『早海樹月展』
数々の作品を背景に、青文字でそう書かれたポスターを目指して一直線に歩み始める。手には青いチケットだけを持ち、自分の足音だけを聴きながら私は受付へ向かった。
「この階の展示室をぐるーっと回ってから階段を降りて一階へ向かいます。一階の展示室も少し回って頂いた先が、出口となっております。どうぞごゆっくりお楽しみください」
その言葉を聞き終わってから展示室へ続く廊下を進んだ。廊下の壁には早海樹月に関する説明が並んでいる。『現代が生んだ天才高校生画家』そんな謳い文句がふと目に付いた。冷たい感情が通り過ぎて行く。『天才』の文字がどす黒く見えた。
美術館に赴いたのはいつ振りだろうか。チケットとの半券と引き換えに得たリーフレットを眺めながら、記憶を辿る。
思い出したのは三年前、高校一年生の頃だ。あの時も彼の作品を見に来たな。それ以外は小学生の頃に一、二回あったぐらいだろうか。あまり記憶に残っていない。こんな目になる前にもっと色々な作品を見たかった。と後悔が過ぎった。
ゆっくりと数十秒歩いて行き、『第三展示室』と書かれた扉の前で立ち止まる。開け放たれた扉から漏れる光に胸が高鳴る。深呼吸一つ、早海樹月の世界へと足を踏み入れた。
急に覚醒したように、全の感覚が研ぎ澄まされる。重い耳鳴りを覚えながら、息を呑んだ。呼吸を忘れた。
仄かな白い明りの下、鮮やかな美が口を広げる。大小様々な作品がゆとりを持って鎮座し、それはどれも華やかな光を放っていた。そんな気がする。
大きな室内で人々は思い思いに散っている。洋服の擦れる音、紙がめくれる音、靴が硬い床と接する音。囁き声と呼吸音。感嘆と恐れの音。そして作品の息遣いの全てが空間に溶け合い、室内が彩られた。
そのある意味異質な空間に高揚感を覚え、酔う。
監視員からの視線を感じ、慌てて息をする。頬が火照っているのが分かった。細く息を吐き、絶頂の中虚ろに、ふわふわと揺蕩う海月のように展示室を回って行く。
𓂃✍︎
長いような短い時間の末、小さな作品の前でふと立ち止まった。
「きれい……」
何の捻りもない純粋な言葉が小さく零れる。青や紫を基調に、どこからか立ちのぼる煙だけが描かれたその作品には、『rumor』と名前が付けられていた。
この絵は多分全部分かる。そんな嬉しさが弾けた。
私は一年ほど前からとある病を患っていた。約二年をかけて見える色彩を失って行く、無色症と呼ばれるものだ。今、私は半分がモノクロの世界を生きている。
特別生死に関わるものでは無いが、自らから命を絶とうとする者が一定数いるらしい。まあ、私はそんな事絶対にしないが。
そんな私がなぜここに来たのか。それは、半分だけでも彼の色彩を目に焼き付けておきたかったから。
この部屋を回って五分ほど。たった五分でも分かる。多少色が見えなくても分かる。この作品たちは、目が痛くなるほどの華々しい色彩を纏っていると。
𓂃✍︎
舐め回すようにじっくりと作品を見て行くと、とある一角に行き着く。そこでは二メートル四方の大きな作品が来場者を待っていた。
彼が世間に注目され始めたきっかけの作品だ。それを目にした途端、三年前に見た色彩が襲い掛かった。
黒地に赤やオレンジで描かれた女の横顔。目玉が零れ落ちそうなほど目を見開きながら白色の涙を流し、何かを叫ぶように開け放たれた彼女の口からは、極彩色の草花が咲き乱れている。赤、青、黄、緑、紫…………見る者に歯向かうような強い色をした草花の周りには、それらを抑制するように白や灰の色の無い粒が飛び散っていた。
鮮やかで、突き刺すような特徴的な筆遣い。荒々しく描かれたそれは、思わず目を引くものだった。
不思議な感覚だ。今では草花の一部しか色を見る事が出来ない筈なのに、何故か全ての色彩がはっきりと見えるようだ。
でも私は、この作品に心を感じた事は一度も無かった。
『荒野』
そう名付けられた絵画の前に、その人は居た。色の無いニットを来ている彼との距離は約一メートル。この一角には、私とその人の二人しか居ない。私は人の波に乗り遅れたようだ。
彼は額縁に囚われた絵に触れていた。作品の横には嫌でも目に入るぐらいの大きさの『作品には触れないでください』の文字。見えない訳が無い。監視員も何も気にしていないようだし、点検だろうか。それとも……。少しの恐れの混じる心で、口を開く。
しかし声帯を揺らす直前、察した。独特な雰囲気を醸し出す背中で分かった。彼が創作に狂った者だと。作者だと。
その背中は嘆いていると。
口を閉じ、一歩下がる。靴音一つ空気を揺らす。彼との距離がまた伸びた。音に気が付いた彼はこちらを振り返り、「来てくださってありがとうございます」とにこりと笑う。それから私の方へ向かって来た。
「これ、僕が描いたんですよ」
隣に立った彼は作品の方を向き、さらりと言った。彼が早海樹月。この世界の主。高級な猫のような美しい人だ。写真を見た事はあったが、ここまでとは。彫刻の様に整った顔立ちだ。まるで彼自身が作品になれる程に。
「早海さん、ですか」
「えぇ。早海樹月です。あの……初対面の方に訊くのもどうかと思うんでけど、どう思いましたか? この作品を見て」
彼はそのまま作品を眺めて言った。私もそれに倣って作品の方を向く。なんと返答するべきかかなり迷い、一生懸命頭を回した。
私の中での答えは決まっているが、これはどっちだろうか。彼が求めている返答はどちらだろう。素直な感想を求める人間か。それとも感嘆に溺れたい人間か。
「力強い色遣いや筆遣いが魅力的だと思います。まさに唯一無二の作品ですね。凄いですね」
答えは感嘆。結局誰もが喜ぶのはこちらだ。
返事を待つ。その数秒、そのたったの数秒で分かる。ふと目を向けた先の彼の瞳は寂しそうだった。どうやら私は二択を外したようだ。
「ありがとうございます。……でも率直にお願いします。貴女が感じた事、考えた事を、率直に。どんなに鋭くても僕は喜んで受け取ります」
「傷付けるかもしれませんよ」
「大歓迎です」
創作に溺れた人間だったか。
「では、素直に。…………私は嫌いです。この作品」
言ってしまった。いくらでもオブラートに包めたというのに、何故私はこういう時に限って言葉を選べないのだろうか。彼は「理由聞いても良いですか?」と少し嬉しそうな声色で言った。
「……荒々しくて、そして雑。そういうアートと言ってしまったらそれで終わりですが、それでも拭えない雑さが嫌いです。……そして何より。何より、作者の自我が感じられない」
「貴女ならそう言ってくれると思いました。この作品を見つめる瞳、冷ややかでした。とても」
そんなに分かり易かっただろうか。いや、彼にしか分からないものだろう。チラリと隣を見上げると、彼はスッキリとした顔をしていた。
「観客が喜ぶ作品。作業のように書いた作品がこれでした。こんな色彩が好きなんでしょって。この荒々しさが良いんでしょって。僕にとってこれは、無意味な作品です」
ふふっと笑う彼の瞳。それは酷く暗かった。底無し沼のように深く、光の一つも無い黒い瞳だ。
彼の言う事は痛いよく程分かった。コンロにこびり付いた油汚れの様に、脳裏に染み付いている感情だ。創作者と鑑賞者が求める物の乖離。
「世間様は美しければ、たとえそこに心が無くとも嬉々として評価してくれる。でもそれが良い事なのか悪い事なのかは、私には判断出来ません」
気付いたら零れていた、書いていた頃の本音。昨年まで私も彼と同じ謳い文句を貼り付けられていた。
目を丸くした彼に問われる。
「もしかして描かれるんですか」
「書いてましたよ。早海さんとは違いますが。…………それより、私この作品が好きなんですよ」
多少の気まずさを覚え話題を逸らした。私が向かったのは、『荒野』の斜向かいに位置する小さな額に納められた蓮の絵。
中央に鎮座する白い蓮の周りを灰色の葉が取り囲む『恵み』というその絵には、妙な温かさがあった。
「可愛らしいです。愛くるしいというか。とにかく、大好きです」
「ありがとうございます!」
満面の笑みでそう言った彼は、慌てて手で口を抑える。美術館だと言う事一瞬忘れてしまったようだ。
「これは姉を思って描いたんですよ。この葉っぱの緑は、姉が選んだ色なんです」
「そうなんですね。綺麗です」
そうか、緑か。普通に考えて見ればそれはそうか。彼の姉が選んだ色は、さぞかし美しいのだろう。ああ、見てみたかった。
「では、私は次に行きますね」
名残惜しいが、ずっとここにいては時間が足りないのでそう口にした。
「あ、一緒に回りませんか?」
そんな一言に声も出ないぐらいに驚く。
「早海さんが良いのなら」
そしてまた自分でも驚いてしまう返答が口を滑った。どうして断らなかったんだよ。自分自身に悪態をつく。
「もちろんですよ、行きましょ」
子犬のような笑顔で言う彼に懐柔され、流れに身を任せて一緒に回る事にした。
「ちなみにお名前は?」
「私は真澄です。真澄、汐織」
「綺麗な名前ですね。汐織さんって呼んでも良いですか?」
「もちろんです」
そんな会話の後、私たちは横並びで作品たちに背を向けた。
𓂃✍︎
十数分間、私たちの中で会話が生まれる事は極僅かだった。私が感嘆を漏らせば彼が感謝を述べる。私が曖昧に色を訊けば彼が鮮明に答える。会話と呼べるものはそれだけ。しかし居心地が悪い訳では無い。私は全てを語らない彼の姿勢が、とにかく気に入った。
一階へと続く階段を降りながら、珍しく彼が先に口を開く。
「汐織さんって普段何をされてる方なんですか」
「あー、普通に学生やってますよ。大学生生活一年目です」
「あ、じゃあ僕の一個上ですか? 僕十八なんで」
「そうですそうです。早海さんも春になったら大学生ですか?」
ここでふと会話が途切れた。数秒の沈黙の末、彼は言った。
「僕、彩色病なんですよ」
そんな告白に足が止まる。彼は、春を見る事無く散って行くのだろうか。
彩色病は、体中に色鮮やかな模様が浮き出て来るというものだ。原因不明のそれは、確実に死に至る病。治療方法も見つかっておらず、発症したら死を待つのみだ。
いつ死ぬかも分からないそんな彼の状況は、余命ゼロに等しいのかもしれない。
「僕は多分、冬を越せないと思うんです」
止まっていた足を動かし、平然と話す彼の背中に追いつく。
「春、一緒に見ましょうよ」
そんな言葉が無意識の内に放たれた。本人が冬を越せないというならばそれは確実だろう。でも私は一縷の望みに賭けてみたかった。
「見たいですね。春」
虚ろげに呟く彼の横で春を思い出す。淡い桃色の花弁と霞んだ青空。水彩で描いたような淡い景色。記憶の中の春は美しものしか残っていなかった。
私にとっての桜はもう真っ白な花弁の集合体だ。青空さえも、すぐに見えなくなるだろう。
「私も、春が見えるのかは分からないですけどね」
また無意識で発言する。しまった、と気付いてから言葉を撤回しようとするも、その言葉は彼にがっちりと捕らわれた。
「汐織さんって、無色症ですか?」
「なんで」
口ではそう言っておきながら、流石に納得する。今までの発言を辿れば推測は容易だろう。
「汐織さんが訊いてくる色に偏りがあったので。色相環の赤付近から青緑付近までの色は、汐織さんの世界にはないんですよね」
「正解です。……もっとしっかり見たかったぁ、って。恨みたくても恨む対象が居ないと困っちゃいません?」
先程より少し明るいトーンで、笑顔を浮かべて対応した。微かにずっと感じていた後ろめたさが消え去ったような気がする。その代わりに背後に付き纏うのは。ああ、これはなんだろう。
困り顔で彼は言う。
「ほんとにそうですよ。なんでだよって何回嘆いてもそれが届く事は絶対に無くて。誰の所為でも無いから、ただ素直にしんどいです」
「ですよね。どんなに嘆いたって変わらない。出来るのは暗い未来を待つ事だけ」
「ただ醜い感情だけを持って、目も当てられないぐらいに酷く地を這って生きているんです」
そんな会話は全て笑って交わされた。今まで溜まっていた毒を吐き出すように行われるその会話。そこには嘘も無く、また、一つの遠慮も無かった。
「なんか重い話しちゃいましたね。この展示室の先が出口です。行きましょ」
今まで以上に青い笑顔で彼は扉を指さした。もうすぐこの世界ともお別れか。そう考えたら少し寂しくなる。
私はまた、色に溢れた空間へと足を踏み入れた。
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「今日はありがとうございました」
共に頭を下げる。最後の展示室に飾ってあった作品たちは、彼の説明のもと脳内で美しくほかんされている。
さて、ここで別れを切り出せば私たちの関係は終了だ。楽しかった。ただそう思う。いつの間にか私の寂しさは、彼の世界へ向けてではなく、彼へ向けてに変わっていた。
「あの、僕基本的に病室で一人っきりなんですよ。だから、たまに遊びに来てくれませんか? 本当に、もし良かったらで良いんですけど……」
「良いですよ。もちろん」
そんな彼の問いかけに、考える前に声が出た。また間違えた。少々後悔する。
それからわたしは理解した。私の周りを彷徨くこの得体の知れない感情は、きっと、恋だ。