恋人関係になってから三週間経ったある日、無機質な白の病室のドアをノックする。
「はーいどうぞー」
 中から聞こえてきたのは、明るい女性の声。今日は咲良(さら)さんがい居るのか。
 ドアを開けて中を確認する。こっちを見ながらベッドの脇に座っているのは、早海咲良。『恵み』のモチーフとなった、早海樹月の姉だ。
「こんにちはぁ」
「おー、汐織ちゃん。来てくれてありがとね」
 彼女はうさぎのような可愛い笑顔で私を迎えてくれた。 切りそろえられたボブヘアは、その笑顔によく似合っている。
「樹月、深夜に体調崩してそれからまだ起きてない。私この後用事があるからさ、汐織ちゃん良かったらここに居てくれない?」
「あ、良いですよ、もちろん」
「ありがとう! あと、これも渡しといて」
 そう言葉を交わした後、私と彼女は場所を入れ替えた。小さく手を振る彼女に倣って私も手を振る。ドアが閉まる音共に、静寂が訪れた。
 何の気なしに彼を見た。
 鮮やかな青色が横たわる彼の首筋を侵食している。これは一昨日まで無かったもの。
 色彩は着々と彼の身体を蝕んでいるようだ。初めて彼の身体にある色彩を感じ、その病を身に染みて分からされた。
 胸がきゅーっと締め付けられる。心臓の鼓動を耳元で感じ、ふと呼吸が浅くなる。深呼吸でそれを落ち着けつつ、背後でニヒルな笑みを浮かべる恐怖という感情を消し去った。

𓂃✍︎

 数十分、無機質な機会だけが流れる空間に私は居た。何をするでも無く、ただぼーっと世界を眺めている。
 そんな私を、眠気が襲った。狭くなって少しズレる視界。閉じてしまいそうな目蓋を持ち上げる。

「私は君の色彩が知りたい……」

 微睡(まどろ)みの中、口を滑らせた。無意識に私の右手は彼の左頬を撫でていた。
 もう慣れたと思っていた色彩の消失。どうって事無いと思っていたそれに、久しぶりに喪失感を抱いた。色彩への憧れ。いつぶりだろうか、そんな言葉が頭に浮かぶのは。
 揺れる視界の中、彼の目が開くのが見えた。慌てて手を引く。
「……しおり、さん?」
 蚊の鳴くようなか細い声が耳に入る。喉に蓋をされたように、声がちっとも出てこない。
「なんで泣いてるんですか」
 あー、私、泣いているんだ。もう取り繕え無いや。彼の問い掛けにそう自覚した。
「なんでもないないよ。なんでもない。大丈夫」
 自分自身に言い聞かせるように掠れ声で言う。言葉の力は偉大だ。言霊なんて単語もある。だから、大丈夫。なんでもない。
「そういえばさ……そういえば、咲良さん、スケッチブック、新しいの置いていってくれたよ」
 鼻を啜りながらぽつりぽつりと言葉を並べた。涙を拭い今出来る精一杯の笑顔を作る。
「良いお姉さんだよね。私もきょうだい欲しかったわ〜」
 これは本心だが、嘘のように聞こえてしまうだろうか。まぁ良い。いつもを演じられればそれで良い。

 無理やり貼り付けた仮面の下で、私は心から恐怖していた。

𓂃✍︎

「汐織さん。汐織さんはなんで、書くのをやめたんですか」
 彼が目を覚ましてから一時間と少し。ゆったりとした時間を過ごしている最中、彼はそう訊いてきた。
「信じられないぐらい長くなるかもよ?」
「全然良いですよ。一から十まで、全部聞きますよ」
 背中を預け合うような会話の末、少しの迷いがありつつも私は滔々(とうとう)と語り始めた。

「私は、小学五年の頃から小説を書き始めたの。場所は色々で、公募に応募したり、小説投稿サイトで作品を上げたり。まあ正直、見向きもされなかった。何年も何年も、私は底の方に居る人間だった。
 でも絶対に辞める事はしなくて、一心不乱に書き続けたんだ。
 それで、高校生になって初めての夏。男女複数人の青春を描いた作品が大賞を受賞した。すっっごい嬉しかったよ。だって、書籍化もされて、憧れの先生の作品が並ぶのと同じ場所に、私の作品が並ぶんだもん。諦めずに書いてきて良かった。心の底からそう思った。魂が震え上がるぐらいに嬉しかったな……。
 それから私は高校三年間の間に、数冊書籍を出す事が出来た。全部、世間様は評価してくれた。その中には惰性で書いたものもあったけどね。喜んでくれたよ。
 でもね私、謳い文句が好きじゃなかったんだよ。『天才高校生作家』その文字に羅列が、なんか、ずっと嫌だったんだよね。
 受賞までを知れば分かる通り、私には元から才能が無かった。だから人よりも何倍も何倍も努力したんだよ。それで、努力をした先でやっと掴み取った称号を、『天才』だなんて。そんな一言だけで片付けられたく無かったんだろうね。
 受賞なんてしなければ良かった。って今になって後悔するの。当時は世界が変わったって大喜びしていたのに。自分勝手笑えるよね。ほんとに。
 ずっと私は『才能』とか『天才』そんな言葉たちに雁字搦めにされてた。皆、才能のある私を望んでいた。
 私は綺麗な言葉を紡がなくちゃいけない。そう思ったら、ちょっと生き苦しくなったんだ。
 こう言う表現が好きなんでしょ。こんなヒロインが好きなんでしょ。こんな甘酸っぱさを求めてるんだよね、って。樹月くんが描いた『荒野』と一緒。正しく作業だった。
 そしたらある日突然活字を見るのが怖くなってね。執筆しようとしても手が動かないんだよ。あの時はずっと息苦しかったなぁ。
 それと同時期に無色症になって、もう全部が嫌になっちゃって、受験という建前を使って小説から身を引いた。それで、今だね」

 そんな長い過去の話を、彼は静かに見守って聞いてくれた。たった一年前の話だが、すごく昔の事のように感じる。
 まだたまに、『作品を待っている』とそんな声を聞く事がある。しかし、私には書ける程の気力は残っていない。そんな声を見かける度に、「期待に添えなくてごめんなさい」心の中で謝っていた。
「ありがとうございます。教えてくれて」
 そんな彼の声に、過去の檻から解放される。こんな話を聞いてそんな言葉が出てくるのか。彼の優しい瞳は今、間違い無く過去の私を癒しているだろう。
「作品の価値って、どうやって決まるんでしょうね。初めはきっと技術なんでしょうけど、後になってくると多分、誰が創ったか、が作品の価値を決める一つの手段になって来るんですかね」
「うーん。そうだと思うな。……そこまで愛される人間になれたら、そんな作品を創れたら、未来を心配をしなくてもいいかもね」
 そうだ。数々の文豪も、もちろん画家だって、愛されていたから売れた。死後評価されたゴッホも、今愛されているから作品に価値が生まれた。
 今目の前に居る彼も、世間から愛された存在だ。 ただ虚無感に襲われる。私もそんな人間になってみたかった。

 そんな思いから脱出出来たのは、彼の言葉と言う鍵があったから。嘘だとしても、少し嬉しかった。


「汐織さんもそんな人間ですよ」