『許さないで……』 
 そうつぶやいて、ひとり昇降口で背中を震わせている浅羽を見て、胸が震えた。
 まるで、自分のことを見ているようで。
 その孤独の世界からなんとか連れ戻したくて、とっさに「深青」と、名前で呼んだ。勢いよく顔を上げた浅羽は、今にも壊れそうな顔をしていた。
 苦しくて、思わず抱きしめたくなったけれど、拾い上げたマフラーになんとか気持ちを分散する。
 『ありがとう……』
 そんなこと、俺なんかに言わなくていい。
 俺が浅羽からもらったもののほうが、はるかに大きいから。
 でもそれを説明するには語彙が足りなくて、『俺も』とだけ一言返した。
 それから、浅羽の未来が、どうか少しでもこの先優しく明るくなるようにと、心から願ったのだ。
 「映、ちょっと話そう」
 記憶を失うまで残り一週間にせまったところで、 登校してすぐに隣のクラスの陽太に呼ばれた。
 なにを聞かれるのか、俺はすぐに察していた。
 学校で話すことはほとんどなかったが、近所に住んでいるということもあって、家の近くで会うとよく話すような仲だ。
 親が大地主で、俺と同じく地元から出られない運命の人間だと思って同情していたけれど、陽太はすんなりとそれを受け入れている。
 それどころか、地元に残ることを自ら望んでいるのだと知り、勝手に仲間だと決め
 つけたことを恥じた。そのことを、この前バカ真面目に打ち明けて謝ったばかりだ。
 それ以来陽太は、より俺のことを気にかけてくれるようになった。
 無理もない。三年前に、あんなに悲惨な現場を見られているのだから。
 「昨日、母さんが病院で奈緒子さんに会ったって言ってた。すごく青ざめてて、暗い顔してたって聞いたけど……なにかあった?」
 「貧血起こして、薬もらいに行ったんだ」
 「そうか、早く治るといいな」
 「……だな」
 「……大丈夫か」
 深く探ってはこない陽太の肩を、俺はポンと叩く。大丈夫だという意味を込めて。
 陽太はいいやつだ。サッカー部の部長として頼られていて、しっかりしていて、人望がある。周りに気を使いすぎて消耗していないか不安になるほど。
 陽太は俺の親父の本当の性格も知っていて、家庭崩壊しかけていることまで理解している。
 「東京でひとり暮らしするんだろ。この前憲文さんが親父の見舞いに来た時に、そう話してた」
 「ああ、急に決まった」
 陽太の父親は体を悪くして倒れてしまい、長期入院している。
 自分はおじさんによくしてもらっていたから純粋に心配な気持ちでお見舞いに行ったけれど、俺の父親がお見舞いに行っているのは、陽太の父親は人格者で、同地区の農家の票を握っていると思っているからだ。
 「よかった……んだよな?」家を出ていけることに対して、陽太が俺の気持ちを確認するように目で訴えてくる。
 俺は「ああ」と低い声で返してから、目を細めた。
 「……まあ、まだ母親がどう出るか分かんねぇけど」
 「映は十分頑張ったよ。もう自分のことだけ考えていいだろ。身も蓋もない言い方するけど、三年前の記憶も無くなるんだから」
 三年前の事故だけではなく、その後母親に依存されて泣きつかれている様子を、何度か陽太に見られてしまったことがある。
 その時の俺の顔は、陽太曰く、ゾンビのような顔だったという。
 「なあ映。あえて言うけど、お前の家は異常だ」ぴしゃりと言い放たれて、思わず苦笑が漏れる。
 本当に、その通りだと思ったから。
 「異常な場所から離れるのは、逃げるとかじゃないぞ。正当防衛だ」
 「……ああ」
 「罪悪感とか抱くなよ。またあとで話そう」
 それだけ言って、陽太は自分の教室に戻って行った。
 いつも正しく、まっすぐで、頼りがいのある陽太は、眩しい存在だ。
 陽太の言うことが正しいことは、分かっている。でもなにかが俺の足を止める。その正体は、言葉で誰かの心を限界値にさせてしまったという罪悪感だ。
 自分が楽になることを選択できない。多分俺は、もうすでに母親にそう洗脳されている。
 こういう時、俺はいつも音楽の世界に逃げる。
 自分の席に戻った俺は、ヘッドフォンをつけて、ボリュームを最大にして、目を閉じる。
 そうすると、無駄なことを考える隙間がなくなっていく気がするのだ。
 ふと、懐かしい曲がプレイリストから流れてきた。
 その曲は三年前に、模試の帰りに初めて深青と出会った時に聴いた曲だった。
 「深青、おはよー」
 冴島の声で、浅羽が登校してきたことに気づく。
 浅羽の笑顔を見ながら、俺はお守りのような記憶を思い出していた。
 俺が、人生でたったひとつ、忘れたくないと思う記憶のことを。

 ◯

 ――中学三年生、夏。
 母親は転落事故を起こしたあの日から心を崩してしまい、事故から約三か月経った今も、薬がないと寝られなくなってしまった。
 それなのに家族の態度は変わらず、どう見たって俺がケアをするしかなかった。目を離したら自殺をしてしまうのではないかと、怖くて。
 なにより自分の発言がきっかけでこうさせてしまったのだから、責任を取らなければと思っていた。
 そして、今日は進路を変更してから初めての模試だ。
 俺は、いくつかのバス停が環状になっている大きなバスロータリーに並んでいた。
 第一志望にしたのは、幼馴染の陽太も通っている、家から近い場所にある中高一貫の私立高校だ。
 「えーこれ乗れるんかなー」
 自分と同じ三番停留所の前方に並んでいる見知らぬ男子生徒が、不満げにこぼす。
 模試会場までのバスは、到着した段階ですでに前の停留所で乗った学生であふれかえっており、満員に見えた。
 それでも、生徒たちはステップに足を載せて無理やり乗り込んでいる。見ているだけで息苦しくなってきた。
 「お客さんすみません。次のバスでお願いできますか」
 「あ、はい」
 運転手さんにお願いされ、俺はゆっくりとうなずいた。
 そして、無情にも閉まるドアを眺めながら、真っ青なベンチに座る。
 俺の後ろにはひとり女子生徒がいて、その子も仕方なさそうにベンチに座った。
 横目で見て分かったのは、髪の毛が肩の長さまであることと、紺色のブレザーを着ていることだけ。
 どう見ても同じ模試会場を目指しているので、少し気まずい。けれど、ここで話しかけるようなコミュニケーション能力は俺にはない。
 今日は見事な晴天で、春の澄み渡った空気が気持ちいい。
 ベンチに座ってぼうっと空を眺めていたら、頭の中になんとなく曲が浮かんできた。
 けれど、そんなことは意味がないとすぐにメロディーを脳内でかき消していく。
 作曲家になることなんて、自分にとっては遠い夢の話だ。
 どうせ俺には、長男の優と同じように未来が決められている。でも、ようやくひとりになった今くらい、音楽を楽しんだ方がいいかもしれない。
 そう思った俺は、リュックからヘッドフォンを取り出して、そっと頭に装着する。
 目を閉じて音楽の世界に浸ること数分、とんとんと肩を叩かれる感触があった。 
 「あの……」
 肩を叩いてきたのは、うしろに並んでいる女子生徒だ。
 彼女が不安げな瞳をこっちに向けてなにかを伝えようとしているので、ヘッドフォンを外して首にかける。
 なんだ……? 音漏れしてたか? もしそうだとしたら申し訳なく思う。
 「たぶん、接続外れてますよ」
 「え……」
 すぐに確認すると、たしかにワイヤレス接続が外れていた。音漏れどころの話ではない。スマホを操作し早急に曲を停止して、俺はぺこっと頭を下げた。
 「すみません」
 「いえ……」
 恥ずかしい、という感情でいっぱいになり、どうにか平静を装おうとスマホをいじるふりをする。
 自分が作った曲だと思われるわけがないけれど、心臓がバクバクと跳ねている。
 今までネットにひっそりアップロードするだけで、目の前で誰かに聞いてもらったことなど一度もないから。
 彼女は何事もなかったかのようにふるまってくれて、再び沈黙が流れる。
 ちょうどそのタイミングで、バスが遅延している情報が電光掲示板に流れていることに気づいた。
 「あ……」
 自分の声と、女子生徒の声が重なる。
 今同じことを思っていることが、空気から伝わってくる。 
 「これ……、次のバスでも間に合いますかね?」目が合うと、彼女は恐る恐る尋ねてきた。
 俺は「多分、別室で受けられるはずだから大丈夫」と極力落ち着いた声で返した。
 俺の返事を受けて、彼女は分かりやすくほっとしたような笑みを浮かべる。
 そのとき、胸に見覚えのある校章がついていることに気づいた。
 受けようとしている学校の生徒だ。心の中で静かに驚く。
 中高一貫なのに模試をちゃんと受けに来るなんて、真面目なんだなと思った。「あの……、こんなお願い失礼かもなんですが」
 感心していると、女子生徒がまた不安そうな顔で声をかけてきた。
 「さっきの曲、また流してくれませんか」
 思わぬ要望に、「え?」とまぬけな声が口の端から漏れ出てしまう。
 さっきの曲って……、俺が作った曲のことだろうか。
 「なんかすごく、落ち着いたんです。本当はさっき、このまま言わずに聴いているのもいいなって思ってたんですけど、バスに乗っても気づかなかったらかわいそうかなと思って」
 「いや……」
 「もう一度聞いて、今落ち着きたいなって……私、心配性で……」語尾に向かうほど声が小さくなっていく。
 その様子を見て、彼女も俺と同じように人見知りなのだと察した。
 それでも勇気を出して伝えてくれるほど、自分の曲を気に入ってくれたのだろうか。
 ……嬉しい。素直にそんな感情が広がっていく。
 「いいけど」
 ぼそっとつぶやいて、俺はスマホから曲を流す。
 「ヘッドフォン使う?」
 続けてそう提案すると、彼女は「え、ありがとうございます」と驚いたようにお礼を言って、控えめに受け取った。それから、ヘッドフォンを頭に装着して、黙って曲を聴きはじめた。
 たった二分の曲だけど、待っている間心臓が飛び出そうなほどどきまぎした。
 しかし、曲を聞き終えた彼女が、開口一番に「やっぱりいい曲」と笑顔で言ってくれたので、不安は一気に吹き飛んだ。
 「ノンタイトル……って曲名?」
 ヘッドフォンを外した彼女は、俺のスマホの再生画面を見てすぐに不思議そうに顔を顰める。
 言うかどうか一瞬考えたけれど、上手い言い訳も思いつかないので正直に話すことにした。
 「いや、自分で編集したから……仮の曲名」
 「え? 自分で作ったの……?」
 本当に驚いたというように、彼女は目を丸くしている。
 なんだか自分のポエムを読まれたかのように気恥ずかしくて、目を伏せる。「どこかに投稿とかしてるの?」
 「まあ、一応……」
 「そうなんだ。そういう人、初めて会った……」
 興味津々な顔で見てくるので、俺はそっと投稿画面を表示して見せた。
 同じ高校になる可能性が高いけれど、S高校はマンモス校だし、三年間同じクラスにならない可能性のほうが高い。
 一度きりの出会いだと思ったら、見せてもいいと思えた。別に、名前を教えあうわけでもないし。
 「……海外の人からもコメントあるね」
 「まあ、歌詞ないし、説明を英語でも書いてるから」
 「結構投稿数ある」
 騒ぐわけでもなく、静かに画面を見つめる彼女。
 「まあ、素人がつくったやつだから……」
 「すごいなあ」
 流そうとした俺の言葉を遮るように、彼女はぽつりとつぶやいた。
 「私の友達にも、こうやって動画投稿している子がいるんだけど、自分を発信するっ
 て……きっと勇気がいるよね」
 彼女はなぜか少し切なげな表情で、そんなことを語りだす。
 その友達と、俺のことをどこか重ねて見ているのだろうか。
 「普通の中学生は、知らない誰かに伝えたいことなんて、ないはずだから……」
 「いや、そんな大それたものじゃ……」
 「でも、誰かに届いてる」
 そう言い切って、彼女は初めてほんの少し笑顔を見せてくれた。
 その表情を見て、俺は一瞬言葉を失う。
 「すごいなあ、こうやって、世界と繋がれるんだ」
 俺が作った曲を聴き流しながら、彼女はしみじみそうつぶやいた。
 その言葉が、どうしてか胸の真ん中に突き刺さってしまった。やばい。泣けてくる。どうして? 自分でも分からない。
 彼女は、まるで宝物でも見つけたみたいに嬉しそうにしている。
 その姿を見て、唐突に目頭が熱くなってきてしまった。
 ばれないようにうつむいて、親指でそっと拭い去る。
 ――世界と繋がれてる。
 俺が? 本当に? そんなこと、できるのか?
 もう勝手に自分の人生は決まっていると思っていたけれど、俺の未来にもまだ可能性はあるのだろうか。
 そう信じてみても、いいのだろうか。
 家族の呪縛から解き放たれて、外の世界に出られる日が来ると、信じても。
 真っ暗な道に急に光が差し込んだかのような気持ちになった。
 今出会ったばかりの、彼女の一言で。
 「あ、バスもうすぐつくみたい」
 パッと顔をあげて、彼女は電光掲示板を安心したように指さす。
 俺は「ほんとだ」と返すも、心ここにあらずだった。 
 自分の未来がまだ確定してなどいないことに気づいて、死ぬほど安心したんだ。
 「乗ろ」
 「……ああ」
 バス、まだ来るな。もう少し話したい。……また会いたい。
 そう思ったのに、名前も学年も聞き出す勇気はない。
 ようやくバスが到着し中に乗り込むと、知り合いの生徒がすでに先に乗っていたよ
 うで、彼女は最後列の座席に向かって手を振っていた。
 「じゃあ試験、お互い頑張りましょう」
 それだけ小声で言い残して、彼女は同じ中学らしい女子生徒の隣に座る。
 合流している様子を、バスのドア付近から眺めることしかできない。
 「深青! 間に合ってよかったね」
 ミオ。その名前は、模試を受けている間もずっと、鈴の音のように鳴り響いていた。
 それはまるで、未来が開いていく音のように、聞こえたんだ。

 ◯

 記憶が無くなるまで、残り一週間を過ぎた。
 俺は相変わらず浅羽との出会いを本人に明かせぬまま、時間を無駄に過ごしていた。
 「久我山君。あの、ちょっといい……?」
 「え、俺?」
 「うん、久我山君」
 帰りがけ、ちょうど校門から出ようとしたところで、急に名前も知らない女子生徒に話しかけられた。
 今日はアルバム作業は、浅羽が図書館に用事があるというので休みになっている。
 最近は駅まで浅羽と一緒に帰る日が続いていたので、久々にひとりで校舎を出ようとしたところだった。
 小柄なショートボブヘアのその生徒は、「ちょっと、こっち」と小声で言いながら、人通りが少ない校舎裏まで移動していく。
 わけも分からずついていくと、彼女はふぅとひとつ深呼吸をしてから、じっと俺の目を見つめてきた。
 「突然ごめん。あの……、私隣のクラスなんだけど、伝えたいことあって」
 「……うん」
 「久我山君のこと……、ずっと好きでした」
 彼女はそこまで言い切ると、恥ずかしそうに目を伏せた。
 ……このタイミングで?
 伝える意味はあったのだろうかと、冷たい俺は真っ先に疑問に思ってしまった。
 「……ありがとう」
 色んな言葉を考えた末に、ひとことだけ返すと、彼女は全てを察した顔をしてぺ
 こっと頭を下げた。
 それから、「聞いてくれてありがとう」とだけ言い残して足早に去っていった。
 記憶がなくなるのに告白するなんて……と思うが、なくなるからこそ伝えておきたいということなんだろうか。
 俺だったら……、大切な人に、なにを一番望むだろう。
 なにかを伝えることじゃなくて、ただ一緒にいたいと、そう願うのかもしれない。
 その場に立ち尽くし考えこんでいると、背後でくしゅんというくしゃみの音がした。
 「あれ、浅羽だ」
 「ご、ごめん。盗み聞いてたわけじゃないんだけど、出るタイミング逃して……」そこには、心から気まずそうにして鼻を押さえている浅羽がいた。 そういえばここは、図書館の裏側だった。
 「聞いてた?」
 「うん……」
 問いかけると、さらに気まずそうな顔をする。
 俺はとくにそれ以上深掘りせず、「帰るところなら一緒に帰ろう」と提案した。
 どうやら、溜めていた本を図書館に返した帰りに、この裏庭からショートカットして校門に出ようとしていたところらしい。
 「……告白する人、増えてるみたいだね。気持ちを忘れる前にって」
 校門に一緒に向かう間、浅羽はさっきのことを補足するように、最近の生徒の様子を教えてくれた。
 「そうなんだ。あんなに皆メンタルやられてたのに、意外と切り替え早いな」
 「どんな感想なのそれ……」
 発言が冷たすぎたのか、明らかに引いている浅羽を見て、やばいと思い少し焦る。
 浅羽にだけは、極力変な人間だと思われたくない。
 「……いや、間違った。そうじゃない」
 「うん……?」
 「あのさ……、冷たい時あったら教えて。俺、人間としての反応、しょっちゅう間違えるからさ」
 「ふ……、なにそれ」
 素直に反省すると、浅羽は眉を下げて吹き出すように笑った。その笑顔を見て、思い切り胸が揺さぶられる。
 あのバス停で初めて出会った時の笑顔を、思い出したから。
 さっき告白してくれた女子の気持ちが、今少しわかってしまったかもしれない。
 そばで見守れたらそれだけでいいと思っていても、うっかり思いがあふれだしてしまいそうになる瞬間がある。
 「なんか、映って面白いよね。意外と話しやすいし」
 「それ、二つとも人生で初めて言われたわ」「面白いよ。もっと存在早く知りたかった」浅羽の言葉に、俺はぴたりと足を止めた。
 絶対にあの日のことを話しても、浅羽は覚えていないに決まっている。 だけど今、伝えたくなってしまった。
 「俺は知ってたよ」
 「え?」
 「浅羽のこと。知ってた」
 真剣な顔で言うと、浅羽は予想通りぽかんとした顔をしている。
 それから、「そうなんだ」と小さくつぶやいて、どうやって会話を繋げようか必死に考える顔をした。
 俺は今この瞬間まで、自分のことを欲が薄い人間だと思っていたけれど、それなりに欲があることに気づいた。
 「あのさ、深青って呼んでいい?」
 まったく脈絡のない要望に、浅羽は再び目をぱちくりとさせる。
 「うん……いいけど、突然どうしたの?」
 「ずっと呼んでみたかったから」
 ストレートにそう答えると、浅羽は……深青は、ますます返答に困った顔をした。変な人間だと思われているだろう。でももう、どうでもよかった。
 記憶が消える前に伝えたいという気持ちを、今完全に理解してしまった。あっさり考えが変わってしまった自分を、心の中で嘲笑する。
 もう見ているだけでいいと思っていたけど、近づくほど欲が湧いてくる。
 はからずも、記憶障害事件が背中を押してくれる形となってしまった。
 「卒業アルバムの作業、もうすぐ終われそうだな」
 「ああ、うん……そうだね!」
 「なんとかなりそうでよかったな」
 反応に困っている深青に助け舟を出すように話を続けた。
 話題が変わったことに対して、深青は心からホッとしている様子だ。
 そりゃそうだ。ずっと名前を呼んでみたかったなんて、急に関係値の浅いクラスメイトに言われたら、誰だってホラーだ。
 そんなことをぐるぐる考えながら、校門から足を踏み出した。
 「あのさ、映……」
 「深青ちゃん」
 そのときだった。
 深青がなにか言いかけたところで、前方の誰かが低い声で深青を呼び止めたのだ。
 他校の制服を着た、髪を低い位置でひとつ縛りにした女子生徒が、深青の前に突然立ちはだかった。
 「虹乃ちゃん……」
 突如現れた彼女の名前を呼ぶ深青の声は、凍えたように震えていた。