対する複雑そうな感情が入り混じって見える。
私はなにも言えなくて、ただ彼の中にある闇を想像することしかできない。
「浅羽は……この前話してくれた親友との記憶、忘れたい?」
突然話題の方向が私の過去に向いたので、分かりやすく動揺してしまった。
映はいつも、絶妙なタイミングで私に矢を向けてくる。
「ツラい記憶だろ。浅羽にとって」
そう言われて、私は喉に言葉を詰まらせた。
なにか言おうとしたけれど、空気になるだけで音にならない。
ツラい記憶と言われて、あまりしっくりこないのは、どうしてだろう。虹奈のことを思い出すと、いつも真っ先に浮かぶのは彼女の眩しい笑顔だ。
不意打ちで虹奈との記憶が再生されて、気づいたら、ぽろっと涙をこぼしていた。
「浅……」
「ごめん、ちょっと」
どうして? そんなつもりはなかったのに。
私はぐっと涙を手の甲で拭って、ガタンと席を立った。
突然の涙に、私自身もコントロールが効かない。
テレビからは、まだ集団記憶喪失事件のニュースが流れている。
『多感な時期である十代の記憶のほとんどを失うことになり、生徒たちは今どんな思いを抱えているのでしょうか――』
リポーターが私たちの高校の門前で、生徒たちを突撃取材している映像を見て、心がささくれ立っていく。
忘れたい、忘れたくない、そんな言葉で語りつくせるほど、簡単な感情ではない。
大人たちが想像するよりずっとずっと、私たちは、複雑だ。
「ごめん、軽率に聞いて」
真剣な顔で、素直に謝る映に、ふるふると首を横に振った。
「大丈夫。ちょっと昔のこと思い出しちゃって……、頭冷やしてくる。集計の続きは家でやってもいいかな?」
「……わかった」
映はそれ以上、深掘りしてこなかった。
泣き顔を見られないようにサッとデスクの上を片づけ、コートとマフラーを身に着けて、資料室をあとにした。
私は本当に、ただ向き合ってこなかっただけだ。落ち着いた人間なんかではない。
刻一刻と卒業式が近づいているのに、私は……、いつまでも虹奈から逃げている。
もうリミットが近づいているというのに。
廊下を小走りで移動し、すぐに外で頭を冷やそうとした。
「わっ」
しかし、曲がり角で誰かとぶつかってしまい、私は即座に「すみません!」と声を上げた。
「……平気」
ぶつかってしまった相手は、ずいぶん学校に来ていなかった生徒、黒木千枝だった。
『十年分の記憶が消えるって……なにもなくなるってことですか⁉』あのとき、黒木さんはほとんど叫ぶように取り乱していた。
あれから見かけなかったけれど、今日は登校していたんだ。どうしてこんな放課後まで残っていたんだろう。
初めて彼女のことをこんなに面と向かって見たけれど、猫のような釣り目に、泣きぼくろが印象的なクールな顔立ちだ。顔周りの髪がくるんと内側に向いたウルフカットがよく似合っている。
「……浅羽さん」「え、はい……」
黒木さんは、なにかもの言いたげな雰囲気で、黒い瞳をこちらに向けてくる。そんなに、怒らせてしまっただろうか……。
ふと、足元に黒いカバーケースに入ったスマホが落ちていることに気づく。
すぐにしゃがんで、黒木さんのスマホを拾い上げたけれど――私はロック画面を見て固まった。
「虹奈……?」
その画面には、ファミレスでジュースを飲む虹奈の画像が設定されていたのだ。ポニーテールに、青いリボンが特徴的な制服姿で、笑顔でカメラ側を見ている。
久々に観た虹奈の写真に、一瞬呼吸が止まりかけた。
どうして、黒木さんが虹奈の写真を……? 虹奈と知り合いなの……?ドクンドクンと、心臓が激しく脈打つ。
「……浅羽さん、知ってんの? モデルのニナ」
「え……」
「ファンなんだよね」
黒木さんの言葉に、すぐにハッとした。
そうか、虹奈は有名人だったのだから、ファンとして応援しているということもありうるのか。プライベートな写真に見えたから、勘違いしてしまった。
黒木さんの問いかけに、私はワンテンポ遅れて、気まずげにこくんとうなずく。
「知ってるというか……幼馴染で」
「え、そうなんだ。同じ市内に住んでるのは知ってたけど」
黒木さんのようなクールな人が、虹奈のファンということに、少し意外性を感じる。
彼女と話したことは本当に初めてで、同じクラスになったのも三年生になってからだったから、性格や趣味もなにも知らないけれど……。
「ずっと……お線香をあげに行ってみたいと思ってたの。住所知ってたりする?」
「え……」
会話の糸口を探しているうちに、黒木さんが少し言いづらそうな声音で切り出した。
お線香、という言葉に再びドクンと心臓が跳ねる。
現実を受け入れることが怖くて、一度しかお線香をあげに行けていない。虹奈の母親に会うことも、なぜか怖くて……。
「お願い」
もう一度力強く、懇願してくる黒木さん。
教えていいのか迷ったけれど、彼女は今、本当に真剣な顔をしている。
虹奈の突然すぎる死に、ファンの人も相当ショックを受けただろう。
「私、小さい頃春風団地に……住んでたの」
しばしの沈黙の後に、私は静かに口火を切る。
「隣の家に、虹奈がいた」
虹奈の住所をそのまま教えることに抵抗があったから、少し遠回しな伝え方をした。黒木さんは最初、なんの話をしているのかという顔をしていたけれど、会話の流れを察して「ありがとう」とつぶやく。それから、スマホの画面にいる虹奈の顔をじっと見つめた。
「……皆どうせいつか忘れる?」
苦笑交じりに、黒木さんは急にそんなことを言い放った。その瞳は暗く、世間を嘲笑っているようにも見える。
「どんなに有名になっても、いつか話題にも出なくなる?」
「え……」
「遅かれ早かれ……、死んだって生きてたって……、そうなる?」
記憶喪失になることを嘆いているのだと、理解するまで少し時間がかかった。
今回の薬のことがなくても、私は虹奈を遠ざけていくうちに、いつか自然と虹奈のことを思い出しもしなくなる未来があったのだろうか。
そう考えたら、恐ろしくて、泣きそうになった。
……違う。そんなことはない。そんなのは、空っぽな人間だ。私のこれからの人生に、虹奈との思い出は必要だ。絶対に。
『浅羽は……この前話してくれた親友との記憶、忘れたい?』さっき、映が投げかけた質問が頭の中に浮かび上がってくる。
忘れたくない。私は、虹奈と過ごした記憶全部、失いたくない。
「春風団地、行ってみる。……じゃ、うち、先生に呼び出されてるから」そう言い残して、黒木さんは廊下を去っていった。
取り残された私は、その場に棒立ちしながら、最も後悔している日のことを、思い出していた。
もし過去に戻れるなら、私は間違いなく、あの日に戻る。 ……虹奈が私の中学校まで、ひとりで会いに来てくれたあの日に。
〇
――中学三年生、夏。
その日は、立っているだけでも汗が出るくらい暑い日だった。
新居に引っ越し、中学生になった私は、虹奈と極端に関わらなくなっていた。
たまにメッセージのやりとりはするものの、会うことはなにかと理由をつけて断っていたのだ。
虹奈自身も仕事がどんどん忙しくなり、授業に出る暇もなくなって、会おうという誘いも自然に減った。
『虹奈はどうして深青とあんなに仲良いんだろ』
『深青って、虹奈と友達なこと絶対自慢に思ってそうだよね』
『分かる。釣り合ってないのにね』
『いつも超得意げな顔で横にいるもんね』
小学校卒業間際、虹奈と仲良くしたい同級生から、私はずっと陰口を言われ続けて
いた。
もし虹奈に相談したら、きっと虹奈は怒って私の味方をしてくれただろう。
でももう、私にはその気力もなくて、ただ静かに卒業したいという気持ちだけが残った。
卒業したら、虹奈の隣にいることをもう責められない。
虹奈と離れることができる――。
気づいたらそんな思考になっていて、私は逃げるように私立中学に入学したのだ。
中学生活は良くも悪くも生ぬるく、皆に溶け込めてはいるけれど、親友と呼べる人はできていない。
もしせーので二人組を作れと言われたら、私を選んでくれる人は多分いないだろう。改めて、小学生時代は虹奈のおかげで孤独ではなかったことに気づかされる。
もし虹奈が同じ中学校にいてくれたら……。そんなことを思うときも多々あった。
でもきっと虹奈は、モデル仲間や新しい中学校の友達と、うまくやっているんだろう。
虹奈が友達と仲良さそうにコラボ動画をアップしているのを観ることがツラくて、一年前にすべてのSNSを削除した。
なにも考えずに虹奈と笑っていられた頃に戻りたい。今までにいったい何度、そう思っただろうか。
でももう自分自身でも、どうしたらいいのか分からない状況だったんだ。
「あれ……?」
靴を履いて外に出た矢先、なにやら校門がざわついていることに気づく。
男女ともにちらちらとなにかに目配せをしている。
有名人が撮影でもしているのかと思ってチラッと覗いてみると、そこにはなんと、制服姿の虹奈がいた。
「虹奈……?」
茶髪ロングに、青いリボンが特徴的な白いセーラー服がすごく似合っている。少し痩せすぎのような気もするけれど、背景がかすんでしまうくらいどこからどう見ても美少女だ。
誰か恋人を待っているのかと周囲がざわつきだしたところで、虹奈がついに私を見つけて手を挙げた。
「深青! 久しぶり」
こっちに向かって手を振られた瞬間、バッと私に視線が集中した。その瞬間、カーッと急激に顔が熱くなる。
どうしていきなり……? 会えたこと自体は嬉しいはずなのに、羞恥心が勝ってしまう。
私はすぐに虹奈に駆け寄って、校門の端に寄った。
「ちょっと……、いきなり来られても困るって」
卒業間際に陰口を言われ続けたトラウマが蘇りパニックになっていた私は、「久しぶり」も言わずに虹奈のことを責めてしまった。
すぐに、自分の発言が冷たかったことに気づき反省したけれど、動悸が止まらない。
それでも虹奈は、嬉しそうな顔で「ごめんごめん」と笑っている。
好奇の視線がツラくて、心拍数がどんどん上昇していく。
『釣り合ってないのにね』
小学生時代の陰口を思い出して、今も周囲にそう思われているのかもしれないと、被害妄想が膨らんでしまう。
私とは釣り合っていない。そんな視線を向けられている気がして……。
「急に来たら目立つよ。どうしたの?」
なるべく焦りを抑えて、落ち着いた声で話すように努力する。
「ちょっと近くで用事あったから、ついでに寄ってみた」「せめて……、連絡くれたらよかったのに」
「ごめんごめん。シンプルに会いたかったから」
会いたかったという言葉を、素直に受け取れない。
虹奈の隣にいるのに、私はきっとふさわしくない――。
そうやって、周囲の目に振り回されている自分が嫌で、虹奈から離れたのに……。
ようやく気持ちが落ち着いてきたと思ったのに。
そんなことも知らずに、虹奈は無邪気に可愛い笑顔を浮かべている。
「とにかくもう、学校には来ないで。皆パニックになってるから……」
「……分かった。ごめんね」
虹奈は一瞬傷ついた顔をしたけれど、すぐに笑顔でかき消した。
その反応を見てズキッと胸が疼くけれど、これ以上優しくフォローできるほどの余裕がない。
かすかに、「ニナの友達? あれ誰?」「全然知らない、あんな子同学年にいた?」
というやりとりが聞こえてきて、消えてしまいたくなる、
「せっかく来てもらってごめんだけど私、今日塾あるからここで……」
「あ、そうなんだ。まあ……、急に来たから仕方ないね」
今この場から去るための嘘を、私は簡単についてしまった。ズキンと胸が痛む。もしかしたら虹奈は見抜いているかもしれない。
今まで虹奈に嘘をついたことなんてなかったから、自ら今までの友情を壊していることに、大きな罪悪感を抱く。
――ごめん、虹奈。私が弱いせいで、隣にいられなくてごめん。
虹奈が変わらず私を友達だと思ってくれていることは分かっているのに、自分が情けない。
堂々としていればいいのに、どうしてできないんだろう。
人の目ばっかり、どうして気にしてしまうんだろう。
自分らしく輝いている虹奈を見るたびに、自分はなんてつまらない人間なんだろうと思う。
こんな自分、虹奈に見透かされたら本当に嫌われてしまう。
『やっぱり深青といると落ち着くなー』
あんな笑顔を向けられる資格は、もう私にはない。
見ないで。これ以上、今の私を見ないで……。
「ねぇ、深青」
逃げるように去ろうとした私を、虹奈が呼び止めた。
重みのある声だったので、私もピタッと止まって、虹奈のことをちゃんと見つめる。
どうしてか虹奈は、少し切なそうな……壊れてしまいそうな顔をしている。
「大人になっても、私のこと忘れないでいてくれる?」え……?
思いもよらぬ質問をされて、私はその場に固まった。
なんでそんな、もう二度と会えないかのような発言をするの。
「なに、言ってるの……?」
「ううん、ごめん。また今度ね」
それだけ言って、虹奈は笑顔で手を振り、小走りで去っていった。
私服姿の女の子と一緒に来ていたようで、虹奈はその子と一緒に、駅と反対方向に消えていく。
「虹奈……?」
どうして虹奈はあんな発言をしたのか。
あんなにキラキラした毎日を送っているのに、どうしてそんなに消えてしまいそうだったのか。
もしかして私は、虹奈のほんの一部ですら、分かっていないのだろうか。
なにも答えられなかった自分が情けなくて、しばらくその場から動けなかった。
距離を置きたいと思っていたくせに、いざ虹奈から別れのような言葉をかけられると、こんなにも簡単に絶望してしまうなんて。
『大人になっても、私のこと忘れないでいてくれる?』虹奈の声と表情が、脳に焼き付いて離れない。
もう虹奈はここにいないのに、何度も何度も、問いかけてくる。
そして、この日の虹奈が、私が最後に見た虹奈の姿になってしまったのだった。
〇
黒木さんと別れた後、私は昇降口で靴を持ったまま、動けないでいた。
虹奈の最後の後ろ姿が現実世界ともリンクして、今遠くに見える校門に、虹奈の幻が浮かんでくる。
「虹奈……」
すのこの上で外の景色をぼんやりと見つめながら、名前を呼んだ。もちろん返事はなく、虹奈という名前はただ空気に溶け込むだけ。
そのしんと静まり返った様子に、これが現実なのだと思い知らされる。
虹奈の存在ごと記憶が消されることになったと知ったら、虹奈はどう思うのだろう。
きっと許さないだろう。虹奈を傷つけたことを全部忘れて、私が普通の顔をして生きていくなんて。
「許さないで……」
とめどない罪悪感に襲われて、私はとうとうその場に座りこんだ。
首に急いで巻いていた、紺のマフラーが下に落ちた。でももうそんなことはどうでもよかった。
許さないで、虹奈。一瞬でも、忘れたほうが楽になれるかもと思った私ごと、どうか許さないで。
無個性な自分を嫌悪する理由を、あなたの存在のせいにしていた私を、決して忘れてはならない。
あなたが勇気を出して会いに来てくれたあの日、あなたの手をとって一緒に帰るべきは私だった。
なにも掴まずに空ぶった右手を、爪痕がつくほど強く握ったまま、私はいまだに虹
奈の残像を探している。
「……深青」
暗闇のどん底で、小さな光が灯るように、私を呼ぶ声が降ってきた。
深青、と呼ばれたので、一瞬虹奈の声に聞こえてしまい、私は勢いよく顔を上げる。
すると……、そこには、私を心配した様子の映がいた。
「え……」
「まだいると思った」
彼は黙って私の横にしゃがみこむと、肩が触れそうな距離まで近づく。
私は今、いったいどんな顔をしているだろう。
映が隣にいることに動揺しているのに、今誰かがそばにいてくれてよかったとも思っている。
「どうして……?」
主語もなにも言わずに、震えた声で問いかけた。
すると、映は少し遠くを見てから、ゆっくりと口を開く。
「さっき、踏み込みすぎたなって思って」
「いや、こっちこそ急に泣いたりしてごめん」気を遣わせてしまったのだと分かりすぐに謝ると、映はふるふると首を横に振った。
「あのさ、突然なんの話って思うと思うんだけど」
「うん……」
「俺さ、他人を理解したいとか知りたいとかって、すごい傲慢な話だなって常々思ってて……」
下に落ちていたマフラーを、映がいつの間にか拾ってくれていたようで、話しながら私の首にまわしかけてくれた。
映はマフラーの端を持ったまま、薄茶色の綺麗な瞳をこっちに向けて、じっと私のことを見つめている。
「人には人の地獄があるし、知ったところでなにもできないし」
「……うん、そうだね」
それはすごく分かる。虹奈のすべてをもし知れたとしても、私にいったいなにができるだろうと思うから。
でも、なにもできなかったと分かっていても、私はあの日のことを激しく後悔している。
どうして映は、今そんな話をしてくれるんだろう。
「そう思って、人間関係諦めてるところがあって……」
「うん」
「でも、浅羽のこと、全部知らなくてもいいから、今そばにいたいと思った」
「え……」
「だから来た。答えになってる?」
映は私の顔を覗き込むようにして、そう問いかけてきた。
そこまで聞いてようやく、映が私の『どうして……?』に対する答えを必死に言葉にしてくれていたのだと分かった。
全部知らなくてもいいから……そばにいたい。
そうか。私は、ずっとそのことを悔やんでいたんだ。
虹奈のことを少しも知らなかったことがショックだったのではない。あの時そばにいなかったこと自体を、ずっとずっと後悔していたのだ。
熱いものが、再び頬を流れ落ちていく。
映の言葉が、ずっと凍てついていた私の心を、温かく包み込んでいく。
「ありがとう……」
今そばにいてくれて、と、心の中で付け足す。不思議だ。映と会話をしたことなんて、ここ二週間の話なのに。
どうして彼に涙を見られても、恥ずかしいとは思わないのだろう。
映もまた、同じような苦しみを抱えていそうだから? どうせ忘れることだから?何度自問しても、答えは出そうにない。
「……俺も」
かなり間を空けてから、映が静かにそう答えた。
なにに対して同調してくれているのか分からないまま、私は必死に泣くのを堪える。
けれど、映があまりに優しい目で私のことを見るので、涙が溢れ出てしまった。
あなたの地獄は、なんだろう。
あなたの孤独は、なんだろう。
その半月型の瞳を見て、ひとり想像する。
虹奈と同じように映を大切だと思うほど、私は彼の奥の奥にある闇に寄り添いたくなり、勝手に胸が苦しくなるのだ。
『許さないで……』
そうつぶやいて、ひとり昇降口で背中を震わせている浅羽を見て、胸が震えた。
まるで、自分のことを見ているようで。
その孤独の世界からなんとか連れ戻したくて、とっさに「深青」と、名前で呼んだ。勢いよく顔を上げた浅羽は、今にも壊れそうな顔をしていた。
苦しくて、思わず抱きしめたくなったけれど、拾い上げたマフラーになんとか気持ちを分散する。
『ありがとう……』
そんなこと、俺なんかに言わなくていい。
俺が浅羽からもらったもののほうが、はるかに大きいから。
でもそれを説明するには語彙が足りなくて、『俺も』とだけ一言返した。
それから、浅羽の未来が、どうか少しでもこの先優しく明るくなるようにと、心から願ったのだ。
「映、ちょっと話そう」
記憶を失うまで残り一週間にせまったところで、 登校してすぐに隣のクラスの陽太に呼ばれた。
なにを聞かれるのか、俺はすぐに察していた。
学校で話すことはほとんどなかったが、近所に住んでいるということもあって、家の近くで会うとよく話すような仲だ。
親が大地主で、俺と同じく地元から出られない運命の人間だと思って同情していたけれど、陽太はすんなりとそれを受け入れている。
それどころか、地元に残ることを自ら望んでいるのだと知り、勝手に仲間だと決め
つけたことを恥じた。そのことを、この前バカ真面目に打ち明けて謝ったばかりだ。
それ以来陽太は、より俺のことを気にかけてくれるようになった。
無理もない。三年前に、あんなに悲惨な現場を見られているのだから。
「昨日、母さんが病院で奈緒子さんに会ったって言ってた。すごく青ざめてて、暗い顔してたって聞いたけど……なにかあった?」
「貧血起こして、薬もらいに行ったんだ」
「そうか、早く治るといいな」
「……だな」
「……大丈夫か」
深く探ってはこない陽太の肩を、俺はポンと叩く。大丈夫だという意味を込めて。
陽太はいいやつだ。サッカー部の部長として頼られていて、しっかりしていて、人望がある。周りに気を使いすぎて消耗していないか不安になるほど。
陽太は俺の親父の本当の性格も知っていて、家庭崩壊しかけていることまで理解している。
「東京でひとり暮らしするんだろ。この前憲文さんが親父の見舞いに来た時に、そう話してた」
「ああ、急に決まった」
陽太の父親は体を悪くして倒れてしまい、長期入院している。
自分はおじさんによくしてもらっていたから純粋に心配な気持ちでお見舞いに行ったけれど、俺の父親がお見舞いに行っているのは、陽太の父親は人格者で、同地区の農家の票を握っていると思っているからだ。
「よかった……んだよな?」家を出ていけることに対して、陽太が俺の気持ちを確認するように目で訴えてくる。
俺は「ああ」と低い声で返してから、目を細めた。
「……まあ、まだ母親がどう出るか分かんねぇけど」
「映は十分頑張ったよ。もう自分のことだけ考えていいだろ。身も蓋もない言い方するけど、三年前の記憶も無くなるんだから」
三年前の事故だけではなく、その後母親に依存されて泣きつかれている様子を、何度か陽太に見られてしまったことがある。
その時の俺の顔は、陽太曰く、ゾンビのような顔だったという。
「なあ映。あえて言うけど、お前の家は異常だ」ぴしゃりと言い放たれて、思わず苦笑が漏れる。
本当に、その通りだと思ったから。
「異常な場所から離れるのは、逃げるとかじゃないぞ。正当防衛だ」
「……ああ」
「罪悪感とか抱くなよ。またあとで話そう」
それだけ言って、陽太は自分の教室に戻って行った。
いつも正しく、まっすぐで、頼りがいのある陽太は、眩しい存在だ。
陽太の言うことが正しいことは、分かっている。でもなにかが俺の足を止める。その正体は、言葉で誰かの心を限界値にさせてしまったという罪悪感だ。
自分が楽になることを選択できない。多分俺は、もうすでに母親にそう洗脳されている。
こういう時、俺はいつも音楽の世界に逃げる。
自分の席に戻った俺は、ヘッドフォンをつけて、ボリュームを最大にして、目を閉じる。
そうすると、無駄なことを考える隙間がなくなっていく気がするのだ。
ふと、懐かしい曲がプレイリストから流れてきた。
その曲は三年前に、模試の帰りに初めて深青と出会った時に聴いた曲だった。
「深青、おはよー」
冴島の声で、浅羽が登校してきたことに気づく。
浅羽の笑顔を見ながら、俺はお守りのような記憶を思い出していた。
俺が、人生でたったひとつ、忘れたくないと思う記憶のことを。
◯
――中学三年生、夏。
母親は転落事故を起こしたあの日から心を崩してしまい、事故から約三か月経った今も、薬がないと寝られなくなってしまった。
それなのに家族の態度は変わらず、どう見たって俺がケアをするしかなかった。目を離したら自殺をしてしまうのではないかと、怖くて。
なにより自分の発言がきっかけでこうさせてしまったのだから、責任を取らなければと思っていた。
そして、今日は進路を変更してから初めての模試だ。
俺は、いくつかのバス停が環状になっている大きなバスロータリーに並んでいた。
第一志望にしたのは、幼馴染の陽太も通っている、家から近い場所にある中高一貫の私立高校だ。
「えーこれ乗れるんかなー」
自分と同じ三番停留所の前方に並んでいる見知らぬ男子生徒が、不満げにこぼす。
模試会場までのバスは、到着した段階ですでに前の停留所で乗った学生であふれかえっており、満員に見えた。
それでも、生徒たちはステップに足を載せて無理やり乗り込んでいる。見ているだけで息苦しくなってきた。
「お客さんすみません。次のバスでお願いできますか」
「あ、はい」
運転手さんにお願いされ、俺はゆっくりとうなずいた。
そして、無情にも閉まるドアを眺めながら、真っ青なベンチに座る。
俺の後ろにはひとり女子生徒がいて、その子も仕方なさそうにベンチに座った。
横目で見て分かったのは、髪の毛が肩の長さまであることと、紺色のブレザーを着ていることだけ。
どう見ても同じ模試会場を目指しているので、少し気まずい。けれど、ここで話しかけるようなコミュニケーション能力は俺にはない。
今日は見事な晴天で、春の澄み渡った空気が気持ちいい。
ベンチに座ってぼうっと空を眺めていたら、頭の中になんとなく曲が浮かんできた。
けれど、そんなことは意味がないとすぐにメロディーを脳内でかき消していく。
作曲家になることなんて、自分にとっては遠い夢の話だ。
どうせ俺には、長男の優と同じように未来が決められている。でも、ようやくひとりになった今くらい、音楽を楽しんだ方がいいかもしれない。
そう思った俺は、リュックからヘッドフォンを取り出して、そっと頭に装着する。
目を閉じて音楽の世界に浸ること数分、とんとんと肩を叩かれる感触があった。
「あの……」
肩を叩いてきたのは、うしろに並んでいる女子生徒だ。
彼女が不安げな瞳をこっちに向けてなにかを伝えようとしているので、ヘッドフォンを外して首にかける。
なんだ……? 音漏れしてたか? もしそうだとしたら申し訳なく思う。
「たぶん、接続外れてますよ」
「え……」
すぐに確認すると、たしかにワイヤレス接続が外れていた。音漏れどころの話ではない。スマホを操作し早急に曲を停止して、俺はぺこっと頭を下げた。
「すみません」
「いえ……」
恥ずかしい、という感情でいっぱいになり、どうにか平静を装おうとスマホをいじるふりをする。
自分が作った曲だと思われるわけがないけれど、心臓がバクバクと跳ねている。
今までネットにひっそりアップロードするだけで、目の前で誰かに聞いてもらったことなど一度もないから。
彼女は何事もなかったかのようにふるまってくれて、再び沈黙が流れる。
ちょうどそのタイミングで、バスが遅延している情報が電光掲示板に流れていることに気づいた。
「あ……」
自分の声と、女子生徒の声が重なる。
今同じことを思っていることが、空気から伝わってくる。
「これ……、次のバスでも間に合いますかね?」目が合うと、彼女は恐る恐る尋ねてきた。
俺は「多分、別室で受けられるはずだから大丈夫」と極力落ち着いた声で返した。
俺の返事を受けて、彼女は分かりやすくほっとしたような笑みを浮かべる。
そのとき、胸に見覚えのある校章がついていることに気づいた。
受けようとしている学校の生徒だ。心の中で静かに驚く。
中高一貫なのに模試をちゃんと受けに来るなんて、真面目なんだなと思った。「あの……、こんなお願い失礼かもなんですが」
感心していると、女子生徒がまた不安そうな顔で声をかけてきた。
「さっきの曲、また流してくれませんか」
思わぬ要望に、「え?」とまぬけな声が口の端から漏れ出てしまう。
さっきの曲って……、俺が作った曲のことだろうか。
「なんかすごく、落ち着いたんです。本当はさっき、このまま言わずに聴いているのもいいなって思ってたんですけど、バスに乗っても気づかなかったらかわいそうかなと思って」
「いや……」
「もう一度聞いて、今落ち着きたいなって……私、心配性で……」語尾に向かうほど声が小さくなっていく。
その様子を見て、彼女も俺と同じように人見知りなのだと察した。
それでも勇気を出して伝えてくれるほど、自分の曲を気に入ってくれたのだろうか。
……嬉しい。素直にそんな感情が広がっていく。
「いいけど」
ぼそっとつぶやいて、俺はスマホから曲を流す。
「ヘッドフォン使う?」
続けてそう提案すると、彼女は「え、ありがとうございます」と驚いたようにお礼を言って、控えめに受け取った。それから、ヘッドフォンを頭に装着して、黙って曲を聴きはじめた。
たった二分の曲だけど、待っている間心臓が飛び出そうなほどどきまぎした。
しかし、曲を聞き終えた彼女が、開口一番に「やっぱりいい曲」と笑顔で言ってくれたので、不安は一気に吹き飛んだ。
「ノンタイトル……って曲名?」
ヘッドフォンを外した彼女は、俺のスマホの再生画面を見てすぐに不思議そうに顔を顰める。
言うかどうか一瞬考えたけれど、上手い言い訳も思いつかないので正直に話すことにした。
「いや、自分で編集したから……仮の曲名」
「え? 自分で作ったの……?」
本当に驚いたというように、彼女は目を丸くしている。
なんだか自分のポエムを読まれたかのように気恥ずかしくて、目を伏せる。「どこかに投稿とかしてるの?」
「まあ、一応……」
「そうなんだ。そういう人、初めて会った……」
興味津々な顔で見てくるので、俺はそっと投稿画面を表示して見せた。
同じ高校になる可能性が高いけれど、S高校はマンモス校だし、三年間同じクラスにならない可能性のほうが高い。
一度きりの出会いだと思ったら、見せてもいいと思えた。別に、名前を教えあうわけでもないし。
「……海外の人からもコメントあるね」
「まあ、歌詞ないし、説明を英語でも書いてるから」
「結構投稿数ある」
騒ぐわけでもなく、静かに画面を見つめる彼女。
「まあ、素人がつくったやつだから……」
「すごいなあ」
流そうとした俺の言葉を遮るように、彼女はぽつりとつぶやいた。
「私の友達にも、こうやって動画投稿している子がいるんだけど、自分を発信するっ
て……きっと勇気がいるよね」
彼女はなぜか少し切なげな表情で、そんなことを語りだす。
その友達と、俺のことをどこか重ねて見ているのだろうか。
「普通の中学生は、知らない誰かに伝えたいことなんて、ないはずだから……」
「いや、そんな大それたものじゃ……」
「でも、誰かに届いてる」
そう言い切って、彼女は初めてほんの少し笑顔を見せてくれた。
その表情を見て、俺は一瞬言葉を失う。
「すごいなあ、こうやって、世界と繋がれるんだ」
俺が作った曲を聴き流しながら、彼女はしみじみそうつぶやいた。
その言葉が、どうしてか胸の真ん中に突き刺さってしまった。やばい。泣けてくる。どうして? 自分でも分からない。
彼女は、まるで宝物でも見つけたみたいに嬉しそうにしている。
その姿を見て、唐突に目頭が熱くなってきてしまった。
ばれないようにうつむいて、親指でそっと拭い去る。
――世界と繋がれてる。
俺が? 本当に? そんなこと、できるのか?
もう勝手に自分の人生は決まっていると思っていたけれど、俺の未来にもまだ可能性はあるのだろうか。
そう信じてみても、いいのだろうか。
家族の呪縛から解き放たれて、外の世界に出られる日が来ると、信じても。
真っ暗な道に急に光が差し込んだかのような気持ちになった。
今出会ったばかりの、彼女の一言で。
「あ、バスもうすぐつくみたい」
パッと顔をあげて、彼女は電光掲示板を安心したように指さす。
俺は「ほんとだ」と返すも、心ここにあらずだった。
自分の未来がまだ確定してなどいないことに気づいて、死ぬほど安心したんだ。
「乗ろ」
「……ああ」
バス、まだ来るな。もう少し話したい。……また会いたい。
そう思ったのに、名前も学年も聞き出す勇気はない。
ようやくバスが到着し中に乗り込むと、知り合いの生徒がすでに先に乗っていたよ
うで、彼女は最後列の座席に向かって手を振っていた。
「じゃあ試験、お互い頑張りましょう」
それだけ小声で言い残して、彼女は同じ中学らしい女子生徒の隣に座る。
合流している様子を、バスのドア付近から眺めることしかできない。
「深青! 間に合ってよかったね」
ミオ。その名前は、模試を受けている間もずっと、鈴の音のように鳴り響いていた。
それはまるで、未来が開いていく音のように、聞こえたんだ。
◯
記憶が無くなるまで、残り一週間を過ぎた。
俺は相変わらず浅羽との出会いを本人に明かせぬまま、時間を無駄に過ごしていた。
「久我山君。あの、ちょっといい……?」
「え、俺?」
「うん、久我山君」
帰りがけ、ちょうど校門から出ようとしたところで、急に名前も知らない女子生徒に話しかけられた。
今日はアルバム作業は、浅羽が図書館に用事があるというので休みになっている。
最近は駅まで浅羽と一緒に帰る日が続いていたので、久々にひとりで校舎を出ようとしたところだった。
小柄なショートボブヘアのその生徒は、「ちょっと、こっち」と小声で言いながら、人通りが少ない校舎裏まで移動していく。
わけも分からずついていくと、彼女はふぅとひとつ深呼吸をしてから、じっと俺の目を見つめてきた。
「突然ごめん。あの……、私隣のクラスなんだけど、伝えたいことあって」
「……うん」
「久我山君のこと……、ずっと好きでした」
彼女はそこまで言い切ると、恥ずかしそうに目を伏せた。
……このタイミングで?
伝える意味はあったのだろうかと、冷たい俺は真っ先に疑問に思ってしまった。
「……ありがとう」
色んな言葉を考えた末に、ひとことだけ返すと、彼女は全てを察した顔をしてぺ
こっと頭を下げた。
それから、「聞いてくれてありがとう」とだけ言い残して足早に去っていった。
記憶がなくなるのに告白するなんて……と思うが、なくなるからこそ伝えておきたいということなんだろうか。
俺だったら……、大切な人に、なにを一番望むだろう。
なにかを伝えることじゃなくて、ただ一緒にいたいと、そう願うのかもしれない。
その場に立ち尽くし考えこんでいると、背後でくしゅんというくしゃみの音がした。
「あれ、浅羽だ」
「ご、ごめん。盗み聞いてたわけじゃないんだけど、出るタイミング逃して……」そこには、心から気まずそうにして鼻を押さえている浅羽がいた。 そういえばここは、図書館の裏側だった。
「聞いてた?」
「うん……」
問いかけると、さらに気まずそうな顔をする。
俺はとくにそれ以上深掘りせず、「帰るところなら一緒に帰ろう」と提案した。
どうやら、溜めていた本を図書館に返した帰りに、この裏庭からショートカットして校門に出ようとしていたところらしい。
「……告白する人、増えてるみたいだね。気持ちを忘れる前にって」
校門に一緒に向かう間、浅羽はさっきのことを補足するように、最近の生徒の様子を教えてくれた。
「そうなんだ。あんなに皆メンタルやられてたのに、意外と切り替え早いな」
「どんな感想なのそれ……」
発言が冷たすぎたのか、明らかに引いている浅羽を見て、やばいと思い少し焦る。
浅羽にだけは、極力変な人間だと思われたくない。
「……いや、間違った。そうじゃない」
「うん……?」
「あのさ……、冷たい時あったら教えて。俺、人間としての反応、しょっちゅう間違えるからさ」
「ふ……、なにそれ」
素直に反省すると、浅羽は眉を下げて吹き出すように笑った。その笑顔を見て、思い切り胸が揺さぶられる。
あのバス停で初めて出会った時の笑顔を、思い出したから。
さっき告白してくれた女子の気持ちが、今少しわかってしまったかもしれない。
そばで見守れたらそれだけでいいと思っていても、うっかり思いがあふれだしてしまいそうになる瞬間がある。
「なんか、映って面白いよね。意外と話しやすいし」
「それ、二つとも人生で初めて言われたわ」「面白いよ。もっと存在早く知りたかった」浅羽の言葉に、俺はぴたりと足を止めた。
絶対にあの日のことを話しても、浅羽は覚えていないに決まっている。 だけど今、伝えたくなってしまった。
「俺は知ってたよ」
「え?」
「浅羽のこと。知ってた」
真剣な顔で言うと、浅羽は予想通りぽかんとした顔をしている。
それから、「そうなんだ」と小さくつぶやいて、どうやって会話を繋げようか必死に考える顔をした。
俺は今この瞬間まで、自分のことを欲が薄い人間だと思っていたけれど、それなりに欲があることに気づいた。
「あのさ、深青って呼んでいい?」
まったく脈絡のない要望に、浅羽は再び目をぱちくりとさせる。
「うん……いいけど、突然どうしたの?」
「ずっと呼んでみたかったから」
ストレートにそう答えると、浅羽は……深青は、ますます返答に困った顔をした。変な人間だと思われているだろう。でももう、どうでもよかった。
記憶が消える前に伝えたいという気持ちを、今完全に理解してしまった。あっさり考えが変わってしまった自分を、心の中で嘲笑する。
もう見ているだけでいいと思っていたけど、近づくほど欲が湧いてくる。
はからずも、記憶障害事件が背中を押してくれる形となってしまった。
「卒業アルバムの作業、もうすぐ終われそうだな」
「ああ、うん……そうだね!」
「なんとかなりそうでよかったな」
反応に困っている深青に助け舟を出すように話を続けた。
話題が変わったことに対して、深青は心からホッとしている様子だ。
そりゃそうだ。ずっと名前を呼んでみたかったなんて、急に関係値の浅いクラスメイトに言われたら、誰だってホラーだ。
そんなことをぐるぐる考えながら、校門から足を踏み出した。
「あのさ、映……」
「深青ちゃん」
そのときだった。
深青がなにか言いかけたところで、前方の誰かが低い声で深青を呼び止めたのだ。
他校の制服を着た、髪を低い位置でひとつ縛りにした女子生徒が、深青の前に突然立ちはだかった。
「虹乃ちゃん……」
突如現れた彼女の名前を呼ぶ深青の声は、凍えたように震えていた。
一瞬、虹奈が目の前に現れたように見えて、心臓が止まりかけた。
だから、虹奈の妹である虹乃ちゃんだと気づくのに、数秒かかってしまった。
虹乃ちゃんは、目の奥に憎悪の炎を燃え上がらせながら、私を見ている。
「久しぶりだね。元気だった?」
「うん……」
「記憶無くなるって本当?」
間髪入れずにそう聞かれ、虹乃ちゃんがどうして私に会いに来てくれたのか一気に想像できた。
虹乃ちゃんは、ずっと会うことが怖かった人だ。この世で今一番、どんな顔で会ったらいいのか分からなかったから。
『ねぇ深青ちゃん、中学生になってもお姉ちゃんと仲良くしてくれる?』あのときの、腹を探るような表情を今でも鮮明に思い出す。
私が心の中で虹奈をどう思っていたのか、すべて見透かされているようだった。
虹乃ちゃんが次に放つ言葉が、すでに怒りを含んだ目に書かれている。
「お姉ちゃんのこと、忘れるの?」
予想した通りの鋭い質問に、体の中心を貫かれたような感覚に陥った。
つい足元をふらつかせると、隣にいた映が心配そうな顔で目配せした。
映には先に帰ってもらったほうがいいと分かっているのに、言葉が出ない。心臓がバクバクと暴れて、頭が働かなくなっていく。
周りの生徒も異常に気付いてざわつき始めている。
「強制的に忘れることになって、罪悪感から逃げられるって思った?」
容赦なく続けられた言葉に、私は激しく動揺してしまい目を泳がせる。
「否定、しないんだ……」
虹乃ちゃんの声が絶望に満ちていく。
明らかな挑発に対して、まさか私がなにも言い返してこないとは、思っていなかったのかもしれない。
ただ苦しげな顔で突っ立っているだけの私を見て、虹乃ちゃんはふつふつと怒りを煮えたぎらせていった。
「深青ちゃんも、お姉ちゃんを傷つけたネット上の人たちと同じだから」「……ごめんなさい」
ただ謝ることしかできない。
SNSを削除していたせいで、虹奈があのとき炎上していたことにすら、気づけていなかったのだから。
「私の顔見るとお姉ちゃん思い出すから、目合わせるのも辛い?」
詰め寄ってきたところで、隣にいた映が「おい……」と小さく声を出して、私たちの間に入って盾になろうとした。
でも私はすぐにそれを制して、「大丈夫」と目で返す。
私は今、虹乃ちゃんの言葉をすべて受け止めるべきだ。
「……忘れないから。深青ちゃんの記憶が無くなったって、私は忘れないから」
「虹乃ちゃん……」
「お姉ちゃんが会いに行ったとき拒否したこと、ツラいときそばにいてくれなかったこと、絶対忘れてやらないんだから!」
ほとんど叫ぶような声でそう言い捨てたところで、騒ぎを嗅ぎつけた教師がこっちに近づいてきた。
それに気づいた虹乃ちゃんは、最後に私をひと睨みしてから、無言で足早に去って
いった。
「深青……」
映が心配そうに私の名前を呼ぶ。
どうしよう。ここから一歩も動けない。
虹奈だけでなく、私は虹奈を大切に思っている人たちのことまで傷つけたのだ。
その事実が重たくのしかかり、どんどん肺を押しつぶしていく。
呼吸が乱れそうになったところで、ぐいっと腕を引っ張られた。
「歩けるか」
映の真剣な顔を見ながら、ただこくんと頷いた。
映は、青白い顔をして動かない私を、虹乃ちゃんが走っていった先とは反対方向に、無理やり引っ張っていく。私はなんとか振り絞った力を足に移動させて引きずるように歩いた。
好奇の視線から離れるように校舎を後にすると、学校の近くにある小さな公園にたどり着いた。
幸い人は誰もおらず、私たちは大きな木の下にある茶色いベンチに腰掛けた。「大丈夫?」
「ごめん、私、迷惑かけて……」
映の心配した言葉を遮るように、すぐさま謝罪した。
ずっと頭の中がぐわんぐわんと揺れていて、ここが現実なのか分からなくなっている。
もし映がフォローしてくれなかったら、私は校門で倒れていたかもしれない。
でも、その代わり、すべて映に聞かれてしまった。私がずっと逃げていた過去のことを、すべて。
なにを聞かれるだろう。どう思っただろう。映の感情を勝手に想像して、ぐっと唇をかみしめる。
「……なあ、先に俺の話していい?」
「え?」
過去のことを掘り下げられると思いきや、映は突拍子もないことを言ってのけた。
私はゆっくり顔を上げて、映とまっすぐに目を合わせる。その穏やかな表情を見て、膝の上に置いた手の力が、少しずつ緩んでいった。
「俺、母親に後遺症が残るくらいの怪我をさせた過去があるんだ。中三のときに」
「え……」
「それからずっと、時が止まったようで、自分の未来を捨ててでも一生償わなければならない気持ちでいる。……今もだ」
なんて、言葉を返したらいいのか、分からない。
映は壮絶な過去を淡々と語り、私の顔をまっすぐ見つめている。
忘れたい過去ばかりだと言っていたのは、そのため?
私と同じように、ずっと罪の意識に囚われていたから……?
「私、は……」
「いい。そんな辛いこと、話さなくていい。俺は勝手に話しただけだ」優しく私の言葉を制する映に、涙が溢れそうになる。
少し冷たい風が吹いて、私たちの真上にある木々を揺らした。見つめあっている間、葉が重なり合うさわさわという音だけが、鼓膜を震わせている。
どうして映は、今そんな過去を私に打ち明けてくれたのだろうか。
私と映の状況は、全く違う。
でも……、私たちにはそれぞれ、決して忘れてはならない過去がある。
――全て忘れて、悲しいことをリセットしたら、別の人生を歩めるのか?本当に、別人にはなれるのかもしれない。でもそれを繰り返したら、私の人生に最後なにが残るだろう。
大切な人を傷つけたことも、大切な人と過ごした日々も、すっかり忘れてこの先を生きていく私に、いったいなにが残るというのか。
「私、虹奈といるときだけはっ……、うまく呼吸ができたの……」なにも考えずに、涙と一緒に言葉が溢れでる。
なんの説明もなしにこんなことを吐露しても、映には伝わらないだろう。それでも、言葉は止まらない。
「でも、もういない……二度と会えない……」
いつも私の味方でいてくれた虹奈は、もう世界のどこにもいない。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
どうして突き放してしまったんだろう。
最後の会話があれになるなんて、思ってもみなかった。
『大人になっても、私のこと忘れないでいてくれる?』
どうして私に会いに来てくれたのか。どうしてあんな質問をしたのか。
あのとき、虹奈は私を必要としてくれた。それなのにそばにいられなかった。
虹奈の訃報を知ったとき、私は真っ先に、虹奈が一番苦しかった日を見逃したのだと悟った。
あのときほど、死にたくなったことはない。
悔しくて悔しくて、血が出るほど唇をかみしめて泣いた。
虹奈が自殺をしたわけではないことは分かっている。
でも、間違いなくあの日、虹奈は私にSOSを出していたはずだ。
『深青の家はやっぱり落ち着くなー』
私の部屋で、長い手足を投げ出してくつろぐ虹奈とは、もう一生会えない。
嫌だ。忘れるなんて絶対に嫌だ。
虹奈と過ごした全部が、今の私を作っているというのに。
「虹奈……虹奈、ごめん……っ」
虹奈の名前を呼びながら、カタカタと震えた指でスマホを操作する。
ずっと怖くて、二度と見返すことなどないと思っていた虹奈とのトーク画面を開く。
そこには、私が三年前に送ったメッセージが未読で残っていた。【一昨日はごめんね。仲直りがしたいです。今日、会いに行っていい?】
ずっとスマホを握りしめて返信が来るのを待っていたあの夜。心臓がおかしくなってしまいそうだった。
虹奈が怒っているのだと勘違いしていた頃の私は、まだ平和ボケしていた。
人生が幕を閉じる瞬間は、誰にでもあっけなく訪れる。
既読マークが永遠につくことがないトーク画面を見て、私は堪えきれずに嗚咽を漏らした。
「忘れたくないっ……、虹奈との全部。なにもかも、忘れたくないっ……」やっと逃げていた罪悪感と向き合えた。
涙がとめどなく溢れ出てくる。
薬の混入を告げられたあの日。私はただ、防衛本能でなにも考えないようにしていただけだ。あのときすぐに泣くことができた生徒たちの方が、よっぽど大人だ。
「虹奈を忘れることは、自分を失うのと一緒だ……っ」
「……深青」
今までずっと黙って聞いてくれていた映が、そっと私の背中をさすった。
こんなに自分のことを誰かに曝け出してしまったのは初めてだ。
大きな手から伝わる体温に、少しずつ体の緊張がほぐれていく。
「たとえ全部忘れても、深青の中にはきっとなにか残る。その子からもらったものが」映は、諭すわけでもなく、語るわけでもなく、ただ思ったことを言葉にしている感じがした。
私は流れる涙を放置しながら、映の優しい声に耳を傾ける。
「人生が変わるほど大切な人との記憶なら、骨となって血となって、残るはずだ」骨、血、という言葉を聞いて、私は思わず自分の両腕をぎゅっと掴んだ。本当に……?
全部忘れ去ったとしても、虹奈からもらったものは、この体に残る……?そう信じたい。自分の一部に、虹奈が残っているかもしれないと。
「大丈夫。そう信じよう」
そう言って、映は私のことをそっと壊れものみたいに優しく抱きしめた。きっと、自分自身にも言い聞かせているんだろう。映の腕は震えている。
思ったよりも広い映の背中に腕を回して、私はそっと目を閉じた。
今の自分を作っているのは、他者と出会ったことすべてだ。忘れたら、全部洗い流されてしまう気がしていたけれど、そうじゃないと思いたい。
……そう信じても、いいだろうか。
「ずっと怖くて、向き合えてなかった。でも、もう前に進まなきゃ……」
「うん」
「罪悪感ごと抱えて、自分の人生に向き合っていきたい……っ」
映の胸に顔を埋めながらつぶやくと、映は私を抱きしめる力を強めて、「俺も」と少し震えた声で返した。
どんな後悔があったとしても、私は生きなければならない。それが私の使命だ。
たとえ人生の節々で自己嫌悪に飲み込まれそうになったとしても、虹奈からもらったものを体の一部にして、這いつくばってでも前に進みたい。
奥歯の隙間からようやく絞りでてきた三年分の決意を、世界でたったひとり、映だけが聞いてくれた。
〇
次の日の休日。私は、虹奈のお墓の前に来ていた。
住宅街を抜けた、小高い丘にある広い霊園だ。
死を目の前にすることが怖くて、ここには一度しか来られていなかった。
虹奈が好きだった色の、紫色のお花をたむけて、そっと手を合わせる。目を閉じると、瞼の裏に虹奈との思い出が溢れてくる。
虹奈。間違いなくあなたは、私にとって世界一魅力的な女の子だった。
もうあなたのような人には、二度と会えないんだろう。
「虹奈……そこにいる?」
熱い涙が溢れでてくる。冷たい風が髪を揺らす。
でも今日は、とことん謝って、とことん泣こうと思ってやって来たのだ。
「ごめんね虹奈、ごめん、ごめんなさい……っ」 消えることのない罪悪感。
虹奈を失った日から、一日たりとも虹奈のことを思い出さない日はなかった。でももう二週間後には、それすらできなくなってしまう。
すべて忘れてしまうのなら、この情けない私の姿をあなたに全部曝けだしたい。
「虹奈、会いたい。会いたいよっ……」
もう想像することでしか、あなたに出会えない。
その現実が、ただただ悲しい。
自分らしく生きるということを、もしかしたら虹奈は実現できていなかったのかもしれない。
でも私は、虹奈と一緒に部屋に転がっているときが、一番自分らしかったと思う。そして、虹奈もそうであったのだと願いたい。
虹奈からもらったものを言葉にするなら、それはあなたと過ごした時間のすべてだ。あなたと出会ったことすべてだ。
この出会いを奇跡という言葉で片づけるには足りない気もするけれど、奇跡だったんだと思う。
この奇跡をなかったことにはしたくない。
だから、なにもかも手記に残すと決めた。たとえ顔や声を思い出せなくなっても、虹奈が体の一部に残ると信じて。
「虹奈……、今、送るから、見てほしいものがあるの……」涙でぼやける視界の中、私はゆっくりとスマホを取り出す。
そして、永遠に既読がつくことのない虹奈とのトーク画面を開いた。
震える指で、メッセージを打ち込んでいく。
届くわけがないと知りながらも、一文字一文字、思いを込めて。
【ねぇ、もし生まれ変わったら、虹奈の動画に、一緒に出してくれないかな。
その時は、虹奈の親友だと堂々宣言したいよ。
虹奈。私の、永遠の親友。ずっと忘れない。ずっと。】
虹奈のお墓参りに行ってから、私は虹奈が自分にとってどんな存在だったのかを、未来の自分に向けて残すことに決めた。
私が虹奈とどう出会ったのか、どんなことをしてしまったのか、どういう別れだったのか……。後悔していることも、嬉しかったことも、すべて事細かにノートに書き記そう。
私はもう、前に進まなくてはならない。
大丈夫。虹奈は私の中にいると、そう言い聞かせながら……。
記憶が消えるまでの残り五日間を、私はうつむかずに生きていくと決めたのだ。
「浅羽さん、ちょっと」「え……? 加西君?」
月曜日。ちょうど学校についたところで、有里の彼氏である加西君に、急に教室の入り口から呼ばれた。
加西君と話したことはあるけれど、いつも有里がいるときだったので、なんの用事
かと驚いた。
「有里ならまだ来てないよ?」
「いや、浅羽さんに伝言があって」
高身長の加西君は短髪の頭をかいて、気まずそうな顔をする。
「最近映と仲いいんだよね? じつは俺、映と幼馴染なんだ」
「え……、そうなの?」
全く知らなかった事実に驚く。このことは有里も知らなかったはずだ。
目を丸くしている私を見て、加西君はこくんと頷いた。
「映が父親のことを学校では知られたくないみたいで、俺と仲いいところ見られたら周りに深堀りされるかもと思って、学校ではあまり話しかけてなかったんだ。俺の家もちょっと特殊だからさ……」
「加西君の家、立派だもんね」
「いや、ただの農家なんだけどさ。まあ、その話は置いておいて……」
加西君は受験せずに実家の農業を継ぐことになったと有里から夏頃に聞いた。
あの時有里は納得のいっていない様子だったけれど、そこから二人はどう話し合ったのだろうか。有里のことを思うと余計なお世話だけど、加西君は記憶がなくなることをどんなふうに受け止めているのかも気になってしまう。
「で、本題なんだけど」
話を仕切りなおされて、私はハッとした。
加西君は一層真剣な顔をしている。
「映が腕を怪我して入院した」
「え……?」
突然の報告に、え、と言葉を放ったままの口の形で息を止めた。
「怪我で入院って、なにがあったの……?」
恐る恐る訊くと、加西君は唸りながら額に拳を当てた。眉を顰めて、難しそうな顔をしている。
「どこから話したらいいのか……あいつん家複雑だからさ……」
「うん、ちょっと、そうなのかなとは思ってた……。家族が関係してるの?」
「端的に言うと、映の母親が刃物持って暴れて、映が怪我したんだ」
「え……」
私はさらに言葉を失ってしまった。絶句という言葉がこれほどしっくりきたことは
ない。
母親が刃物を持って暴れた?
過去に映が母親に傷を負わせてしまったことがあるとは聞いていたけれど、今度は逆……? いったい、二人の間になにがあったというのだろう。
かなり事件性のある話に、ドクンドクンと心臓がいやな音を立てる。
「映から昨日、〝俺刺されるかもだから、電話鳴らしたら来てくれる?〟ってお願いされてて……。家族と離れたいと話し合う覚悟を決めたらしい。あ、映の母親、
ちょっと束縛が激しくてかなり映に依存してるんだ」そうだったの……?
映の母親については、怪我をさせてしまったこと以外、とくに聞いていなかった。まさか映がそんな事情を抱えていただなんて……。
「心配だから付き添うって言っても、〝電話するまでなにもしないでほしい。ちゃんと話したいから〟って聞かなかったんだ」
「うそ……」
「いや、ここから先は本人から話してもらった方がいいな。俺はただ、映からの伝言を預かっただけだから」
「伝言……?」
「〝卒アルの仕事、最後まで一緒にできなくてごめん〟って、言ってた」なにを言ってるの? そんなの、できなくて当たり前じゃん。
そんなこと、映はなにも心配しなくていい。
たった三週間の作業だったけれど、映と過ごした記憶が胸を締め付ける。
「加西君。映ってどこの病院に入院してるか、分かる……?」
「R病院だよ。でも、なんとか卒業式までにはギリ退院できるってよ」
「ううん、行きたいの。連絡してみる」
「そっか、分かった」
加西君は私の言葉にうなずいて、少しだけ笑みを浮かべる。
映。私が会いに行ったところで、なにかできるわけではないけれど、もしひとりでいるのなら、その時間を少しでも埋めてあげたいと思う。……私が映にしてもらったように。
先週、映と公園で抱き合ったときのことをそっと思い出してみる。
『ずっと怖くて、向き合えてなかった。でも、もう前に進まなきゃ……』あのとき映は、私のこの言葉に対して、『俺も』と言っていたのだ。
蘇った記憶に対して、今更映の本心が少し見えてきた気がした。
映は……向き合おうとして、前に進もうとして、行動したんだ。きっと。詳細を聞かなくたって分かる。
「あのさ、話全然変わるんだけど、ひとつ聞いてもいい?」
思い切り考え込んでいる私に対して、加西君は少し気まずそうに問いかけてきた。
彼がなにを訊こうとしているのか、少しだけ予想がつく。きっと有里に関することだろう。
「女子ってさ……、男から手紙もらったら引く?」
「え」
本当に唐突すぎる話題に、私はつい驚きの声をあげてしまったけれど、すぐに真顔に戻した。加西君は今、真剣に相談しているのだと分かったから。
「引かないよ」
少し微笑みながら、でも、まっすぐに伝えた。
加西君は「そっか」と安心したようにつぶやく。
「変なこと聞いてごめん。映によろしく」
「うん、こちらこそ」加西君の後ろ姿を見送りながら、私は有里と加西君の幸せを心から願った。
二人にとってなにが幸せの終着点なのかは、分からないけれど……。
記憶を失う私たちは、ぎりぎりまで大切な人にただ思いを伝えることしかできないから。
「……今、行こう」
加西君に触発されたわけではないけれど、私は机の上に広げたばかりの筆記用具を鞄に押し込んだ。
会いたい。話したい。今、そばにいたい。
この衝動も感情もすべて、忘れるとしても。
私はもう、大切な人に大切なことを伝えずに、後悔したくない。
◯
電車を乗り継ぎR病院にたどり着くと、私はすぐに受付を済ませ、映のいる部屋を目指そうとした。
しかし、私の後に続いて「久我山映の面会です」という大きめの声が聞こえて、思
わずうしろを振り向く。
四十代くらいの綺麗な女性は、しばらくなにかを受付スタッフと話し合っていたようだけど、だんだん様子がおかしくなってきた。
そして、髪を振り乱して受付のスタッフになにかを訴えはじめた。
「なんで息子と面会できないんですか!」
「お母様、落ち着いてください。これはご本人の希望なんです」
「本人の希望って……そんなわけないでしょう! 私の息子ですよ? 親子です
よ?」
あの人が映の……母親だ。冷汗がじわりとこめかみを伝う。
彼女は完全に正気ではない感じで、映に会いたいと叫んでいる。しかし、そのまま男性スタッフに取り押さえられて、出口まで運ばれていってしまった。
壮絶な現場を目の当たりにした周囲の人たちが、ざわざわと騒ぎ立てる。
私は、映の母親の姿を最後まで見送ると、エレベーターで三階まで上がった。
まだ、心臓がバクバクと音を立てている。あのシーンを見ただけでこれだけの緊張感を味わったのだ。いったい映は、何度あんなふうに取り乱した母親と向き合ってきたんだろう。
映の現実は……、どんな現実だったの。
今までどんなふうに、世界が見えていたの?
あなたのことを、まだなにも知らないから、想像することもできない。
「映……、浅羽です」
「本当に来た」
ノックをしてから部屋に入り、カーテンを開けると、痛々しく腕に包帯を巻かれた映がいた。
目を丸くしている映は、至って健康体な様子に見えるけれど、実際は入院が必要なレベルの傷を負っている。
買って来たゼリーを冷蔵庫の上に置いて、丸椅子に座る。
「痛い?」
腕を見ながら恐る恐る訊くと、映は少し腕を動かしてみせる。
「今は痛み止め飲んでるから平気」
「そう……」
「母親が自傷しようとして、止めたらこうなった」
私がなにか質問をする前に、映はあっけらかんと言い放った。それから、長い長い沈黙が流れる。
私は映の過去をどこまで知ってしまっていいのか、いまだに迷っている。
でも、映はようやく肩の荷が下りたような顔をしていた。
「都内でひとり暮らしして、就職して、もう実家にはなにがあっても戻ってこないって宣言したんだ。全部忘れる前に、片をつけたくて」
「うん……」
「ずるいかもだけど、俺はもう家族から逃げることでしか、自分の人生を生きられないと思ったから」
「……そっか」
「刺されても仕方ないと覚悟してたけど、思ったより深く刺さったわ」映は腕をさすりながら、ハハッと笑っている。でも私は笑えない。
なにも気の利いた言葉が出てこないよ。
映はこの前、あんなに私を励ましてくれたのに。
頭を必死に回転させるけど、どれもうわべだけの言葉だ。そんなものは無意味だ。
だから、もうシンプルに、今一番思っていることを映に伝えようと思った。「映が、生きててよかった……」
すんなりと出た言葉は、さっき映の顔を見てすぐに思い浮かんだものだった。
でも、それを聞いた映の瞳は、一瞬揺れたように見えた。
不思議だ。映と話すようになってから、一ヶ月も経ってないというのに。
映が生きていてよかったと、家族か親友かのように、心から思っている。
「全然大丈夫じゃないこと、大丈夫みたいに話さなくていいよ」そう付け足すと、映は笑顔をやめて、顔を隠すように俯いた。
私は、そんな映の背中に、軽く手を添える。
「……映。私たちこれから、自分の人生、生きられるかな」記憶を失ったら、どんな人間になってしまうんだろう。
本当は怖い。虹奈との……大切な人との思い出は、体の一部になっていると信じていても、怖い。
もしかしたら私たちは、まるで別人になってしまうかもしれない。
でも、もしそうなったとしても、自分の人生であることに変わりはない。
未来を動かすのは、自分しかいないのだから。
「自分の人生……、生きたいね。頑張りたいね」
ほとんど、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
いつのまにか震えていた私の手を、映がそっと包み込む。
再び長い沈黙が流れるけれど、居心地の悪いものではない。
私たちは、罪悪感を分かちあうように、互いの手を握りしめあった。
「……前に、人生でたったひとつだけ、忘れたくない記憶があるって言ったの、覚えてる?」
握った手を眺めながら、映はようやく口を開いてぽつりと語りだした。
印象的な会話だったから、もちろん覚えている。こくんと頷き、黙って映の言葉を待つことにした。
映は枕もとの横にある細長い棚から、片手でヘッドフォンを取り出すと、「来て」と言った。
言われるがまま少しだけ近づくと、そのまま頭にヘッドフォンを装着される。
そして、映はスマホを操作すると、ある曲を最小ボリュームで流し始めた。
アップテンポで、明るい曲だ。これって、もしかして映がつくった曲なのだろうか。でも、どこかで聴いたことがあるような気もする。
「中三の時。とある女子中学生に、初めて目の前で自分の曲を……この曲を聴いてもらったんだ」
「うん……」
「場所は、R駅のバスロータリーだった。そのとき俺たちは模試の試験会場を目指していたんだけど、三番停留所のバスの乗客数が多くて乗れなくて、俺とその子だけが取り残されたんだ」
R駅の三番停留所……? 私も、似たような体験をしたようなことがある気がする。
あれは虹奈が亡くなる、少し前のことだった。虹奈との関係性に悩んでいて、ずっと悶々としていた時期だ。
たしかに、少し暗い雰囲気の男子と、次のバスが来るまで音楽を聴いて待っていたことがある。
自分にとっても印象的なできごとだったので、よく覚えている。
模試に間に合わないかもと半泣き状態で焦っていたけれど、あの男の子がいてくれたおかげで落ち着けたから。
「え……」
もしかしてと思い問いかけるような瞳を向けると、映は「思い出した?」と優しく目を細める。
まさか、本当に……? そんな偶然があるの?映は私のことをそんなに前から認識していた?
でも、思い返してみれば、たしかにそうだ。あの子も、音楽をつくっていると言っていた。
まだ幼い印象だった少年と、今の大人っぽい映の姿が、ゆっくりと重なっていく。「あの時もともと、深青がいる私立の受験を希望していたんだ。とくに言わなかったけど、また会えるかもとは思ってたよ」
「そう……、だったの」
「同じ高校になってすぐ、深青のことを探した。でも、深青は学校で見かけるといつも暗い顔をしてた。あんまり人と関わらない様子を見て、人見知りか、なにかあったんだろうと……」
高校一年生と二年生の記憶は、たしかに一番薄い。
虹奈の死を受け入れられず、ほとんど人と関わらないで、浅い関係だけでやり過ごしていたから。
三年生になってもそんなふうに過ごすつもりだったけれど、有里とだけは唯一よく話す仲になれたのだ。でも、有里といないときの私は、今まで通り暗い顔をしていただろう。
まさか、入学当初からそんな私を見ていてくれたなんて、思わなかった。
「ずっと心配だった。でも、ただ時間だけが過ぎて、奇跡的に同じクラス、同じ委員になっても、中々かける言葉が見つからなかった。神様がここまでお膳立てしてくれても、俺みたいな人間が深青に関わっていいのか分からなくて、怖かったから……」映の言葉に、胸がギュッと切なくなる。
人と関わることが怖い気持ちは、よく分かるから。
私も、虹奈が亡くなってからずっと心を閉ざして、人と関わろうとしてこなかった。
そこまで話し終えた映は、スッと窓から私へと視線を戻した。映の瞳は、少しだけ涙でぬれている。私の両耳には、映との出会いの曲が優しく流れ込んだままだ。
罪悪感を抱いて生きてきた私たちは、自分の未来に期待することすら、悪いことだと思っていたのだろう。
……ああ、映はまるで、自分だ。
抱きしめてあげたい。
自然にそう思った私は、ヘッドフォンを外してベッドの上に置いてから、映のことをそっと抱きしめた。
子供を抱きしめるように、頭ごと腕で包み込む。映は少し動揺しているように感じたけれど、怪我をしていない方の手を、ゆっくりと私の背中に回した。
「でも、記憶が消えることになって、焦った。俺の中の、たったひとつのお守りのような記憶が無くなるって思ったら……」抱きしめあいながら、映は話を続けた。
映にとって忘れたくない記憶の中に自分がいたなんて、思いもしなかった。
私はあのとき映になにも特別なことはしていないと思うけれど、偶然映にとって大きな転機となったのなら、バスが遅延してよかったと思う。
「深青。ずっと言えなかったけど、ありがとう」
「映……」
「あの時深青が曲を聴いてくれたから、世界と繋がってると言ってくれたから、俺には俺の人生があることを、思い出せたんだ……っ」
きっと映は今、泣いている。だから、より一層強く抱きしめた。
心の奥底から願う。あなたが幸せになれますようにと。あなたがあなたの人生を歩めますようにと。
たとえこの記憶の全部が、なくなったとしても。「人生のほとんどがどうでもよかったけど、忘れたくない。深青とのことだけは、全部……」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、涙が溢れた。
今の感情を言葉にするなら、いとおしいという表現が一番しっくりくる。
いとおしくて、苦しい。切ない。胸が痛い。
ただ映が、ここに存在してくれることだけを、噛みしめていたい。
「私も、忘れたくない……」
痛みも葛藤も分かち合えたこの瞬間を、一生忘れたくないと、心から思う。
だから、全細胞に刻むように、映の体温を感じとる。
「消えないで……」
自分の声じゃないみたいに震えてしまった。
消えないでほしい。記憶の欠片でもいいから。思い出せなくてもいいから。心のどこかに残ってほしい。
もし、大人たちが今の私を見たら、なんて言うだろう。記憶喪失事件がなくても、大人になったら、十代のことなんていつか忘れると言うだろうか。
色んな経験をして、日々に流されて、忙しさで時間の感覚も変わっていくよ、と。
じゃあ、いつか忘れてしまうのなら、いつ忘れても一緒?
いや、違う。そうじゃない。人の心は、きっとそんなに単純にはできていない。
「映……、出会ってくれてありがとう」
溢れ出る涙を奥歯で噛み殺す。映は私の言葉に、いよいよ肩まで震わせた。
「それは俺の言葉だ……」
私の肩に顔をうずめながら、映は声を絞りだした。
ねぇ、虹奈。虹奈だったら、記憶を失う最後の一ヶ月を、どう過ごしたのかな。
忘れたくない記憶と、どう向き合うのだろう。
虹奈だったら、第二の人生スタートじゃんとか言って、楽しめたのかな。
それとも今の私と同じように、泣いた?
分からない。私は多分、虹奈のこともほんの一部しか知らない。
みんなそうだ。ずっと一緒にいたって、その人の一部しか分かりっこないんだ。
それでも私達は歩みより、大切な人を理解したいと願う。痛みも葛藤も苦しみも、すべて込みで。
いつか忘れるかもしれない、思い出を重ねながら。
きっとそうやって、自分の人生はつくられていくのだ。
今日は、いよいよ卒業式だ。
明日になったらもう、私たちの十年分の記憶がなくなる。
私は最後の制服に腕を通して、覚悟を決めてローファーを履いた。
「深青、いってらっしゃい。見に行くからね」母親も父親も、複雑な表情で私を見送る。
私は手を振り、静かに笑みを浮かべて家を出た。
教室に着くと、そこは不安に満ち溢れていた。すでに号泣している生徒たちが、互いを励ますように抱き合っている。
これが普通の卒業式による別れの涙だったら、どれだけよかっただろうか。
席に着いた私も、そっと目を閉じて、ここで過ごした思い出を瞼に浮かべる。
昨日の夜、ずっと書いては消していたメッセージを、ようやくある人に送ることができた。
【明日になっても、この先何年も、虹奈さんは私の一番大切な親友です。本当に勝手なことを言って、ごめんなさい】
既読になったものの、返信はなかった。
虹乃ちゃんがこのメッセージを読んでどう思ったのか、知ることはできない。なにをいまさらと、思わせてしまったかもしれない。
でも、私の本心を、ちゃんと虹乃ちゃんにも伝えなければと思ったのだ。
虹乃ちゃんの大切なお姉さんを、私も大切に思って生きていくと……。
「深青、おはよう」
ポンと肩をたたかれた方を振り向くと、そこには有里がいた。
思い切り泣き腫らした目をしている。加西君とは、ちゃんと話し合えたのだろうか。加西君からの手紙はちゃんと受け取れたのだろうか。
訊きたいことはたくさんあるけれど、それよりも前に、いつも自然とそばにいてくれた有里への感謝が溢れだしてしまった。
「有里がいてくれたから、三年生は楽しかった」
「え、やだ急になに……! お別れモードやめてよ」
有里は慌てたように早口で捲し立てて、でもすぐに、大人しくなった。しんみりとした表情で、私の肩をもう一度ポンとたたく。
「お別れモードもなにも、本当にお別れじゃんね……、うん」
「有里……」
「私も、深青がいてくれてよかった。ありがとう」
まっすぐ私の目を見つめながらそう言い切ってくれた有里に、胸が震える。
高校生のうちに、有里のような友人ができるとは思っていなかった。
誰にでも人気者の有里だけど、私にとってはすごく特別なクラスメイトだ。有里のはっきりした性格や明るさには、いつも救われていた。
「加西君とは、話し合えた?」
静かに切り出すと、有里はふと瞳を不安な色に染める。
「これからまた、会いに行こうかなって……」
「そっか。行ってきな。また後で」
私は有里に勇気を与えるように、ぎゅっと手を握り締めた。
有里はこくんと深く頷いて、隣の教室へと向かっていく。
頑張れ、有里。どうか、悔いのないように、思いをすべて伝えられますように。
本当に、心からそう願う。
ひとりになった私は、ぐるりと教室を見渡した。
映と黒木さんの席だけ、まだなにも荷物が置かれていない。
黒木さんが虹奈のお墓参りに行けたのかどうか、気になっていたけれど、あれから彼女は一度も学校に来なかった。
元々学校には来たり来なかったりしていたようだけれど、心配で少し気になってしまう。
今なら、虹奈のお墓に一緒に行くこともできたかもしれない。
もっとこうすればよかった……という後悔が、卒業式当日になってあれこれ浮かんできてしまう。
それはもちろん、映に対しても同じだ。
映のことをもっと早く思い出していれば、一緒に過ごせる時間が増えていたかもしれない。
ひとり考え込んでいると、ちょうどドアが開いて、映が教室に入ってきた。
すぐにバチッと目があったので、ひらひらと手を振る。すると、映は脇目も振らずにこっちにやってきた。
「退院おめでとう」
「たった三日だけどな」
「アルバムの入稿は無事終わったから、安心してね」
映がいない間に、最後の仕上げを終えて無事にデータを入稿した。逐一映に報告しながら進めたから、一緒に完成させた気持ちでいる。
実際に会うのは、病室で会って以来だったから少し気恥ずかしかったけれど、意外にも穏やかな気持ちで話せている。
映も、「ありがとう」と優しく笑みを返してくれた。
家族とどうなったのかとか、どこでひとり暮らしをする予定なのかとか、音楽は続けていくつもりなのかとか、気になることは沢山あるけれど。
でも、映が話したかったらでいい。
そんな気持ちで待っていると、映がゆっくり口を開いた。
「退院後は、叔父の別宅で暮らしてる。大学に行くまでそこで世話になるつもり」
「そうだったんだ……。よかったね」
「別宅っていうか、そこは叔父の仕事場なんだけど。叔父は作曲家でさ、いろいろ機材が置いてあって楽しいよ」
そうか。映にもそんなふうに頼れる人がいたことに、心底ホッとする。楽曲制作も
きっと、地道に続けていくつもりなのだろう。
楽しそうに語る映を見て、私も嬉しい気持ちになった。
「あと……、母親はカウンセリングに行くことになった。これでどうなるのか分からないけど、一旦距離は置けたかな。あとは親父に任せる」
今回の事件のことでようやく映の父親も事態の深刻さを理解してくれたのだろうか。
映がここまで大怪我をしないと、状況はいつまでも変わらなかったはずだ。
それはすごく悲しいことだけれど、でも、映は一歩進むことができた。
映自身は、これでよかったのだと思っていそうな口ぶりだから、私も一緒に喜ぼうと思う。
「式が終わったら、少し資材室で話そう」
「え……」
突然そんなことを提案されて、私は思わず間抜けな声を出した。
「渡したいものがある」いったいなんだろう?
疑問に思いつつも、ゆっくり頷く。
映は「じゃあまた後で」と言って、窓際にある自分の席に向かった。
〇
そして、ついに、卒業式が始まった。
周りにいる生徒たちの啜り泣く声が聞こえる。ただ別れを惜しむ泣き声ではない。外にはマスコミが押しかけていて、教師が対応するのに大変そうだった。
今ここにいる生徒のほとんどが、明日には十年分の記憶を失うのだ。この校舎で出会ったことなんか、すっかり忘れて。報道番組的には映像に残したいと思うだろう。
でも、私は思う。出会いと別れが何度も繰り返されたこの場所で、大人になった卒業生たちは、いったいどれほどの記憶が残っているというのだろう。
中に入れてほしいと騒いでいるマスコミの人たち全員に、聞いてみたい。
あなたたちは、どれほど覚えていますかと。
大切だと思っていた思い出たちを、どれほど語れますかと。
「あーおーげーばー……」
歌を歌いながら、私は昨夜の自分のことを思い浮かべていた。
虹奈との思い出と、自分が大切に思う人たちの思い出を、私は〝十年ノート〟と称したノートにまとめたのだ。
これが未来の自分に役立つものなのか分からなかったけれど、私は過去の自分の感情を記録として残したかったのだ。
過去の私がどんな人と関わって、どんなふうに感じていたのか……。
きっと、どんなに詳細に書き込んでも、そのとき抱いた感情をそのまま取り戻すことは不可能だろう。
でもそれは、記憶を失わなくても同じことだ。
その時抱いた感情は、その時だけのものだから。
だから私たちは、その一瞬一瞬を、必死に生きるにすぎない。
「この度は……ご卒業……誠に……」
ネクタイ姿の校長先生が、白髪交じりの眉頭を寄せて涙声になったところで、私はそっと目を閉じ、今を胸に刻んだ。
◯
卒業証書を持って、私は言われた通り資材室に向かっていた。
廊下を歩いている間も、色んなことが思い出される。今から向かう資材室で私たちは初めてちゃんと話して、アルバム委員として活動したんだ。
たった一ヶ月にも満たない日々だったけれど、永遠のようにも思える。
まだ映は来ていなかったので、私は資材室の窓枠に手をかけて、横にスライドした。
穏やかな春の風が中に流れ込んで、ふわりと前髪を宙に浮かせた。
校舎の外では、卒業生たちが泣いて抱きしめあっている。
その様子を容赦なく撮影する記者の群れを見て、私はなんとも言えない気持ちになった。
「待った?」
「ううん、今来たとこ」
すっと映がうしろから現れた。胸元には、私と同じく桜のコサージュがついている。
私たちはなんとなくそのまま横に並んで、窓から外の景色を眺めることにした。
「皆意外と受け入れ始めてるというか、前向きだったな」映の言葉に、こくんと頷く。
「もう……、無理やり納得するしかないもんね」
「記憶がなくなるって、どんな感覚なんだろうな。寝てるうちに進行するっていうけ
ど」
「ずっと寝なかったら進行しないのかな?」
「はは、無理だな」
「だね」
実現不可能な妄想を語って、私たちは笑いあった。
本当に、明日記憶がなくなるとは思えないような空気感だ。
数秒笑ってから、映は私の反応を窺うように、首を傾げる。
「……朝が来るのが怖い?」
映の問いかけに、私は「そうだね」と静かに頷く。
そうだね。たしかに怖い。怖くないわけがない。
でも私たちは、明日を受け入れなければ、前に進めないから。
「皆は、明日大切な人の記憶が消えるなら、最後にどんな言葉をその人に贈ろうって思うのかなー」
外に群がっている卒業生たちを見ながら、問いかけるでもない盛大なひとりごとをつぶやいた。
死ぬわけではないけれど、明日を最後だと思って生きることなど、もう人生でないだろう。
「そう、それ」
すると映は思い出したように、なにかをブレザーのポケットから取り出した。
「最後の言葉、渡そうと思って」
「え……?」
渡されたのは、二つ折りにした名刺サイズの青いメッセージカードだった。
「今読んじゃダメ?」
「別にいいよ」
「え、いいんだ」
少し戸惑いながらも、そっとメッセージカードを開く。
そこには、【@ei_ _0716……】というなにかのIDが書かれていた。
それを見て、私はすぐに眉を顰める。
「まだアカウントしか作ってないけど、そこで本格的に楽曲アップしていくから、見てて」
戸惑っている私を見て、映は少し自信ありげにそう宣言した。
「全然、最後の言葉って感じじゃないけど。でも、未来の俺はそこで生きてるから」
未来の映が、ここに……。
すごく素敵な、最後の言葉だと思った。
まだ映と繋がれる希望が、この名刺サイズのカードの中に、詰まっている気がして。人差し指と親指でぎゅっと掴んで、「ありがとう」とお礼を伝えた。
すぐにチャンネルだけでも登録しておこう。そうしたら、忘れないでいられるかもしれない。
映の思いを噛みしめている間に、映はなぜか、首にかけていたヘッドフォンを外した。黒い高価そうなそのヘッドフォンは、映のトレードマーク的なアイテムだ。
「あとこれ、もらって」
「え! いやいや、もらえないよこんな高価なもの」
予想外の発言に困惑し、私は勢いよく手を横に振って断った。
けれど、映は「はい」と私の首にそのヘッドフォンをかけてしまった。
もっと強く断らなければいけないのに、彼の少し茶色い瞳が優しく細められていく様子に思わず見惚れてしまって、拒否できない。
目の前の映は、ヘッドフォンをかけた私を見て満足げに微笑している。
「俺の一番大事なものを、深青に持っててほしいんだ」
「え……」
「記憶を取り戻す、なにかのきっかけになるかもしれないから」
記憶を取り戻す……。そんなこと、どうしてか今まで一度も考えたことがなかった。
どうしてだろう。諦めていたわけではないけれど、そこまで考えている余裕がなかったのだ。
そんな風に言われてしまうと、断ることなどできない。
私は遠慮がちに頷き、「わかった」と返した。
「もし未来の私が壊したりしたら……ごめんね。先に謝っとく」
「全然いいよ。でも覚えてるうちに、引っ越しの段ボールに詰めておいて。深青も上京組でしょ?」
「あ、それいいね!」
映の提案に、私は思わずパッと顔をあげて笑顔になる。
思ったよりも映の顔が近くにあって、私はそのまま固まってしまった。
動揺している私とは違って、映は落ち着いた様子で、そのまま私の瞳を見つめる。
「深青は」
「え?」
「最後にどんな言葉、かけてくれるの」
突然そんなことを聞かれて、頭の中が真っ白になってしまった。まさか、映の方からそんなことを求められるとは……。
私は必死に頭を回転させて、映に贈る〝最後の言葉〟を探した。
すると、ある一言がするりと頭に浮かんできた。
「元気でね……、かな」
「はは、極薄じゃん」
しまった。考えがまとまる前に、口に出してしまった。
言いたいことはそうじゃない。なんて伝えたら、ちゃんと伝わるだろうか……。必死に頭を働かせる。
「ごめん、そうじゃなくて、なんていうか説明が難しいんだけど……。いろんな意味込めての、元気でね、なの」
「いろんな?」
「幸せになってね、体に気をつけてね、無理しないでね、自分らしく生きてね……とか、全部込みの、元気でねだよ。……記憶がなくても、心のどこかで願ってるから」ちゃんと、伝わっただろうか?映は最後まで説明を聞き終えると、嚙みしめるように「そっか」と呟き、また優しく目を細めた。
私も映も、都内の大学に進学予定だ。けれど、同じ都内といえどその距離は遠く、生活圏が交わることはなさそうだった。
集団説明会に訪れた医師も、記憶喪失後、すぐに記憶に関わる人と接触することは、精神的に負荷がかかる可能性があるから推奨しないとのことだった。
だから、どこかで分かっている。
私たちはここで別れて、もう二度と会うことはないのだと。
「映……、どうか、〝元気〟でね」涙交じりに、改めて伝えてみる。
映は、穏やかな顔をして、笑っている。
「うん。深青も……〝元気〟で」
短い言葉の中にいろんな感情をこめて、映の幸せを願った。
映の優しい瞳を見ていたら、泣いてしまいそうになったので、スッと視線を下げる。
すると、映の胸元にある桜のコサージュが目に入った。
桜は、来週末には満開になるだろうと予想されている。
桜が咲く頃、あなたはもう、私のことを忘れていて、私も、あなたを思い出せなくなっている。
切なくて、苦しくて、胸がちぎれそうだ。
今目の前にいる映が、明日には幻のように消え去っていくなんて。
「最後に……、抱きしめてもいい?」
映が控えめに訊いてきたので、私は自ら映の背中に腕を回した。存在ごと確かめるように、強く、強く。
映は最初戸惑ったようだったけれど、すぐに同じように抱きしめ返してくれた。
「今日は泣かないつもりだったんだけど」
涙交じりの声で、私の頭に顎をのせながら、映がそんなことをつぶやいた。 忘れたい過去、忘れられない過去、忘れたくない過去。様々な感情に振り回されて、私たちは今日、卒業した。
ここから先は、未知の世界だ。
でも、恐れずに歩もう。
大切な人から受け取ったものを、私たちはただ、見えない場所にしまっただけだ。
桜が咲いた頃の私たちが、どうか少しでも前向きでありますようにと、切に願う。「アルバム委員、残っててよかったな……」
噛みしめるようにつぶやくと、映は「うん」と頷いてから、私の肩に顔を預けた。
「奇跡だ、全部」
映が肩を震わせながら、ひと言そうつぶやいた。
その一言で、同じ教室にいながらも、一度も話したことのなかった過去の自分たちが思い浮かんだ。
あんなに狭い世界でも、記憶喪失事件というきっかけがなかったら映を知ることはできなかった。
映に出会わなければ、私の人生は止まったままだっただろう。
あなたは、奇跡そのものだ。
たとえ世界の端と端で生きることになっても、心のどこかであなたの幸せを願う。
もしまた会えたなら、それはもう、奇跡を超えたことになるだろう。
第一章 終
続きは発売中の同タイトル単行本に収録されています