「藤島さん」

 マスクをつけるのは自由ですよって、先生は言ってくれた。
 でも、自分の声が好きじゃない私は、今日もマスクを外したくない。
 マスクは、私の声をはっきりと伝えないでくれるから。
 マスクは、私の声を隠してくれるから。
 だから、感染症が流行してもしなくても、私はマスクを外したくない。
 私の声は、ずっとマスクの中に閉じ込めていたい。

「ありがと、言葉を返してくれて」

 織原くんの声は澄んでいて、男性特有の低音とはまた違う響きを持っている。
 そんな彼から送られる『ありがとう』の言葉を、ずっと記憶に留めておきたい。
 他人だった織原くんの声を覚えておきたいなんて、可笑しな気持ちが動き始める。

「藤島さんの、それって」

 織原くんが、自分のつけているマスクを指差す。

「インフルエンザとか、感染症対策?」

 大抵の人は感染症対策でマスクをつけていると考えるはずなのに、それ以外にマスクをつける理由があることを織原くんは知っているみたいだった。

「たまには大きく息を吸い込んでみたいよね」

 私の場合は、自分の声を聞かれたくないっていう防御的な意味も込められている。
 でも、それらを素直に伝えていいのか戸惑う。

「…………」

 織原くんも、私と同じマスク仲間。
 受験生で溢れ返るクラスの中では、マスクをつけていない人の方が珍しい。
 それでも、マスクを着用することを選べるようになった私たち。
 だんだんとマスクからの卒業を選択して、見慣れたマスクだらけの教室に少しずつ変化をもたらしていく。

(織原くんは、私にとっての他人……)

 他人に、自分の声が嫌いと告白したところで理解してもらえるわけがない。
 高校生にもなれば、声が嫌いってことをからかってくる人もいないとは思う。
 でも、躊躇う。
 それでも、自分の事情を曝け出すのは躊躇ってしまう。

「藤島さん」

 適当に相槌を打って会話を終わらせてしまえば良かったのに、それをしなかった私は織原くんに不信感を与えてしまった。
 顔を上げて、どんな言葉を返されるのか覚悟を決める。
 すると、待っていたのは織原くんの怒った表情ではなかった。
 私を待っていたのは、織原くんが普段使用しているノート。



『藤島さんの声が好きだから』


 
 ノートの中には、織原くんの文字が綴られていた。

「マスクつけてんの、寂しいなーって」

 マスクをつけている私たちは顔の半分以上が覆われていて、お互いの表情を確認することができない。
 目と声でしか相手の機嫌を感じ取ることができないのに、織原くんは笑っているって確信が持つことができた。