虹奈のお墓参りに行ってから、私は虹奈が自分にとってどんな存在だったのかを、未来の自分に向けて残すことに決めた。
 私が虹奈とどう出会ったのか、どんなことをしてしまったのか、どういう別れだったのか……。後悔していることも、嬉しかったことも、すべて事細かにノートに書き記そう。
 私はもう、前に進まなくてはならない。
 大丈夫。虹奈は私の中にいると、そう言い聞かせながら……。
 記憶が消えるまでの残り五日間を、私はうつむかずに生きていくと決めたのだ。
 「浅羽さん、ちょっと」「え……? 加西君?」
 月曜日。ちょうど学校についたところで、有里の彼氏である加西君に、急に教室の入り口から呼ばれた。
 加西君と話したことはあるけれど、いつも有里がいるときだったので、なんの用事
 かと驚いた。
 「有里ならまだ来てないよ?」
 「いや、浅羽さんに伝言があって」
 高身長の加西君は短髪の頭をかいて、気まずそうな顔をする。
 「最近映と仲いいんだよね? じつは俺、映と幼馴染なんだ」
 「え……、そうなの?」
 全く知らなかった事実に驚く。このことは有里も知らなかったはずだ。
 目を丸くしている私を見て、加西君はこくんと頷いた。
 「映が父親のことを学校では知られたくないみたいで、俺と仲いいところ見られたら周りに深堀りされるかもと思って、学校ではあまり話しかけてなかったんだ。俺の家もちょっと特殊だからさ……」
 「加西君の家、立派だもんね」
 「いや、ただの農家なんだけどさ。まあ、その話は置いておいて……」
 加西君は受験せずに実家の農業を継ぐことになったと有里から夏頃に聞いた。
 あの時有里は納得のいっていない様子だったけれど、そこから二人はどう話し合ったのだろうか。有里のことを思うと余計なお世話だけど、加西君は記憶がなくなることをどんなふうに受け止めているのかも気になってしまう。
 「で、本題なんだけど」
 話を仕切りなおされて、私はハッとした。
 加西君は一層真剣な顔をしている。
 「映が腕を怪我して入院した」
 「え……?」
 突然の報告に、え、と言葉を放ったままの口の形で息を止めた。
 「怪我で入院って、なにがあったの……?」
 恐る恐る訊くと、加西君は唸りながら額に拳を当てた。眉を顰めて、難しそうな顔をしている。
 「どこから話したらいいのか……あいつん家複雑だからさ……」
 「うん、ちょっと、そうなのかなとは思ってた……。家族が関係してるの?」
 「端的に言うと、映の母親が刃物持って暴れて、映が怪我したんだ」
 「え……」
 私はさらに言葉を失ってしまった。絶句という言葉がこれほどしっくりきたことは
 ない。
 母親が刃物を持って暴れた?
 過去に映が母親に傷を負わせてしまったことがあるとは聞いていたけれど、今度は逆……? いったい、二人の間になにがあったというのだろう。
 かなり事件性のある話に、ドクンドクンと心臓がいやな音を立てる。
 「映から昨日、〝俺刺されるかもだから、電話鳴らしたら来てくれる?〟ってお願いされてて……。家族と離れたいと話し合う覚悟を決めたらしい。あ、映の母親、
 ちょっと束縛が激しくてかなり映に依存してるんだ」そうだったの……?
 映の母親については、怪我をさせてしまったこと以外、とくに聞いていなかった。まさか映がそんな事情を抱えていただなんて……。
 「心配だから付き添うって言っても、〝電話するまでなにもしないでほしい。ちゃんと話したいから〟って聞かなかったんだ」
 「うそ……」
 「いや、ここから先は本人から話してもらった方がいいな。俺はただ、映からの伝言を預かっただけだから」
 「伝言……?」
 「〝卒アルの仕事、最後まで一緒にできなくてごめん〟って、言ってた」なにを言ってるの? そんなの、できなくて当たり前じゃん。
 そんなこと、映はなにも心配しなくていい。
 たった三週間の作業だったけれど、映と過ごした記憶が胸を締め付ける。
 「加西君。映ってどこの病院に入院してるか、分かる……?」
 「R病院だよ。でも、なんとか卒業式までにはギリ退院できるってよ」
 「ううん、行きたいの。連絡してみる」
 「そっか、分かった」
 加西君は私の言葉にうなずいて、少しだけ笑みを浮かべる。
 映。私が会いに行ったところで、なにかできるわけではないけれど、もしひとりでいるのなら、その時間を少しでも埋めてあげたいと思う。……私が映にしてもらったように。
 先週、映と公園で抱き合ったときのことをそっと思い出してみる。
 『ずっと怖くて、向き合えてなかった。でも、もう前に進まなきゃ……』あのとき映は、私のこの言葉に対して、『俺も』と言っていたのだ。
 蘇った記憶に対して、今更映の本心が少し見えてきた気がした。
 映は……向き合おうとして、前に進もうとして、行動したんだ。きっと。詳細を聞かなくたって分かる。
 「あのさ、話全然変わるんだけど、ひとつ聞いてもいい?」
 思い切り考え込んでいる私に対して、加西君は少し気まずそうに問いかけてきた。
 彼がなにを訊こうとしているのか、少しだけ予想がつく。きっと有里に関することだろう。
 「女子ってさ……、男から手紙もらったら引く?」
 「え」
 本当に唐突すぎる話題に、私はつい驚きの声をあげてしまったけれど、すぐに真顔に戻した。加西君は今、真剣に相談しているのだと分かったから。
 「引かないよ」
 少し微笑みながら、でも、まっすぐに伝えた。
 加西君は「そっか」と安心したようにつぶやく。
 「変なこと聞いてごめん。映によろしく」
 「うん、こちらこそ」加西君の後ろ姿を見送りながら、私は有里と加西君の幸せを心から願った。
 二人にとってなにが幸せの終着点なのかは、分からないけれど……。
 記憶を失う私たちは、ぎりぎりまで大切な人にただ思いを伝えることしかできないから。
 「……今、行こう」
 加西君に触発されたわけではないけれど、私は机の上に広げたばかりの筆記用具を鞄に押し込んだ。
 会いたい。話したい。今、そばにいたい。
 この衝動も感情もすべて、忘れるとしても。
 私はもう、大切な人に大切なことを伝えずに、後悔したくない。

 ◯

 電車を乗り継ぎR病院にたどり着くと、私はすぐに受付を済ませ、映のいる部屋を目指そうとした。
 しかし、私の後に続いて「久我山映の面会です」という大きめの声が聞こえて、思
 わずうしろを振り向く。
 四十代くらいの綺麗な女性は、しばらくなにかを受付スタッフと話し合っていたようだけど、だんだん様子がおかしくなってきた。
 そして、髪を振り乱して受付のスタッフになにかを訴えはじめた。 
 「なんで息子と面会できないんですか!」
 「お母様、落ち着いてください。これはご本人の希望なんです」
 「本人の希望って……そんなわけないでしょう! 私の息子ですよ? 親子です
 よ?」
 あの人が映の……母親だ。冷汗がじわりとこめかみを伝う。
 彼女は完全に正気ではない感じで、映に会いたいと叫んでいる。しかし、そのまま男性スタッフに取り押さえられて、出口まで運ばれていってしまった。
 壮絶な現場を目の当たりにした周囲の人たちが、ざわざわと騒ぎ立てる。
 私は、映の母親の姿を最後まで見送ると、エレベーターで三階まで上がった。
 まだ、心臓がバクバクと音を立てている。あのシーンを見ただけでこれだけの緊張感を味わったのだ。いったい映は、何度あんなふうに取り乱した母親と向き合ってきたんだろう。
 映の現実は……、どんな現実だったの。
 今までどんなふうに、世界が見えていたの?
 あなたのことを、まだなにも知らないから、想像することもできない。
 「映……、浅羽です」
 「本当に来た」
 ノックをしてから部屋に入り、カーテンを開けると、痛々しく腕に包帯を巻かれた映がいた。
 目を丸くしている映は、至って健康体な様子に見えるけれど、実際は入院が必要なレベルの傷を負っている。
 買って来たゼリーを冷蔵庫の上に置いて、丸椅子に座る。
 「痛い?」
 腕を見ながら恐る恐る訊くと、映は少し腕を動かしてみせる。
 「今は痛み止め飲んでるから平気」
 「そう……」
 「母親が自傷しようとして、止めたらこうなった」
 私がなにか質問をする前に、映はあっけらかんと言い放った。それから、長い長い沈黙が流れる。
 私は映の過去をどこまで知ってしまっていいのか、いまだに迷っている。
 でも、映はようやく肩の荷が下りたような顔をしていた。
 「都内でひとり暮らしして、就職して、もう実家にはなにがあっても戻ってこないって宣言したんだ。全部忘れる前に、片をつけたくて」
 「うん……」
 「ずるいかもだけど、俺はもう家族から逃げることでしか、自分の人生を生きられないと思ったから」
 「……そっか」
 「刺されても仕方ないと覚悟してたけど、思ったより深く刺さったわ」映は腕をさすりながら、ハハッと笑っている。でも私は笑えない。
 なにも気の利いた言葉が出てこないよ。
 映はこの前、あんなに私を励ましてくれたのに。
 頭を必死に回転させるけど、どれもうわべだけの言葉だ。そんなものは無意味だ。
 だから、もうシンプルに、今一番思っていることを映に伝えようと思った。「映が、生きててよかった……」
 すんなりと出た言葉は、さっき映の顔を見てすぐに思い浮かんだものだった。
 でも、それを聞いた映の瞳は、一瞬揺れたように見えた。
 不思議だ。映と話すようになってから、一ヶ月も経ってないというのに。
 映が生きていてよかったと、家族か親友かのように、心から思っている。
 「全然大丈夫じゃないこと、大丈夫みたいに話さなくていいよ」そう付け足すと、映は笑顔をやめて、顔を隠すように俯いた。
 私は、そんな映の背中に、軽く手を添える。
 「……映。私たちこれから、自分の人生、生きられるかな」記憶を失ったら、どんな人間になってしまうんだろう。
 本当は怖い。虹奈との……大切な人との思い出は、体の一部になっていると信じていても、怖い。
 もしかしたら私たちは、まるで別人になってしまうかもしれない。
 でも、もしそうなったとしても、自分の人生であることに変わりはない。
 未来を動かすのは、自分しかいないのだから。
 「自分の人生……、生きたいね。頑張りたいね」
 ほとんど、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
 いつのまにか震えていた私の手を、映がそっと包み込む。
 再び長い沈黙が流れるけれど、居心地の悪いものではない。
 私たちは、罪悪感を分かちあうように、互いの手を握りしめあった。
 「……前に、人生でたったひとつだけ、忘れたくない記憶があるって言ったの、覚えてる?」
 握った手を眺めながら、映はようやく口を開いてぽつりと語りだした。
 印象的な会話だったから、もちろん覚えている。こくんと頷き、黙って映の言葉を待つことにした。
 映は枕もとの横にある細長い棚から、片手でヘッドフォンを取り出すと、「来て」と言った。
 言われるがまま少しだけ近づくと、そのまま頭にヘッドフォンを装着される。
 そして、映はスマホを操作すると、ある曲を最小ボリュームで流し始めた。
 アップテンポで、明るい曲だ。これって、もしかして映がつくった曲なのだろうか。でも、どこかで聴いたことがあるような気もする。
 「中三の時。とある女子中学生に、初めて目の前で自分の曲を……この曲を聴いてもらったんだ」
 「うん……」
 「場所は、R駅のバスロータリーだった。そのとき俺たちは模試の試験会場を目指していたんだけど、三番停留所のバスの乗客数が多くて乗れなくて、俺とその子だけが取り残されたんだ」
 R駅の三番停留所……? 私も、似たような体験をしたようなことがある気がする。
 あれは虹奈が亡くなる、少し前のことだった。虹奈との関係性に悩んでいて、ずっと悶々としていた時期だ。
 たしかに、少し暗い雰囲気の男子と、次のバスが来るまで音楽を聴いて待っていたことがある。
 自分にとっても印象的なできごとだったので、よく覚えている。
 模試に間に合わないかもと半泣き状態で焦っていたけれど、あの男の子がいてくれたおかげで落ち着けたから。
 「え……」
 もしかしてと思い問いかけるような瞳を向けると、映は「思い出した?」と優しく目を細める。
 まさか、本当に……? そんな偶然があるの?映は私のことをそんなに前から認識していた?
 でも、思い返してみれば、たしかにそうだ。あの子も、音楽をつくっていると言っていた。
 まだ幼い印象だった少年と、今の大人っぽい映の姿が、ゆっくりと重なっていく。「あの時もともと、深青がいる私立の受験を希望していたんだ。とくに言わなかったけど、また会えるかもとは思ってたよ」
 「そう……、だったの」
 「同じ高校になってすぐ、深青のことを探した。でも、深青は学校で見かけるといつも暗い顔をしてた。あんまり人と関わらない様子を見て、人見知りか、なにかあったんだろうと……」
 高校一年生と二年生の記憶は、たしかに一番薄い。
 虹奈の死を受け入れられず、ほとんど人と関わらないで、浅い関係だけでやり過ごしていたから。
 三年生になってもそんなふうに過ごすつもりだったけれど、有里とだけは唯一よく話す仲になれたのだ。でも、有里といないときの私は、今まで通り暗い顔をしていただろう。
 まさか、入学当初からそんな私を見ていてくれたなんて、思わなかった。
 「ずっと心配だった。でも、ただ時間だけが過ぎて、奇跡的に同じクラス、同じ委員になっても、中々かける言葉が見つからなかった。神様がここまでお膳立てしてくれても、俺みたいな人間が深青に関わっていいのか分からなくて、怖かったから……」映の言葉に、胸がギュッと切なくなる。
 人と関わることが怖い気持ちは、よく分かるから。
 私も、虹奈が亡くなってからずっと心を閉ざして、人と関わろうとしてこなかった。
 そこまで話し終えた映は、スッと窓から私へと視線を戻した。映の瞳は、少しだけ涙でぬれている。私の両耳には、映との出会いの曲が優しく流れ込んだままだ。
 罪悪感を抱いて生きてきた私たちは、自分の未来に期待することすら、悪いことだと思っていたのだろう。
 ……ああ、映はまるで、自分だ。
 抱きしめてあげたい。
 自然にそう思った私は、ヘッドフォンを外してベッドの上に置いてから、映のことをそっと抱きしめた。
 子供を抱きしめるように、頭ごと腕で包み込む。映は少し動揺しているように感じたけれど、怪我をしていない方の手を、ゆっくりと私の背中に回した。
 「でも、記憶が消えることになって、焦った。俺の中の、たったひとつのお守りのような記憶が無くなるって思ったら……」抱きしめあいながら、映は話を続けた。
 映にとって忘れたくない記憶の中に自分がいたなんて、思いもしなかった。
 私はあのとき映になにも特別なことはしていないと思うけれど、偶然映にとって大きな転機となったのなら、バスが遅延してよかったと思う。
 「深青。ずっと言えなかったけど、ありがとう」
 「映……」
 「あの時深青が曲を聴いてくれたから、世界と繋がってると言ってくれたから、俺には俺の人生があることを、思い出せたんだ……っ」
 きっと映は今、泣いている。だから、より一層強く抱きしめた。
 心の奥底から願う。あなたが幸せになれますようにと。あなたがあなたの人生を歩めますようにと。
 たとえこの記憶の全部が、なくなったとしても。「人生のほとんどがどうでもよかったけど、忘れたくない。深青とのことだけは、全部……」
 ぽつりとつぶやかれた言葉に、涙が溢れた。
 今の感情を言葉にするなら、いとおしいという表現が一番しっくりくる。
 いとおしくて、苦しい。切ない。胸が痛い。
 ただ映が、ここに存在してくれることだけを、噛みしめていたい。
 「私も、忘れたくない……」
 痛みも葛藤も分かち合えたこの瞬間を、一生忘れたくないと、心から思う。
 だから、全細胞に刻むように、映の体温を感じとる。
 「消えないで……」
 自分の声じゃないみたいに震えてしまった。
 消えないでほしい。記憶の欠片でもいいから。思い出せなくてもいいから。心のどこかに残ってほしい。
 もし、大人たちが今の私を見たら、なんて言うだろう。記憶喪失事件がなくても、大人になったら、十代のことなんていつか忘れると言うだろうか。
 色んな経験をして、日々に流されて、忙しさで時間の感覚も変わっていくよ、と。
 じゃあ、いつか忘れてしまうのなら、いつ忘れても一緒?
 いや、違う。そうじゃない。人の心は、きっとそんなに単純にはできていない。
 「映……、出会ってくれてありがとう」
 溢れ出る涙を奥歯で噛み殺す。映は私の言葉に、いよいよ肩まで震わせた。
 「それは俺の言葉だ……」
 私の肩に顔をうずめながら、映は声を絞りだした。
 ねぇ、虹奈。虹奈だったら、記憶を失う最後の一ヶ月を、どう過ごしたのかな。
 忘れたくない記憶と、どう向き合うのだろう。
 虹奈だったら、第二の人生スタートじゃんとか言って、楽しめたのかな。
 それとも今の私と同じように、泣いた?
 分からない。私は多分、虹奈のこともほんの一部しか知らない。
 みんなそうだ。ずっと一緒にいたって、その人の一部しか分かりっこないんだ。
 それでも私達は歩みより、大切な人を理解したいと願う。痛みも葛藤も苦しみも、すべて込みで。
 いつか忘れるかもしれない、思い出を重ねながら。
 きっとそうやって、自分の人生はつくられていくのだ。