私の幼馴染は、世界中に自慢したいくらい。
優しくて、些細なことも大切にできて、なにより。
誰からも信頼されて、必要とされている。
彼とは幼稚園の時からの友人で、彼が隣に引っ越して来たことをきっかけに家族ぐるみで仲良くなった。
私の、世界で一番大切な人。
そんな、彼。

鈴木 里雲(すずき りく)

それなのに私は、至って普通で彼の隣にいていいのか、と不安になることがある。
引っ込み思案で、地味で。
誰からも必要とされない。

吉野 紫苑(よしの しおん)

そんな私だけど、彼の隣にいたくてずっと〝私〟を演じてきた。ずっと、耐えてきた。

「紫苑ちゃん幼稚園バス来ちゃうよぉ」
「里雲くん待ってぇ」
幼少期の朝は毎回こんな感じで里雲に呼んでもらえて、それだけでも嬉しかった。私は朝が苦手だから、里雲が叩き起こしてくれる。それが日常。里雲も私を起こすために早起きするくらい。幼稚園では3年間、ずっと同じクラスになれて、ずっと2人でいた。先生達からも2人セットで扱われていたし、それがすごく嬉しかった。私は里雲の隣にいる子って認識されてる。子供ながらに引き立て役とかいう言葉も思いついたけど、そんなんじゃない。私達は世界で一番の幼なじみ。
ずっと一緒にいた中でもすごく覚えていることがある。
幼稚園での、自由時間で。私達は絵を描いていた。私は花が好きだから花の絵を、彼は空を描いていた。
「里雲くん…何で空なの?」
「空は背景だよ、雲を描いてる」
「何で?」
「里雲って名前に、雲が入ってるから」
「りくのどこが雲なのかわかんない」
「漢字で書くと、雲って書くんだよ」
その時はまだ全然わかってなかった。でもたぶん、その時その瞬間から私は雲が大好きになって、私のすごく大切なものになったんだと思う。
「紫苑ちゃんは何描いてるの?」
「この花、シオンっていうの」
「紫苑ちゃんの名前だね」
「うん。綺麗でしょ」
「カモミールに似てるね」
「カモミール?」
「うん、知ってる?カモミールの花言葉。」
「…知らない」
「逆境に耐える、なんだって」
「ぎゃっきょう?」
「大変な時に耐えるってことらしいよ、おばあちゃんが詳しくて」
「そうなんだ…」
「紫苑ちゃんのシオンは花言葉なんだろう?聞いてみるね」
「うん!」
聞いたら教えるねと、小さな約束も指を絡めて結んだ。彼との約束が増えるたび、私は嬉しく感じた。
「…紫苑は名前に紫が入ってるよ」
「じゃあ紫苑ちゃんは紫が好きなの?」
私はその質問に曖昧な返事をした。だって、今変わったところだもん。好きな色、たった今変わっちゃったんだ。

それから私達は無事に幼稚園を卒園し、小学校へ入学をした。ランドセルは、空色。
「紫苑なら紫かと思った。シオンって花、好きだから。」
「シオンは相変わらず好きなんだけどね。私、空色が一番好きだから」
「そうだったんだ、何で?」
「…だって、雲に一番近いでしょ?」
背景でも、なんでも良かった。ずっとずっと、彼の隣にいたかったから。

―ずっとずっと、君の隣にいたいから。

中学校へ入学してもずっと2人でいて、それがすごく幸せだった。でも彼がずっと私といてくれるのは、私が良い子だからだと思う。だからずっと演じた。何をされても笑っていた。ずっと、彼の大切な人でい続けるために。だから少しくらいイジられても全然平気。ずっと笑って誤魔化して、耐え続けた。でもいつからかな。イジりは立派ないじめに変わっていった。自分では変わった境界がわかんなくて、いつも通り笑っていた。でも物がなくなったり、隠されたり。
「あれ、私のペンケース知らない?」
「紫苑のやつならゴミ箱で見たけど。捨てたんじゃないんだ」
「ほんと!?ありがとう、助かったよ。ちなみに地理の教科書見た?」
「あぁ、あれね。女子トイレだよ、たぶん前から2番目のとこ」
「…そっか、ありがとね!」
これくらいなら全然大丈夫だと思えた。学校で捨てることなんてないはずだし、トイレに教科書を落とすこともないはずだけど。でも直接は。直接、何かをぶつけられたり、わざとぶつかってきたり。
「吉野ごめぇーん、ぶつかっちゃったぁ」
「吉野いたの!?えごめんもしかしてゴミぶつかっちゃった?ま、良いや。ついでに捨てといて」
辛かった。でもそれを表に出したらもう里雲の良い幼なじみじゃ、なくなっちゃう。隣に、いれない。里雲に必要とされなかったら私は、誰にも必要とされない。それだけは嫌で、嫌で仕方がなかった。
だから私は、笑った。
「全然大丈夫!おっけー、捨てとくね!」

それでも自分は誤魔化せなくて、毎晩ベッドの中で、泣いた。

朝、いつも通り里雲と登校していた。
「紫苑…大丈夫?」
「…ん?何がー?」
「なんか…あった?」
「なぁんもないよ」
この時、言えれば良かったな。辛い、苦しい、助けてって。でも言えないよ、言ったら今まで積み上げてきたものが全部崩れちゃうみたいで。頑張って積んだけど、崩れるのは一瞬。切ないよ。
「そっか、良かった。なんかあったら何でも言って。約束ね」
私の指と絡める小指。相変わらず優しくて温かい声。それが逆に私を締め付ける。ごめんね。
「紫苑のためなら俺、何でもするから」
「うん、ありがと」
そう言って必死に笑ってみせた。バレないように、必死に。今の私には、それしかできない。

それからも私は耐え続けた。ずっと。高校へ上がってもいじめはなくならなくて、辛かった。でもいじめまではいかないくらいのものだし。大丈夫。そう言い聞かせた。
でも、でも。
駄目なんだ。耐えられない。もう、壊れてしまいそう。壊れてしまいたい。
きっともう気づいていた。うん。立派な、いじめなことくらい。
里雲とは同じ高校へ入学できたけど、それだけで。あとは全部嫌。でも演じ続けた。

形あるものはいつか壊れる。諸行無常。私、平家みたい。もともと花のような存在でもなかったけど。
「里雲…ごめんね、良い子になんてなれないよ、」
そんなことを思いながらベッドに入る。明日のことを考えると怖くてたまらない気持ちになる。もう、起きたくなんてない。このままずっと眠ってしまいたい。
そんなことを願いながら私は暗闇に沈んでいった。

目覚まし時計は地獄への始まりの合図で、大嫌い。制服も堅苦しい。みんなと同じじゃないと駄目なのに、同じになろうとすると攻撃される。なんだ、この世の中。捨ててしまいたい。逃げ出してしまいたい。そんなことをどんなに思っても現実は変わらない。里雲が私の名前を呼ぶ声がした。行かないと。
教室という名の地獄に一歩足を踏み入れると、自分でも自分がわからなくなるほど光が消える。真っ暗で、人の笑い声が嫌というほど鼓膜を震わせる。
「おはよ、吉野っ」
朝のセレモニー。まずは頭から水。もう慣れてしまった自分が嫌になる。もう、仕方がないと思うようになってしまった。

とうとう受け入れてしまったのだろうか、そんな事を考えながらお弁当をまき散らかされ食べるものがない私は屋上にて時間を潰していた。屋上は立入禁止だが、誰も来ないだろう。
「紫苑…?」
「あれ?里雲じゃん!朝以外はなかなか高校では会えないね!てかここ立入禁止なのに!」
「それは紫苑もでしょ、何してたの?ご飯は食べた?」
「…空、見てた。」
「ご飯は?」
「なんか…お腹すいてなくて」
お母さんがせっかく作ってくれたお弁当。まき散らかされたなんて、言えないから。
「そっか。…空…何で?」
「雲になりたいなって、思ったから。」
「…。」
「空見て、思ったんだ。雲になりたいなって。雲は、空に浮いているだけで全ての役に立ってる。雨が降って、川を流れて、海に行って、また、雲になる。それでも、雨が降れば大地が潤う。そうやって全部が、役に立ってる。誰からも必要とされている。そんなの、誰だって羨ましくなるよね。自然現象を繰り返してるだけなのに、すべての生き物の生活を支えてるんだよ。ううん、それだけじゃない。こうやって私みたいに見るだけで羨ましくなれるような隠れた魅力の持ち主だよね。みんなから、必要とされてるよね。だから、雲になりたいなって。せめて空でも良いな、背景だとしても一番雲の近くなら全然良い」
その時、何が起きたのかわからなかった。最低限はたらいた私の五感が、里雲に抱きしめられたことを察知したらしい。
「…無理しなくて良いよ」
そう言いながら彼は私にカモミールを渡した。心を読まれたのか、わかんないけど隠し通さないとという焦りがうまれて彼を突き飛ばした。
「わかったふりしないでよ」
駄目だよ。ごめん。里雲には何も知られてはいけない。私達は一生、世界で一番の幼なじみでいないとだから。だから今まで耐えてきたんだ。私は脆いけど、脆いなりに頑張ってきたのに。やっと、辛くなくなってきた。もう少しで、ずっとずっと耐えられるようになるかもしれない。強くなれるかもしれない。頑張ってきたから。

―里雲といたくて。

ずっとこらえて、ためてきた涙がとうとう溢れ出した。
カモミールの花に、水滴が並ぶ。
ふと、あの日の里雲の言葉が蘇る。

『知ってる?カモミールの花言葉。―逆境に耐える、なんだって。』

―シオンの花言葉、何だったのかな。

「来週はいよいよ校外学習です。高校生活初めとなるこの行事。みなさんで楽しめるように…」
行きたくない。一泊二日の校外学習。どうせ女子軍に囲まれるんだろう。悪い意味で。良い意味なんて探したいのにいくら掘り返しても出てこない。
『…無理しなくて良いよ』
頭から離れないあの優しい声。ずっと近くで聞いてきた、里雲の声。雲みたいな優しさで、いつも私を包みこんでくれるんだ。私のこと、誰かに聞いたのだろうか。もしもそうなら、隠し通さないといけない。でも心配して声をかけてくれたのだとしたら、酷いことを言ってしまった。
「班は5人から6人。男女混合でなくても大丈夫です。では、みなさんで決めてください。」
「吉野ーっ!組もぉーね!」
「…うん。」
いつもの女子のグループはちょうど5人。私をおもちゃにすればぴったりで、都合が良いんだろう。どうせ私はおもちゃ。でも良いんだ。おもちゃとしてでも、必要とされてることが嬉しいから。おもちゃであることすら、喜びに感じるから。
こんな気持ち、里雲にはわからないんだろうな。理解不能なんだよ、いつも優しくて明るい彼はずっと友達に囲まれているに決まっている。そんな彼に、わかるわけないよ。
「だいたいみんな班決まったみたいなので日程確認します。」
「高校入ってすぐ一泊二日とか最高だよね!」
リーダー格の女子にそんなことを言われてはうんとしか言いようがない。
「…うん。ね!」
「みんな聞いてください。一日目は午前中に有名な神社へお参りをし、そしてキャンプ場でキャンプです。その後、早めにホテルに入り一日目終了です。ちなみにお昼はみなさんに作ってもらいます。」
「えぇー!?」
「吉野ご飯担当ね!」
「え…う、うん。」
「二日目は有名な観光地を周り、終了。だいたい自由行動です。その後、学校へ帰ってきます。学校にて解散の予定です。持ち物はしおりを見てしっかり用意すること。」
もうすぐ。高校生活最初の思い出作り。でも思い出なんて、これっぽっちも無いんだろう。涙で、いっぱいになるんだろう。でも辛いなんて、言えないんだろう―。

憂鬱な校外学習もあっという間に当日を迎えてしまった。いつもの日の朝のように、里雲が私の名前を呼ぶ。
「おはよう、今日楽しみだね、里雲班誰と?」
「おはよ、いつものメンバー。紫苑は?」
「私もいつもの仲良しグループで一緒。」
「…それって、仲良しなの?」
「…へ?」
「紫苑、心の中は雨降ってるよね。全然、晴れてないよね。それでも無理して晴れているように見せて、一緒にいて。それが仲良いっていうの?」
「…には…わか…ない」
「?」
「里雲にはわからないよ!雨降ってる?降ってないから。大丈夫だから。大丈夫。全然辛くない。仲良い、から。」
里雲は全部分かったように言う。全然、わかってないのに。私のことなんて何一つわかってない。必要としてくれてるのは女子達で、里雲は幼なじみ。里雲に必要とされているかなんて、わかんない。
その後は無言のままで、高校に着いた。
「クラス違うから、ここで別れないとだね」
「…うん、じゃあ」
「うん」
ぎこちない会話を交わし、里雲とは別れた。そして女子達の輪に自ら入っていく。相変わらずドMだな、って思いながらも笑顔を作る。
「みんなおはよ。」
「…」
「…みんな?」
「…えてかさ!昨日のプリの写真…」
全身から血の気がひくのを感じた。今日は、無視か。これからの一泊二日、耐えられるだろうか。いや、耐えなければならない。必死に演じてきた私を、こんなところでやめるわけにはいかないんだ。

―里雲のために。

「全員揃いましたか。バスに乗り込みますよ。班ごとで揃ったかの報告をしてください。」
「吉野いなくね?」
嘲笑いながら私を探す声も、笑い続けながらバスに乗り込む姿も、全然怖くなんてない。知ってるから。ただの、イジりみたいなものだって。
「やめてよ、ここにいるって。」
「なんかぁ、空耳的な音?聞こえるんだけど」
「え怖ぁーっ。えてか吉野いないなら私バス一人席みたいなもんじゃん?」
「良いじゃん、いるより。」
「え酷ぉーっ、悪だねぇー」
私はいつからか、人の笑い声が怖い。人が、怖い。そう思っていたら急に体が震えだした。やめて。止まって。普通でいないと、少しでも変わってしまったら彼女達はすぐに笑い出すだろう。冷や汗が伝うのを感じる。私は、怖いんだ。
「なんか吉野震えてるけど?」
「えやばぁ」
「大丈夫そ?」
みんなのせいで、大丈夫ではない。でも大丈夫って言い聞かせて、また私をつくるんだ。それなのにその時、ある一言が脳裏に浮かんだ。

―対人恐怖症。

よくSNSで見る、誰かの訴え。それを見る側ではなく訴える側にまわっていることくらい、自分でも悟ってしまっていた。でもそんなこと言えない。私の体は震えることをやめない。誰かが先生を呼び出す声とともに、意識が遠のいていくのを感じた。あぁ、〝普通〟じゃなくなってしまう。これから先、私に対する扱いがさらに恐くなっていくことを思い描きながら意識は闇に落ちた。

「…さん!…野さん!」
瞼が重い。登校することが憂鬱な、でも里雲が私の名前を呼ぶ、あのいつもの朝みたいだ。なんとか状況を把握しようとゆっくりと瞼を開ける。一番に目に写ったのは担任の先生。そして周りはバスの車内だった。少しずつ感覚と記憶が取り戻される。あぁ、人が妙に怖くなってしまって倒れた気がした。そこからあまり時間は経っていないらしい。
「吉野さん、大丈夫ですか!?5分くらいで意識が戻ったから養護の先生も軽い貧血と言っていましたが…このあとすぐ出発できそう?」
たぶん血は正常だけど。私は自分を押し殺して。
「大丈夫です、すいません」
そう言って軽く笑っておいた。笑える体の状況ではないけれど。先生すら、怖くて仕方がないくらいだけれど。
「…そう。なんかあったらすぐ班員に伝えてください。じゃあ、バスの座席に行って…」
先生が隣で見ていられるように、バスの一番前の席に寝かされていたらしい。後ろを見渡し重い体を引き寄せる。
「ごめん…窓側だから、一回立ってもらって良い?」
「…えそれでさぁ、昨日の…」
「…ごめん。お願い。」
軽い舌打ちとともに隣の席の女子は席をたった。なるべく長く立たせないように、さっと席に座る。
「…ありがとう」
同じような舌打ちが鼓膜を揺らす。本気で思うんだ。ごめん、ごめんなさい。それしか思えないような体になってしまったのかもしれない。それでも耐えられるなら、耐え続けたいと願った。
それが本当の願いかなんて、今の私には関係のないことだと、信じて。
それからも私は、いつものように誰とも話さずバスに揺られた。意識を飛ばす努力をしながらも、たしかに頭は起きていた。
「そろそろ目的地到着です、荷物まとめてください。」
「意外と早いねーっ!神社で何お祈りする??ここ、何っでも叶うらしいよっ!」
頭に響いて仕方がない高い声があがった。でもそのおかげでお祈りなんて考えてないことに気がついた。
私の願いって、何なんだろう。
いつの間にか、自分の願いすらもわからなくなっていたらしい。神社までの細い山道を歩く時にひたすら考えたのにもかかわらず、思いつかなかった。
ふと、こんなことを思ったのは、女子の1人に少しぶつかってしまったときのことだった。

―誰かに代わってもらいたい。

ぶつかってしまっただけで、存在すらも否定されるこの立場を、逃げ出したい。
それが私にとっての一番の願いだと、確信した。
だから迷わず、神社でのお祈りはこれだと思った。
ほんの少しの迷いも、なかった。
その時、私は知らなかったんだ。
それが終わりで、始まりだったなんて。

お賽銭を入れて、深く頭を下げて。神頼みなんて半信半疑だった私にとっても、神様が喉から手が出るほど愛おしく思える。

―誰でも良い。誰かに、代わってもらえますように。

この心が、壊れてしまう前に。私を助けて欲しい。一心に願った。

「みんなでおみくじひこっか!」
ほんの少しの油断が、私の口を勝手に開いた。
「そうだね」
「…なんか今知らない声聞こえたんだけど。やば、背後霊いる!?」
嘲笑う声。忘れてはいけない。神様は気まぐれで、願ったからって助かるわけじゃない。そんなんで助かるのなら、誰一人寂しい思い、苦しい思いはしないだろう。でも、なぜだろう。心がいつもより軽くて、生きてる心地がした。いつも生きてる心地がしないほうが変なのかもしれない。それで気付いた。少しは、神様も気が向いたのかもしれない。
「ちょっと、やめてよ、背後霊なんて。」
少し笑いながら言ってみてしまった。さっき、忘れてはいけないと思ったのに。でも変わらなかった。いつの間にか人自体を怖がる気持ちも薄れ、すごく軽かった。
これが続けば、どんなに良いか。
どんなに楽に過ごせるか。
計り知れない。
安心しきった私は、いくらいじられたとしてもいつもより軽く笑い流した。

「全員揃いましたか?バスが出発しますよ」
「先生ぇー!吉野さんいませぇーん」
「ふざけないでください」
ふざけないでください、それだけで終わらせる教師にも腹が立つが、そんなことでも傷つかない。私は、やっと強くなれた。里雲と、目を向いて話せる。里雲に、見合うだろうか。前よりは遥かに見合うだろう。

その後のキャンプも相変わらず前の私にとってはすごく辛くて苦しいものだったけど、すごく楽しいものとして終わった。少し堅くなってしまった、飯盒で炊いたご飯。人参は火を通していないかのように固くなってしまったカレーだって、心から美味しいと思えた。さすがにやりすぎかと思える腕のやけどだって、ただ物理的に痛いだけで。
とうとう、おかしくなってしまったんだろう。まず、あまり非科学的なものを信じていない私が神様に祈ることからおかしかった。そして神様が、気が向いたのだっておかしかった。この世の中、おかしいことだらけだけど。それでも良いほどこの世の中は残酷だ。それでも良いというより、その方がマシだと。そんな世界だとしても、私は大きな安心に包まれた。
―やっと里雲の目を見て話せるから。
嬉し涙が流れそうだった。

「吉野、今日いないのかなぁ?」
ホテルに到着してからも、定期的に私がいないことになっていたけれど私の心は変わらなかった。何を言われても、傷一つつかない。この世で一番硬い物質。ダイヤモンドになれたようだった。そこまで美しくはないけど、少しは近い気がする。少しでも里雲に光を差せる。その実感こそが、私の今まで耐えた意味だった。意味は確実にあった、という事実だけが今までの負の出来事を無にもしたし、正にもした。
でも、世界は残酷だ。
それを忘れてはいけない—。

ホテルに到着してからしばらくが経ち、室長会議のため部屋を出た。別に進んで前に出るタイプでもない私が室長として会議に出るのは、決めるときに視線がこれでもかというほど集まったから。そんな時間に、耐えられそうもなかったからだ。諸注意を聞き、部屋の人に広めることを仕事として請けた。そしてこの後の流れを確認し、すぐに解散となるそうだ。この後は三十分ほど各自部屋で過ごし、七時ちょうどに夕食を会場でとる。そして一時間ほど食べたら、近くの広場と天文台のある高台の場所でキャンプファイヤーを行う。その後は入浴を済ませ、各自部屋、ということだった。十分ほどで会議が終わり、部屋にもどろうと椅子やら机やらを少し整える。担当の先生への挨拶をし、小さな会議室を出た。歩いてもあまり足音がしないはずのじゅうたんが敷き詰められたホテルの床なのに、先生や数人の室長しかいない所為か足音が大きく響いた。ガラス張りの中庭を囲う窓からは向こうの廊下さえもよく見える。向こうの部屋は違うクラスの男子の部屋。見覚えのある男子が自分の部屋から出て来た。その顔を見て、目を見張る。
—里雲。
里雲だった。ずっと追ってきた、里雲。会いたい、という一心で少し足を速めた。自分たちの部屋に向かうには階段を上らないといけないのに、少しも迷わず階段を右へ曲がる。もしも里雲と話しているところを女子達に見られたら、里雲すらも標的にされるかもしれない。いつもならすべてに警戒の目を向けていたのに対し、心が軽くなった所為かそんなことも少しも思わなかった。
「里雲!」
いつもの少し茶色がかった髪。すぐに、振り向いてくれると思った。私が名前を呼ぶことを、待っていると。信じていた。世界は神様に似て気まぐれだ。少し私に寄り添ってくれた、と思っても、またすぐにそっぽを向いてしまう。
—里雲は、振り向いてくれなかった。
彼は一言も言葉を発さず、私と反対方向へ長い廊下を進んでいく。
「ねぇ、里雲?」
私は一瞬、里雲がしんじゃったみたいに思えて少しの沈黙の後、思わず手を掴んだ。
「里雲…?」
いつもの綺麗な瞳は、どこへ行ってしまったんだろう。
優しい瞳は。
彼の周りの、明るい空気は。
ううん、それだけなんかじゃない。
雲のような、優しくて温かい彼。全てが暗くて、苦しそうな雰囲気で溢れていた。
まるで、真っ黒な空に、雨が降っているみたいに。
「どうしたの…?」
「…ご…めん。」
私の目を数秒見つめた後、彼はそう言ってどこかへ走っていった。顔は異常なほど白くて、少し体が震えていて、肩で息をしているようで。ふらつく体なのにも関わらず、逃げるように私の前からいなくなってしまった。里雲が、いない。
いつもの里雲が、ここにはいない—。

私は引っ込み思案で地味で、誰からも必要とされない。だから、世界で1番の人のためだとしても〝普通〟である必要があって、〝日常〟をひたすらに続けなくてはならない。
こんな私でごめんね。自由時間の三十分。私の頭の中は全てが里雲で、里雲以外は何一つなかった。それでも日常を続けた。
「みんな、夕食会場向かおう」
誰も私と目を合わせず、会場へと向かう。いつもの私なら、それすらもどこか怖くて、恐れていた。相変わらず1人だったけど、いつも以上に里雲のことを考える時間が増える。
彼はどこにいってしまったのだろう。
何があったのだろう。
夕食会場はすでに多くの生徒で溢れていた。今日の朝、私のことを心配してくれていた里雲。差し伸べてくれた手を振りのけた私。全てが私の所為だと思えて、虚しくなる。会場に里雲はいなかった。溢れるほどいる生徒の中、ずっと一緒にいたはずの里雲が。一番近くにいたはずの里雲が。どれだけ手を伸ばしても届かない。近いはずが、遠い。誰よりも、遠い。
各々それぞれの友達と話しながら夕食の時間を過ごす。私には友達なんていないから。一人だけ一人きりで沈黙の食卓。長い机に何人も座っているのに、私だけがいなくなっちゃったように。里雲の姿は一度も見かけず、部屋へ戻る時間となった。この後はすぐに高台へ移動し、キャンプファイヤーを行う。外は春のわりに冷える。薄めの上着を羽織り、自分の班の後ろを隠れるように歩いて向かった。高台はホテルから十分ほどで着く場所にある。いつもより軽い足取りが坂道のせいで少し重くなるが、あっという間に着いたようだ。私の班は少し遅いようで、広場で来た順番に並ぶとき、私たちの後ろに並ぶ班は少なかった。里雲に会うことはなかった。
キャンプファイヤーの前、先生が準備を行うということで少しばかりの自由時間が設けられることになった。私は里雲を探そうと、にぎやかな広場を走り回る。多くの生徒が友達の元へ向かおうと、場所の移動を繰り返している。いつもなら、里雲は多くの友人に囲まれているため、目を逸らしたくても視界に入るような人だった。今では、どこにもいない。諦めかけた私の鼓膜を、誰かの悲鳴が震わした。耳が痛いほどの高い悲鳴。誰もが同時にその声の方へ視線をやった。
人間って、驚くほど気まぐれで。急いでるときにトラブルがあるみたいに、わかりたくないことだけ、すぐわかっちゃうんだ。
―里雲だ。
気づいた時には、走り出していた。悲鳴がした方向には天文台がある。そこは一応、立入禁止だけれど。入ろうと思えば、入れてしまう。やめてよ、里雲。ただの思い違いだと思わせてよ。そんなことないって、笑ってくれるよね。
世界って、驚くほど残酷で。私の大切なものから順番に奪っていっちゃうんだ。
天文台の下。その場所の上には普段空いていない望遠鏡の前の扉が人一人入れるほど空いていた。そしてその下。ずっと探してきた、世界で一番の幼なじみ。
「嘘って、言って…」
かすれてしまった私の声は、もう里雲の耳には届かない。
私が壊れてしまいそうだった高校生活初めての春、里雲はこの世にもういない。
「里雲…返事して…?いっぱい…約束したじゃん…」
まだ少しぬくもりが残る里雲の小指。遠くで先生達の声と駆けつける足音が聞こえる。少しだけ、という思いで小指を絡める。

―その瞬間。

何が起きたのかわからなかった。最低限はたらいた私の五感が、里雲に抱きしめられたことを察知したらしい。
「…無理しなくて良いよ」
そう言いながら彼は私にカモミールを渡した。
状況がわからなかった。校外学習に来ていたはず。手にはカモミールの花。そしてなにより。
「里雲がいる…」
涙が溢れた。
「紫苑?どうしたの…!?」
「ううん、なんでもない」
泣いてるのか笑ってるのかわからない表情で里雲の瞳を見つめる。
「あ…今日何日だっけ?」
「急にどうしたの?今日は4月15日だよ」
あの時からちょうど一週間前。タイムスリップ?そんなあやふやなもの、信じていなかった。でもこれで、里雲を救えたら。
「じゃあ、そろそろ行くね」
そうだ、この時はまだ、心が脆くて壊れちゃいそうな時だった。きっと心も戻ってる。もう昼休みが終わってしまうけど教室に入るのが怖い。怖くて仕方がない。存在すら否定されるこの場所にいたくない。たぶん、前も本当はそうだった。でもずっと真っ暗だったから。少しも光がささなかったから、暗いこともわかんなくなっちゃってた。でも、そっか。今の私には里雲を助けるという役目がある。さっき目から溢れた涙を追って、頬に涙が伝った。私には、生きる意味がある。里雲。何で自分で自分を。ごめん、わかってあげられなかった。里雲の幼なじみが、私でごめんね。里雲のこと、ちゃんとわかれてなかった。だから、私が里雲のこと殺したのと同じ。そう、だよね。だから。私が、救ってみせるから。絶対。また、あの時の幼なじみに戻ろう。世界一の幼なじみに。何度だって、迎えに行くよ。何度だって、何度だって。雲のような優しさの君を。雲のように優しくて、手を伸ばしたって届かなかった。でも、ちゃんと握り返すよ。

何度だって、雲のような君の手を。

教室へ向かう里雲の背中へ結んだ一方通行の約束。一方通行だとしても、また里雲と笑い合える日が来るのなら私には幸せに思えた。待っててね、里雲。手の中のカモミールの花。もう水滴なんて並ばないよ。私は、生きなきゃ。

「来週はいよいよ校外学習です。高校生活初めとなるこの行事。みなさんで楽しめるように…」
一泊二日の校外学習。里雲はその行事で朝を迎えなかった。でも里雲が自らの命を絶つほど苦しんでいたのか、想像もつかない。いつも私を優先してくれる、そんな幼なじみだった。だからなおさら、わからないことだらけだ。
「班は5人から6人。男女混合でなくても大丈夫です。では、みなさんで決めてください。」
「吉野ーっ!組もぉーね!」
「うん」
そうだよね、知ってた。これから同じことが繰り返される。
「だいたいみんな班決まったみたいなので日程確認します。」
「高校入ってすぐ一泊二日とか最高だよね!」
「そうだね」
最高な、わけがない。あんなことになっちゃう日を、誰が望んだのだろう。
―私でもないのに。
そこからもずっと一週間前と同じことが淡々と話された。当日の日程。ご飯担当は私であること。

今の私には、校外学習が憂鬱など言っていられない現実がある。校外学習までの一週間。私の頭の中の大半を里雲が占めていた。登下校の際は構わず何でも聞き、情報をできるだけ多く、という感じだった。相変わらず女子達は同じことを繰り返してきたけれど、それどころではない所為かほとんど覚えていないほどだ。そんな自分とは思えないほど人を思う毎日を過ごしたからか、校外学習はまたもあっという間に当日を迎えた。でも変わらないことは多くて、心の脆さもそれだった。知らぬ間に音もなく少しずつ少しずつ壊れていく。それを、見ることしかできない。私は確かに、ほとんど気付かないほどに壊れていっていた。
「里雲おはよう、今日楽しみだね」
「おはよ、いつものメンバー。紫苑は?」
「私もいつもの仲良しメンバーだよ」
「…それって、仲良しなの?」
「…あ」
そうだ、里雲はこの日の朝。
「紫苑、心の中は雨降ってるよね。全然、晴れてないよね。それでも無理して晴れているように見せて、一緒にいて。それが仲良いっていうの?」
「…えっと…」
全部、私の心配ばかり。
「でも全然大丈夫だから!ありがとね、心配してくれて!里雲は相変わらず優しいね」
「…」
その後は無言のままで、高校に着いた。
「里雲とはクラス違うから、ここで別れないとだね」
「…うん、じゃあ」
「うん」
ぎこちない会話を交わし、里雲とは別れた。そして女子達の輪に自ら入っていく。そしてまた、笑顔を作る。
「みんなおはよ!」
「…」
「…みんな!」
「…えてかさ!昨日のプリの写真…」
そっか、そうだった。変わらないんだ。時空がおかしくなっちゃったのは私だけで、あとは全部変わらないこと、忘れてた。今私が立ってるこの時間は、弱い私のまま。里雲に心配し続けられる私のまま。私は、いないことのように扱われてる。そういえば、そうだったな。あんなに私の心配をしてくれる幼なじみがいるのに、なんで私だけこんなに周りにも必要とされなくて、心配ばかりかけて。何よりもなんでこんなに。

―弱いんだろう。

気付いた頃にはもう涙が流れていた。あの日、ぬくもりが少しだけ残る里雲の小指に触れてから、幾度となく流れてきた涙。でも今は、悲しい、だけの涙じゃなくて。悔しくて悔しくて、流れた涙だと思った。私が里雲の幼なじみじゃなければ。もっと私以外の優しくてみんなから愛される人だったのなら。まず里雲は一度も自分で自分を終わらせなかっただろう。でも、もしもあの日と同じことが起こったとしても、すぐに理由に気がついて、すぐに助けてしまうだろう。今の私には、里雲がなんであんなことになったのか、理由どころか何一つ思い当たることがない。そのまま、当日を迎えてしまった。
「全員揃いましたか。バスに乗り込みますよ。班ごとで揃ったかの報告をしてください。」
「吉野いなくね?」
嘲笑いながら私を探す声も、笑い続けながらバスに乗り込む姿も、全然怖くなんてない。知ってたから。ただの、イジりみたいなものだって。
「やめてよ、ここにいるって。」
「なんかぁ、空耳的な音?聞こえるんだけど」
「え怖ぁーっ。えてか吉野いないなら私バス一人席みたいなもんじゃん?」
「良いじゃん、いるより。」
「え酷ぉーっ、悪だねぇー」
そうだ、この時の私は人の笑い声が怖い。人が、怖い。そう思っていたら急に体が震えだす。やめて。止まって。普通でいないと、少しでも変わってしまったら彼女達はすぐに笑い出すんだ。冷や汗が伝うのを感じる。私は、今でも怖いんだ。
「なんか吉野震えてるけど?」
「えやばぁ」
「大丈夫そ?」
みんなのせいで、大丈夫ではないこと。もう十分わかってる。でも大丈夫って言い聞かせて、また私をつくらないとなんだ。それなのにまた、ある一言が脳裏に浮かぶ。

―対人恐怖症。

よくSNSで見る、誰かの訴え。それを見る側ではなく訴える側にまわっていることくらい、前から自分でも悟ってしまっていた。でもそんなこと、例え二回目でも言えない。私の体は震えることをやめない。誰かが先生を呼び出す声とともに、意識が遠のいていくのを感じる。あぁ、また、〝普通〟じゃなくなってしまう。これから先、私に対する扱いがさらに恐くなっていくことを思い描きながら意識は闇に落ちた。

「…さん!…野さん!」
瞼が重い。登校することが憂鬱な、でも里雲が私の名前を呼ぶ、あのいつもの朝みたいだ。なんとか状況を把握しようとゆっくりと瞼を開ける。一番に目に写ったのは担任の先生。そして周りはバスの車内だった。少しずつ感覚と記憶が取り戻される。あぁ、人が妙に怖くなってしまって倒れた気がした。そこからあまり時間は経っていないらしい。
「吉野さん、大丈夫ですか!?5分くらいで意識が戻ったから養護の先生も軽い貧血と言っていましたが…このあとすぐ出発できそう?」
やっぱり先生の言葉も何一つ変わらない。
「大丈夫です、すいません」
そう言って軽く笑っておいた。笑える体の状況ではないけれど。先生すら、怖くて仕方がないくらいだけれど。
「…そう。なんかあったらすぐ班員に伝えてください。じゃあ、バスの座席に行って…」
先生が隣で見ていられるように、バスの一番前の席に寝かされていたらしい。後ろを見渡し重い体を引き寄せる。
「ごめん…窓側だから、一回立ってもらって良い?」
「…えそれでさぁ、昨日の…」
「…ごめん。お願い。」
軽い舌打ちとともに隣の席の女子は席をたった。なるべく長く立たせないように、さっと席に座る。
「…ありがとう」
同じような舌打ちが鼓膜を揺らす。本気で思うんだ。ごめん、ごめんなさい。それしか思えないような体になってしまったのかもしれない。それでも耐えられるなら、耐え続けたいと願った。
それが本当の願いかなんて、今の私には関係のないことだと、信じて。
それからも私は、いつものように誰とも話さずバスに揺られた。意識を飛ばす努力をしながらも、たしかに頭は起きていた。
「そろそろ目的地到着です、荷物まとめてください。」
「意外と早いねーっ!神社で何お祈りする??ここ、何っでも叶うらしいよっ!」
そういえば前も、頭に響いて仕方がない高い声があがったな。でもそのおかげでお祈りなんて考えてないことに気がついた。
今の私の願いって、何なんだろう。
いつの間にか、自分の願いすらもわからなくなっていたらしい。神社までの細い山道を歩く時にひたすら考えたのにもかかわらず、思いつかなかった。
ふと、こんなことを思ったのは、里雲について必死に考えていた時だった。

―誰かに代わってもらいたい。

里雲を確かに救える誰かに、私を変わってもらいたい。
それが私にとっての一番の願いだと、確信した。
だから迷わず、神社でのお祈りはこれだと思った。
ほんの少しの迷いも、なかった。
その時、私は知らなかったんだ。
私しか、里雲を救えないなんて。

お賽銭を入れて、深く頭を下げて。神頼みなんて半信半疑だった私にとっても、神様が喉から手が出るほど愛おしく思える。

―誰かに、代わってもらえますように。

この弱い私じゃなくて誰かが里雲を助けて欲しい。一心に願った。

「みんなでおみくじひこっか!」
ほんの少しの油断が、私の口を勝手に開いた。
「そうだね」
「…なんか今知らない声聞こえたんだけど。やば、背後霊いる!?」
嘲笑う声。忘れてはいけない。神様は気まぐれで、願ったからって助かるわけじゃない。そんなんで助かるのなら、誰一人寂しい思い、苦しい思いはしないだろう。でも、なぜだろう。心がいつもより軽くて、生きてる心地がした。いつも生きてる心地がしないほうが変なのかもしれない。それで気付いた。少しは、神様も気が向いたのかもしれない。
「ちょっと、やめてよ、背後霊なんて。」
少し笑いながら言ってみてしまった。さっき、忘れてはいけないと思ったのに。でも変わらなかった。いつの間にか人自体を怖がる気持ちも薄れ、すごく軽かった。
これが続けば、どんなに良いか。
里雲をもきっと助かる。

私はたぶん、誰かに代わってもらえたのだから。

「全員揃いましたか?バスが出発しますよ」
「先生ぇー!吉野さんいませぇーん」
「ふざけないでください」
ふざけないでください、それだけで終わらせる教師にも腹が立つが、そんなことでも傷つかない。私は、やっと里雲を助けられる。救える。嬉しさがこみあげてきた。
あの日の幼なじみに、戻れる。

その後のキャンプも相変わらず前の私にとってはすごく辛くて苦しいものだったけど、二周目の私や今の私にとってはすごく楽しいものとして終わった。少し堅くなってしまった、飯盒で炊いたご飯。人参は火を通していないかのように固くなってしまったカレーだって、心から美味しいと思えた。さすがにやりすぎかと思える腕のやけどだって、ただ物理的に痛いだけで。全部、前と変わらなかった。
おかしくなってしまったんだろう。まず、あまり非科学的なものを信じていない私が神様に祈ることからおかしかった。そして神様が、気が向いたのだっておかしかった。この世の中、おかしいことだらけだけど。それでも良いほどこの世の中は残酷だ。それでも良いというより、その方がマシだと。そんな世界だとしても、私は大きな安心に包まれた。
―里雲を救えるから。
嬉し涙が流れそうだった。

「吉野、今日いないのかなぁ?」
やっぱりホテルに到着してからも、定期的に私がいないことになっていたけれど私の心は変わらなかった。何を言われても、傷一つつかない。里雲を救える。その実感こそが、私の今まで生きた意味だった。意味は確実にあった、という事実だけが今までの負の出来事を無にもしたし、正にもした。
でも、世界は残酷だ。
それをまた、忘れてはいけない—。

ホテルに到着してからしばらくが経ち、また同じように室長会議のため部屋を出た。あの時と変わらない。諸注意を聞き、部屋の人に広めることを仕事として請ける。そしてこの後の流れを確認し、すぐに解散。何も変わらない現実に、たまに困惑することも多い。この後は三十分ほど各自部屋で過ごし、七時ちょうどに夕食を会場でとる。そして一時間ほど食べたら、近くの広場と天文台のある高台の場所でキャンプファイヤーを行う。せめて天文台がなければな。その後は入浴を済ませ、各自部屋。十分ほどで会議が終わり、部屋にもどろうと椅子やら机やらを少し整える。担当の先生への挨拶をし、小さな会議室を出た。歩いてもあまり足音がしないはずのじゅうたんが敷き詰められたホテルの床なのに、先生や数人の室長しかいない所為か足音が大きく響いた。何もかもが同じ。ガラス張りの中庭を囲う窓からは向こうの廊下さえもよく見える。向こうの部屋は違うクラスの男子の部屋。きっとここで見つけるんだ。いつもと違う、里雲を。

—里雲。

やっぱり里雲だった。ずっと考えてきた、里雲。会いたい、という一心で少し足を速めた。生きていることを確かめたい。それが一番妥当な気持ちだろう。自分たちの部屋に向かうには階段を上らないといけないのに、少しも迷わず階段を右へ曲がる。
「里雲!」
いつもの少し茶色がかった髪。すぐに、振り向いてくれると思った。私が名前を呼ぶことを、待っていると。信じていた。世界は神様に似て気まぐれだ。少し私に寄り添ってくれた、と思っても、またすぐにそっぽを向いてしまう。
—里雲は、振り向いてくれなかった。
彼は一言も言葉を発さず、私と反対方向へ長い廊下を進んでいく。それは一度、経験していることなのに。
「ねぇ、里雲?」
一瞬、里雲がしんじゃったみたいに思えて少しの沈黙の後、思わず手を掴んだ。
「里雲…?」
いつもの綺麗な瞳は、どこへ行ってしまったんだろう。
優しい瞳は。
彼の周りの、明るい空気は。
ううん、それだけなんかじゃない。
雲のような、優しくて温かい彼。やっぱり全てが暗くて、苦しそうな雰囲気で溢れていた。
まるで、真っ黒な空に、雨が降っているみたいに。
「どうしたの…?」
「…ご…めん。」
私の目を数秒見つめた後、彼はそう言ってどこかへ走っていった。顔は異常なほど白くて、少し体が震えていて、肩で息をしているようで。ふらつく体なのにも関わらず、逃げるように私の前からいなくなってしまった。里雲が、いない。
いつもの里雲が、ここにはいない—。
ここまで、何も変わってない。何一つ、変えられてない。里雲が、いなくなっちゃったみたい。全然、知らない人になっちゃったみたい。

私は引っ込み思案で地味で、誰からも必要とされない。だから、世界で1番の人のためだとしても〝普通〟である必要があって、〝日常〟をひたすらに続けなくてはならない。
こんな私でごめんね。何も変えられない私で。自由時間の三十分。私の頭の中は全てが里雲で、里雲以外は何一つない。あの時と、同じ。それでも日常を続けて、良いのだろうか。でもすぐに、時間が来た。
「みんな、夕食会場向かおう」
誰も私と目を合わせず、会場へと向かう。いつもの私なら、多くの人がいる場所すらもどこか怖くて、恐れていた。相変わらず1人だったけど、いつも以上に里雲のことを考える時間が増える。
彼に、何があったのだろう。想像もできない。
夕食会場はすでに多くの生徒で溢れている。今日の朝、私のことを心配してくれていた里雲。里雲を救うと決めた私。でも何も変えられない私。全てが私の所為だと思えて、虚しくなる。会場に里雲はいなかった。溢れるほどいる生徒の中、ずっと一緒にいたはずの里雲が。一番近くにいたはずの里雲が。どれだけ手を伸ばしても届かない。近いはずが、遠い。誰よりも、遠い。
各々それぞれの友達と話しながら夕食の時間を過ごす。私には友達なんていないから。一人だけ一人きりで沈黙の食卓。長い机に何人も座っているのに、私だけがいなくなっちゃったように。里雲の姿は一度も見かけず、部屋へ戻る時間となった。この後はすぐに高台へ移動し、キャンプファイヤーを行う。
そこで、里雲は—。
と考えかけてやめた。まだ、時間がないわけではない。まだ、救える。高台はホテルから十分ほどで着く場所。私の班は少し遅いようで、広場で来た順番に並ぶとき、私たちの後ろに並ぶ班は少なかった。里雲はやっぱりいない。
キャンプファイヤーの前、先生が準備を行うということで少しばかりの自由時間が設けられることになる。知っている。ここで私ができること。すぐに、天文台へ向かうこと。里雲よりも、早く着けるように一心で走る。多くの生徒が友達の元へ向かおうと、場所の移動を繰り返している。
そんな時、私の鼓膜を、またも誰かの悲鳴が震わした。耳が痛いほどの高い悲鳴。誰もが同時にその声の方へ視線をやった。あの時と同じ。

―間に合わなかった。

気づいた時には、走り出していた。悲鳴がした方向はあの時と何ら変わらない。やめてよ、里雲。ただ虫がでて女子が叫んだとか、そんなしょうもないことだと思わせてよ。そんなことないって、あの日と違って笑ってくれるよね。
でも。
世界って、驚くほど残酷で。やっぱり私は弱いって、突きつけられちゃうんだ。
天文台の下。やっぱり世界は変えられない。変わらない。
「救ってあげられなくて…ごめん…ごめんね」
かすれてしまった私の声は、もう里雲の耳には届かない。
私が壊れてしまいそうだった高校生活、繰り返した春、里雲はこの世にもういない。
「ごめん…ごめん…ごめんごめん」
その時、里雲が一通の手紙を握っていることに気がついた。
『紫苑へ』
「嘘でしょ…」
私は世界を変えられなかったのに、彼だけ行動を変えてくれた。そんな彼に、私は何ができるだろう。
「絶対、助ける…」
それしかできない。それが、したい。私が、助けたい。
記憶を、たどる。あの時、初めて目の当たりにしたあの時。少しだけぬくもりの残る小指と約束をするように―。それで、過去に戻れるのなら。
それで、もう一度やり直せるのなら。
きっともうすぐ、先生達が来る。そうなったら、約束なんて交わせない。
屋上で誓った、一方通行の約束。
私の、生きる意味。
「里雲のために、私は生きなきゃ。」
手紙を手に握り、里雲と小指を絡める。
「絶対、一緒に生きよう。」
君のいない春。
そんなの私の生きる意味がない。
そんなの繰り返さない―。