静寂の走る空間に足を踏み入れる。溜息が出る程に色彩の圧を感じた。多くの人が詰まった室内を二人で巡る。
 今回訪れたのは、ゴッホ作品の展覧会だ。生活の中でよく目にする世界中から愛された作品たちを、私たちは今、生で見ている。
 ああ、色が分からないのが残念で仕方が無い。しかしこの作品たちが愛される所以(ゆえん)。それは色が見えなくてもひしひしと伝わって来る。

 この世界には、魂が感じられた。

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 少し歩いた先にある作品の前で長く足を止める。
 それは花瓶から溢れんばかりに気高く咲き乱れるバラを描いた作品。背景の優雅な流れを感じさせる筆遣いが、私にとっては魅力的だ。
 この『薔薇』と呼ばれる作品は、(ほとん)どが灰色で、花弁は白っぽい色で構成されているように見えた。色が分かるのは、幾重にも重なる花弁の輪郭に使われる少量の青だけだ。
「すごいなぁ」
 心の底から溢れ出たような感嘆の声が聞こえる。ちらりと隣を見ると目を輝かせる彼の姿がそこにはあった。
 彼は作品の中に入ってしまうぐらいに目を見開いて、作品の細部を余す事無く、穴が空く程に見つめていた。
「凄いですよ、汐織さん」
 作品と目を合わせながら言う彼の姿は、いつか頭の中で描いた「創作を純粋に愛する人間」そのものだった。

 そう、どこまでも美しい人間。

 その姿に見惚れてしまう。私は作品よりも、隣に立つ佳麗な画家を見つめてしまった。
「あ、色! 色教えますね」
 その視線に気が付いた彼は小さな声でそう言った。どうやら私が説明を求めていると勘違いしたようだ。私は求めていない訳では無いが、今は少し、名残惜しさが残った。
「えっと、全体的に緑で構成されています。背景はミントグリーンで、周りの波のような模様はクリーム色です」
 その説明を聞いてふと思い出したのは、あの時私が好きだと言った蓮の作品だ。
「花瓶は黄土色で、それが置かれている所は瑞々しい緑色をしています。バラは、少しピンク掛かっていたり、黄味掛かっていたり、緑掛かっていたり様々ですね」
 そんな色彩を聞いて、目の前の絵画がどんどん色付いて行く。本当の色は分からないが、きっとこんな感じだ。……美しいじゃないか。とても。
 思わず目頭が熱くなる。彼からの色の説明を聞くといつもこうだ。いつからこんなに涙脆くなったのだろう。
「花の輪郭は…………」
 続いていく彼の言葉一つ一つを、重く吸収して行く。言葉を宝石に見立てて、丁重に扱い、飲み込む。ふつふつと溢れ出す色彩の海に、足掻く事も無いまま、溺れた。

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「あ、これは分かるやつですか?」
「うん。色が分かんなくなる前に見た事もあるから」
 そんな会話が繰り広げられたのは、『花咲くアーモンドの木の枝』という作品の前だ。
 青空の下、四方八方に伸びる木の枝から、白い花が開花の喜びを表すかのように無邪気に咲いている。その景色は麗らかなものだった。
 今まで見てきた作品とはまるで違い、少し、優しい印象を受けた。
「……愛情。深い愛情が、この絵には宿っているんですよ。知ってます?」
「もちろん。この作品は、知れば知るほど輝くね」
 人の為を思う誰かの気持ち。それもまた、真珠に似た眩いものだ。
 暖かな何かを抱えて、私たちはこの作品と別れを告げる。それはさながら、春のひだまりを凝縮したようなものだった。

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「やっぱ良いですね、星月夜」
「うん。全部見える気がする」
 人混みの後ろからよく目を凝らして見る。小さくそこにあるのは、『ひまわり』に並び愛されてきた、かの有名な絵画。『星月夜』だ。
 青色の夜空に星や月の放つ強烈な光が渦を巻く。目の痛くなるような色彩で描かれたそれらは、現実味が無く、気を抜けば吸い込まれてしまういそうだ。「波みたい」初めて見た時、そう思った記憶がある。夜の静かな村を見下ろすようにそびえ立つ、少々禍々しい糸杉が印象的だ。
 ゴッホ特有のうねるようなタッチが顕著に現れる魅惑的なこの作品は、見る者を魅了する、正真正銘の名作だろう。
「僕はずっと、こんな絵を描きたかったんですよ。空想と現実の狭間に存在する作品を、ずっと描きたかった」
 ぽろぽろと小さく零れて行く彼の言葉に耳を澄ます。その声は、淡い水彩画のように掴み所の無いものだった。
「僕、死ぬまでに、描けるんでしょうか。」
 不安そうな声に、こちらも唇を噛む。言葉は返せないままでいた。
 空間の時が止まったような感覚に陥る。何も聞こえず、静寂の中で水銀のように重い時間が流れた。
「いつか見てみたい。そんな気持ちは、あるよ」
 探り探りで口を開く。ここで何か粋な返答が出来たら、きっと未来は変わるのだろう。
「いや僕は…………僕は、描きます」
 闘志の籠った声に安堵する。彼が内に秘める青い情熱に触れた気がした。
 途端、せき止められていた空間の時が流れ始める。戻ってきた音は、うるさいと感じる程のものだった。
「汐織さん、待っててくださいね。描きますから。必ず。世界から愛を叫ばれる作品を」
「うん。待ってる」
 そんな短い返事。そこに全ての思いを乗せた。
 待っている。今目の前にある作品を初めて見た時の、あの衝撃を。ナイフで胸を刺されたかのような痛さの、あの色彩の圧を。心臓を掴まれたように身動きの取れないあの感覚を。待っている。

「でも、あんま早すぎないでね」