お父さんが帰ってきた頃、1階のリビングでは大きな鍋がテーブルの中心にセットされた。奮発したと言うだけあって、いつもよりもお肉のパックが多い。

「お、映くんじゃないか。久しぶりだね」

 中学校の教師をしているお父さんは、テーブルに座っている映を見つけるなり表情を緩めた。お母さんと同様、お父さんも映のことをひどく気に入っている。同世代だけでなく、おじさんおばさんキラーでもあるのだ。
 そんな映はすでに伸びている背筋をさらに伸ばし、小さく会釈をしている。

「こんばんは。おじゃましてます」
「嬉しいな、映くんも一緒にすき焼きか。たくさん食べていくんだよ」
「ありがとうございます」

 4人掛けのテーブルは、いつも一脚だけ用なしの椅子が寂しそうだけど、たまに映がやってくると大活躍だ。

 4人がテーブルについたのを見計らったように鍋が沸騰し始めた。

「さ、映くん、どうぞ。食べてみて。味付けはどうかしら」

 菜箸を手にしたお母さんが、卵が解かれた小鉢にたっぷりの野菜とお肉をとりわけ、映の前に置く。
 映は礼儀正しく「いただきます」と手を合わせたあと、ぱくりと口に運ぶ。と、その表情が柔んだ。

「おいしいです、すごく」

 途端に、その姿を見つめていた家族全員から、ほっこりという感情が引き出される。

「よかった。どんどん食べてね、まだこんなにあるんだから」
「はい」
「よし、僕もたくさん食べちゃおう」
「あなたの大好物だものね」
「ああ。お母さんのすき焼きは味付けが絶妙で絶品なんだ」
「ええ? 本当?」
「俺もそう思います」
「まぁ、映くんまで」

 楽しそうに会話を弾ませる両親と映を見ていると、なんだか無性に泣きそうになった。
 余命宣告をされて3ヶ月。あの日から家族が揃う食卓に流れる空気はどことなくぎこちなかった。些細なことをきっかけに暗く重い現実に引き戻されてしまうため、核心から遠ざかるように当たり障りのない上辺だけの会話しかできなくなっていた。
 そのうえふたりは私に気を遣うようになり、まるで見えない薄い膜のような壁ができたようだった。どこか行きたいところはないか、ほしいものはないか。いつだって家族全体のことより私ばかりが優先される。
 本当はただ普通どおりに過ごしたいだけ。――なんてそんなこと、言えるはずがなかった。だってお父さんとお母さんの笑顔を奪ったのは、全部私のせいだから。
 そんな自己嫌悪に陥って、逃げ場のない病気との間に板挟みになって。けれど今ようやくあの日の前に戻れた気がする。病気という仄暗い影が消え、本来の家族の姿が戻ってきた。
 それはきっと、映が潤滑油になってくれたからだ。

「日依? どうかしたか?」

 お箸を握ったままじんと鼻の奥の痛みに耐えていると、異変に気づいた映に隣から顔を覗き込まれ、はっと我にかえる。

「あら、一口も食べてないじゃない」

 映の声に、お母さんも私の空の小鉢に気づく。
 私は涙の予感を振り払い、にっと笑って見せた。

「食べる、食べるよ。今日はもうダイエットも忘れて食べちゃうんだから」
「そうよ、たくさん食べちゃってね」
「うん!」

 菜箸でお肉をたくさんと野菜に白滝まで、たっぷり小鉢によそう。そして豪快に頬張れば、甘さとしょっぱさが絶妙に絡み合ったタレと、くたくたに煮込まれた具材の味とが口の中に広がった。

「へへ、おいしい……」

 大好きな人たちに囲まれ、温かい空間でおいしいものを食べていると、生きているという実感が込み上げてくる。ただ義務のように口に運ぶだけだった食べ物をこんなにもおいしく感じたのはいつぶりだろう。

「お、日依、いい食べっぷりだね」
「ふふ、嬉しいわ。締めにはうどんが待ってるわよ」
「やったー!」

 わいわいと和やかな空気の中、夕食が進む。
 すると隣の映が、私にしか聞こえないボリュームでじんわりと浸るように囁いた。

「日依の家族はやっぱりあったかいな。なんかいいよな、こういうの。家族でひとつの鍋を囲むって」
「映……」

 映の声の裏に潜む切ない色を見つけ、はっとする。映にもまた、大きく悲しい〝影〟があるのだ。
 ぎゅっと痛む心の傷を覚えながら映を見れば、映は微笑みをそっと唇に乗せていた。

「ありがとな、日依。いつも俺を温かいところに連れてきてくれて」

 ……違うよ。映が来てくれるから、そこが温かい場所になるんだよ。
 映の負った傷を、私は死ぬその時までに、痛いの痛いの飛んでけと治してやることができるのだろうか。
 私はなにも言わず、右手を伸ばして映の左手を握った。映はそっときゅっと大切なものを包むように握り返してくれる。そうしてずっと、テーブルの下でその手を繋いだままでいた。