三年後。
 相変わらず歌から逃げ続けていた私は二十歳となって、偏差値が良くも悪くもない一般大学へ入学していた。

「みのり~。早く早く~」
 大学の帰り道。どうしても会って欲しい人がいると、夜の駅前で佐々木原(ささきばら)麗奈(れな)が満面の笑顔で手招きをする。
「そんなに急がなくても」
 私はどこか呆れ気味に微笑み、早足で麗奈の後ろをついていく。
 麗奈は大学で仲良くなった人だ。イケメンとアイドルヲタ。甘いものと可愛いモノが大好きで、いつも美味しいカフェやお店に連れて行ってくれる。
 性格は落ち着いているが、好きなモノには子供のように目を輝かせて饒舌になる。その饒舌になったときのエネルギーが凄すぎて、少し面白い。
 アイドルを見て笑顔になる麗奈を見ると、レオも将来こうして誰かを笑顔にする人になるのかな? と思えて、気が早いが嬉しくなる。
「……レオ、元気かなぁ?」
 誰に届くこともない問いかけは雑踏音に攫われる。
 レオが日本を旅立ってから会うどころか、一切の連絡を取れていない。風の噂では日本に帰国したという話も聞くが――所詮風の噂だ。
「いたいた! みのり、あの人! あのヴァイオリンを持ったイケメン君」
「……ぇ?」
 興奮する麗奈が指差す方角に視線を向けた私は息を呑む。
「……れ、お?」
 一瞬時が止まったようだ。驚き過ぎて息がつまる。
 麗奈が指さした先には、ヴァイオリンを弾いていた青年がいた。目にかかる長い前髪。全体的に丸みを出して紳士にセットされた髪はハイトーンブリーチで白髪になっている。可愛さと品を感じさせる顔つきは、泉(いずみ)橋(ばし)レオに似ていた。
 最後に別れてからもう三年は経つ。幼さが残っていた顔立ちや体格は、少年から青年へと成長していて、この人が本当にレオなのか分からない。そもそもレオだったら歌っているはずだ。レオがヴァイオリンを本格的にやっていた覚えはない。
「⁉」
 青年と目が合った瞬間、青年が瞠目する。
「レオ……なの?」
 震える声音で恐る恐る問うてみるが、青年は複雑そうに顔を顰めて私から視線を逸らす。青年はヴァイオリン演奏を中断させ、何も言わず帰り支度をはじめてしまう。
「レオ? 貴方、レオでしょ? どうして何も言わないのよ?」
「みのり」
 麗奈はどこか咎めるような口調で私を呼び、レオと思しき青年にくってかかろうとする勢いで話す私の肩を掴むように止める。
「麗奈……」
「その人がみのりの言うレオって人かは分からないけれど、その人は声が出せないんだよ」
「ぇ……?」
 麗奈の言葉に、私は言葉を失った。
 青年は私達にペコリと頭を下げ、その場を去っていった。
「ま、待っ……」
 引き止めようとしたがすぐに口を閉める。もしもあの青年がレオでなかった場合、迷惑でしかない。それに、あの青年が本当にレオだとして、本当に声が出せなくなっていたとしたら──どう声をかけていいか分からない。かける言葉が見つからない。というのは言い訳だ。ただ、真実を知るのが怖くなったのだ。
「みのり? 大丈夫?」
「ぅ、うん。ごめん」
 心配そうに私の顔を覗き込む麗奈に、私はぎこちない笑顔を見せる。
「麗奈、どうして私をあの人に合わせようと?」
「いや、単にイケメンだったから。路上ピアニストはよく見かけるけど、路上でヴァイオリン弾くイケメンなんて初めて見たからさ」
「なるほど。知り合いじゃないの?」
「全然。二日ほど前に発見したの。みのりこそ、あの人と知り合いだった?」
「分からない……。もし私が思っている人だったとしても、最後に会ったのは三年前のことだから」
「そっか。取り敢えず今日は大人しく帰ろうか」
「うん」
 私は麗奈の言葉に力なく頷き、それぞれの帰路につく。
 その後、私は三日間同じ時間に同じ場所へ足を向けたが、あの青年が現れることはなかった。

 †

♪ピロン。
 深夜零時。私のスマホにショートメールが届く。
「ん?」
 ベッドで横になりボーっとしていた私は、スマホを確認する。
【泉橋レオです】
「うぇ~⁉」
 私はレオのフルネームだけのメッセージに奇声を発す。日本を出てから一通も連絡をよこさなかったレオがいきなり何のようなのだ? そもそも、なぜ今まで連絡をくれなかったのだ。
【レオってあの、歌手志望の? 私が知っているレオ?】
【みのりにそれ以外のレオがいるの? 番号変えてなくて助かった】
【どうしたの? どうして今?】
【誕生日おめでとう。歌ってる?】
【ありがとう。残念だけど歌ってない】
【もったいない】
【なんでショートメールで会話? 電話の方が楽じゃない。私、レオに聞きたいことがたくさんあるのに】
 今までどうしていたのかとか、元気にしていたのかとか、夢の道のりの話だとか、昨日の青年がレオなのか……とか、聞きたいことは山ほどある。文字数規定のあるショートメールでは間に合わない。
【ごめん。電話は無理】
「ぇ……」
 即答で拒否られた私の心はズキリと痛む。その心に慌てて絆創膏を貼るかのように、新たなメッセージが届く。
【別にみのりと話したくないわけじゃないから。俺、声が出せないんだ】
【ぁ、真夜中だもんね】
【いや、時間の問題じゃなくて……】
【ぇ、風邪? メールしていたら駄目じゃない。付き合わせてごめん】
【いや、風邪でもなくて……。俺、本当に声が出せないんだよ】
「……それ、本気で言っているの?」
【明日の夜。渋谷区にあるbar fairyで待ってるからさ、夜九時までに来て欲しい】
【分かった】
 一方的な誘いであったが、何かあるのだとすぐに承諾した。
 聞いたこともないbarだったら躊躇しただろうが、bar fairyはオーナーのダンディーなイケメンさにハマった麗奈が推し活と称して、何度か訪れたことがある。安全圏だ。
【分かった。ありがとう】
【ううん。じゃぁ、また明日。今日は素敵な誕生日を過ごしてね】
 そうして、三年振りのレオとのメッセージは終わった。
 色々思うことはあるが、一人で考えたところで答えは出ない。私は大人しくレオに会う日を待つのであった──。

 †
 待ち合わせ時刻にbar fairyへ訪れた私を、マスターの玖珠(くす)枝(えだ)さんがカウンターに通してくれる。テーブル席もあるが、女性だけの場合は自分の目が届く範囲の方が安全だからと、麗奈と訪れた時もカウンター席に座らせてくれていた。
「ご無沙汰しています」
「お久しぶりです。お元気でしたか? またご来店して頂けて嬉しいです。何を飲まれますか?」
「バイトや課題に追われながらも、元気に過ごせています。一番度数の少ない甘めのカクテルをお願いします」
「大学生も大変ですね。私も大学生だった身ですから分かりますよ。と言っても、もううん十年も前のことですけどね。それはなにより。かしこまりました」
 マスターがカクテルを作ってくれているあいだ、私はイギリスアンティークで統一されている店内を見渡し、レオの姿を探した。
 カウンター席が一二席。私を入れて五つの席が埋まっている。四人掛けテーブル席が四席。そのうち二席のテーブル席には女性客が集まっていた。
「なんだか女性のお客様が増えましたか?」
 私と麗奈が訪れたのは一ヵ月程前のことだが、その時にはカップルが幾人かと、成熟した男性が多く来店されていて、女性だけで来店している方は一人だけだった。
「えぇ。彼目当てのお客様がたくさんいらっしゃいますので」
「彼?」
「お待たせいたしました。丁度彼の演奏も始まりますね。お酒と共にお楽しみ下さい」
 マスターは薄桃色のカクテルが注がれたグラスを私の目の前に置き、ジャズクラシックのレコード音を止めた。
「?」
 きょとんとしながら様子を窺っていると、グランドピアノに歩み寄る白髪の青年が現れる。Kポップアイドルを彷彿とさせる青年は、青い瞳で店内をサッと見渡して会釈をする。
「……レオ?」
 蚊の鳴くような声で呟いた声は誰に届くこともない。
 瞳の色が違うものの、路上で見た青年は慣れた手つきでグランドピアノでジャズクラシックを演奏する。
 二曲弾き終えた所でカウンター席にいた同世代の女性客は、「レオー。歌って~」と声を上げる。
「⁉」
 女性の言葉に驚いた私は思わず立ち上がる。お客さんの視線が一斉に集まる。
「どうなさいました? お気に召されませんでしたか?」
「ぁ、えっと……むしろその逆で、えっと、スタンディングオベーション?」
 私は適当に取り繕って、拍手をする。
 様子の可笑しい私をマスターは何も言わず微笑んでくれる。お客さんも納得したように頷いてくれているが、青年だけは込み上げてくる笑いを抑え込んでいるようだった。
 私は一旦落ち着こうとカクテルを飲む、桃のフレーバーを使ったカクテルだった。
「the bluerose,をお願い」
 先程の女性のリクエストに対し、白髪の青年ことレオは、無言でこくりと頷き、ピアノから離れる。やはりあの青年が泉橋レオだったのだ。私は胸の内で驚愕した。
 何故レオが帰国していて、あんな恰好をしているのか、何故ここで演奏をしているのだとか、疑問は次々にでてくるが、私は三年振りに聴けるレオの歌に胸を高鳴らせた。だがその胸の高鳴りは一瞬で凍り付く。
「ぇ⁉」
 スタンドマイクの前で歌うと予想していた私の予想は外れ、レオはヴァイオリンを持ち出し、慣れた手つきで演奏体制に入る。そして、リクエストされた曲を演奏し始めた。
 歌ってと言われたのに、どうしてヴァイオリンを演奏するのかわけが分らない。
「カッコイイ―」
「演奏は素人ぽいけど、もはやあの姿だけで神ぃ」
「国宝級のイケメン。一般人なのが勿体ないっ」
 女性客達は色めき立ち、スマホでレオの姿を撮影しまくる。肖像権やらなんやらは燃え尽きたのだろうか?
 店は撮影許可を下ろしているのか、マスターもレオも気にする様子はない。まぁ、誰かがネットに上げた一枚の写真で、芸能界に飛び込むことになった事例もあるくらいだ。レオにとっては売り込みの一つなのかもしれない。と、冷静に思う自分の手は冷たい。
――俺、本当に声が出せないんだよ。
 レオから送られてきた昨日のメッセージが脳裏に浮かぶ。
 演奏が終わっても、レオの口からは一言も発せられることはなかった。
「……本当なの?」
 走馬灯のようにレオが夢を追いかけていた日々と、レオの歌がフラッシュバックして、私は一人絶望する。
 私は真実を受け止めきれる自信がなくて、涙を抑え込みながらお会計を済ませ、逃げるようにお店を後にした。

 †

 深夜零時。
♪ピロン。
 枕に突っ伏して泣いていた私は、ずびずびと鼻水を啜りながらスマホを手に取った。
♪ピロン。
 見る前にまたショートメールが届く。差出人はレオだ。
【こんな時間にごめん。なんで話す前に帰っちゃったの?】
【驚かせてごめん。路上で会ったとき、逃げてごめん。あの時はタイミングじゃなかったんだ】
「驚き通り越して悲しみよ。絶望よ。というかタイミングって何よ。……意味わかんないわ」
 私は一人ボヤキながら、一番聞きたいことを聞いてみる。
【どうして、歌ってって言われたのに、ヴァイオリンを演奏したの?】
【トークアプリに切り替えて話したい。電話は出来ないけど】
【これ、俺のID】
【わかったわ】
 私は送られてきたトークアプリのアカウントIDをアプリ内で検索して、レオをお友達追加した。三年振りに、トークアプリの画面にレオが姿を現した。アイコンは今の姿に変化している。
【お友達追加したよ】
 私はどこか懐かしさを覚えながら、やり取りをトークアプリのメッセージに切り替えた。
【うん。ありがとう。今後もよろしく】
【こちらこそ】
 色々気がかりはあるが、“今後もよろしく”というメッセージが嬉しかった。一度は切れてしまった縁が戻ってきたことが、またレオと連絡を取り合えることが素直に嬉しかった。だけど、嬉しいだけでは終われない。
【さっきの質問……】
 メッセージの既読はすぐについたものの、返信には少し間が開いた。
【ヴァイオリンってさ、一番人間の声に近いらしいよ。まぁ、チェロ説もあるんだけどさ。チェロを一から始めることも、持ち運びも大変だから、俺はヴァイオリンという声帯を選んだんだ】
【?】
 何の話が始まったのかと、私は疑問符だけ送信する。
【人の話は最後まで聞きなよ。相変わらずなんだから】
【すみません。黙っています。続けて下さい】
 学生時代からよく注意されていたことを、またレオに注意されてしまった私は、しゅんとしながらそう返信する。
【うん。じゃぁ、話しを続けるとね──。俺は二年ほど前に声を失ってしまった。一年以上自暴自棄になっていたけど、幼少期じいちゃんに言われたことを不意に思い出したんだ。「レオ。ヴァイオリンは思うように歌が歌えなくなった者にも、優しいのぉ」って】
 そのメッセージに、レオの祖父が元オペラ歌手であったことを思い出す。年齢に伴い思うように歌えなくなってきて、ヴァイオリン奏者の端くれの端くれとして生きていくことを選んだという。理由は、ヴァイオリンは人間の声に一番近いからだとかなんとか言っていた気がする。
【人間の声に一番近いと言われるヴァイオリンを操ることが出来れば、俺はまだ歌い続けられると思ったんだ。今の俺に取っての声はヴァイオリンだ。だから、ヴァイオリンで歌を歌った。それだけのことだよ】
「それだけのことだよって……」
 文字から伝わるどこか淡々と話しているようなレオの雰囲気に、下唇を噛み締める。
【嘘じゃなかったんだね】
【嘘じゃないよ。こんな嘘ついてどうするのさ】
 容易に想像される過去感じたであろうレオの苦悩や悲しみと共に、自分の悲しみが押し寄せてきて、私の瞳から涙が零れ落ちる。
【声で歌えなくなってさ、思ったことがあるんだ】
【何を?】
【みのり、言っていたでしょ? 「私は歌う側の人間じゃないのよ。レオとは違うの。レオは歌うために産まれて来たと思う。レオはギフトをもらったんだよ。レオは歌う人で、私はそうじゃない。私には歌う資格がないの」って、中学生のとき言っていたの覚えてる?】
 中学生時代。
 レオは夏休みの多くを夢のために費やしていた。いくつかのオーディションにも受け手は落選してを繰り返していた。それでも諦めないレオの強さが、自分の好きなことに、自分の夢に、常に全力投球しているレオが眩しくて、憧れだった。私もそうありたいと思うものの、私にはそれが出来なかった。
 レオはそんな私の心を見抜いていたのか、事あるごとに私に手を差し伸べてくれていた。
──みのりはさ、一体いつになったら歌うの? 俺一人で夢に向かっててさ、寂しそうとは思わないわけ?
──全然思わないわ。だって、レオはやりたくてやっているのよね?
──つ、冷たい……。まぁ、そりゃそうですけど。昔は、一緒に歌手になろう! 一緒に音楽番組出ようよ。あの階段を一緒に降りようよ。とか目をキラキラさせて言ってたじゃん。忘れたの? 俺を弄ぶなんて酷くない?
──忘れてないよ。弄ぶとかなんだとか、人聞きの悪いこと言わないでよ。
──歌嫌いになったの? 
──歌は好きよ。
──なら歌えばいいのに。
──私は歌う側の人間じゃないのよ。レオとは違うの。レオは歌うために産まれて来たと思う。レオはギフトをもらったんだよ。レオは歌う人で、私はそうじゃない。私には歌う資格がないの。ただそれだけのことよ。
 そう突っぱねた私にレオが、分からずやめ! と悪態をついたのは中学一年の夏のこと。そんな昔話を引っ張り出してきてどうしようというのだろう。
【声を失って思ったんだ。歌うことに、資格なんていらないと。みのりはさ、私は歌う側の人間じゃないと言っていたけれど、みのりも歌う側の人間だよ。夢を一向に捨てきれていないからね。きっと、今も捨てきれていないんでしょ? 
 私は歌う側の人間じゃないのよ。レオと違うの。レオは歌うために産まれて来た。レオはギフトをもらったんだよ。なんてこと言っていたけどさ、同じだよ。俺もみのりも同じ人間だよ。そして俺がもらっていたギフトは、みのりにも与えられていた。声が出せる、そのことが既にギフトなんだよ。
 歌う資格云々で言いたいなら、声が出せる。それだけでも歌い手としての資格がある。どんなに歌いたくても、声すら出せない人達がいるんだ。それなのにさ、声を持っている者が歌えないと言うのは失礼な話だとは思わない?】
 レオのメッセージに、私は嗚咽を押し殺しながら泣いた。レオの言葉は間違っていない。レオからしたら、今の私は腹正しいのかもしれない。それでも、たったの一言で刺された傷口が簡単に治ることはない。歌えば、また自分を全否定されそうで、人格否定されるような気がして怖い。絶望されそうで、嫌われそうで怖いのだ。
【もう他者に押されたマイナス言葉の烙印一つで、自分の人生を捨てるのは止めなよ。それを言い訳にして、歌から逃げるのは止めなよ。一度だって本気で歌と向き合ったことあるの? 
正直言って、みのりはお世辞にも歌が上手とは言えないけれど、それは歌い方を知らないだけなんだ。当たり前だよ。一度も本気で練習したことがないんだから。仕方ないよ。だけど、自分を追い込んで練習して練習して素晴らしい歌を歌う歌姫でも、音痴だと言う人は言うよ。
歌ってさ、音程が全てなの? リズム感が絶対? だったら皆AIロボットの歌声を聞いている。調子外れの歌声でも、感動する時は感動する。人間の心を打つのは人間だよ。俺は、もう一度みのりの歌が聞きたい。また、聞かせてよ】
 レオのどこか厳しくも聞こえるメッセージは逆に、開いたままの傷口を癒してくれる気がした。たった一人のたった一言で傷つけられ、たった一人の言葉で癒されていくようだった。
【みのりが望んでくれるのなら、俺の持っている知識や力を使って、みのりの歌の技術を上げることも出来る。過去の夢を追いかけることもできる。みのりは独りじゃない】
 なんて強力な味方なのだろう。あんなにも歌うことが怖くて仕方がなかったのに、レオがそう言ってくれるのなら、なんだか歌えそうな気がしてくるから不思議だ。
【世界に出たくないなら世界に出なくていい。だけど、歌うことだけはやめないで。俺だけの歌姫でいて欲しい。歌って欲しい。みのりが歌ってくれたら、俺はきっとまた笑顔になれる】
 そのメッセージに涙が止まらなくなってしまう。
 私の歌に需要などないと思っていた。レオのように、歌で誰かを癒すことや笑顔にさせることは、今世では出来ないのだろうと思っていた。だけど、違った。私の歌を必要としてくれる人は、こんなにも近くにいてくれていたのだ。
【レオ。私、歌う。……歌うよ。私、本気で歌と向き合ってみる】
 ティッシュで涙と鼻水を拭った私は、気持ちを新たにしてそう送信した。
 もう逃げるのは止めよう。悲劇のヒロイン気取りも辞めよう。クラスメイトを言い訳に使うのをやめよう。確かにあの言葉に傷つき、立ち止まってしまったのは事実だ。だけど、立ち止まったのも、前に進まなかったのも、私の選択だった事には変わりはない。人生の選択はいつだって自分がするもの。だったら、私はもう逃げたくない。
 私は声が出せるのだ。声が出せるのにぷーすか言い訳をしていたら、レオに申し訳ない。本当は歌いたいのに歌声を響かせられない人がいる。声帯を一から産み出すことは不可能かも知れないが、傷ついた傷口を癒やして進むことは可能だ。一歩踏み出す勇気があれば、きっと何かが動く。
【本気? 信じるよ?】
【うん。本気よ。だから、面倒見てくれる?】
【お題は高くなりますよ】
【ぇ?】
【みのりのライブチケット、常に特等席をご用意ください】
【気、早すぎない?】
【取り敢えず、今度カラオケ行こうよ。俺もヴァイオリン持っていくから】
【うん】
 この先どうなるかなんてわからないが、今はただ、レオが笑顔になってくれる歌を歌いたい。そう、思うのだ──。


 †

 一年後。
 変わらず声の出せないレオは、その容姿を武器にコスプレイヤーアイドルとして活動していた。想像の斜め上をいっていて驚きだ。コスプレ写真を売りまくり、イベントでヴァイオリンで歌を歌いと、精力的に活動している。
 一方私は、ネット上の歌姫になっていた。今はまだまだ課題もあるし、人気も乏しい。この先、どのルートを進めばいいかもわからない。決めていない。
 それでも、レオがいてくれるなら、私はこの先も歌い続けられるだろう。例え、レオが私の傍からレオが離れていっていったとしまっても、レオのくれた言葉達が、一生私の心に残り続けるのだから。
♪プルルル。
「ぇ⁉」
 私は表示された着信相手に目を丸くさせる。レオが電話をかけてくるだなんて、何事なのだろう。
『れ、レオ? どうしたの?』
 いきなりヴァイオリン演奏が始まることを考慮し、スマホを掌に載せて胸の辺りで維持する。
『……みのり』
「ッ⁉︎」
 スマホから零れる第一音に言葉を飲み込む。声が出せるはずのないレオの声が部屋に響く。
「……れお?」
 声がそっくりなだけの違う人物かと思い、震える声で問うてみる。
『うん」
「な、んで……こえ?」
『声、出せるんだ』
「へ? ぁ! 出せるようになったの?」
 素っ頓狂な声をあげた私は上手く回らない思考回路をフル回転させて、自分なりの答えを導き出す。
『違う』
「ど、どういうこと? 何を言っているの?」
『声を失った。っていうのはさ、全部、嘘なんだよ。ごめん』
「はい?」
 導き出したはずの答えは、思わぬ回答に変化する。
『みのりに歌って欲しくてさ、どうにか策はないかと考えた挙句の嘘だった。……嘘ついてごめん』
「そんな……。じゃぁ、あの言葉達も嘘だったの?」
 自然に滲み出してしまう涙と震える声を抑え込みながら問う。
『あの言葉達?』
「言ってくれたよね? 《世界に出たくないなら世界に出なくていい。だけど、歌うことだけはやめないで。俺だけの歌姫でいて欲しい。歌って欲しい……。みのりが歌ってくれたら、俺はきっとまた笑顔になれる》って。それも、嘘なの?」
『それは嘘じゃない。俺、ずっとみのりに前を向いて欲しかった。誰かから言われたマイナスの一言なんて、蹴散らして欲しかった。みのりの歌声は人を癒すから。少なくとも、俺は癒されたんだ。みのりの歌をずっと聴いていたいと思ったんだよ』
「……よかった」
『よかった?』
 嘘をつかれて良かっただなんて、一体どういうことなのかと、レオは怪訝な声でオウム返しをしてくる。
「私はきっと、レオと同じ嘘を違う人がついたとしても、レオと同じ言葉を他の人が言ってくれたとしても、私は歌うことはなかったよ」
『どういうこと?』
「信頼している人が、《もう他者に押された言葉の烙印一つで、自分の人生捨てるのは止めなよ。それを言い訳にして、歌から逃げるのは辞めなよ。一度だって本気で歌と向き合ったことあるの?》って叱ってくれたからハッとしたの。大切な人が、《歌い方を知らないだけなんだ。当たり前だよ。一度も本気で練習したことがないんだから。仕方ないよ。だけど、自分を追い込んで練習して練習して素晴らしい歌を歌う歌姫でも、音痴だと言う人は言うよ。歌ってさ、音程が全てなの? リズム感が絶対? だったら皆AIロボットの歌声を聞いている。調子外れの歌声でも、感動する時は感動する。人間の心を打つのは人間だよ。俺は、もう一度みのりの歌が聞きたい。また、聞かせてよ》って励ましてくれたから、勇気をくれたから、傷が癒やされたの。大好きな人が、《みのりが歌ってくれたら、俺はきっとまた笑顔になれる》って言ってくれたから、また歌おうと思えたの。……レオの笑顔が見たいから」
『そっか……。ありがとう』
 レオはどこか照れくさそうに笑い、私は頬を赤くさせる。
 私達の関係が大きく変わることはまだないだろう。お互いがそれを望んでいない。ある種声を取り戻したレオも、再び歌と向き合い始めた私もまだまだ夢の途中なのだから──。