クラスメイトの机の上に、百合が活けられた花瓶が置いてある。クラスメイトの大半が、一日限りの涙を流している。一つの話題で持ち切りな空間から、逃げ出すことも許されない。
 窓の向こうに見える、仄暗い雲から降っているぼた雪のように、嫌にずしりと重く、降りかかれば溶けて染み込んでくる湿り気で満ちた空気の中、今日は始まった。
 人間、体験したくないことは、自分の想像よりもはずっと多くあるのだと実感した。

 クラスメイトの空閑(くうが)明衣(あい)が死んだ。

 担任が言うには、死因は交通事故で、亡くなったのは昨夜。
 昨日は朝方が特に冷えて、雪が降る気候だった。朝に降った雪は昼間の温度で少しだけ溶けるが、夜になれば再び冷えた空気によって、まだ残っている雪や溶けた雪水が氷となって凍る。歩行者も、車を走行する人も、そういった日はいつも以上に気を張るものだ。
 だが、彼女は少し運が悪かった。いや、再三注意は受けていたのに改善はしていなかったので、自業自得だと述べる人も居るだろう。
 冬は夜が来るのが早いのに、彼女が身に纏っていたものは黒しかなかった、というのが含まれるかもしれない。切り揃えられた黒髪しか見えない後ろ姿では、顔も見つけてもらえない。制服は黒のダッフルコートで隠され、温かさ重視のタイツによって素肌は見えないに等しい。靴も滑り止めのついた黒いブーツで、背負っていたリュックも黒だった。光が当たれば少しでも反射するような、キーホルダーでも着けていればよかったかもしれないが、彼女は何もつけていなかった。
 一人で暗闇を歩いていた彼女は、走行していた車に見つかるのが一歩遅れた。当然と言えば当然だった。避けようとした車がスリップをし、そのまま車に轢かれた。アスファルトに頭から叩きつけられた彼女は、即死だったという。
 先生が涙ながらに語っていたのが、クラスの女子に伝染した。それほど仲が良かったか? と疑問になるくらい、クラスの女子の大半は涙を流していた。男子は顔を伏せたり、どこか遠くを眺めている人が多かった。
 碧木(あおき)実翔(みと)も例に漏れず、少し現実離れしたような出来事のように思え、どこか遠くを眺めていた。

 同級生の死はあっという間に学年、そして学校中に広がった。チラチラとクラスを覗き見る、通りすがりの生徒たちの目が、少しうるさかった。
「実翔」
 ふと、廊下側の窓から名を呼ばれた。その窓の真横に席を構えている彼は、頬杖をついていた顔を上げて、呼ばれた相手に目をやる。そこには、彼の双子の兄である碧木真緒(まお)が立っていた。
 彼がクラスに顔をのぞかせば、クラスの女子の顔や声が気色立つ。彼は俗に言うイケメン、だからだ。
 イケメンとは、顔だけではなく、性格やその人物の纏っている空気も含まれて、そう呼ばれるのだろうと、実翔は考えている。

 弟は双子の兄の見目も性格も含めた人間性に、少しだけ嫉妬をしていた。

 一卵性の双子というだけあり、碧木兄弟は顔つきも体格もよく似ていた。だからこそ区別がつくように、兄が自ら容姿を少しだけ変えた。微かに明るいナチュラルブラウンに染めた髪色がそれだ。
 兄弟そろって同じツリ目なはずなのだが、真緒は万人受けするような穏やな笑みを普段から浮かべ、他者を受け入れやすい性格も重なり、彼の方が男女共に交流の幅は広い。

「わ、真緒くんだ……! 朝から見れた」
 当人には聞こえないであろうボリュームで、歓喜する声が聞こえた。小さくため息がこぼれそうになるが我慢だ。
 弟は昔から変わらない黒髪で、兄よりも他人と交流するのが少ないのも含め、表情を大きく変える機会が少なく無表情で居るのが多いため、同じ顔立ちではあるが、顔つきが少々違うように見える。
「……何?」
 こうした男の双子、それも高校生となれば思春期も迎え、個人のアイデンティなどに苦悩も抱える年代だ。人気のある兄に嫌悪感を抱いても不思議ではないだろうが、弟は兄に対してそうした感情を抱くことは無かった。
 嫉妬はするが、嫌悪することは無い。
 双子という、他者よりも揶揄われやすいコンテンツをもって生まれた二人だ。幼少期から、兄は弟を守ろうと奮闘したこともある。髪を染めたのもその一つだが、それは追々述べるとする。それを知っているからこそ、弟は兄を嫌いになりきれないのだ。
「いや、少し忘れ物をしてしまって……でも、タイミングが悪かったかな」
 少しだけ寂しそうで、申し訳なさそうな顔をする。「うわ、やっぱり優しい」というつぶやきも無視をした。
「別にいいよ。何忘れたの」
「ああ、古典なんだけど」
「良いよ。今日の五限までに返せよ」
 引き出しから取り出して、そのまま彼に手渡せば、彼は柔らかい茶髪を揺らしながら礼を述べた。
 クラス内に少しだけ目を向け、最後に実翔の方へ向かって小さく笑みをこぼしてから去っていった。噂になっている女子が、流石の兄も少しは気になったのだろう。

「実翔くん。保健委員、任せても良い?」
 体の向きを戻そうとした瞬間、声をかけてきたのはクラスの女子だった。
 今度はそちらに体を向ければ、彼女の腕の中に背中を支えられるように抱えられている一人の女子が居た。抱えられている相手に目を向ければ、覚えがあった。
 明衣と仲良くした友人の一人だったと、つたない記憶で思い出す。友人の訃報を聞いてショックを受け、友人を亡くしたというストレスで、気分が悪くなったのだろう。
 目元が赤いのに対し、顔色が青いのがその証拠だ。
 椅子から立ち上がって、彼女の許可を取ってから背中を支えて、保健室に向かおうと促す。いつもだったら、友人だった空閑明衣を頼るのだろうが、当人が死んでしまったのだ。仕方がないだろう。
「うう、本当にごめんね……」
「本当だな」
「うん? 実翔くん何か言った?」
 ふと聞こえた懺悔へ返す、実翔のぽつりと呟いた声は小さかっただろう。けれど、ほぼ腕の中という近距離に居た彼女には聞こえていたらしい。小さく笑みを浮かべるように気を付けて、何でもないとごまかした。
「笑った顔は、そっくりだね」
 うるさいな、と心の中で声をこぼす。今、この感情を表に出したら、周りから変な人として見られてしまう。
 死んだクラスメイト、空閑明衣は幽霊として存在し、周りは可視することが出来ず、姿を見つけた実翔の傍にいる。
 そしてそんな彼女は、双子の兄である真緒が、ずっと好きだった。


「空閑さんって真緒のこと好きだよな?」
 夏場の話だ。
 実翔の言葉を聞いて、彼女が大層間抜けな顔をしていたのを彼は覚えている。
 その顔のまま、何で分かったのかと彼女は震える声ながらに聞いてきた。とりあえず、安心させるために、兄も気付いていないし、気付いたのは多分自分だけだと言えば、幾分安堵したようだ。見ている側からすれば、彼女の好意は随分分かりやすいと思ったが。
 何度も述べてはいるが、実翔と真緒は双子の兄弟であり、顔の造形は同じようなものだ。今でこそ差が多少あるが昔は性格も、浮かべる表情の種類も、纏っている雰囲気も似ていた。
 だからこそ、恋に恋する年代の女子達は顔の整った双子それぞれに対して、まるで好感度をキープするように態度が大きく変わることは滅多に無かったが、明衣は明らかに違った。
 弟は友人、兄は想い人、という態度の違いが、当事者だからこそよく見えた気がしたのだ。
 クラスが違うから、兄と彼女が関わることは滅多に無い。だけど、弟とは同じクラスの保健委員として共に過ごしていた。
 クラスの位置、彼の席の位置の影響もあってか、兄はよく弟の元に顔を覗かせていた。用が特別にあるわけでもなく、ただ顔を見せて会話をする。要件があればスマホで連絡でも取ればいいのに、兄はわざわざ弟のクラスへ足を運んだ。
 その度に、周りは「仲がいいね」と少し揶揄ってくるが、明衣は顔を少しだけ伏せて、何でもないと言わんばかりの顔をしていた。だが、彼が去った後の顔は大抵赤かった。
 実翔は、その様子を見るのが、割と好きだった。
 双子と自分たちを簡単にひとくくりにせず、それぞれをちゃんとした一人ずつの人間として接し、結果として個として一人を愛していた彼女は友人として好ましかった。大切な身内と仲良くなればいいのにと、心の中で思っていた。のだが、それがこれだ。
 明衣は真緒と付き合う以前に、直接自身の思いを告げることも、自分から接していくことすらしなかったまま、その命を終えた。


「じゃあ先生、あとはお願いします」
「はいはい、任されました」
 保健室にクラスメイトを送り届けると実翔の後ろにいる彼女は、まだ申し訳なさそうな顔をしていた。そんな顔を見たくなくて、彼女に背を向け、教室に向かう足を速める。
「ごめんね」
 言うのが遅い、と口から出さずに済んで助かった。
「ねえ、聞いても良い?」
「ん?」
 保健室から教室に戻るまでの、誰も居ない冬の静けさで満ちた廊下で、実翔は彼女に問いかける。
「何で俺の元に来たわけ?」
 どうして自身の元に明衣が来たのか、実翔には理解できなかった。
 学校に課題を忘れたからという理由で、朝イチで学校に向かえば、出迎えたのは自称幽霊の彼女。なんでいるのかと問えば「気づいたらここにいた」と返されるわ「私死んじゃったから」とも言われるわで、実翔は頭が痛くなった。
 最初はからかっているのか、それとも質の悪いイジメ(机の上に花をいけた花瓶が置いてあったので)かと思ったのだが、続々やってくるクラスメイトがその花瓶を見て顔色を悪くし、明衣が居る方に目を向こうともしない。まるでそこに存在していないと言わんばかりに。
 そこで漸く、彼女は本当に死んで、幽霊になったのだと実感した。
 それだとしたら、こうした展開の定番は、好意を抱いていた相手に憑りつくものではないだろうか。
 恋愛経験もまともに無く、心霊などにも詳しいわけでもない。ただ、創作世界では、亡くなった場合、恋人や家族の傍に居るのが多かったはず、と思い起こす。
 彼が彼女を見た限り、行動範囲に制限は無さそうだった。自由で縛りも無いのであれば、恋をしていた相手の元に居たがるのではないだろうか。そう思ったのだ。
「……あ、そうだよね。普通に考えれば迷惑だったよね」
「いや、違う。やり残したことあるのかなって」
「沢山あるよ?」
 友達ともっと一緒に居たかった、実はもう少しあの先生の授業を受けていたかった、大学に進学したかった、大人になりたかった。
 指を曲げながら、未練を口にしていく。それは実翔からすれば、これから待ち受ける当たり前の未来ばかりで、その当たり前を彼女は奪われてしまったのだと再認識させられる。
「でも、それは仕方ないから。未練というほどでもないかな」
「何か手伝ってほしいとか?」
「手伝う……いや、うーん……とくに」
「じゃあ、何で真緒の元に行かなかった?」
 彼の率直な問いかけに、彼女は数回瞬きをする。
 想い人であった兄の元を選んだら、自身ではなく兄に姿が見えて、もしかしたら好いている相手とずっと共に居られるかもしれない。
 実翔は他の霊を目視出来ていないが、きっとこの世の中、彼女の他にも幽霊と呼ばれる存在は多くいるのだろう。
 だったら、今更一体増えても問題ないかもしれない。好いている相手の傍に居続けても許されるかもしれない。
「もしかしたら、想いを伝えられるかもしれないだろ」

「成程。実翔くんは、この姿でも恋愛できるとか思ってるんだ?」

 少しだけ笑われたような言葉に、名を呼ばれた当事者は小さく息を飲んだ。生前の彼女と関わってきた中で、こうした空気を纏ったことは無かったはずだ。
 兄と同じく、誰に対しても穏やかで。偶に冗談を口にすることはあるが、誰かに向けて皮肉を言ったり、鼻で笑ったりすることは無かった。当然、実翔も経験したことは無かった。
 軽々しく彼女の怒りに触れてしまったのかもしれない。
 小さく息を飲んでから謝ると、何で謝るのと、変わらない顔で口にする。背中に汗が一筋流れた。
「ああ、言葉が悪かったよね。別に亡くなった相手を想い続けたり、実際にそうした恋愛が可能だとしたら、その人達を否定したいわけじゃない」
 彼女は真っすぐな声で、笑みを浮かべたままだ。
「ただそうした場合でも、あくまでもしもの話。私では出来ないと思っているだけ」
「何故?」
 無粋な問いかけだっただろう。けれど、どこか大人びて答えている彼女の心を知りたいと思った。
「単純だよ。ずっと幽霊でいるのはリスクが高いはずだもの。君だって、大切な人を危険な目に遭わせたくないでしょ?」
 脳裏に過ったのは、双子の片割れである真緒だった。
 目の前にいる彼女とは違う形の愛を、家族愛という形の感情を、実翔は真緒に向けている。その思いを、幽霊である明衣に見透かされている様だった。
「私がこの姿で現世に留まれる日時は決まっている。それが過ぎると悪霊になってしまうかもしれない。それなのに、未練がずっと続いてしまったら? 成仏が出来なくなったら? 悪霊となって酷いことをしてしまったら? そもそも相手に何も与えることもできない、徳のない幽霊女を傍に置く? そんな状況でも、果たして生前と変わらない愛の形と言えるのかな」
 彼女の言葉に、何も言い返すことは出来なかった。明衣は正論と言われるものを確かに抱え、この世の理をきちんと理解し納得していた。他者である己が、勝手な理想を押し付けているようだ。
 無意識に強く拳を握る。そんな実翔の姿を見て、明衣は先程までの空気を吹き飛ばすよう、彼が見慣れた、生前と変わらないカラッとした笑みを見せた。
「ごめんごめん。だからと言って、実翔くんはどうでもいい、とかじゃないよ。危なくなったら消えるから安心して」
 友人に、消えるから安心してほしい、という言葉を貰って安堵することなど出来ようか。少なくとも彼は、悔しいという感情と共に、寂しさで胸が締め付けられそうになった。
「ただ、君の傍には真緒くんがいるでしょう?」
「双子だからな」
「そう。だから、見る専としての立ち位置としては最高なの。だから少しだけ許してほしいな」
 手を合わせながら言うが、彼女は最後に少しだけ自虐気味に笑う
「第一、生前に『好き』の一言もまともに言えなかったくせに、好きな人に憑りつくとか、調子が良すぎでしょ」
「でも、」
「実翔くんは優しすぎるね」
 少しだけ憐れむような、悲しんでいるような、そんな瞳で見つめられてしまえば何も言えなくなってしまう。

 好きな相手に思いを告げられない人など、学校内だけでも沢山いるだろう。規模を広げれば、どれだけの人間が己の気持ちを素直に伝えられるだろう。告白をしないまま終わる人は大勢だろうに。
 タイミングが少し遅くなっただけで、言葉を述べるだけだったら自由なはずだ。それが、実翔の明衣に向けた一番の考えだった。ただ、それは己のエゴだとも分かってはいた。
 彼女は、自身よりも真剣に自身の事を考えてくれる想い人の弟の姿を見て、驚きつつも小さく笑みがこぼれ出たのが分かった。彼が考えていることも、自然と察せられた。
「死者の言葉なんて、嫌に忘れられないものだよ。そんなの、卑怯じゃない」
 実翔は少し諦めたような表情と空気を出している明衣を見て、自身と彼女の意見がかみ合うことは無いのだろうと、嫌でも察せられ、少しだけ視線を下げることしかできなかった。