「映、映……っ」

 がらんとした美術室。
 倒れた映を抱き起こし、私はぐったりと力を失ったその体を抱きしめていた。 
 そしてだらりと落ちている映の手を握りしめ、映の名前を呼び続ける。

 生気を失った映は白い人形のようで、まるでもう帰ってきてくれないんじゃないかと、そんな漠然とした不安に駆られる。

「映、お願い。目を覚ましてよ……」

 涙にびしょびしょに濡れた声で請うた時。私の声に答えるように長い睫毛が静かに揺れ、瞼の下から色素の薄い瞳が現れた。

「映っ……」

 おぼろげな瞳に私を映し、目を覚ました映は、自分の手を握りしめていた私の手をそっと解いた。

「ごめん……でも俺に触るな」

 やんわりとした、けれどたしかな拒絶。私は小さく息を呑み、躊躇いながらも映の右手を握っていた手を床に下ろす。
 抱き起こしている手からも逃れたいようだったけれど、自分の力で起き上がる力はまだ映にはなかった。

 私の腕の中、映はわずかに眉を寄せ、切ない色を表情に浮かべた。

「俺、日依に謝らなきゃいけないことがあるんだ……」
「なに……?」

 できる限り苦しい表情はしないようにしているようだけれど、呼吸の音が今にも途切れてしまいそうなほど微かだ。
 私はただただ、空気に溶けてしまいそうなその声をこぼしてしまわないよう、必死に耳を傾ける。
 映は、ほんの少しの躊躇いの間ののち、意を決したように薄く唇を開けた。

「……日依の余命を奪ってたのは、俺だったんだ」
「え……?」

 いったい、なんて……?

 映の言葉を理解できない。
 そんな私の動揺を当たり前のもののように受け取り、映は微かな声で続ける。

「俺は、この手で触れた人間の余命を食べてしまう……。だから日依の命も食べてたんだ。日依の命を、自分の栄養にして生きてた」
「急に、なに言って……」
「俺には死神の血が混じってるらしい……」

 映の口から語られた話はあまりに荒唐無稽で、言葉の外郭を捉えるのに時間がかかる。

 ようやく言葉の外郭を捉え、そして本質を理解しようとして──けれど立ち止まってしまう。
 信じられない。信じられるようなことではない。嘘だと否定する方がよっぽど簡単だろう。
 でも無下にすることはできなかった。だって映の言葉だから。映が命を懸けて紡いでいる言葉だから。

 やがて映の告白は、じわじわと心の中で現実としての形を帯びていく。
 そうする中で胸に湧いた疑問を、からからに乾いた唇で映にぶつけていた。

「じゃあ、もし人の命を食べなかったら、映はどうなるの……?」
「死ぬだけだ」

 氷の上に文字を滑らせるように、つかえもせず、映はひと息で告げた。

「え……?」
「ごめんな。全部俺のせいだった。俺が日依の未来を奪った……。どんなに謝っても償いきれない……」

 映が苦痛を表情に滲ませる。胸を切るような映の後悔が痛いほどに伝わってくる。

「……やっぱり俺は生まれてこなきゃよかった……」

 私の宝物を真っ向から否定するその言葉は、心に深い傷を刻んだ。
 鼻の奥がじんと痛む。
 悔しくてやるせなくて許せなくて、気づけば私は涙声を張り上げていた。

「ばか! そんなこと言わないで……!」

 突然の大声に、映が虚をつかれたような目を見張る。

「ひ、よ……」
「映がいてくれなきゃ私の人生意味なかったっ。映が私に生きる意味をくれたんだよ……っ」

 映。私はね、映以外が満ち足りた世界よりも、映がいる暗闇の方がいい。
 どんなに苦しくたって怖くたって、映の存在がすべてを包み込んでしまうの。だって映の存在は、私の心を照らす陽だまりだから。

 私は縋るように映の手をとり、自分の心臓の辺りに押し当てた。
 映の手にわずかな力がこもり、映の動揺を手のひらを通じて感じとる。

「や、めろ。俺に触ると日依の命が……」
「やだ! 生きててほしいの……! お願い……っ、私の命食べてよ……」

 私の大声は、次第に映に縋りつくよれよれの泣き声に変わっていった。

 映の心情を映し出すように、瞳のさざ波が音もなく揺らぐ。
 だけど映はその口を噤もうとはしなかった。

「……ごめん」

 なにかを決意したように息を吐き出し、柔らかく、でもたしかな声で囁く。

「最後のわがままだ。俺は、もうなんの命も奪いたくない」
「……っ」
「自分の命をまっとうする、ただの人間に戻りたいんだ」

 切実に吐き出された映の思いは、私の思いもなにもかもを封じ込めた。

 ……ずるいよ、映。
 そんなふうに言われたら、私がなにも言えなくなるのを知って、言ってるんでしょう。

 映はもう決めたんだね。決めてしまったんだね。
 それならば私にはもう、その意思を曲げることはできないのだ。
 だって映のために今の私にできるのは、きっと映の意思を受け止めることだけ。いつだって自分のことよりまわりを慮る映が、他人の命を奪って自分が生き永らえたら、それは多分彼を苦しめ続けることになると、幼なじみの私には痛いほどわかってしまうから。
 きっと彼は今でさえ、きっと死ぬほど自分を恨んで苦しんでいる。それは多分映の望まない人生だし、これ以上映の尊厳を奪うなんて酷なこと、したくなかった。

 それでも──。
 映のことも映の思いもすべてを大切にしたいのに、どうしてうまくいかないのだろう。

「うう……」

 なす術を奪われた私は、もがくように映の体を抱きしめた。
 映の手はだらんと床に落ちたまま。それでも抱きしめ返せない代わりに、私の顔に頬をすり寄せてきた。そして。

「日依、ありがとう……」

 じんわり噛み締めるように、温度のある声で囁いた。