――残像が弾けた。
 小さな女の子が、ベッドに丸くなって、なにかに怯えるように泣いている。
 震える肩。悲痛な泣き声。
 こちらの胸まで震えてくるようだった。
 映像が切り替わった。
 静寂の中、ぱら、と紙が擦れる音がする。
 セーラー服を着た女の子が、教室の隅で本を読んでいる。顔に見覚えがある。直前の残像で出てきた子だ。成長しているけれど、さっき泣いていたあの幼子の面影を残している。
 女の子は、あの頃とはぜんぜん違った。
 感情を失ったかのように表情がなく、ひとり、能面のような顔で読書をしている。
 周囲は喧騒に包まれているのに、彼女の周りには、どこまでも深い静寂が落ちていた。
 チャイムが鳴り、女の子が席を立つ。カバンを持って、教室を出ていく。すべてを拒絶するような、拠り所のないその小さな背中があまりに痛々しくて、思わず手を伸ばす。
 しかし、手が彼女の肩に触れかけたとき、残像はふっと、煙のように消えてしまった。


 ***


 私はたぶん、悪魔に愛されている。いや、違う。たぶん、私自身が悪魔なんだと思う。
白峯(しらみね)高校前、白峯高校前。お忘れ物のないよう、お降りください」
 アナウンスと同時に、バスのドアがぷしゅっと開く。ICカードを翳してバスを降りた。
「……あれ、ない」
 バスを降りてすぐ、バッグに付けていたはずの古いお守りがないことに気付く。
 周囲を見るけれど、落ちていない。
 バスの中で落としたのだろうか。それとも、もっと前から?
 いつ失くしたのか定かでないから、探しようがない。
「……ま、いっか」
 それほど大切なものでもなかったし、と思い直して歩き出す。
 視界のいたるところで、紺色のセーラー服がちらつく。
 このバス停で降りるのは、ほとんどが白峯高校の学生だ。私は、同じ制服の波に紛れるようにして学校に向かった。
「おはよー」
「あ、リナおはよー! 新学期だねー!」
「ヤバいよ、クラス替えだよ! あたしリナと離れてたら死ぬ〜!」
「あはは、大袈裟だって」
「ねぇ、昨日のドラマ見た!?」
「見た見た! めっちゃ胸きゅんした〜!」
「今週実力テストじゃん。勉強してねーんだけど」
「お前それいつものことだろ」
 学生たちのカラフルな喧騒が耳につく。
 友達と並んで歩く生徒、音楽を聴きながら登校する生徒、スマホを見ながらのんびり歩く生徒。
 笑い合う女子生徒を前にして、楽しそう、と思わないではないけれど、私には関係のない世界だから、羨んだりはしない。
 そういう時期はもうずいぶん前に乗り越えた。
 私は楽しそうに歩く女子ふたりを追い越して、坂を上っていく。
 ――春。
 今日から新学期だ。
 下駄箱から上履きを取り出し、ローファーをしまって階段の前にある掲示板へ向かう。
 生徒たちはだいたい、階段を上がっていく生徒と階段前の掲示板で足を止める生徒のふたつに分かれる。
 階段前に集まっているのは、すべて二年生だった。二年生は教室が一階にあるため、クラス分け表が毎年階段前の掲示板に張り出されることになっているのだ。
御島(みしま)……御島」
 クラス分け表にじぶんの名前を見つけ、人混みをそろそろと抜け出す。そのままひっそりと、じぶんのクラスである二年五組の教室へと向かった。
 新しい教室の前まで来たところで足を止め、一度深呼吸をする。眼鏡を押し上げ、鞄を持ち直して、扉を開けた。まばらな生徒の中、私は黒板のほうへ向かった。
 マグネットで黒板に留められた座席表を確認する。
「御島、御島……あった」
 私の席は、廊下側から二列目の一番うしろだった。春は基本的に名前順で座席が決まるから、ま行の私はだいたいいつもこの辺りだ。
 席につき、カバンの中身を机の中に移し終えると、文庫本を開き、読書を始めた。
 先生が来るまでの余白時間、私はいつもこうして過ごす。近い席の生徒たちと話すようなことはない。
 べつに、ひと付き合いがきらいとか、そういうわけじゃない。ただ、私にはそういうふつうの学校生活は向いてないから、しない。それだけ。
 今までにだって、仲良くなった子がいなかったわけではなかった。だけど、その子たちはみんな、例外なく私の前から姿を消した。
 ――私の、忌々しい呪いによって。
 私はよく、夢を見る。
 おそらく、予知夢(よちむ)というものだと思う。
 その予知夢は決まって私に仲のいい子ができたとき、その子に関するものを見る。内容は、必ずと言っていいほどその子にとってよくないこと――いわゆるいじめとか事故とか――だった。
 だから、私はだれとも仲良くしない。家族とも、必要最低限しか会わないしかかわらない。
 私は、ひとりでいることでしか、大切なひとを守れないから。
 仲がいい子限定で予知夢が発揮されるのなら、ひとりでいればいいだけだ。そうすればあの忌々しい予知夢を見ることはないし、だれかを不幸にすることもない。
 ひとりが寂しくても。毎日がつまらなくても。
 だれかを不幸にするよりは、ずっといいから。
「……はよ」
 聞こえるか聞こえないかくらいの挨拶と同時に、右隣の席の椅子が、ガラッと勢いよく引かれる音がした。
 挨拶よりも椅子の音に驚いて、私は反射的に顔を上げる。見ると、さっぱりとした短髪の背の高い男子が隣にいた。男子がふっと私のほうを見る。
「あ……」
 うっかり目が合ってしまい、どうしたらいいか迷った結果、私はバッと本に視線を戻して、なにごともなかったように読書を再開した。
 ……が、しかし、なにごともなかったことにするのは無理だった。
「ねぇ」
「…………」
「ねぇってば」
 声をかけられた。横を見なくてもひしひしと男子の視線を感じ、さすがに無視するわけにもいかなくなって、
「……は、はい……?」
 ちらりととなりを見ると、やはり目が合った。
「御島さん、だよね?」
 名前を訊ねられ、私は男子の足元辺りを見たまま、かくかくとした動きで頷いた。
 クラスメイトと話したのが久しぶり過ぎたせいか、距離感がうまく掴めない。
 おろおろしていると、再び声をかけられた。
「俺、山内(やまうち)ひなた。隣の席だし、これからよろしく」
「……う、うん。……よろしく、お願いします」
 小さく頭を下げて、再び読書に集中するふりをする。話しかけるなオーラを全開にして。
 こうすれば、だいたいそれ以降は話しかけられずに済む。
 ……のだけど、そんなことはなかったようだ。
「ねぇ、御島さん、それ、なに読んでるの?」
「え?」
 気を取り直して本を読んでいると、山内くんがずいっと顔を寄せてきた。
「……これ、は、小説だけど……」
 驚いて、軽く身を引きつつ答えると、さらに質問が飛んでくる。
「へぇ〜何系?」
「何系? えと、れ、恋愛……?」
「意外! 御島さんってそういうの読むんだ? じゃあじゃあ、儚い系? それとも甘い系? ほら、恋愛系って言っても、いろいろあるでしょ?」
「……えと、強いて言えば、笑える系……かな?」
 正直に答えると、山内くんはわっと口を開いて笑った。
「えーなにそれ! そんな分野もあるの? めっちゃ面白そうじゃん。読み終わったら貸してくれない?」
「え……」
 まるで真夏の水面のようにキラキラとした笑顔に、私は思わず言葉を詰まらせる。
「……あ、ダメだった? もしかして御島さん、読んでる本とか、知られたくないタイプのひと?」
「いや……べつにいいけど。……でもたぶんこれ、男の子向けじゃないと思うよ。主人公、女の子だし」
 戸惑いながらもそう返すと、山内くんはなぜだか嬉しそうに私のほうへ身を乗り出した。
「いいよいいよ、そんなのぜんぜん! 俺が読みたいんだから。じゃあ、読み終わったら貸してよ!」
「う、うん……分かった」
 頷くと、山内くんはなぜか「よっしゃ!」と小さくガッツポーズをして、
「あ! それからさ」
 と、机から身を乗り出した。
「なに?」
「御島さん、俺と友達になってくれない?」
「……え」
 友達。
 一瞬、なにを言われたのか分からなくなった。
 だって、友達になろうなんて言われたのは、小学生以来だったから。
「俺のことは、ひなたって呼んでよ。ね、御島さん、さっそくだけど、連絡先交換しない?」
「連絡先?」
「クラスメイトだし、なにかと必要じゃん?」
 そうなのだろうか。
「……一年のときはだれとも交換しなかったけど、特に不都合はなかったよ」
 ちら、と山内くんを見ると、きゅるんとした潤んだ目に射抜かれた。
「ダメ……?」
「あ……えっと……はい」
 仕方なく、スマホを出す。
「やったー!!」
 殺風景だった連絡先に、山内くんの名前が追加される。私はスマホ画面を見て、途方に暮れるのだった。


 ***


「じゃあ今日は、自己紹介から始めたいと思います。とりあえず席順でいいかな? それじゃあ、廊下側からにしようかな。渡辺(わたなべ)さんからお願いします」
「はい」
 新学期二日目。
 毎年恒例の自己紹介が始まった。
 今年の担任は淡白なひとのようで、くじ引きやランダムに生徒を指していくのではなく、席順で始めた。私に近い廊下側の前からだ。
「……はい、ありがとう。じゃあ次は山内くんお願いします」
「はい」
 じぶんの番が回ってきた山内くんは、起立して柔らかな笑みを浮かべた。
「山内ひなたです。昨年はちょっと、いろいろあって学校をサボりがちだったけど、今年はちゃんと通う気でいます。あーでもテスト期間は例外かも。なんてー」
 クラスが笑いに包まれる。
「えーっと好きなものはなんだろう……読書、とか?」
「いや、ぜったい嘘だろ」
「ひでー! マジだし!」
「あはは」
「そんで、きらいなものはー……」
 山内くんが少し言い淀んだところで、質問が飛んだ。
「ねぇ、なんでいつも手袋してるのー?」
「あーそれ俺も気になってた。寒がりかよー?」
 山内くんの手元を見る。たしかに、新学期が始まってから、彼は必ず布の白い手袋をしていた。どうしてだろう、と私も密かに気になっていた。
「あぁ、これ? 違うよー。俺、汗っかきだから手袋してないと落ち着かないんだよねぇ」
 クラスメイトの質問にいやな顔をするでもなく、山内くんはひらりと笑う。
「なんだよそれー」
「想像以上にくだらなかったー」
 再びのびやかな笑い声が教室に響いた。
「ほら、町井(まちい)さん、そういうことを聞くのはあまりよくないですよ」
「はーいすみませーん」
「いいよーべつに」
 ひらひらと笑う山内くんの横顔を見つめながら、私は密かに感心する。
 ……すごいなぁ。
 きっと、山内くんにとってこの手袋は、じぶんのコンプレックスそのものだっただろう。本当なら話題にすらされたくなかったはずだ。
 それなのに。
 こんなに華麗にかわせるんだ……。
 彼が人気者である理由が、なんとなく分かった気がした。
 山内くんはいわゆる陽キャというやつで、いつだってクラスの中心にいる。
 優しくて明るくて、だけどちょっとマイペース。
 高校生を全力で楽しんでいる山内くんは、どこまでも眩しい。
 イメージは、ゴールデンレトリバーのようなひとだ。カリスマ性があって、懐っこくて、陽だまりのように優しい雰囲気を持っていて、とにかく私とは住む世界線がまるで違うひと。
「じゃあ次、御島さん。自己紹介お願いします」
「……はい」
 私が自己紹介をする番がきた。音を立てないように、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「えっと……御島、愛来(あき)です。出身は県外なので、今はひとり暮らしをしています。……好きなことは読書、きらいなことは運動……です。よろしくお願いします」
 小さな声で、あらかじめ用意しておいた自己紹介を述べて、さっと椅子に座る。
「はい、ありがとー。じゃあ次は室井さん」
 机に手を置き、小さく息を吐く。
 よかった……噛まずに言えた。
 緊張から解放され、次のひとの自己紹介を聞くふりをしつつぼんやりと床を眺めていると、ふと視線を感じた。
 ちらりと隣を見ると、やっぱり。山内くんがじいっとこちらを見ていた。
「……な、なに?」
「御島さん、愛が来る、なんてめっちゃいい名前だね」
「えっ……」
「御島さんってひとり暮らししてるんだ? でも、なんでわざわざ地元を離れてこんなとこに進学したの? うちってべつに、特に有名な学校でもないのに」
 山内くんの問いに、私は少し迷いながらも答えた。
「……ひとり暮らしができるから」
「ひとり暮らしがしたかったの? ……ふうん。ひとり暮らしかぁ……。でもさ、それってちょっと寂しくない? 家に帰っても、だれもいないんでしょ?」
「べつに……自立できるし」
 寂しくなんてない。
 そう、心の中で呟く。
 嘘じゃない。慣れてしまえば、だれかと過ごすよりずっと楽だと思う。
 そう言うと、山内くんは心底驚いたような顔をした。
「わぁ、マジか。えらいなぁ。俺なんて未だにお母さんに起こされないと朝起きれないのに」
 と、山内くんはのんびりとした声で言う。
「そうなんだ……」
 その姿が容易に想像ついて、思わず笑みが漏れた。
「あ、笑った」
 私が笑うと、山内くんもなぜか嬉しそうにはにかんだ。
「わ、笑ってない」
「嘘だ。笑ったよ、今」
「笑ってないってば」
 子どものような言い合いをしていると、
「こら、そこのふたり。仲良くなるのはいいけど、今は私語慎んで。ちゃんと自己紹介聞く」
 先生のお叱りが飛んできた。
 じぶんが怒られたのだと気づいた瞬間、ぴっと背筋が伸びた。
「あ、すみませーん」
 山内くんは涼しい顔で流したが、普段大人しいタイプの私は先生に怒られることはほとんどないので、ちょっと放心状態になる。
「す、すみません……」
 しゅんと小さくなって、ふと考える。
 そもそも話しかけてきたのは山内くんなのに、なんで私まで。
 と、視線で抗議をすると、山内くんはぺろりと舌を出して「ごめん」と笑った。
 いたずらっ子のように笑う山内くんに、私は苦笑した。


 ***


 それからというもの、私はことあるごとに山内くんに話しかけられるようになった。
 朝や休み時間、移動教室のときだけでなく、昼休みや放課後も。
 昼休み、私はいつも自席でひとりでお弁当を食べている。
 新学期が始まってからの山内くんは、仲のいい男子たちと騒ぎながら食べていたが、なぜだか最近は山内くんも自席に座って、ひとりで食べるようになった。
 もしかして仲の良かった男子たちと距離を置いているのかと心配になったが、お弁当を食べながらも大きな声で会話をしたりしているから、ハブられたとかではないらしい。ただ、それぞれ自席で食べるようになっただけのようだ。
 ほかの男子たちは、じぶんのお弁当が食べ終わると、ちょこちょこ山内くんのところへやってくる。そのため、私は自ずと山内くんの席へやってきたほかの男子たちと話す機会が増えていった。
 山内くんは基本、私に疑問形で話を振ってくる。
「ねぇ、御島さんってさ、お弁当、いつもじぶんで作ってるの?」
「……うん、まぁ」
「ひとり暮らしなのにすごいよな。朝とか大変じゃない? あ、目覚まし何個かけてる? 俺はねぇ、四つ! でもぜんぜん起きれねぇ」
「お前は起きる気がなさすぎるんだよ。少し自覚しろ! ねぇ、御島さん?」
「そ、そうだね」
 突然ほとんど話したことのない男子に話を振られ、私は慌ててこくんと頷く。
「えー御島さんって、ひとり暮らしなの?」
「すごーい」
「家事とか大変?」
「え? えっと……」
 いつの間にか、私の周りには男女問わずたくさんのひとが集まってきていた。いろんなところから声が飛んできて、頭が真っ白になる。
 そのときだった。
「うわ、それ美味そー!」
 すっと、空気を切り裂くようにまっすぐな声が飛んできた。
 顔を上げると、山内くんが私を見ている。
「ねぇ、御島さん。その卵焼きと俺の唐揚げ交換しない?」
 一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。
「御島さん?」
 山内くんが、もう一度私の名前を呼ぶ。ハッとした。
「……あ、い、いいよ。申し訳ないし」
 すると、山内くんは首を傾げた。
「もしかして、唐揚げきらい?」
「……いや、そうじゃないけど、でも唐揚げと卵焼きじゃ釣り合わないし……あ、ほら、オリンピックで言えば金と銅くらい違うと思うから」
 すると、山内くんは一瞬きょとんとしてから、どっと笑った。びっくりして、私は山内くんを見つめたまま固まる。
「あははっ! なにそのたとえ! ウケるね、御島さん!」
「そ、そう……?」
「そうだよ! うちのお母さんさ、唐揚げを揚げるのだけはめちゃくちゃ上手いんだよ! ほら、食ってみ! 代わりに卵焼きもらうよ〜」
「あっ……」
 そう言って、山内くんは私のお弁当箱の蓋に唐揚げを置くと、素早く卵焼きを取った。そのまま、ぱくっと勢いよく頬張る。
 私のお弁当から抜き取られた卵焼きが山内くんの口に入るその一瞬が、まるでスローモーションのように感じられた。
「取られた……」
 思わず呟くと、山内くんが私を見た。
「え? あれ、もしかして、好物とかだった? うそ、マジごめん! このウインナーもあげるから許してよ! ごめんごめん」
 途端に慌て出す山内くんに、私は思わずぷっと吹き出す。
「……え、え? なに?」
 肩を揺らす私に、山内くんがきょとんとした顔をした。その顔がなんだかおかしくて、私はさらに笑いそうになるのをこらえる。
「え、ちょ、御島さん?」
 そわそわする山内くんに、私は笑ったせいで溜まった涙を拭いながら言う。
「も、もしかして泣いてる……?」
 涙を拭う仕草で勘違いしたのか、山内くんはさらにとんちんかんな誤解をしたようだった。
 さすがに可哀想になって、私は弁明する。
「違う違う。こんなの、食べ飽きてるからいくらでも食べていいんだけど。ただ、さっきの山内くんがなんかおかしくて」
 そう言うと、山内くんは一瞬きょとんとした顔をしてから、破顔した。
「うわー、なんだよ、驚かすなよ! やっちゃったかと思ったじゃん!」
 安心したのか、山内くんはとびきり大きな声を出す。
「山内うるせぇ」
「焦ったんだから仕方ないだろー」
「ほらー、御島さんびっくりしちゃってるじゃん」
「ふふっ……ははっ」
「あっ、御島さんが笑った!」
「なんか新鮮〜」
「だって、なんか山内くん面白くて……ふふっ」
 いつの間にか、じぶんの唇から笑い声が漏れていて驚いた。
 こんなふうに誰かと話していて笑うのは、いつぶりだろう。
 不覚にもこのとき私は、学校生活が楽しい、なんて思ってしまった。


 ***


 その日の放課後、私は家に帰る前に薬局に寄った。生理痛の薬がそろそろ切れるから、買い足しておこうと思ったのだ。
 ふと、目薬のコーナーに差し掛かって足を止める。
 最近乾燥しているし、目薬も買っておいてもいいかもしれない。
 それにしても、どれにしよう。
 あまりにも種類がたくさんあって、棚の前で悩んでいると、ふと、すぐとなりのコンタクトコーナーのポップが目に入った。
『気になるあのひとの視線を独占!』
 その言葉に、今日学校で山内くんとした会話を思い出した。五時間目と六時間目の間の休み時間のことだ。
『ねぇ、御島さんって放課後はいつもなにしてんの? 買い物とかどこ行くの?』
 何気なく聞かれ、ぼんやりと私生活を思い出す。
『普段は勉強とか読書かな……』
『御島さんって、本当に本好きだよね。そういえばこの前借りたのめっちゃ面白かったよ』
『そ、そう? よかった』
 気恥ずかしさから眼鏡をくいっと押し上げる仕草をする私を、山内くんがじいっと見る。
『……な、なに?』
『眼鏡だなぁって』
『あ、これ?』
『もしかして、本の読みすぎで目悪くなったとか?』
『あぁ、それはあるかも……』
『でもさぁ、眼鏡ってたまに煩わしくならない? 耳の裏とか鼻の頭痛くなったりするし、痕もつくし。コンタクトにすればいいのに。楽だし、御島さん裸眼もきっと可愛いと思うんだけどなぁ』
 可愛い、という言葉に一瞬どきりとしながらも、ふと疑問が浮かんだ。
『もしかして、山内くんも眼鏡だったの? 今、コンタクト?』
『まぁね! といっても高校入ってからコンタクトにしたから、実は俺もまだ裸眼デビューは間もないんだけど』
 そう言って、山内くんは私に向かってウインクをした。不意打ちを食らった私の心臓は、その瞬間どきんと大きく跳ねたのだった――。

「……コンタクトかぁ」
 箱を手に取って、考える。
 これまでも、挑戦してみようかなと思ったことはあった。でも、なんとなく踏ん切りがつかなかったのだ。
 眼鏡からコンタクトに変えたところで、元の顔がいいわけでもない私では大して印象なんて変わらないだろうし。コスパだって悪いし。
「…………」
 明日、これを付けていったら、山内くんはどんな反応をするだろう……。
 そんなことを思いながら、私は、悩みに悩んだ末、一箱取ってカゴに入れた。


 ***


 翌朝目を覚ました私は、起きて早々深いため息を吐いた。
 昨晩、夢を見たのだ。
 予知夢ではない。
 昔飼ってた犬が事故に遭って死ぬ夢。
 これは、実際にあったできごとだ。
「…………はぁ」
 再び、深いふかいため息が出る。
 昨晩の夢は、私が初めて見た予知夢でもあった。

 幼稚園のとき、私の家は犬を飼っていた。
 名前はモコ。サモエドという品種の大きな白い犬だ。当時私は百センチもない身長で、おまけに痩せっぽちだったから、モコに思い切り飛びついてもびくともしなかった。
 モコはいつだってふわふわ抱き心地が良くて、お利口で。
 大好きだった。
 ……でも、ある晩モコが事故に遭う夢を見た。
 それまで死という概念など知らなかった私は、その夢が恐ろしくて、目が覚めた瞬間、風船がパンッと弾けたように大泣きした。
 起きて早々、突然私が泣き出したものだから、両親もびっくりして困惑していたのを覚えている。
 涙が乾き、落ち着きを取り戻すと、私は両親に夢のことを話した。そうしたら、両親はなんだ、夢か、と笑っていた。
 そして、それは現実の話じゃないから大丈夫だよ、モコは生きてるよ、事故には遭わないよ、となだめられた。
 私はそれを信じた。
 ……でも。
 信じていたのに、私が見た夢は、まるごと現実になった。
 夢を見た七日後、モコは散歩中にリードが外れて、いなくなった。家族みんなで探し回ったけれどどこにも見当たらなくて、夜になって近所の家のひとがモコを見たと連絡をくれた。
 動物病院に行くと、モコは死んでいた。車に轢かれたのだと説明された。

 額から顎にかけて、冷や汗が流れ落ちた。
 急に現実に引き戻されたような気がした。
「……なにやってんだろ」
 無音の部屋に零れたため息は、だれにも拾われないまま静かに溶けて消えていく。
 無音の部屋を見渡す。
 私が今ここでひとり暮らしをしているのは、大切なひとを守るためだ。もうだれのことも不幸にしたくないから。
 知り合いのいない高校を選んだのも私。友達を作らないと決めたのも私の意思。
 すべて、予知夢を見ないために私が選んだ道。
 それなのに、ほんの少し優しくされただけで、こんなにも心が揺らぐだなんて……。
 冷水で乱雑に顔を洗った。そのまま、鏡を見る。
 透明な水が、顎先からぽとりと落ちた。鏡の中には、青ざめた顔をしたじぶんが映っている。
 洗面所の棚には、昨日買ったコンタクトがある。
 タオルで拭いて、いつもと同じ眼鏡をかけた。
 忘れかけていた覚悟を再確認して、私は学校へ向かった。


 ***


「あっ! おはよう! 御島さん!」
 昇降口に入ったところで、山内くんに声をかけられた。私はじぶんの下駄箱を開けながら、小さく頭を下げる。
「……おはようございます」
 視線を合わせないまま、私は挨拶だけを返して山内くんの横をすり抜けた。
 素っ気ない態度の私に、山内くんはなにか言いたげにじっとこちらを見ていたけれど、私はそれを無視して教室へ向かう。教室に入り、自席についてからは、ずっと読書をするフリをした。山内くんが教室に入ってきたタイミングで、先生がちょうどやってきたため、私は話しかけられずに済んでホッとした。
 それからしばらくのあいだ、山内くんからの視線を感じていたけれど、私は気付かないふりをした。
 山内くんは、こんな私に話しかけてくれたひと。明るくて優しくて、私とは住む世界が違うひと。
 彼を不幸にはしたくない。
 だから、呪われている私は、もうかかわらないほうがいい。

「――あのさ」
 放課後、素早く帰り支度をして教室を出たところで、山内くんに声をかけられた。私は反射的に足を止める。
「……なに?」
 目を合わせないまま、訊く。
「……あの、御島さん、もしかしてなんか怒ってる?」
 ひっそりとした、私を心底気を遣うような声に、胸がちくりとした。
「べつに、怒ってないけど」
「でも、今日なんか変だよ? なにかあった?」
「だから、なにもないって」
「じゃあ、なんで話してくれないの?」
「そ、そんなことないよ」
「あるよ! だって今日一日、一回も目、合ってないじゃん!」
 山内くんはそう言って、私の肩を掴み、無理やり目線を合わせた。気まずくなって、私はパッと目を逸らす。
「ほら、やっぱり逸らす。……なんで? 俺、なにかした? やっぱり卵焼きのこと怒ってた?」
「ち、違う! それは違うよ」
「じゃあ、なんでよ。理由を教えてよ。言ってくれなきゃ分かんないでしょ」
 廊下で痴話喧嘩のようなことを始めた私たちを、近くにいた生徒たちがなんだなんだと様子を見に来る。
 私は注目されるのがいやで、この際早く話を終わしてしまおうと、
「かかわりたくないの」
 と、はっきり言った。
 その瞬間、パリンと音がした。山内くんの顔を見て、気付く。
「あ……」
 私は今、彼の心にヒビを入れたのだ。彼の心に、傷を付けたのだ。
 拳に力が入る。
 ……でも、これでいいのだ。これで。
 私は心を凍らせた。
「……どうせ、陰キャの私をからかって遊んでるんでしょ。影でほかの男子たちと笑ってるんでしょ! ……私、私の知らないところで噂話されるとか、だいきらいだから。だから、もう私にはかかわらないで。山内くんうるさいし、騒がしいし、うんざりしてたの」
 言いながら、言葉が刃に変わって、じぶんに向かってくるのが分かる。心臓に槍が突き刺さるような痛みを覚えた。
 私は、振り切るようにして山内くんに背を向けた。歩きながら、手からはどんどん力が抜けていく。
 ……完全にきらわれちゃったな。
 スポンジが水を吸収するように、心がずっしりと重くなっていく。
 でも、そうなるよう仕向けたのは私なのだ。悲しむなんて都合が良過ぎる。
「……帰ろ」
 呟き、頭を切り替える。
 制服の袖で涙を拭った流れで、勢い任せに下駄箱を開けたとき、ぱしっと腕を掴まれた。驚いて振り向く。そこにいたのは、山内くんだった。
「なに……」
「話の途中でいなくなるのはずるいでしょ!」
 強い口調で責められた。ムッとする。
「途中じゃない」
 言い返すと、山内くんは被せるように言った。
「言っておくけど、俺、そんなことしてないから」
「え……」
「御島さんのこと、バカになんてしてない。したこともない。噂話だってしてないし、からかってるつもりだって、これっぽっちもなかった。……でも、なにか誤解させたなら、ごめん」
 真剣な眼差しでそう言い、山内くんは頭を下げた。強ばっていた肩の力が抜けていくのが分かった。その弱々しい手に、私の心も萎んでいくようだった。
「…………違うよ。ごめんなさい。山内くんはなにも悪くない。噂話されてるとか、そんなこと思ってなかったから。私こそ、今のは完全に八つ当たり。ごめん……」
 しおしおと謝ると、山内くんは顔を上げ、困ったように微笑んだ。
「なにかあったなら、話してくれない?」
 優しい声だった。
「…………」
 黙り込む私の顔を、山内くんが覗き込んでくる。
「……だれかになにか言われた? からかわれた?」
 ふるふると首を振る。
「……そんなんじゃないよ」
「じゃあ、なに?」
「…………」
 黙り込んでいると、山内くんが優しく私の手を取って歩き出した。
「えっ、ちょっ……ど、どこ行くの?」
「いいから来て。ちょっと外出よう」
 山内くんは戸惑う私の手を掴み、すたすたと歩いていく。
 やってきたのは、学校付近の公園だった。管理するひとがいないのか、雑草が伸び放題で公園とはいっても、遊具なんてベンチひとつしかない。これでは子供なんて寄り付かないだろう。
 山内くんはベンチのすぐそばにある自動販売機へと歩いていく。
「……学校だと、いろんなひとがいるからさ。噂になってもいやだし」
 と、少し言い訳めいた口調で山内くんは言った。
「飲み物、コーラでいい?」
「……あ、ありがとう」
 山内くんは自動販売機でコーラとスプライトを買うと、コーラのほうを私に渡した。
「……で、御島さんはなにを隠してるの?」
 私はコーラを受け取ると、両手で包むように握る。山内くんはベンチに座ると、缶を開けた。ぷしゅっと軽やかな音がする。
「……べつに、なにも隠してないよ。私はただ、今までどおりひとりでいたいだけ」
「どうして? 俺はもっと御島さんと仲良くなりたかったんだけど」
「……私は、なりたくない」
 弱々しく言う私を、山内くんが覗き込む。
「だから、それはどうして? 君はなんでひとりがいいの? ……君は、なにが怖いの?」
 優しく包み込むような言い方で言い、山内くんは私を見つめる。その声に、どうしようもなく胸が震えた。
「……だって、山内くん人気者だから、一緒にいるとどうしても目立つの。私なんて、ただ席が隣同士ってだけの地味なクラスメイトじゃん。もうかかわらないほうがいいよ。このままだと山内くんの評判にもかかわるかもしれないし」
 そう言うと、山内くんは黙り込んだ。しばらく沈黙が続いて、そしてようやく、山内くんは口を開いた。
「……あのさ、間違ってたらごめん。でもそれ、違うよね?」
「え……」
「御島さんはきっと、ほかに俺と仲良くなりたくない理由があるんでしょ? 俺はそれを知りたい」
 一瞬、ひやりとした。思わず顔を向けると、山内くんがこちらを見る気配がして、私は慌てて目を逸らした。
「……そんなのないよ」
「ないなら、仲良くしてよ」
「…………だから、それは」
 目が泳ぐ。
「理由を教えてくれないなら、これからもかまうよ。俺は御島さんのこと好きだから」
「…………」
 山内くんは、強い眼差しで私を見ていた。このままでは、とても引いてくれそうにない。
「教えて」
 口調の強さからしても、教えるまで譲らなそうな気配を感じる。
「……教えたら、かかわらないでくれる?」
「……約束はできないけど、考えてはみる」
「…………分かった」
 それからしばらく、沈黙が続いた。
 山内くんは急かすことなく、私が口を開くのをずっと待ってくれている。
 それでも言葉が出ないのは、たぶん、私がまだ、この期に及んで山内くんにきらわれることを恐れているから。
 もし、私の体質を話したら、山内くんはどう思うだろう。
 バカにしているのかと怒るだろうか。私のことを頭のおかしいひとだと思うだろうか。どちらにしろ、いい印象は持たれないだろう。だって、今から私が話す内容は、とても現実的な話ではない。
 ……もうかかわるのはよそうと、山内くんのほうから離れていくかもしれない。
 ――本当に、いいの?
 心の中で、もうひとりのじぶんが叫ぶ。
 きっと、こんな私を気にかけてくれるひとは、この先山内くん以外には現れないだろう。
 もっと仲良くなりたかった。
 一緒にいたかった。
 ……でも、それはできない。
 優し過ぎる山内くんを納得させるには、遠ざけるには、やはり打ち明けるしかないのだろう。
 覚悟を決めて、口を開いた。
「……前に私、言ったでしょ。自立したいからひとり暮らしを始めたって」
 山内くんは、静かに頷く。
「でも、本当は違うの。自立したいからじゃない。……私はだれかといるとそのひとを不幸にしてしまうから、ひとりでいなきゃいけないの」
 山内くんをまっすぐに見つめ、続ける。
「私、予知夢を見ることができるの」
「……予知夢?」
 案の定、山内くんはぽかんとした顔で私を見た。汗が湧き出してくる手をぎゅっと握り込む。
「……予知夢って、現実に起こることを、夢で前もって見ちゃうやつ?」
「そう。私が見られるのは、大切なひとが巻き込まれる悪い夢だけだけどね」
 山内くんは、信じられないものを見るような目で私を見た。
「だから、私は今までだれとも仲良くならないようにして、家族とも離れて過ごしてきた。みんなの悪い夢を見ないように」
 呆然とする山内くんに、私はこれまで見た予知夢の内容について、さらに具体的に話した。
「……だから、山内くんとは仲良くできない。ごめんなさい。でも、山内くんにはなんの責任もないことだから、気にしないで」
 ベンチの端に置いていたカバンを取り、立ち上がる。
「それじゃあ」
 今までありがとう、と礼を言って立ち上がる。そのまま公園を出ようとしたら、
「待って」
 と、手を掴まれた。
「……なに」
 振り返ると、私よりも切ない顔をした山内くんがいた。
「そんな辛いこと、ずっとひとりで抱え込んでたの?」
「……え、なに……信じるの? 今の話」
「だって、この状況で冗談言うようなひとじゃないだろ、御島さん」
「……だ、だからって、こんな話信じるなんて……」
 バカじゃないの。そう言おうとしたら、山内くんは微笑んだ。
「信じるよ。……当たり前だろ。御島さん、話してくれてありがとう。今までひとりでそんなこと抱えて、辛かったね」
 ――辛かったね。
 そのひとことは、強ばっていた私の涙腺をあっさりと解いた。両目から涙がぽろぽろと溢れ出してきて、私は慌てて眼鏡を外し、手のひらで涙を拭う。
「……べ、べつに、慣れたらひとりも楽だし。これは、じぶんの心を守るためでもあったから」
 ぼろぼろ泣き出した私を、山内くんは優しい眼差しで見つめた。
「でも、辛かったでしょ」
「…………」
「大丈夫、分かるよ。ひとりぼっちって寂しいよね。俺もみんなにちょっとした隠しごとしてるからさ」
「そうなの……?」
「隠しごとしてるとさ、心から打ち解けられてる気がしないんだよね。嬉しい気持ちも悲しい気持ちも、心から共有してる感じがしなくて、じぶんが存在している意味がだんだん分からなくなってくるっていうか」
「でも私は」
 それでも仕方ない。そう言おうとする私を遮って、山内くんは続ける。
「あのさ、御島さん。ずっとひとりで生きていくなんて無理じゃないかな。友達も家族も作らず、ずっとひとを避け続けるなんてさ」
「……でもこうしなきゃ、私はだれかを不幸にしちゃうから」
「……御島さんの気持ちは分かった。でもそれ」
 山内くんはそう前置きをして、私を見た。
「俺には、関係のないことなんだよね」
「え……?」
 はっきり『関係ない』と言われ、私は戸惑いを隠せない。だって、山内くんがこんな強い口調をするのは珍しい。
「俺、三ヶ月後には死ぬ予定なんだよね」
 さっきの口調とは裏腹に、抑揚のない、なんというか、さらりとした声だった。
「だからさ、たぶん、俺に関する夢は見ないよ。死ぬより不幸なことなんて、そうそうないでしょ?」
 山内くんはそう言って、くるりと前を向いた。その横顔は、あまりにもいつも通りで。一瞬、脳が誤作動を起こしたのかと錯覚してしまいそうになる。
「ちょっと待って」
 私は咄嗟に、山内くんの腕を掴んだ。
「ちょっと待ってよ、死ぬって……なに、それ。どういうこと?」
 腕を掴む手に力を込めると、山内くんはふっと息を吐くように笑った。
「俺ね、病気なの。生まれたときから心臓に持病抱えてて、薬がなきゃ生きてられない。子どもの頃から何回も手術して、薬もたくさん飲んできた。それなのに先月、とうとう先生に余命宣告されちゃってさ。俺の心臓、もう薬飲んでもダメなんだって」
「なに、それ……」
 頭の中が真っ白になった。言葉が見つからない。
 山内くんが、もうすぐ死ぬ……?
 死って、なんだっけ?
 モコが死んでしまったときから、私はずっと死を避け続けてきた。
 ひととのかかわりを断てば、死と離れられる。だれかがどこかで死んでいたとしても、私の知り合いではない。夢を見ていないのなら、その死は私のせいではない。
 私には関係のない死だと思えたから、悲しみはなかった。
 だけど……今回は違う。
「…………」
 言葉を失っていると、山内くんは困ったように頬をかいた。
「そんな顔しないでよ。俺思うんだけどさ、死ってべつに、特別なことじゃないと思うんだよね。人間みんな、いつ死ぬかなんて分かんないんだから」
「それはそう……だけど」
「これでもね、俺は病気に感謝してるんだよ」
「感謝……?」
「そうだよ。だって、だいたいあとこれくらいで死ぬよって言われてたほうが、毎日を無駄に生きないで済むじゃん?」
 頭を殴られたような衝撃が、全身を駆け巡った。
 どうしたら、そんな前向きに生きられるんだろう。
 死を突きつけられているのに。
「だから俺は、精一杯残りの人生も生きてやるぜ! 俺の明日に、乾杯!」
 元気よく叫ぶと、山内くんはスプライトを天へ向けた。
 山内くんはだれよりもまっすぐ、みずみずしく、鮮やかに今を生きていた。
「御島さん、秘密を教えてくれてありがとね! 言いづらいこと、聞いちゃってごめんね。ぜったいだれにも秘密にするから」
「うん」
「それと、クラスのみんなには、俺の病気のことも内緒にしてくれる? 俺、あんまり可哀想キャラ似合わないからさ」
「分かった」
「……それと、もうひとつ。この期に及んで図々しいかもだけど、御島さんにお願いがあるんだ」
「お願い? なに?」
「俺、御島さんともっと仲良くなりたい。御島さんと、青春したいんだ」
「……青春?」
「うん。俺にとっての青春は、御島さんともっと仲良くなること……なんだけど」
 伺うような山内くんの視線と交差する。少し恥ずかしくなって、目を逸らして私は訊く。
「でも……青春って、具体的になにするの?」
「えっ、付き合ってくれるの!?」
「まぁ……」
 小さく頷く。
「私で青春できるかは分からないけど……」
 すると、山内くんはこれ以上ないってくらい深いため息をついた。
「え、な、なんでため息?」
「だって! 俺めっちゃ重い話したし、ぜったい迷惑がられると思ったんだもん!」
 顔を上げた山内くんは、太陽そのもののような柔らかな笑みを浮かべている。
「じぶんを話すのって怖いけど、やっぱり受け入れてもらえると嬉しいんだよなぁ」
 にぱーっと笑う山内くんを見て、私は頬が熱くなるのを実感した。
「……べ、べつに。重い話なら、私もしたから。お互いさまだよ」
 山内くんは、なにかを噛み締めるように唇を引き結んでいる。
「……うん。やっぱり俺、御島さんのこと大好きだわ」


 ***


「じゃーん! 見てみて! これ、書いてきた! 秘密の青春ノート!」
 その翌日、教室へ入るなり、山内くんはテンション高めに話しかけてきた。山内くんは手にノートを持っている。渡されて見ると、中にはたくさんのやりたいことが書かれていた。
『朝、一緒に登校する』
『お昼ご飯を一緒に食べる』
『放課後一緒に帰る。カフェに寄る』
『ハチ公前で待ち合わせして一緒に映画を見る』
『ミサンガを交換する(手作りのやつ)』
『ファミレスでテスト勉強をする』
『お弁当のおかずを交換する』
 などなど。
「おぉ……たくさん書いたね」
「うん! 後悔を天国に持ち込みたくないんで!」
「…………そっか」
 きっと山内くんなりの冗談なのだろうけど、うまく反応できず曖昧な返答になった。
「……あ、もしかして引いた?」
 山内くんが私の顔を覗き込んでくる。慌てて首を振った。
「えっ、ううん、ぜんぜん! ……少し、驚いただけ。私じゃたぶん、こんなにノートびっちりにやりたいことなんて書けないから」
 そう返すと、山内くんはにぱっと笑う。
「それじゃあ、これからは俺と見つけていこうよ! 一緒に」
「……うん」
 こうして、私たちの青春は始まった。


 ***


「んー、なに着よう……」
 ベッドにいくつかのコーディネートを並べてみて、腕を組む。
 袖のないサマーニットにデニムスカート、白いティーシャツにプリーツのロングスカート。いや、ニットは細身だし、チュールスカートのほうが合う? 若しくはパンツスタイル……。でも、デートで?
 いや、そもそもこれはデートなの?
 べつに付き合っているわけじゃない。告白されたわけでもないし、好きなのはきっと……。
 ぶんぶんと首を振る。
「それか、白のワンピース……は、さすがに可愛子ぶり過ぎ?」
 異性と出かけたことなんてない私は、着ていく服すらまともに決められない。
 結局、悩みに悩み抜いた末、ネットのお出かけコーデを参考にして、サマーニットとチュールのロングスカートにした。それから……眼鏡じゃなく、コンタクトで。

 待ち合わせの日、約束通りハチ公前で待っていると、私服姿の山内くんがやってきた。
「おまたせ、御島さん!」
 制服じゃない山内くんは新鮮で、いつもよりもどきどきした。
「きょ、今日は、よろしくお願いします……」
 ぺこりと頭を下げると、山内くんはふわりと笑って、
「こちらこそ。あ、御島さんコンタクト!? いいじゃん! すげー似合ってる!」
「そ、そう?」
「うんうん! あ、てか俺たちそろそろ苗字呼びやめない?」
「え?」
「俺、御島さんのこと愛来って呼びたい。ダメ?」
 突然名前を呼ばれて、心臓が鷲掴みされたような心地になる。
「俺のこともひなたって呼んでよ」
 ――ひなた。
 名前、呼び……。
 どきどきしながら、頷く。
「……う、うん、分かった」
 心臓がいつになくうるさい。
「私服もいいじゃん! いつも制服だから、こういうのなんかすごく新鮮!」
「そ、そう……かな」
 なんだか、そこらじゅうがむず痒くなってくる。
 私服姿だから? 褒められたから? よく分からない。
「コンタクト、入れるの大変だったんじゃない?」
「うん……一時間かかった」
 素直に言うと、山内くん――じゃなかった、ひなたくんは、わはっと笑った。
「慣れるまではねぇ……目、ごろごろしてない?」
「今のところ、大丈夫」
「そっか。慣れてないんだし、痛くなったりしたらすぐに言いなよね?」
「……うん」
「じゃあ、そろそろ行こっか」
 優しく呼ばれて、胸の奥がじんとする。
 なんだろう、これは。
 考えていると、ひなたくんが私を見ていた。なんだろう。
 心臓が激しく鳴って、私はどうしたらいいのか分からなくなる。
「どうかした?」
「ううん、なんでもないよ」
「……そっか」
 私と違って、ひなたくんは涼しい顔をしている。
 その顔を見て、そういえば、と思った。
 ひなたくんはどうして私なんだろう。ひなたくんの頼みならば、付き合ってくれるひとはいくらでもいるだろうに。
 ひなたくんの秘密を知っているのが私だけだから?
 そもそもひなたくんは、どうして私に秘密を打ち明けてくれたんだろう……。
「愛来?」
 名前を呼ばれ、ハッとする。
「どうした?」
「あ、ううん。なんでもない。それより映画、急がないと」
 足早に歩き出す。私の歩調は、はからずも心音に合わせているようだった。

 映画を見たあと、ちょうどお昼時ということもあって、私たちは駅前のファミレスに移動した。
「映画、よかったね」
「よかった。めちゃくちゃ泣いた」
「あはは、泣いてたー」
 あのシーンは笑った。あれはちょっとないよね。そういえばあのキャラ、クラスのあの子に似てなかった? 最後のどんでん返しなんてさぁ……。
 話が盛り上がり過ぎて、一度店員さんが注意しに来たくらいだ。
 店員さんがいなくなると、私たちは口を噤んだままお互いの顔を見合わせた。だけどだんだんそれすら面白くなってしまって、私たちは肩を揺らして懸命に笑いをこらえた。
 注文したドリンクが空になっても、しばらく私たちは映画の感想で盛り上がっていた。
「あー、楽しかった」
「話したねー!」
「わっ、もうこんな時間!?」
 時計を見て驚く。あっという間に三時を過ぎていた。映画が終わったのが正午だったから、三時間も話していたことになる。ぜんぜんそんな感じしないのに。
「休みってホント、あっという間だよなぁ」
 ふと、ひなたくんがしんみりとした声で言う。
「そうだねぇ……」
「…………」
 ひなたくんと話していると、たまに言葉が途切れて沈黙が落ちることがある。
 今日何度か訪れたその沈黙に、私はなんとも言えない気持ちになった。
 目の前にいるのは、いつもと違う、少し大人っぽい私服姿のひなたくんだ。クラスメイトで、となりの席で、私の秘密を知っている、たったひとりの男の子……。
 すぐとなりの席に、私たちより少し歳上らしき女子の集団が座った。華やかな喧騒が耳に届き、こちら側の沈黙がより際立ち始める。
「あー……なんか、混んできたかな」
「そうだね。今日、日曜日だしね」
「んー……」
 また、沈黙。
 今の私たちは、周りにどう見えているのだろう。仲のいい友だち? それとも、カップル?
 どちらにせよ、これまでの私では有り得なかった日常だ。
「ねぇ、見て見て。となりの席のカップル。高校生かな?」
「可愛いねぇ〜」
 となりの席の会話が漏れ聞こえてきて、余計に気まずくなる。
「愛来、どうかした?」
 ひなたくんはとなりの席の会話に気付いていないのか、不思議そうに私を見ていた。
「あっ、ううん!」
 私はなんでもないと返しながらも、そわそわと落ち着かない気持ちを誤魔化すため、前に落ちた前髪を耳にかけたり、ドリンクを飲んだりした。
「ねぇ愛来、そのパイひとくちちょうだい」
「あ、うん。どうぞ」
 今の私たちは間違いなくふつうの高校生で、淡い青春の中にいた。
 こんな日が来るなんて、入学当初の私なら考えられなかった。
 ちらりと正面を見ると、ひなたくんは鼻歌交じりに窓の向こう側を見ている。
 視線に気付いたのか、ひなたくんがふと私を見た。目が合って、私は慌てて言葉を探す。
「あ、そうだ、ひなたくん。次はどうする?」
「んーそうだなぁ……」
 と、ひなたくんはバッグを漁り始める。
「今日は一緒に映画を観たし、テスト勉強ではないけど、ファミレスもクリアしたよね」
「だね! あ、じゃあ俺、次はこれがいいかも」
 ひなたくんはそう言って、とある部分を指で指した。
「なに?」
 見ると、ひなたくんが指していたのは、『ミサンガを交換する(手作りのやつ)』だった。
 私はノートからひなたくんへ視線を移し、「手作りがいいんだよね?」と訊く。
「うん!」
「じゃあまずは糸買わないと。百均とかに売ってるかな? それとも手芸店とかのがいいかな……?」
「じゃあ、帰りに寄ってこう! お互い好きな色三つ選ぶの!」
 帰り道、歩きながらひなたくんはさっそくスマホで近くの手芸店を探し始めた。私は店探しはひなたくんに任せて、何色の糸にするか考えていた。
 お互いのイメージの色を選ぶ。
 思ったより難しいかもしれない。
 ひなたくんに似合うのは、何色だろう。
 ひなたくんの色……。
 まっさきに浮かんだのは、銀色だった。きらきらした、星のような銀色。触れたら少し、ひんやりしていそうな。
 でも、銀色のミサンガってどうだろう。あんまり見たことない気がして、悩む。
 やっぱり、無難に緑とかのがいいかな……。
 考えながら、あ、と思う。
「そういえばひなたくん、ミサンガ作れるの?」
「さぁ!」
「さぁって……」
 無責任且つ元気のいい返事に、思わず苦笑する。
「まぁでも、ネットで見たからいけるっしょ!」
「ちょ、そんなてきとうな! 私、そういうの作ったことないから、ひなたくんが教えてくれないとムリだからね!?」
「えっ、マジか!」
「マジだよ!」
「いや大丈夫だって! ネット見ればなんとかなるよ!」
 なんだかんだ言いながら、私たちは手芸店に入った。
「愛来ー、決まった?」
「わっ、ひなたくん!?」
 やっぱり銀色が捨て難くて銀色コーナーを物色していると、既に手に三色の糸束を持ったひなたくんがやって来た。
「おっ、銀? 愛来の中の俺は銀色かぁ!」
 私の手元を見たひなたくんが、嬉しそうな声を出す。
「や、これは違くて! まだ決めてないから……」
「いいじゃんいいじゃん! 銀色とかめっちゃかっけー!」
 思いの外、ひなたくんの反応はいい。
「……そ、そうかな?」
「うん!」
「……そっか……」
 本人がこう言うならいいのかな、銀色でも。
 悩んだ末、私は、青色、白色、銀色を買った。一方ひなたくんが選んだのは、オレンジ色、黄色、茶色。
 ……ちょっと意外。
「私って、オレンジっぽいの?」
「うん! なんていうか、愛来は向日葵(ひまわり)っぽいなってずっと思ってたんだよね。ほら、どう? ぽいでしょ? この色」
「…………」
「あ、あれ。もしかして、いやだった……?」
 不安げな顔で、ひなたくんが私の顔を覗き込んでくる。
 いやなわけない。むしろ、すごく……。
「……すごく、嬉しい」
 素直な気持ちを口にすると、ひなたくんはにぱっと笑って、早口で言った。
「てか、愛来こそ俺のイメージ寒色系なんだね! 俺、結構黄色系充てられること多かったから意外! 銀色とかめっちゃ嬉しい! あ、ちなみにこの色を選んだ理由は?」
 と、ひなたくんはマイクを向けるように、私に手を突き出してくる。どぎまぎしながら、私は小さな声で答える。
「な、なんというか……ひなたくんって流れ星っぽいっていうか」
「流れ星?」
「うん……」
 俯いているひとさえ思わず顔を上げてしまうような、眩い星。だけど見られるのは一瞬で、手を伸ばしても掴めない感じがする流れ星。
「流れ星かぁ! うわぁ。初めて言われたから、なんか嬉しいな。てか、俺が流れ星なら、愛来の願いを叶えてやらなくちゃな!」
 そう言って、ひなたくんは嬉しそうに笑った。
 渋谷駅に着き、改札の前まで来たところでひなたくんが振り返る。
「今日はありがとね。こんな時間まで付き合ってくれて」
「ううん。私も楽しかった」
「じゃあ、また明日。ミサンガは、今週中に作って交換しよう!」
「うん、分かった」
「じゃあな!」
 ひなたくんが手を振って、改札の中へ入っていく。
「バイバイ……」
 ひなたくんに向けて振る手から、力が少しづつ抜けていく。
 ――ミサンガ……。
 手元の糸が入った紙袋を見て、もう一度ひなたくんを見た。
 そして。
「あの、ひなたくん!」
 その背中を呼び止めた。
 私の声に、ひなたくんが振り返る。
「んー? なにーっ!?」
 ひなたくんのまっすぐな眼差しに、緊張がぶり返す。私はきゅっと手を握って、勇気を振り絞った。
「あ、あの、ミサンガなんだけど……よかったら、べつべつじゃなくて放課後一緒に編まない?」
 勢いに乗せて言った。
「え? 一緒に?」
 恐る恐る顔を上げると、目を丸くするひなたくんがいた。
「……う、うん。あの、私ひとりだとやっぱり自信なくて……」
 そこまで言って、急に心細さが私を襲う。俯き、目をぎゅっと伏せた。
 急に周囲の音が大きくなったような気がした。
 言わなきゃよかったかも……。
 やっぱりなんでもない、と言いそうになったとき。タッタッタッと軽やかな足音が聞こえた。
 顔を上げると、すぐ目の前にひなたくんがいて、驚く間もなく強く肩を掴まれた。
「いいよっ! 一緒に編も!!」
 きらきらした顔がすぐ目の前にあって、驚く。
「……え、あ、ありがと……っていうか、ひなたくんなんでそんな嬉しそうなの?」
「え?」
 ひなたくんがきょとんとした顔で瞬きをする。ぱちぱち、と音が聞こえてくるようだった。
 ひなたくんは我に返ると、嬉しそうにはにかんだ。
「そりゃ、初めて愛来のほうから誘ってくれたんだもん! 嬉しいに決まってんじゃん!」
「……初めて?」
「うん!」
 その笑顔に、つられて私も笑う。
「そうだっけ?」
「そうだよ!」
「そっか。でも、だからってちょっと大袈裟じゃない?」
「そんなことない! それじゃ明日、放課後一緒に作ろうな。ぜったいだからな!」
「うん」
「じゃ、今度こそまた明日。愛来」
「うん、また明日! ひなたくん」
 こうして、私たちは手を振って別れた。
 ひなたくんがとなりにいるだけで、ひなたくんの笑い声を聞くだけで、心にパッと火が灯っていくようだった。
 朝、学校に着いたら「おはよう」と言って、休み時間は他愛のない話をして。昼休みになったら、一緒にお弁当を食べて、おかずを交換したりして。
 放課後は、先生が見回りに来るまで教室で話していたりして。
 梅雨が明ける頃には、私はひなたくんだけでなく、クラスのみんなともふつうに話すようになっていた。
 ひなたくんといても、予知夢を見ないことが分かったからだ。
 二年になってから、私は、過去の予知夢を見たことはあれど、新たな予知夢は一度も見ていない。だれのことも不幸にしていない。
 そのことをひなたくんに話すと、それなら少しづつ友達を増やしていこう、と言われたのだ。
 そういうわけで、私は少しづつ、ひなたくんと仲が良かったクラスメイトたちとかかわるようになった。
 もともと人見知りというわけでもなかったから、すぐに仲良しの子ができた。
 特に一緒に過ごすようになったのは、羽山(はやま)さやかちゃんと、山野(やまの)野々花(ののか)ちゃんという女子だ。さやかはショートカットで背が高い快活な女の子で、山ちゃんは長い髪をハーフアップにした美少女。
 ふたりとも素直で優しく、とてもいい子たちだ。
 ただ、同性の友達が増えたおかげで、私とひなたくんの間には、少しづつ距離ができていた。
 中間テストが終わったタイミングで席替えをしたせいで席も離れてしまったし、お昼は仲良くなったさやかや山ちゃんと食べるようになったから。
 ひなたくんと一緒にいられるのは、放課後ほんの少しの時間だけ。
 それでも、周りにひとが増えたおかげか、それともひなたくんとお揃いで作ったミサンガがあったからか、寂しくはなかった。
 このときの私はすっかり忘れていた。ひなたくんのとなりが期限付きであることを。


 ***


 夏休みを目前に控えた七月の半ば、ひなたくんが倒れた。
 放課後、一緒に帰っているときだった。歩いていたら突然、ひなたくんは地面に吸い込まれるように、静かに私の視界から消えた。
 私は倒れるひなたくんを前に、呆然と立ち尽くした。
 幸い人通りが多い駅前だったため、すぐに交番の警察官が駆けつけて、ひなたくんを救護してくれた。
 私はなにもできないまま、救急車で運ばれていくひなたくんを見送った。
 ひなたくんと過ごす中で、ひなたくんの病がどういうものなのかを、私はちゃんと理解していたはずなのに。
 いざそのときになったら、足がすくんでなにもできなかった。無能なじぶんに愕然としながら、私はひなたくんが運ばれた大学病院へ向かった。
「愛来ちゃん……? あなた、愛来ちゃんでしょう?」
 待合室の椅子に座っていると、見知らぬ女性に声をかけられた。少し恰幅のいい、優しげな雰囲気の中年女性だ。
「もしかして、ひなたくんの……」
 震える声で訊ねると、女性はくしゃっとした笑みを浮かべて、うんうんと頷いた。ひなたくんの面影が滲む優しげなその顔に、涙がじわりと滲む。
「あの……私」
「愛来ちゃん、ひなたといつも仲良くしてくれてありがとうね」
 ひなたくんのお母さんの優しい声に、涙腺がさらに緩む。
「私……なにもできなくて……すみません……」
 堰を切ったように泣きじゃくる私を、ひなたくんのお母さんは優しく抱き締めてくれる。
「大丈夫。大丈夫よ、泣かないで。こっちこそ、びっくりさせちゃってごめんね」
 しゃくりあげながら、私はぶんぶんと首を振る。
「……あのね、ひなた、今まだ眠ってるんだけど、もう容態は落ち着いたから、顔見ていってくれる?」
「……はい」
 ひなたくんのお母さんに誘われ、私は病室に入った。
「ひなたくん……」
 白い部屋のベッドで眠るひなたくんは、怖いくらいに青白い顔をしている。
 いつかこうなることは分かっていたはずなのに、ベッドの上にいるひなたくんを見ると、怖くて怖くて仕方がなくなる。
「あの……ひなたくんは……ちゃんと目を覚ましますか?」
 お母さんを振り返る。
「大丈夫よ、先生も、容態は安定してるって言ってたから。目が覚めたら、すぐに連絡させるからね。だからもう、心配しないでね」
「はい……」
 私はもう一度ひなたくんの寝顔を確認してから、大学病院を出た。

 それから二日後、昼休みに何気なくスマホをいじっていると、ひなたくんから連絡が入った。
「この前は突然倒れてごめんね」
 というメッセージに、
「会いに行ってもいい?」
 と送ると、ひなたくんから、
「会いたい」
 とすぐに返信が届いた。
 放課後、私はひなたくんに会いに行くことにした。
 病室に入ると、ひなたくんは起きていた。ベッドから起き上がって「やぁ」と私に手を振る。
 あまりにもいつも通りの笑顔に、私は思わず大きく息を吐いて安堵した。病室であることも忘れて、ひなたくんに駆け寄る。
「ひなたくん、大丈夫なの?」
「いやぁ、ごめんね。びっくりさせちゃったよねぇ」
「本当だよ! めちゃくちゃびっくりしたんだから」
「うん、ごめん」
「…………」
 言葉を探して、でも見つからなくて、黙り込んでいると、ひなたくんが言った。
「あのさ。俺、ずっと愛来に言いたかったことがあるんだ」
「……なに?」
「うん。あ、その前にまずここ座ってよ、ほら」
 ひなたくんに言われ、スツールに座る。改めてひなたくんを見ると、ひなたくんはしとしとと話し始めた。
「愛来はさ、ずっとじぶんの力を呪ってただろ? じぶんのせいで大切なひとが不幸になってるって……。でもそれ、たぶん違うと思うんだ。愛来は、だれかを不幸にしたりなんてしてないよ」
 顔を上げると、ひなたくんの優しい眼差しがあった。
「どういうこと……?」
「愛来はさ、ただ、ひとよりちょっとリアルな夢を見ちゃうだけだと思うんだ。愛来が予知夢を見たから、だれかに不幸が起こるわけじゃない。そうじゃなくて、もともと未来は決まってたんだ。起こるはずの不幸を、愛来はたまたま先に見てしまう、それだけだと思うんだよ。だってさ、未来のことなんてだれにも分からない。愛来がどうこうして、僕たちの未来が決まるわけないじゃない」
「…………」
「それと、もうひとつ。ずっと黙ってたんだけどさ、俺もあるんだ。ひとと違う力」
 そう言って、ひなたくんはしていた手袋を外した。
「俺ね、ものの記憶を読み取ることができるんだ。サイコメトリーとか、残留思念(ざんりゅうしねん)……っていうやつ?」
 何気なく打ち明けられた真実に、私は目を瞠ったままひなたくんの手を見つめた。
「残留思念……?」
 ハッとした。
「もしかして、いつもしてるその手袋って予防用……?」
「まぁね」
 頷くと、ひなたくんは手を伸ばしてベッド脇の棚からハンカチを取り出した。ひなたくんはハンカチを手のひらに置いて、中身を見せてくれた。中に入っていたものを見て、私は小さく声を上げる。
「それ、私のお守り……」
「うん」
「ひなたくんが拾ってくれてたんだ」
 ハンカチの中にあったのは、失くしたことすら忘れていたお守り。
「入学式のときに、たまたまね」
 ひなたくんは、私のお守りを大事そうに両手で包む。
「……これを拾ったとき、ぜんぶ見えたよ。愛来がこれまでに経験してきた辛いこと、ぜんぶ。俺、それまでずっと、じぶんのことを結構不幸な人間だなって思ってたんだけど、愛来のことを知ったら、感じたことないくらいの悲しみがぶわって胸に溢れてきたんだ」
「ぜんぶ、知ってたの? 私が、本当のことを打ち明けたときも……」
 ひなたくんは頷く。
「黙っててごめん。これも、早く返さなきゃと思ってたんだけど、なかなか言い出せなくて」
 ごめんね、と、ひなたくんはやっぱり困ったように笑った。
 そっか。ひなたくんは同情してくれていたんだ。
「なんだ、そっか……ま、まぁ、そりゃそうだよね」
 ひなたくんは優しいから、ひとりぼっちの私を放っておけなかった。ただ、それだけ。
 私はひなたくんにとって、特別でもなんでもない……。
 すると、ひなたくんは「違うよ」と言った。
「残像の中の愛来は、毎日能面のような顔で学校生活を送ってた。だから、この子の笑顔が見たいなって、そう思ったんだよ」
「笑顔……?」
「うん。二年になって、同じクラスでとなりの席になったときはもう、運命だと思ったよ。神様は、俺とこの子を巡り合わせるために三ヶ月の猶予をくれたんだってね」
「……っ……」
 心がどうしようもないくらいに震え出す。
 生まれて初めての感覚に、言葉が出なかった。
「愛来のお守りを拾ったとき、俺、愛来に救われたんだよ」
「救われた……?」
「そうだよ。残像の中の愛来は、まるで俺を見てるみたいだった。大人ぶって、人生も青春も、ぜんぶを諦めて。……俺さ、愛来と仲良くなってから、毎日がすごく楽しくなったんだよ。人生で初めて、生きてるって思えて……同時に、生きたいって強く思えた。最期まで、生きることに執着して足掻いてやろうって」
「ひなたくん……」
「最後の最後に、こんな青春ができるなんて思ってなかったよ」
 最後、という言葉にこめられたひなたくんの強い思いが眼差しからまっすぐ私に伝わってくる。
「……あの日、勇気を出して声をかけてよかった。あのね、俺が死ぬ前にやりたかったことは、本当はたったひとつだけだったんだよ」
「なに……?」
 訊くと、ひなたくんはにこっと笑う。
「愛来の笑顔を見ること」
 その瞬間、じぶんでも驚くほど、顔が熱くなった。
「そ、そんなの、いくらだって……」
「無理だよ。だって愛来、あの頃ぜんぜん笑わなかったもん! マジで能面だったからな」
「そんなこと……!」
「あるってば」
「……う」
 言葉に詰まると、ひなたくんはくすりと笑った。
「でも、話してたら、笑顔だけじゃダメだった。ぜんぜん足りなくなって、もっと愛来のこと知りたくて、もっと仲良くなりたくて……気付いたらめちゃくちゃ欲張りになってた。俺って案外肉食系だったんだなーって。今さらながら、じぶんにびっくりだよ」
「肉食系って」
 ぷっと思わず笑うと、ひなたくんも嬉しそうに笑った。今までとは違う少し弱い笑い方に、病魔が彼を蝕んでいることを実感する。
「……ねぇ、愛来」
「……なに?」
 震えそうになる声をなんとか抑えて、私はひなたくんを見た。
「俺、愛来のことが好きだよ」
 息が詰まった。
 ひなたくんは、青白い顔で、少し、弱い口調で、でもしっかりと眼差しはこちらを向けて、言った。
「最初は、笑ってくれたらいいなって、本当にそれだけだったんだけど。でも、いつの間にか大好きになってた。愛来がほかのやつと仲良くなってくの見て、嬉しいけどちょっと寂しかった」
 心が決壊した。涙が次々にあふれて、私の頬を流れていく。
「……もう死ぬっていうのに、こんなこと言ってごめん。告白もそうだけどさ、俺、ずっと、愛来にありがとうって言いたかったんだ。絶望してた俺に、最後に青春をくれて、生きたいと思わせてくれて、ありがとう」
「大袈裟だよ……っ」
 涙で言葉が途切れ途切れになる私を、ひなたくんは、木漏れ日のような優しい眼差しで見つめる。
「大袈裟なんかじゃないよ。俺にとって、愛来はそれくらい大きな存在だったの」
「私だって……ひなたくんのおかげで毎日がまるきり変わった。私もふつうを楽しんでいいんだって、毎日を楽しいんでいいんだって、初めて思えた」
 きっと、ひなたくんと出会ってなかったら、私の毎日はあの頃のまま、すべてを遠ざけて、すべてを諦めたままだったと思う。
 足元を見る。
 私の足首には、ひなたくんが編んでくれたひだまり色のミサンガがある。
 見ただけで、心がぽかぽかしてくるのはなんでだろう。
 見ただけで、涙が出そうになるのはなんでだろう。
「……このミサンガ、連れてってもいいかな」
「え……?」
 顔を上げると、ひなたくんが言った。
「一緒に、天国に」
 もう声にならなかった。
 ほぼ嗚咽のような「うん」を返すと、ひなたくんは眉を下げて小さく笑った。
「……もう泣かないで」
 ひなたくんが私の頬に、そっと手のひらをつける。触れ合った皮膚から、あたたかさが染みてくるようだった。
「俺は、愛来の笑った顔が好きだよ」
「……無茶言わないでよ。私だって、泣きたくて泣いてるわけじゃないんだから」
「あれ、そうなの?」
 見ると、ひなたくんはにやっと笑った。その顔に、ん? となる。
「……ひなたくん、もしかして元気だね?」
「えへ。バレたか」
「もー!」
 ようやく笑えた。
「そだ。愛来に渡したいものがあったんだった」
「渡したいもの?」
「そこ、開けてくれない?」
「え、私が開けるの?」
「うん。お願い」
 ひなたくんに言われ、ベッド脇の棚の一番上を開ける。中には、小さな包みが入っていた。プレゼント用の袋で、赤いリボンまでつけてある。
「これ?」
「うん。それ、あげる」
「……開けていい?」
「うん」
 袋を開け、中身を取り出す。取り出して、首を傾げた。
「……? なに、これ」
 考えても分からず、ひなたくんを見る。すると、ひなたくんは「え」と少し不服そうな顔をして、言った。
「どこからどう見てもお守りじゃん!」
「……お守り……これが?」
 入っていたのは、ミサンガ用の糸で縫われた不格好な袋だった。
「……マジ?」
「大マジだよ!」
「ふっ……ははっ!」
「おい! 笑うなよ!」
「ごめん、だって……ふふっ」
 ひなたん曰く、これは一応お守りらしい。開け口辺りにあるぐちゃぐちゃっとしたやつは、おそらく水引きをイメージしたのだろう。とてもそうは見えないが。
「…………」
「むー。文句言うならあげないぞ」
 ひなたくんが手を伸ばしてくる。
「あっ、ダメ!!」
 私は慌ててお守りを握ったままくるりと回転し、ひなたくんに背中を向けた。
「まだなにも言ってないじゃん!」
「まだってことは、やっぱり言う気だったんか」
「あっ」
 しまった。いけない、つい本音が。
「言わない言わない! 大切にするって!」
「……まぁ、見た目は悪いかもだけど、効能はきっと抜群だから」
「効能?」
「……うん。それは、持ってるだけで予知夢を見なくなるっていう、愛来専用のお守りだから」
 ハッとして顔を上げた。
「ひなたくん……もしかして、私のためにわざわざ?」
「うん。それを持ってれば、愛来は予知夢を絶対見なくなる! だからもうなにも怖がらずに、たくさんのひとと笑い合えるよ」
 やっと止まったと思った涙が、また溢れ出しそうになる。私は慌てて口を引き結んで、込み上げてくるものをこらえた。
 お守りを両手で握り締める。
「……一生大切にする」
 私の言葉に、ひなたくんは、
「一生はいいよ」と、照れくさそうに笑った。
「私、いつもひなたくんにもらってばっかりだね……」
「そんなことないよ。愛来は俺にとびきりの青春をくれたじゃん。これはそのお礼だよ」
「そんなの、あげたうちに入らないよ。私のほうが楽しんでたもん」
「そんなことないって。……本当に、それは違うよ」
 ひなたくんはそう言って、窓の外を見つめた。
 ひなたくんの視線を追いかけていると、街の中に私たちが通う学校が見えた。四階にあるこの病室は、眺めが抜群に良い。
「……俺ね、愛来に病気のこと打ち明けたとき、実は結構強がってたんだ。心の中ではなんで俺だけって腹立ってた。みんな、適当に生きて、適当に学校に行ってるのに。神様はなんで俺にだけ、こんな理不尽を……って。でも、愛来のことを知って、思ったんだ。もしかしてみんな、平気なフリをしてるだけで、本当は大変な思いをしてたのかなって。家族とか友達とか、勉強とか部活とか……人間関係だけじゃなくても、ほかにもじぶんの中の問題とか、いろいろ」
「……うん」
 そうかもしれないね、と小さく相槌を打つ。
「だとしたら俺は、だれよりも幸せだったよ」
「え……」
「家族にも友達にも不満なんてなかったし、それに、愛来と過ごしたこの三ヶ月半、本当に夢のような時間だったもん」
 ひなたくんが私を見る。
「ありがとね」
 そのありがとねはまるで、物語の終わりに着く句読点のようで。
 私たちの物語が終わることを示しているかのようで、とても、胸が騒いだ。
「なに最後みたいなこと言ってるの……早く学校来てよ」
 私はそう、苛立った口調でひなたくんに言う。
 本当は、分かっていた。
 ひなたくんと出会って、もうすぐ四ヶ月になる。彼の心臓は、たぶんもう限界を迎えている。
 その証拠に、ひなたくんは困ったような顔をしている。
「学校かぁ……そうだな、もう一回くらい、行けるように頑張ってみようか」
「……ぜったいだよ」
「はいはい」
 無茶を言っていることは分かっている。ひなたくんに対して、残酷なことを言っていることも。……でも、言わずにはいられなかった。
「私、待ってるから……そのとき、ひなたくんに告白の返事するから。だから、ぜったい来てよ」
「なにそれ。ぜったい行かなきゃじゃん」
「そうだよ、だから来て」
「はは、分かった。頑張る」
 困ったような笑い方をするひなたくんを見ながら、私はなにをこんな子どもじみたことを言っているんだろう、とじぶんに呆れた。
「あのさ、ひなたくん」
「ん?」
 ――死なないで。
 そう言いそうになって、咄嗟に唇を噛み締めた。頭の上に、ふわり、あたたかな手が乗った。顔を上げると、ひなたくんが微笑んでいる。
「じゃあ、そのときはまた、卵焼きと唐揚げ交換してくれる?」
 そう、ひなたくんは私に優しい嘘をついた。
「うん、約束ね」
「約束」
 そうして、私たちは「またね」と言って別れた。


 ***


「白峯高校前、白峯高校前。お忘れ物のないよう、お降りください」
 滑るようにバスが停車して、ドアが開く。ICカードを翳してバスを降りた瞬間、風が桜の花びらを連れてきた。制服についた花びらを手に取り、くるくると指先で遊ばせながら歩き出す。
「あっ、愛来〜! おはよう」
 通学路に出ると、横断歩道を歩いてきた生徒に声をかけられた。
「さやか、おはよう」
 声をかけてきたのは、クラスメイトのさやかだ。
「一緒に行こ」
「うん」
 さやかと肩を並べて登校していると、うしろからぽんと肩を叩かれた。
「おはよっ、愛来! さやか!」
「あ、山ちゃん。おはよー」
 同じく、クラスメイトで私の友達の山ちゃんだ。
「おはよー」
「新学期だよ! 今年は受験だぁ……」
「うわぁ、朝からいやなこと言うなよー」
 バスを降りたら、高校はもうすぐそこだ。通学路は白峯高校の生徒で溢れている。
「あ、愛来ちゃんおはよー」
「おはよう」
「御島さん、おはよう。一緒に行っていい?」
「うん、もちろん」
「学校始まっちゃったねぇ」
「だねー」
「愛来ちゃんたち、もう進路決めた?」
「私は美容の専門学校かなー」
「私も看護師になりたいから、進学かな。でも大学か専門にするかはまだ」
「そうなんだ。あたしも決めなきゃー!」
 みんなでわいわい話す通学路。私は、さっき拾った桜の花びらを見た。
 あれから季節は巡り、私にとって高校最後の春が来た。
 今日は新学期だ。
 あちこちで朝の挨拶が飛び交っている。
 その中に、私も混ざっているのがなんだか不思議な心地だった。

 ねえ、ひなたくん。
 私はもう、ひとりじゃないよ。
『愛来』って、私の名前を呼んでくれるひとがたくさんできたよ。
 おはようって言われたらおはようって返して、またねって言ったらまた明日って返してくれるひとがたくさんいるんだよ。
 今、君はここにはいないけれど。
 私は、ひなたくんが拓いてくれた道の上に立っている。
 ふと顔を上げると、青々とした空が広がっていた。写真に残したいなと思って、スマホを取り出す。空へ翳していると、
「あれ、なにそれ、可愛いじゃん」
 と、さやかが私のスマホケースについたお守りを見て言った。
「あ、これ?」
「手作り?」
「……うん。いいでしょ。これ、私のたからものなの」
「これ、もしかしてミサンガの糸でできてるの?」
「いいなー私も作りたい! そーいうの」
「あ、じゃあなんかお揃いで作る? 合格祈願的な」
「いいね! それなら私、赤がいいな、赤!」
「えーじゃあ私はー……」
 盛り上がるふたりを前に、私はふと足を止める。
 ――愛来。
 名前を呼ばれた気がして空を見た。
 一羽の雲雀が、空高く、太陽へ向かって駆けていく。
 またあの声で名前を呼ばれたいなぁ、なんて叶わないことを思って、苦笑する。
 スマホケースに繋がれたお守りを見た。
 このお守りを身につけてから、私は一度も予知夢を見ていない。というより、ひなたくんと出会ってからは一度も見ていない。
 たぶんそれは、ひなたくんが私の呪いを解いてくれたから。
 今の私はもう、悪夢の外にいる。
 だからもう、夢には囚われない。
 これまでのように、可能性をすべて捨てるようなことはしない。
 人生を諦めることもやめた。
 後悔は……今もちょこちょこしたりはするけれど、でももう、生きることは投げ出さない。
 私は、君がくれた希望を忘れないよ。
 ……だから。
 だからさ。
 たまには夢に出てきてよ。
 そうしたら、あの日の告白の返事をするから。
 今度こそ、私から君に「好きだよ」って、告白をするから……。
 小さく空に呟き、私は足を前に踏み出した。


 ***


 ――残像が弾けた。
 女の子が、泣いている。
「愛来のせいで、モコが死んじゃった……っ」
 悲痛な声だった。
 パッと映像が切り替わる。
 静寂の中、ぱら、と紙が擦れる音がする。
 セーラー服を着た女の子が、教室の隅で本を読んでいる。その横顔に表情はなく、ちょっと近寄り難い。
 でも、僕は。
 僕だけは知っている。君のこと。
 不思議な能力に翻弄され、孤独を選ばざるを得なくなった女の子。
 ひとりぼっちで、その小さな体で、大切なひとたちを必死に守ろうとしているとても勇敢な女の子だ。
 大丈夫。僕は、知ってるよ。
 僕は、そばにいるよ。
 君をひとりにはしないよ。
 だから、笑って。僕にもっと、その無邪気な笑顔を見せて。
 カラフルな喧騒が飛び交う教室。その片隅に、僕は走る。
 小さな肩を、
「おはよう!」
 と言ってぽんと叩く。
 驚いて振り返った女の子が、僕を見てふっと表情を緩ませた。
「ひなたくん」
 気を許したその笑みに、僕の心はどうしようもなく高揚する。
「おはよう、ひなたくん」
 何気ない朝の挨拶は、全身に血が巡るように、僕の胸を満たしていく。
「おはよう、愛来」
「ねぇひなたくん、昨日のドラマ観た?」
「観た観た! おかげでちょっと寝不足でさぁ」
「私も。でも気になっちゃってさ……」
 椅子を引きながら、教科書を机にしまいながら、会話は続く。
「そういえば今日の英語、ひなたくん指されるよね」
「えっ! そうだっけ!? やば、訳してないよ!」
「だろうと思った。私やってきたから、写していいよ」
「ありがと愛来〜!!」
 手袋をしていない手から伝わってくる君の体温は、僕に穏やかな残像を送り続ける。
 あぁ、僕は幸せだ。
 こんな幸せな夢の中で逝けるなんて。
 閉じた目元に溜まっていた涙が、ゆっくりとこめかみを滑り落ちて、まくらに染みを作っていく。
「ひなたくん」
 愛しい声が、僕を呼ぶ。
 僕は力を振り絞って目を開けた。すぐそばに、僕を見つめる愛来がいた。泣きそうな顔の愛来に、僕は言う。
「わら、って」
 愛来が泣き笑いのような顔を浮かべる。感情が溢れ出したその顔に、僕もつられて笑みを浮かべた。
「やっぱ……笑顔、可愛い」
 すると愛来は、「バカ」と目元を拭いながら笑った。
 あのときひとりぼっちで泣いていた女の子が、能面のように感情を捨てていた女の子が、今はこんなにも表情豊かに。
 あのとき伸ばしても届かなかった僕の手は今、しっかりと彼女に触れている。
 あぁ、僕はなんて幸せなんだろう……。
 生まれてきてよかった。
 君に会えてよかった。
 君を好きになってよかった。
 この力があってよかった。
 そう確信して、僕は安らかに眠りについた。