儚くて透明な最後の冬に、春の声を感じた

「大学、受かった~!」
「いいなぁ、国公立の結果なんて卒業したあとだよ?」

 三年前は高校に入学できるか不安で堪らなかったはずなのに、今では高校を卒業したあとの進路に恐怖と不安を抱いている。
 中学を卒業するときは、ほとんどの人たちが高校の進学を目指していた。
 でも、高校を卒業したら、思っていた以上に世界が広がるってことを知った。

「今から、私立にしようかな……」
「合格すれば、もう遊んでられるからねー」

 大学に進学する人もいれば、専門学校に進む人もいる。
 就職する人もいて、高校を卒業したらすぐに海外に旅立つ人もいる。
 みんながみんな、ばらばらになっていく。
 暦上では秋が終わりへと向かい、もうすぐ冬が訪れる頃。
 ただでさえ肌寒いのに、みんながそれぞれの人生を形成している途中だと告げられる毎日は更に心身を震えさせる。

藤島(ふじしま)さん」

 クラスメイトの声に耳を澄ませていたら、左隣の席から声が届けられる。

「目つきが険しいよ」

 マスク越しの、その声の主は織原(おりはら)くん。
 くぐもっているはずなのに、私は彼の声に気を引かれた。

「先に進路が決まる人が出てくると、焦っちゃうよね」

 小学生の頃までは、隣の人と机がくっついていた。
 でも、中学になると、隣の人は隣の人ではなくなった。
 くっついていたはずの机が離れて、みんなが孤立して授業を受けるようになった。

「気持ちはわかるけど、生きてる限りなんでもできるんだから」

 小学生の頃までは、机をくっつけてのグループ活動が多かった。
 みんなで話し合う機会が多かったけど、年齢を重ねれば重ねるほど、隣の席の人は他人だと感じるようになった。
 クラスメイトでも仲間でもなんでもなく、隣の席に座る人は他人。

「笑ってみてよ、藤島さん」

 私が中学二年のとき、とある感染症が流行した。
 私たちは感染症を予防するために、普段からマスクをつけることになった。
 新しいクラスで友達を作りたいと思っていたけど、初めてのマスク生活は私の声を閉じ込めてしまった。

「マスクしてるから……笑顔とか、関係ないと思う……」

 もちろん、まったくしゃべらないわけじゃない。
 でも、自分の声が、そんなに好きじゃないって気づいた。
 自分の声で話すことが、恥ずかしくなってしまった。

「口元……見えないから……」

 自分の声に自信がない。
 自分の声で話すのが恥ずかしい。
 そんな私は、高校三年になってもマスクを外すことができない。
「藤島さん」

 マスクをつけるのは自由ですよって、先生は言ってくれた。
 でも、自分の声が好きじゃない私は、今日もマスクを外したくない。
 マスクは、私の声をはっきりと伝えないでくれるから。
 マスクは、私の声を隠してくれるから。
 だから、感染症が流行してもしなくても、私はマスクを外したくない。
 私の声は、ずっとマスクの中に閉じ込めていたい。

「ありがと、言葉を返してくれて」

 織原くんの声は澄んでいて、男性特有の低音とはまた違う響きを持っている。
 そんな彼から送られる『ありがとう』の言葉を、ずっと記憶に留めておきたい。
 他人だった織原くんの声を覚えておきたいなんて、可笑しな気持ちが動き始める。

「藤島さんの、それって」

 織原くんが、自分のつけているマスクを指差す。

「インフルエンザとか、感染症対策?」

 大抵の人は感染症対策でマスクをつけていると考えるはずなのに、それ以外にマスクをつける理由があることを織原くんは知っているみたいだった。

「たまには大きく息を吸い込んでみたいよね」

 私の場合は、自分の声を聞かれたくないっていう防御的な意味も込められている。
 でも、それらを素直に伝えていいのか戸惑う。

「…………」

 織原くんも、私と同じマスク仲間。
 受験生で溢れ返るクラスの中では、マスクをつけていない人の方が珍しい。
 それでも、マスクを着用することを選べるようになった私たち。
 だんだんとマスクからの卒業を選択して、見慣れたマスクだらけの教室に少しずつ変化をもたらしていく。

(織原くんは、私にとっての他人……)

 他人に、自分の声が嫌いと告白したところで理解してもらえるわけがない。
 高校生にもなれば、声が嫌いってことをからかってくる人もいないとは思う。
 でも、躊躇う。
 それでも、自分の事情を曝け出すのは躊躇ってしまう。

「藤島さん」

 適当に相槌を打って会話を終わらせてしまえば良かったのに、それをしなかった私は織原くんに不信感を与えてしまった。
 顔を上げて、どんな言葉を返されるのか覚悟を決める。
 すると、待っていたのは織原くんの怒った表情ではなかった。
 私を待っていたのは、織原くんが普段使用しているノート。



『藤島さんの声が好きだから』


 
 ノートの中には、織原くんの文字が綴られていた。

「マスクつけてんの、寂しいなーって」

 マスクをつけている私たちは顔の半分以上が覆われていて、お互いの表情を確認することができない。
 目と声でしか相手の機嫌を感じ取ることができないのに、織原くんは笑っているって確信が持つことができた。
「次のところは……藤島(ふじしま)さん」

 現代の国語の授業のときに、教科書に載っている物語を読むときがある。
 教科書の朗読なんて小学生のときまでだと思っていた私にとって、朗読の機会があるってこと自体が嫌だと思った。

「藤島さん、ありがとう」

 声が小さくても、先生は怒らない。
 怒られないなら、それでいいって思うかもしれない。
 でも……。

「次は、織原(おりはら)さん」
「はいっ」

 クラスに、物語を読むのがとても上手な男の子がいる。
 それが、私の左隣の席に座っている織原くん。
 織原くんが物語を読むと、クラスの空気が変わるのがわかる。
 眠そうにしている人も、教科書に視線を向けていた人も、みんなが織原くんに注目する。

「凄く感情が込められていたから、みんなの注目集めちゃったね」

 クラスのみんなから、織原くんに拍手が送られる。
 これが、現代の国語の授業に決まって行われる定番行事。

「藤島さん」

 今日の授業では、もう指名されない。
 こっそりと溜め息を吐き出そうとしたところ、更にこっそりとした声が左の席から届けられる。



『やっぱ好き 藤島さんの声』



 ノートに綴られた、織原くんの文字。
 私が文字を認識できたと確認できた織原くんは、前を向いて再び真剣に授業へと向き合った。

(私の声を知ってる人なんて、ほとんどいないのに……)

 私の声の、どこに魅力があるのか。
 織原くんの朗読を聞いていると、素直に織原くんの声の方を羨ましいと思う。
 どうして同い年なのに、ここまで声に差が出るのか。

(怒られなければ、それでいい……)

 違う。
 本当は私も、織原くんみたいに綺麗に話せるようになりたい。
 先生に言われたことをやるだけじゃなくて、織原くんみたいにもう少し先に私も進んでみたい。

(そう思っているけど……)

 自分の声を隠してくれるマスクという存在から、いつまで経っても卒業できない。

「織原が好きなの?」

 授業が終わったあと、私は友達と楽しそうに話す織原くんに視線を向けていたらしい。
 クラスメイトの指摘を否定するために、私は首を大きく横に振る。

「さっきから、織原の方ばっかり見てる」

 また、首を大きく横に振る。

「思いっきり否定するところが怪しい」
「藤島さんで遊ばない。可哀想でしょ」
「ごめん、ごめん」
「藤島さんはね、純粋なんだからね」
 
 可哀想という、言葉の意味が分からない。
 純粋という、言葉の意味がよく分からない。
 自分を称する言葉として、中学の頃くらいから使われるようになった。
 藤島さんは純粋だから私たちとは違うって、いつの頃からか線引きをされるようになった。
(私は、みんなと同じなのに……)

 線引きをされた私は、再びマスクの世界へと閉じこもる。
 午後の授業の準備をしようと思って、机の中から教科書を取り出そうとしたときのことだった。
 教室を流れている空気が変わった。

「…………」

 昼休みだから、織原くんがどこに行こうと何も気にすることはない。
 でも、織原くんがいなくなった教室を(まと)う空気の寂しさに気づいてしまった。
 廊下へと向かって行く織原くんに視線を向けてしまったが、最後。
 次の授業の準備なんてどうでも良くなってしまって、自然と動き始めた私の足は教室からいなくなった織原くんのあとを追いかけた。

(どこに行くんだろう……)

 織原くんはロッカーに詰め込まれたコートを取り出して、それを着込んだ。
 マフラーも巻いての重装備。
 登下校のときと同じ格好をしている織原くんに違和感。
 でも、鞄は持っていないから、織原くんは早退するための重装備というわけではないらしい。

(マスクつけてて、良かった)

 織原くんがどこに向かうのか想像もつかなかった私もコートを着込んできたけど、コートを来た二人が昼休みの廊下を歩くのは明らかな不自然。
 誰も私たちに注目していないと分かっていても、二人だけっていう特別は私に大きな羞恥を運んでくる。
 マスクは、そんな羞恥すらも隠してくれる大切な存在。

(屋上……)

 屋上は自由に出入りができるようになっている。
 開放感ある人気な場所で、昼休みや放課後に利用する人が多い。
 でも、11月から2月までは、その人気を集める場所が封鎖される。
 寒さや雪で健康を害するといけないっていう、先生の配慮というわけではない。

(屋上に行くの、初めて……)

 私の高校では、11月から2月にかけて美術部が屋上で活動をする。
 美術部に所属する三年生の卒業制作、チョークアート。
 完成したチョークアートに卒業生が混ざり込んで、卒業式の日にドローンで記念撮影。
 卒業アルバムには残らないけど、卒業生の心には大きく響く高校の伝統行事でもあった。

「藤島さん」

 奥所の階段を上る途中で、私は織原くんに迎え入れられた。
 階段を上り切ったところでマスクを外して、必要な酸素を取り込むためにマスクを外す。
吐き出す息が真っ白に染まっていくところが視界に入って、私は再びマスクで自分の口を隠す準備を整える。

「美術部へようこそ」

 友達に屋上に行こうと誘われたことのなかった私は、屋上に行くのも初めてだった。
 そして、クラスメイト(他人)に興味を持つのも、初めてのことだったかもしれない。
「藤島さん、久しぶり~」
「あ、藤島さんだ」

 マスクを利用して自分の声を閉じ込めていた私は、高校生活の中で碌な人間関係を形成できなかったと思う。
 それなのに、屋上でチョークアートの制作に勤しんでいる同じ学年の人たちは私の苗字を知っていた。

「あ……」

 マスクの中で、声が止まる。
 想いをかき集めて彼女たちのことを呼びたかったのに、自信のなさは元クラスメイトの苗字を呼ぶことすら許してくれない。

「色塗り、手伝ってもらおうと思って」
「えー、助かる」

 美術部の生徒が何人いるとか、今年の三年生は何人とか。
 まったく把握していなかった。
 関心を持っていなかった。
 だから、屋上には織原くんを含めて四人の生徒しかいないってことに驚かされた。

「卒業式には感動に浸れる、いい催しだとは思うんだけどねー……」

 織原くんは溜め息交じりに、赤いチョークが敷き詰められた箱を持って私を誘導する。

「今年は四人しか三年がいないから、地獄の作業」

 相変わらず、マスクをしている織原くんの感情は声と瞳で確認するしかない。
 でも、その声と瞳だけで、織原くんがチョークアートの制作を心底嫌に思っていないことが伝わってくる。

「屋上チョークアートって、上から撮影するときになんの絵かわからないとダメで……」

 美術部でもない私に、織原くんは丁寧に説明をしてくれる。
 卒業生が全員集うことができるくらい広い屋上。
 屋上全体に広がるチョークアートを完成させないといけないのに、四人の美術部部員は心もとなく見えた。

「これが桜の花びらで……」

 それでも、四人の美術部員は高い技術を誇っていた。
 私は織原くんの説明を理解するのにいっぱいいっぱいで、それだけで時間が潰れてしまうほど。
 そんな私を置いて、美術部員の人たちはチョークアートを完成させるために手を動かしていく。

「赤と黄色混ぜると、こんな感じで温かみのある色になって……」

 私にチョークアートの技術を説明しながら、一枚の花びらを完成させてしまう織原くん。

「藤島さん、選択なんだった?」
「音楽……」

 屋上に来て、初めて出した声。
 とても弱々しくて、聴覚が拾うことすら難しいと思えてしまうほどの音。
 ここにはノートがないから、筆談で話をすることもできない。
 私は自分の声で言葉を交わさざるを得ないのに、自分の声には綺麗さの欠片もないから恥ずかしくなってしまう。

「よし、じゃあ、藤島さんは赤担当ね」

 短時間の間で多くの技法を説明されたのに、私にできることといったら指定された場所に赤を塗っていくことくらい。
 それしかできないことに申し訳なさを感じていると、そんな私の感情に気づいた織原くんは頻繁に声をかけてくれる。

『大丈夫』

『自信を持って』

『綺麗、綺麗』

 それらのお世辞に戸惑ってしまうけど、織原くんの声で紡がれた言葉の数々に心が温められていくのを感じる。
 お世辞も積み重なれば他人()の役に立つんだってことを、織原くんの声を通して教えてもらう。

「藤島さんが赤を加えてくれると」

 吹く風の音と、チョークと屋上のコンクリートが響き合う音しか拾っていなかった聴覚が、織原くんの声を聴くために活動を始める。
 
「花が生きてるって感じがする」

 織原くんも、私と同じマスク仲間のはずなのに。
 どうして、こんなに人の聴覚を惹きつけてしまうのか。
 ずっと、ずっと、狡いと思っていた。
 ずっと、ずっと、羨ましいと思っていた。
 でも、それらを言葉にしたら、私は織原くんに嫌われてしまうと思って、私は口を閉ざして赤色のチョークと向き合う。

「普通は授業で、色を混ぜたりしないからね」

 チョークの色を混ぜ合わせるって技術があることも、チョークアートをやるまでは知らなかったと織原くんは教えてくれる。

「……卒業制作ならでは、だね」

 長いようで短い昼休み。
 私が発した言葉は、その一言くらい。
 その、たった一言を発しただけで、織原くんは柔らかく笑ってくれた。
「来月から、自由登校かぁ」

 灰色がかった雲が覆う空の下、今日も美術部の人たちは卒業制作に勤しんでいた。
 私以外にもボランティアの生徒が屋上を訪れていて、いつもよりほんの少しだけ賑わう屋上。
 人の活気で溢れているのに、屋上にストーブを運んできたいくらい空気が冷え込んでいる。
 新鮮な空気を取り込むためにマスクを外して、呼吸を繰り返すたびに白い息が空へと昇っていく。

「俺、学校が好きだったから」

 今日も私は織原(おりはら)くんの話を聞きながら、緑の塗装がされているコンクリートの上に赤い色を足していく。

(学校が好きな織原くんは進学、かな)

 高校生活の三年間に想いを馳せる織原くんを見て、そんなことを思った。
 高校を卒業するって、やっぱり中学の卒業のときとは感覚が違う。
 高校に進学するのが当たり前のように思えた中学の頃と違って、進むべき未来の選択肢が広がりすぎて怖くなる。

「卒業式の、たった一日しか披露することがないチョークアートだけど」

 織原くんの話を聞いたところで、彼が満足しているのかなんて分からないけれど。
 ただ単に、言葉を発しない私に気を遣っているだけのことかもしれないけれど。
 そんな不思議さと申し訳なさが漂う空気の中、私は織原くんの話を聞くのが好きになりつつあった。

「卒業式に、みんなの笑顔が見れるなら寒いのも苦にならないんだよねー」

 織原くんは、卒業式の日のことを夢見ているのかもしれない。
 あまりの寒さに顔が硬直して、口角を上げることすら難しい。
 マスク越しの口角は無理をしているはずなのに、織原くんは私に綺麗な笑みを向けてくれた。

(マスクをつけてるのに、織原くんの笑顔が伝わってくる)

 無理に笑わなくてもいいよって声をかけることもできるけど、織原くんが頑張りたいことだったら私は織原くんの笑顔を受け入れたい。

「この卒業制作も気合入れて、完成させたいなって」

 赤いチョークを持つ手に、力を込める。
 独りでは桜の花びらを彩ることはできないけれど、織原くんが黄色を塗り重ねてくれると屋上に春を呼び込むことができるから。

「……技術がないのに」

 マスクの向こうから、声を出す。
 織原くんと言葉を交わすために、声を絞り出す。

「手伝わせてくれて、ありがとう」

 声を出すってだけで、心臓の音がうるさくなる。
 この間まで、赤の他人に等しかった織原くんと言葉を交わさなければいけないプレッシャーからなのか。
 自分の声を人に聞かせるのが、恥ずかしいだけなのか。
 どんな理由があるにしても、私の心臓は可笑しな揺れ動きで私のことを驚かせる。