人間にとって苦労話や悲しい話が大好物なように、そうした工程がないと価値がないと思ってしまう。誰しも苦労して得たものほど、輝きがあると勘違いしがちだ。
苦しみを代償に得たものさえ、いつかはあっけなく消えてしまうのに。
それなのに、どうしてあんなに懸命に追いかけられるのか。
例え、運良く大きな苦労をしないで生きてきたとしたら、その人は価値がないと言えるのだろうか。
誰も正解は分からない。本当の事も知らない。教えてくれもしない。それでも、いつかその光を掴めるのだろうかと、自分達は望んでいた。
真緒が明衣の姿を目にすることが可能だったことを知り、明衣が心を痛めてしまったその翌日。彼女は実翔達の前から姿を消した。
それこそ最初はどこかに出かけているのかと思ったのだが、昨日の今日である。実翔は嫌な予感がして部屋を出た。
家の中にも彼女の姿はなかった。そもそも、誰の姿も見えなかった。
それと同時に悟ったのは、兄はもう、自分と同じように朝早くに登校しないということだ。
突然目の前から二人を失ったような気分がした実翔は、自然と膝から崩れ落ちた。
間違えた。
それは分かっている。だが、何が間違いで何が正解だったのか、まだ十代という若者である彼には、ハッキリと理解することが出来なかった。
それでも彼がやることは変わらない。
ここ数日のように朝早くに学校へ向かい、明衣の机の上に置かれている花瓶の手入れをする。
いつもだったら隣に明衣がいて、学校へ共に向かう兄は教室で予習などをしていて。習慣になり始めていたものが一気に崩れていくようで、目頭が熱くなったようだ。
真冬の水道は相変わらず冷たくて、この冷水を毎日寒い朝に浴びている実翔の手は少しだけ荒れ始めていて。それだけの日数がすぎていたのだと実感する。
真緒と実翔は同じ学校と同じ家で生きている。
当然それぞれの建屋の中ですれ違うこともあるのだが、真緒は周りに誤解をさせることないように、今まで通りに接してきていた。
家の中では家族に違和感を抱かせないように、食事だって共にとるし、露骨に避けることはしなかった。学校内でも、すれ違えばいつもと変わらない笑顔で声をかけてくる。ただ、教室に訪れることは無くなったが。
それが、実翔にとっては酷く恐ろしく感じた。
今までも、気が付かない中、兄はこうやって対応してきたのだろうか。周りに悟らせると面倒だからと、こうやって感情を表に出さないように。弟を憎いと思っても、その気持ちも見せない。
自分は、双子の弟のくせに、兄の何を知っていたんだろう。
それと同時に、明衣のことも、勝手なことをしすぎていたんだろうか。
一度考え始めると止まらない。何をしていても、頭によぎるのは二人のこと。
何をすればよかったのか、これから何をすればいいのか。分からない、というものがこれほど苦しくて恐ろしいものなのかと。
「……」
あの日から、実翔はまともな睡眠も取れていなかった。
夜中から朝に変わろうとする時刻に目が覚め、それ以降寝直すことも出来ない。
たまに頬に伝う涙に気が付いて、ゆっくりと体を起き上がらせ、片手で覆う様にして顔に添え、ぐしゃり、とそのまま髪の毛を握りしめる。その繰り返しだ。今日もそうだった。
ふ、と窓の外を眺める。まだ、朝は遠いだろう。けれど、二度寝をしてもどうせ眠れないか、もしくは悪夢を見るような気分がして、それはちょっと嫌だった。
ベッドの上で体育座りをして、膝を抱える。朝を迎えたくない、という思いと共に、夜よ早く明けろ、とも思っている自分もいる。
じっ、と待っているだけの時間は長い。
普段は気にならない時計の音が大きく響き、夜の街の音も聞こえてくる。寂しい夜が、どこまでも続いていくようだ。待っている間も、ずっと先程までの夢や昔の事を思い出して、気持ちが落ち込む。いっそ、頑張ってでも寝てしまえばよかった。そう思ったが、結局眠れないのは目に見えていたので、どうせこうしているのは変わらないのだろう。
ただ、ずっと待ち続けてどれだけ時間が経ったのか。外は未だにくらいままだが、アラームはきっちりといつも通りの朝早い時間を示していた。
窓まで移動してカーテンを開く。外は一面の雪景色。
ああ、今日も寒そうだ。
ゆっくりとベッドから足を降ろして、部屋着の一枚カーディガンを羽織る。ゆっくりと、音を控えめにするように部屋の扉を開ける。そこには誰も立っていなかった。
今まではずっと兄がいて、おはようと挨拶をしていたのだが、ここ数日の兄は自分から距離を取ろうとしているらしい。
自覚した途端、実翔は笑えた。
自業自得だ、と自分に言い聞かせて、朝食にしようとキッチンの方へ向かう。すると、早起きするようになってからは聞こえなかった、朝支度の音が聞こえてきた。
驚いて部屋に向かうと、そこには兄弟分の朝食を用意している母親がいた。目を開くと同時に、母は小さく笑みをこぼす。
「おはよう」
「おはよう……珍しいな、母さんがこの時間なの」
「目が覚めちゃったから、このまま起きていようと思ったの」
もしかして、自身が起きた時に物音を立てたりでもしただろうか。
そう不安に思っていると、笑いながら寒くて目が覚めたのだと愚痴をこぼす。
嫌になるわ、と手を擦り合わせながら息を吐いて温めようと必死にしている。その姿を見て、何だか実翔の心は無性に泣きたくなった。
「ねえ、母さん」
「ん?」
「好きだけじゃどうしようもないことって、あるのかな」
息子の問いかけ、そしてその内容に驚いて瞬いた。
だが実翔の表情と声色から、彼の中では真剣なものであり、今の彼の心が酷く苦しんでおり、その原因となる問題と直面しているのだと、親の勘で悟る。
椅子に腰かけている実翔の前に、向き合うように座り、テーブルの上で手を重ねた。
「何かあったの?」
「……上手く言えないんだけど、そうなのかなって」
ゆっくりと朝食のパンに手を取って、実翔は何もつけずに口に含んだ。いつもだったら忘れずにつける好物のイチゴジャムもつけていない。
「……確かに好きなだけだと難しい時もあるわね。人が相手でも、仕事でも、物でも」
指を折り曲げながら例を述べていく。
仕事も、好きになることや、好きなものを選ぶのは、一つの手段でもあり望ましいことでもあるだろう。だが、仕事とは好きだけで何とかなるものではない。沢山の苦労と、辛さと向き合うこともあるだろう。それが好きを選んだ場合なら尚更だ。母は仕事をしている身として、そう思っている。
物だとしても、好きなだけで集まることも、手に入れることも出来ない。手に入れる手段が金銭なら、お金を手に入れなければならない。趣味だとしても、それが成長するとは言いきれない。
人が相手だとしたら、それこそいちばん難しい。自分以外の心を操ることなど、出来やしないのだから。こちらが好意を向けて、向こうが必ず好意を返すという義務は無い。逆に言えば、相手からの好意も、必ず受け止めなくてはいけないという義務もない。
感情とは、己を守るために必要な機能なのだから。
「それでもね、好きという感情がないと、人間って動かないものよ」
「そうかな」
「ええ。勉強だって少しでも好きがないとやる気ないでしょ?」
それはその通りであって。
今では義務となった勉強でも、小さい頃からの入りはきっと『好きだ』という感情だったのだろう。幼い頃に選んだ習い事も、好きだからやりたかった。
それじゃあ、ここ最近の実翔の好きなことは何だったのか。それは最初からわかっていたことで、ずっと変わらなかった事実だった。
実翔が好きで望んでいたのは、真緒と明衣が仲良く一緒になることだった。
「そういうものかな」
「そういうものよ」
母親と話をして、己の心に抱えていた靄が薄れていくような気がした。悩みを口にすることで、自分で気持ちが整理できていく。
それはとてもありがたいことで、ずっと一人で抱えて悩んでいた兄の真緒には、きっとこれが必要だったのだ。
実翔はパンに何もつけていなかったことに気づいたが、今更ジャムを付けるのも気が引けたので、そのまま全部口の中に押し込むようにして含んだ。それを牛乳で流し込むようにして飲み込んで、椅子から立ち上がる。
「ごちそうさま!」
「お粗末さまでした」
立ち上がってからの行動は早かった。身支度を今まで以上に素早く整えて、紙にペンを走らせる。
相手に届くかは分からない、一種の賭けでもある。
――それでもアンタがこうやって伝えるのなら、自分も同じようにアンタの好きな方法で言葉を伝えよう。
驚くことに言葉はスラスラと出てきた。紙を部屋のテーブルの上に置き、彼女に教えてもらった簡単な折り方によって手紙をつくりあげた。
数日よりは遅いが、まだ間に合う時間だ。余裕のある朝でよかった、なんてさっきまでの地獄のような思いを正当化させながら。
防寒具を着込んで、鞄を手に取って、一人で家から出る。
少し駆け足気味で辿り着いた学校は、いつも通りに静かで冷え切っていた。
だが、少し気にしてみると、微かだが音が聞こえてくる。
体育館の方では、生徒の掛け声が響いていた。きっと運動部が朝練でもしているかもしれない。音楽室の方では、色々な楽器の音が響いている。吹奏楽部員たちが練習しているのだろう。
朝という時間は、もしかしたら己と向き合うのに向いている時間なのかもしれない。
実翔が教室に飛び込めば、そこには誰もおらず、変わらずに明衣の机の上に花の活けられた花瓶が置いてあった。
花瓶を手にして、花弁をゆっくりと撫でる。
「読まれていると信じたいものだ」
明衣が選んでいた花。花屋で選んでいる時も、兄は何を考えていたのか。それは実翔には分からない。
手洗い場に行き、花を抜いてから水を捨てる。蛇口をひねって水を出そうとすれば、蛇口が氷のように冷たく身震いした。吐く息は白く、冬の長さを嫌でも感じてしまう。
「碧木くん?」
花瓶を洗っていた際に、後ろから女子の声で名を呼ばれた。
慌てて振り向いてみると、そこに居たのは明衣の友人だった。
一瞬でも明衣かと思った実翔は、驚いて開いた目をゆっくりと伏せて、相手にバレないようにと、心を落ち着かせるため小さく息を吐いた。改めて考えれば、彼女からの呼ばれ方は違った。
蛇口から出ている水の音が響く中、ゆっくりと水を止めれば、空間が静かになる。
「俺に、何か用?」
「……うん。というか、碧木くんが明衣の花瓶を手入れしていたんだね」
ああ、と思わず声をこぼす。
そういえば、誰にも見つからない様に、こっそりとやっていたのを思い出した。それをまさか明衣の友人に見られるとは思いもせず、実翔は気まずそうに目を逸らし、頬を掻いた。
「これは、なんというか」
「えっと、言い方悪かったよね。何か文句とかあるわけじゃないよ。むしろ、こうやって変えてくれて私が嬉しかったから」
「君が?」
「うん。私じゃあ、きっと続かなかった」
彼女はどこか遠くを眺めるように、窓の外を眺める。つられて目を向けると、一粒一粒が大きな雪が、音もなく降り積もっていく。きっと、これから本降りになって、暫くすれば嫌になるくらい真っ白な空間になっているのだろう。
「あの子が死んでいるのを、毎日実感するようで。もういないんだぞ、って花に言われるような気がして」
「うん」
「きっと、泣きながら花を変えたんだろうなあ。だから、ありがとう」
まっすぐと実翔を見ながら礼を述べた彼女に、ぽつりと問うた。
「俺がやってて、良かった? 別の人が良かったとか、そういうの」
「ううん。碧木くんでよかった」
「どうして?」
「実翔くんは、明衣を大切そうに見ていたから」
思わず目を瞬かせると、彼女は笑いながら、気付いているのは私だけだと思うよと笑った。その言葉に安堵していると、こんな感じの会話を、明衣ともやったことを思い出す。
「好きだった?」
「そう、だな。恋愛とかではないけど、人としては好きだった」
「だと思った。だから、私も安心してた。だって、あの子は真緒くんが好きだったもんね」
バレバレじゃないか。
それでも、明衣は友人にもその気持ちを押し黙っていたようだ。友人である彼女も、こっそりと、心の中で応援していたようだ。
明衣もきっと、彼女のような友人が居て救われた一面もあったのだろう。
「俺も、知っていた。俺は本人に聞いちゃったけど」
「あはは、まあ兄弟が相手だったら気になるのは仕方がないよ」
笑い方が、どこか明衣と似ている、と思った。類は友を呼ぶ、とはこのことを言うのかもしれない。
『他人は自分を映す鏡』という言葉にもあるように、単純に相手がどうのではなく、自分を映す鏡として、人間は相手を見ている。
要は、優しい人の周りに優しい人が集まるのは、半分必然ともいえる、ということだ。
「だから、本当にありがとう」
そういって、彼女は実翔に何かを差し出した。
濡れていた手を雑に拭きとってから、差し出されたものを受け取る。それは手紙のように見えた。
「これって?」
「……明衣の親御さんがね、彼女の部屋に私のノートが置いてあることに気付いたんだって。それを昨日渡しに来ていたの。それで今朝、確認してみたらノートに手紙が挟まっていて」
宛名のところには、実翔の名が書かれてある。差出人の名前は、当然明衣だった。
驚いていると、友人は小さく笑みをこぼす。
「余裕のある時に、読んであげて。これから学校始まるし、慌ただしいと思う」
それだけ言うと、彼女は花瓶に水を入れ、それに花を活けた。
「いつも明衣の好きな花を選んでくれてありがとう」
それを手に取って、先に教室へ向かおうとする。その背中に向けて、彼女の名を叫んだ。
「ありがとう!」
礼を述べれば、友人は振り返って小さく笑みを返した。
ふ、と窓の向こうに目を向ける。まるで嫌なものを覆い隠すように、静かに、雪は積もっていく。時には荒れた気持ちを叫ぶように、大地に叩きつけながら雪が積もる。
預かった手紙に目を向ける。実翔はそのまま保健室へ向かった。それを教室から見守っていた明衣の友人は、担任にどんな理由を話すのが良いかと、小さく笑みをこぼした。
保険医に具合が悪いのだと口にすれば、優しく了承してもらえた。いつだって真面目に学生をしていたことが、功を奏した。
楽になるまでベッドで横になると良いこと。
途中で部屋を開けることはあるけど、大丈夫? と問われれば頷いた。保健委員を真面目にやっていたことも、こうしていい方向に回るものだと感心した。
半個室になるようにカーテンを閉め切って、ベッドの上で正座をする。
なるべく音をたてないように、ゆっくりと封筒から手紙を取り出した。思ったより枚数があることに驚きつつ、彼女からの言葉を受け止める覚悟を決めた。
苦しみを代償に得たものさえ、いつかはあっけなく消えてしまうのに。
それなのに、どうしてあんなに懸命に追いかけられるのか。
例え、運良く大きな苦労をしないで生きてきたとしたら、その人は価値がないと言えるのだろうか。
誰も正解は分からない。本当の事も知らない。教えてくれもしない。それでも、いつかその光を掴めるのだろうかと、自分達は望んでいた。
真緒が明衣の姿を目にすることが可能だったことを知り、明衣が心を痛めてしまったその翌日。彼女は実翔達の前から姿を消した。
それこそ最初はどこかに出かけているのかと思ったのだが、昨日の今日である。実翔は嫌な予感がして部屋を出た。
家の中にも彼女の姿はなかった。そもそも、誰の姿も見えなかった。
それと同時に悟ったのは、兄はもう、自分と同じように朝早くに登校しないということだ。
突然目の前から二人を失ったような気分がした実翔は、自然と膝から崩れ落ちた。
間違えた。
それは分かっている。だが、何が間違いで何が正解だったのか、まだ十代という若者である彼には、ハッキリと理解することが出来なかった。
それでも彼がやることは変わらない。
ここ数日のように朝早くに学校へ向かい、明衣の机の上に置かれている花瓶の手入れをする。
いつもだったら隣に明衣がいて、学校へ共に向かう兄は教室で予習などをしていて。習慣になり始めていたものが一気に崩れていくようで、目頭が熱くなったようだ。
真冬の水道は相変わらず冷たくて、この冷水を毎日寒い朝に浴びている実翔の手は少しだけ荒れ始めていて。それだけの日数がすぎていたのだと実感する。
真緒と実翔は同じ学校と同じ家で生きている。
当然それぞれの建屋の中ですれ違うこともあるのだが、真緒は周りに誤解をさせることないように、今まで通りに接してきていた。
家の中では家族に違和感を抱かせないように、食事だって共にとるし、露骨に避けることはしなかった。学校内でも、すれ違えばいつもと変わらない笑顔で声をかけてくる。ただ、教室に訪れることは無くなったが。
それが、実翔にとっては酷く恐ろしく感じた。
今までも、気が付かない中、兄はこうやって対応してきたのだろうか。周りに悟らせると面倒だからと、こうやって感情を表に出さないように。弟を憎いと思っても、その気持ちも見せない。
自分は、双子の弟のくせに、兄の何を知っていたんだろう。
それと同時に、明衣のことも、勝手なことをしすぎていたんだろうか。
一度考え始めると止まらない。何をしていても、頭によぎるのは二人のこと。
何をすればよかったのか、これから何をすればいいのか。分からない、というものがこれほど苦しくて恐ろしいものなのかと。
「……」
あの日から、実翔はまともな睡眠も取れていなかった。
夜中から朝に変わろうとする時刻に目が覚め、それ以降寝直すことも出来ない。
たまに頬に伝う涙に気が付いて、ゆっくりと体を起き上がらせ、片手で覆う様にして顔に添え、ぐしゃり、とそのまま髪の毛を握りしめる。その繰り返しだ。今日もそうだった。
ふ、と窓の外を眺める。まだ、朝は遠いだろう。けれど、二度寝をしてもどうせ眠れないか、もしくは悪夢を見るような気分がして、それはちょっと嫌だった。
ベッドの上で体育座りをして、膝を抱える。朝を迎えたくない、という思いと共に、夜よ早く明けろ、とも思っている自分もいる。
じっ、と待っているだけの時間は長い。
普段は気にならない時計の音が大きく響き、夜の街の音も聞こえてくる。寂しい夜が、どこまでも続いていくようだ。待っている間も、ずっと先程までの夢や昔の事を思い出して、気持ちが落ち込む。いっそ、頑張ってでも寝てしまえばよかった。そう思ったが、結局眠れないのは目に見えていたので、どうせこうしているのは変わらないのだろう。
ただ、ずっと待ち続けてどれだけ時間が経ったのか。外は未だにくらいままだが、アラームはきっちりといつも通りの朝早い時間を示していた。
窓まで移動してカーテンを開く。外は一面の雪景色。
ああ、今日も寒そうだ。
ゆっくりとベッドから足を降ろして、部屋着の一枚カーディガンを羽織る。ゆっくりと、音を控えめにするように部屋の扉を開ける。そこには誰も立っていなかった。
今まではずっと兄がいて、おはようと挨拶をしていたのだが、ここ数日の兄は自分から距離を取ろうとしているらしい。
自覚した途端、実翔は笑えた。
自業自得だ、と自分に言い聞かせて、朝食にしようとキッチンの方へ向かう。すると、早起きするようになってからは聞こえなかった、朝支度の音が聞こえてきた。
驚いて部屋に向かうと、そこには兄弟分の朝食を用意している母親がいた。目を開くと同時に、母は小さく笑みをこぼす。
「おはよう」
「おはよう……珍しいな、母さんがこの時間なの」
「目が覚めちゃったから、このまま起きていようと思ったの」
もしかして、自身が起きた時に物音を立てたりでもしただろうか。
そう不安に思っていると、笑いながら寒くて目が覚めたのだと愚痴をこぼす。
嫌になるわ、と手を擦り合わせながら息を吐いて温めようと必死にしている。その姿を見て、何だか実翔の心は無性に泣きたくなった。
「ねえ、母さん」
「ん?」
「好きだけじゃどうしようもないことって、あるのかな」
息子の問いかけ、そしてその内容に驚いて瞬いた。
だが実翔の表情と声色から、彼の中では真剣なものであり、今の彼の心が酷く苦しんでおり、その原因となる問題と直面しているのだと、親の勘で悟る。
椅子に腰かけている実翔の前に、向き合うように座り、テーブルの上で手を重ねた。
「何かあったの?」
「……上手く言えないんだけど、そうなのかなって」
ゆっくりと朝食のパンに手を取って、実翔は何もつけずに口に含んだ。いつもだったら忘れずにつける好物のイチゴジャムもつけていない。
「……確かに好きなだけだと難しい時もあるわね。人が相手でも、仕事でも、物でも」
指を折り曲げながら例を述べていく。
仕事も、好きになることや、好きなものを選ぶのは、一つの手段でもあり望ましいことでもあるだろう。だが、仕事とは好きだけで何とかなるものではない。沢山の苦労と、辛さと向き合うこともあるだろう。それが好きを選んだ場合なら尚更だ。母は仕事をしている身として、そう思っている。
物だとしても、好きなだけで集まることも、手に入れることも出来ない。手に入れる手段が金銭なら、お金を手に入れなければならない。趣味だとしても、それが成長するとは言いきれない。
人が相手だとしたら、それこそいちばん難しい。自分以外の心を操ることなど、出来やしないのだから。こちらが好意を向けて、向こうが必ず好意を返すという義務は無い。逆に言えば、相手からの好意も、必ず受け止めなくてはいけないという義務もない。
感情とは、己を守るために必要な機能なのだから。
「それでもね、好きという感情がないと、人間って動かないものよ」
「そうかな」
「ええ。勉強だって少しでも好きがないとやる気ないでしょ?」
それはその通りであって。
今では義務となった勉強でも、小さい頃からの入りはきっと『好きだ』という感情だったのだろう。幼い頃に選んだ習い事も、好きだからやりたかった。
それじゃあ、ここ最近の実翔の好きなことは何だったのか。それは最初からわかっていたことで、ずっと変わらなかった事実だった。
実翔が好きで望んでいたのは、真緒と明衣が仲良く一緒になることだった。
「そういうものかな」
「そういうものよ」
母親と話をして、己の心に抱えていた靄が薄れていくような気がした。悩みを口にすることで、自分で気持ちが整理できていく。
それはとてもありがたいことで、ずっと一人で抱えて悩んでいた兄の真緒には、きっとこれが必要だったのだ。
実翔はパンに何もつけていなかったことに気づいたが、今更ジャムを付けるのも気が引けたので、そのまま全部口の中に押し込むようにして含んだ。それを牛乳で流し込むようにして飲み込んで、椅子から立ち上がる。
「ごちそうさま!」
「お粗末さまでした」
立ち上がってからの行動は早かった。身支度を今まで以上に素早く整えて、紙にペンを走らせる。
相手に届くかは分からない、一種の賭けでもある。
――それでもアンタがこうやって伝えるのなら、自分も同じようにアンタの好きな方法で言葉を伝えよう。
驚くことに言葉はスラスラと出てきた。紙を部屋のテーブルの上に置き、彼女に教えてもらった簡単な折り方によって手紙をつくりあげた。
数日よりは遅いが、まだ間に合う時間だ。余裕のある朝でよかった、なんてさっきまでの地獄のような思いを正当化させながら。
防寒具を着込んで、鞄を手に取って、一人で家から出る。
少し駆け足気味で辿り着いた学校は、いつも通りに静かで冷え切っていた。
だが、少し気にしてみると、微かだが音が聞こえてくる。
体育館の方では、生徒の掛け声が響いていた。きっと運動部が朝練でもしているかもしれない。音楽室の方では、色々な楽器の音が響いている。吹奏楽部員たちが練習しているのだろう。
朝という時間は、もしかしたら己と向き合うのに向いている時間なのかもしれない。
実翔が教室に飛び込めば、そこには誰もおらず、変わらずに明衣の机の上に花の活けられた花瓶が置いてあった。
花瓶を手にして、花弁をゆっくりと撫でる。
「読まれていると信じたいものだ」
明衣が選んでいた花。花屋で選んでいる時も、兄は何を考えていたのか。それは実翔には分からない。
手洗い場に行き、花を抜いてから水を捨てる。蛇口をひねって水を出そうとすれば、蛇口が氷のように冷たく身震いした。吐く息は白く、冬の長さを嫌でも感じてしまう。
「碧木くん?」
花瓶を洗っていた際に、後ろから女子の声で名を呼ばれた。
慌てて振り向いてみると、そこに居たのは明衣の友人だった。
一瞬でも明衣かと思った実翔は、驚いて開いた目をゆっくりと伏せて、相手にバレないようにと、心を落ち着かせるため小さく息を吐いた。改めて考えれば、彼女からの呼ばれ方は違った。
蛇口から出ている水の音が響く中、ゆっくりと水を止めれば、空間が静かになる。
「俺に、何か用?」
「……うん。というか、碧木くんが明衣の花瓶を手入れしていたんだね」
ああ、と思わず声をこぼす。
そういえば、誰にも見つからない様に、こっそりとやっていたのを思い出した。それをまさか明衣の友人に見られるとは思いもせず、実翔は気まずそうに目を逸らし、頬を掻いた。
「これは、なんというか」
「えっと、言い方悪かったよね。何か文句とかあるわけじゃないよ。むしろ、こうやって変えてくれて私が嬉しかったから」
「君が?」
「うん。私じゃあ、きっと続かなかった」
彼女はどこか遠くを眺めるように、窓の外を眺める。つられて目を向けると、一粒一粒が大きな雪が、音もなく降り積もっていく。きっと、これから本降りになって、暫くすれば嫌になるくらい真っ白な空間になっているのだろう。
「あの子が死んでいるのを、毎日実感するようで。もういないんだぞ、って花に言われるような気がして」
「うん」
「きっと、泣きながら花を変えたんだろうなあ。だから、ありがとう」
まっすぐと実翔を見ながら礼を述べた彼女に、ぽつりと問うた。
「俺がやってて、良かった? 別の人が良かったとか、そういうの」
「ううん。碧木くんでよかった」
「どうして?」
「実翔くんは、明衣を大切そうに見ていたから」
思わず目を瞬かせると、彼女は笑いながら、気付いているのは私だけだと思うよと笑った。その言葉に安堵していると、こんな感じの会話を、明衣ともやったことを思い出す。
「好きだった?」
「そう、だな。恋愛とかではないけど、人としては好きだった」
「だと思った。だから、私も安心してた。だって、あの子は真緒くんが好きだったもんね」
バレバレじゃないか。
それでも、明衣は友人にもその気持ちを押し黙っていたようだ。友人である彼女も、こっそりと、心の中で応援していたようだ。
明衣もきっと、彼女のような友人が居て救われた一面もあったのだろう。
「俺も、知っていた。俺は本人に聞いちゃったけど」
「あはは、まあ兄弟が相手だったら気になるのは仕方がないよ」
笑い方が、どこか明衣と似ている、と思った。類は友を呼ぶ、とはこのことを言うのかもしれない。
『他人は自分を映す鏡』という言葉にもあるように、単純に相手がどうのではなく、自分を映す鏡として、人間は相手を見ている。
要は、優しい人の周りに優しい人が集まるのは、半分必然ともいえる、ということだ。
「だから、本当にありがとう」
そういって、彼女は実翔に何かを差し出した。
濡れていた手を雑に拭きとってから、差し出されたものを受け取る。それは手紙のように見えた。
「これって?」
「……明衣の親御さんがね、彼女の部屋に私のノートが置いてあることに気付いたんだって。それを昨日渡しに来ていたの。それで今朝、確認してみたらノートに手紙が挟まっていて」
宛名のところには、実翔の名が書かれてある。差出人の名前は、当然明衣だった。
驚いていると、友人は小さく笑みをこぼす。
「余裕のある時に、読んであげて。これから学校始まるし、慌ただしいと思う」
それだけ言うと、彼女は花瓶に水を入れ、それに花を活けた。
「いつも明衣の好きな花を選んでくれてありがとう」
それを手に取って、先に教室へ向かおうとする。その背中に向けて、彼女の名を叫んだ。
「ありがとう!」
礼を述べれば、友人は振り返って小さく笑みを返した。
ふ、と窓の向こうに目を向ける。まるで嫌なものを覆い隠すように、静かに、雪は積もっていく。時には荒れた気持ちを叫ぶように、大地に叩きつけながら雪が積もる。
預かった手紙に目を向ける。実翔はそのまま保健室へ向かった。それを教室から見守っていた明衣の友人は、担任にどんな理由を話すのが良いかと、小さく笑みをこぼした。
保険医に具合が悪いのだと口にすれば、優しく了承してもらえた。いつだって真面目に学生をしていたことが、功を奏した。
楽になるまでベッドで横になると良いこと。
途中で部屋を開けることはあるけど、大丈夫? と問われれば頷いた。保健委員を真面目にやっていたことも、こうしていい方向に回るものだと感心した。
半個室になるようにカーテンを閉め切って、ベッドの上で正座をする。
なるべく音をたてないように、ゆっくりと封筒から手紙を取り出した。思ったより枚数があることに驚きつつ、彼女からの言葉を受け止める覚悟を決めた。